第一章 白き蓮華の国(6)
6
トグルの作ったナンには
天気がいいので、鷲とトグルは釣りに出掛け、鳩は、マナの孫たちの世話をするために、村へ下りて行った。
鷹が機嫌よく家の掃除をしていると、昼を過ぎた頃になって、ようやく隼が起きて来た。胸には綿布を巻き、上着を羽織り、男物の
「隼……なんて格好しているの?」
「おはよ、鷹。悪いけど、水を一杯くれないか?」
「大丈夫?」
隼は、倒れ込むように椅子に腰を下ろし、溜め息をついた。鷹が酌んだ水も、すぐには口にすることが出来ない。「頭が、ガンガンする……」と、消えそうな声で呟いた。
「……鷲は?」
上着に袖を通しながら、彼女は、けだるく訊いた。
「雉は、どうしてる?」
「鷲さんなら、トグルと一緒に、釣りに行ったわよ」
「釣り? 化け物かよ、あいつら……」
隼は眉根を寄せ、舌打ちした。
「鳩ちゃんは、村に行ってる。雉さんは、まだ寝てるわ」
「起きてるよ」
滑らかな声に振り返ると、雉が、こちらは涼しい顔でやって来た。頭を抱えている隼を、やや驚いた顔で眺めた。
「大丈夫? 雉さん」
「ああ。おはよう、鷹ちゃん――って、言うような時間じゃないね。……隼。お前、大丈夫か?」
「これが、大丈夫なように、見えるか?」
隼の隣の席にすわり、雉は、うめく彼女を心配そうに観た。無言で片手を伸ばし、そっと、彼女の前髪を掻きあげる。眼を瞠る隼の額に、掌を押し当てた。
しばらくそうしていると、彼女の顔色は、すうっと良くなった。
「……ありがと、雉」
「どういたしまして」
隼は小声で礼を言い、雉は、くすっと哂った。
鷹は、
雉は、何気なくナンを手に取り、ひとくち食べて眼をまるくした。
「あれ? 味が違う。これ、どうしたの、鷹ちゃん」
隼は、口にしなくても判ったらしい。頬杖を突いて、面倒そうに言った。
「トグルが作ったんだろ、それ」
「当り。どうして判った?」
「こんな、まんまるなナンを焼く奴は、あいつしかいない」
「へえ」
雉は、一口かじったナンを、感心して眺めた。融けた
「美味いよ。驚いた。あいつ、料理するんだ」
「大抵のことは、何でもするよ、トグルは。……しかし、あいつ、何しに来たんだ?」
隼の声には、呆れた響きがあった。ナンを片手で弄んでいる。
「お前を、連れて来たんだろ?」
「それはそうだけど。〈黒の山〉まで来て、どうしてナンなんか焼いているんだ。おまけに、今度は釣りだって? 判らん……」
「暇なんだろ」
「トグルを釣りに誘ったのは、鷲さんよ」
鷹が言うと、雉は、
「鷲は気に入っているからなあ、トグルのこと」
「ナンを焼いて貰ったのは、わたし……。ごめんね、変なことさせちゃって」
「鷹が謝ることじゃないよ」
「人が好いからな、あいつ――」
やわらかな微笑を浮かべて雉が言ったので、鷹と隼は、しげしげと彼を見た。注目を浴びて、雉は、軽くうろたえた。
「何だよ」
「……いや」
目を逸らそうとした隼は、今度は鷹と目が会い、困って苦笑した。深い紺碧の瞳に、一瞬、途方に暮れた少女のような素顔がよぎる。
雉は、首を傾げた。
「おれがトグルを褒めると、そんなに変か?」
「うんと変だ。覚えてるぞ。お前、最初に会った時、『バカトグル』とか言っただろう」
「あれは、おれじゃない。鷲が言ったのを貰っただけだ」
「鷲ならともかく、お前が言うと殺気がこもって、冗談で済まないところだったんだぞ。戦争になったら、どうするつもりだったんだ?」
「ならなかっただろうが。だいたい、あんな時に、あいつをあそこに居させた、お前が悪い。それに、口の悪さで、おればかり責めるな。あいつがおれに何て言ったか知ってるのか?
「すいこ……」
絶句し、それから、隼は声を上げて笑い出した。良く通る笑声が、〈黒の山〉の峰に響いた。
雉は、苦虫を噛み潰す。
鷹は、気を利かせることにして、席を立った。
「わたし、掃除がまだ残ってるから」
――鷹が家の奥に入っても、しばらく隼は笑い続けていた。黙然と聴いている雉の頬に、苦笑が浮かんだ。
隼が息を切らせ、机に突っ伏して笑いを呑もうとしているのを横目に見ながら、雉はナンを食べ、
「……あいつが、いい男で、良かったよ」
「お前にそう言って貰えて、良かった」
笑い死んでいるとばかり思っていた隼が、凛とした口調で応えたので、雉は、息を呑んだ。
隼は、組んだ腕を卓上に乗せ、その上に頬を預けて、頬にかかる銀髪の間から、彼を観ていた。涼しげな切れ長の眼に、心の奥を見透かされた気がして、雉は顔を背けた。
「莫迦」
「同感だ。あー、恥ずかしい」
「笑うなよ。おれだって、恥ずかしいんだから。言いたいことの半分も、言えなくなるだろうが」
「承りましょう」
おどけた口調で促された雉は、真顔に戻って口を開けたが、言葉より先に笑いの発作がこみ上げ、奥歯を噛みしめた。切ない想いも。
くすくす笑い続けている隼の、星を宿した紺碧の瞳が、眩しい。
「……元気そうで、良かったよ」
「元気だよ、あたしは」
隼は、項にかかる髪を掻き上げながら言った。歌うような口調で。
「お前らも、元気そうで、安心した。何より、鷹が元気で、良かった」
「ああ。……隼」
「ん?」
「……幸せか? 今」
迷いに迷った末に雉が囁くと、隼は、黙って哂った。陽光に透けて消えてしまいそうな、苦微笑だった。
隼は、瞼を伏せ、独り言のように答えた。
「……いい奴だよ、トグルは。時々、喧嘩もするけれど」
「お前達が?」
「意外か?」
「……ああ。少し」
「言葉も習慣も違うからな、あたし達は。判ってはいるが、さすがに、頭に来ることがあるみたいだ、あいつは」
「そうか……」
『だけど、あいつは、あたしを観ていてくれる。ありのままの、あたしを』――しかし、隼は、それを口にはしなかった。
雉に言うようなことではない。自分が知っていればいい。
トグルが見守ってくれている。『だからあたしは、こいつの前でも、落ち着いていられる……』胸の奥で記憶が疼くのを、隼は感じていた。
雉は、彼女の横顔を見詰めた。『隼。おれは、ずっと、お前が好きだ』
もう二度と、口にすることはないだろう。再び苦しめることは、したくなかった。隼も、自分も。
いつか、懐かしさに変わると信じて。それまでは、この穏やかな時間のなかにいたかった。共通の記憶を抱いて。
二人は並んで座り、移りゆく陽の光を眺めていた。
*
「さて。本題に入ろうか。」
〈
岸辺にトグルと並んで腰を下ろし、釣り糸を垂らした鷲は、真顔で彼を顧みた。草原の男は、ぎこちない手つきで、釣り餌の昆虫を針につけようと努力している。
「あれだけ思わせぶりをこいて、とぼけるなよ。俺に知られたくないなら、最初から喋るな。……訊いてもらいたそうだから、訊いたんだぜ」
ようやく、針に虫がついた。
寄り目になるほど真剣に虫と格闘していたトグルは、満足したのか、鷲の皮肉に対してか、にやりと歯を剥きだした。そうっと糸を湖面に落とす。
釣り道具と言っても、来る途中で手に入れた木の枝に糸を結び、曲げた針を付けただけの簡単なものだ。虫も、辺りに転がる石を裏返せば、幾らでも手に入る。
後は、放っておけば良い。
鷲は、水面に反射する光を眺めたのち、ぼそりと訊いた。
「戦争になるのか?」
トグルは、黙っている。無感動な横顔をちらりと見て、鷲は眼を細めた。
「だから、隼を置いて行くなんて言い出したのか、お前」
「……鋭いな」
初夏の木の葉を思わせる鮮やかな緑の瞳で鷲を見返し、トグルは、フッと嘲った。すぐ湖に向き直る。この地方独特の鱗のない魚が、黒い影を閃かせた。
トグルは魚を眺めながら、他人事のように呟いた。
「まだ、決まったわけではないが……。始まれば、〈草原の民〉同士の戦いだ。ただでは済まない」
「そうか」
鷲が木の枝を持ち上げると、灰色の魚が、糸の先に着いて来た。無造作に外して、湖に帰してやる。一連の動作を眺めたトグルは、そっと眼を伏せた。
「ハヤブサを、お前達に、返そうと思ってな」
「何?」
餌を付け直そうとした鷲の手が止まり、若葉色の瞳が、瞬いた。トグルは、単調に繰り返した。
「ハヤブサを、お前達に、返すと言った」
「ちょっと待て」
鷲の片方の眉が、思い切り持ち上がった。
「どうして、そういう話になるんだ。あいつが何かやったのか?」
鷲は、再び釣り糸を湖面へ下ろした。その間、トグルを見続けている。真剣な眼差しをうけて、トグルは帽子を脱ぐと、長い前髪を掻き上げた。漆黒の髪が、骨張った指の間を滑る。
トグルは、湖の対岸を眺めて訊き返した。
「お前なら、どうする。ハトやタカを、戦場に置いておきたいか?」
「隼は、鳩じゃない」
鷲の返事は単純明快で、彼を失笑させた。本人は、至って真面目だ。
「鷹じゃない……。
「
鷲は、つよく眼を細めてトグルを見た。眉間に皺が刻まれる。端整な彫像のような顔を、トグルは、無表情に見返した。
地底から響く声で、トグルは続けた。
「俺達の世界の常識に縛られない、自由な人間だということだ……。それだけなら構わぬが、困ったことに、お前達は動き回る。その
トグルは幽かに唇を歪め、鷲から視線を逸らした。己に言い聞かせる口調だった。
「お前達が下界に居れば、必ず、周囲に集まる者がいるだろう。善悪に関わらず、お前達を頼って――或いは、利用する為に。なかには、俺達と敵対する者も、いるだろうな」
「…………」
「俺は、ハヤブサを、そんな場所に置いておきたくはない。お前達に、関わって欲しくない」
しばらく考えてから、鷲は頷いた。ほつれた銀髪が鼻先にかかるのを掻き上げる。
「判った、俺は。……しかし、隼はどうだろうな。お前、あいつに、その事を?」
トグルは、苦虫を噛み潰した。
「話してはいない。だが、勘づいているだろう」
「あいつは理想家で、世間ってものを知らないから――」
喉の奥で笑いを呑み、鷲は言った。
「――間違っていると思ったら、相手がお前でも、絶対に折れたりしないんだろうな」
「ああ。お陰で、この前は、苦労させられた」
「悪かったなぁ。こんなのがくっ付いていなけりゃ、お前、もっと楽が出来ただろう」
トグルはうすく嗤った。鷲は、ふと首を傾げた。白い顔を縁取る銀灰色の髪が、日の光を受けて輝く。
「余計なことかもしれないが……。俺やリー将軍が関わっているんなら、ともかく。あいつ一人なら、何とかならないか? お前がその程度の問題を、解決できないとは思えない」
「……俺が、族長でなければ」
息だけでトグルは囁いた。
「ハヤブサと腹を割って話すことも、意志を尊重することも出来るだろう。お前達のような生き方が、俺は、好きであるし……。だが、俺は盟主だ。族長の俺が、お前達に振り回されていては、あいつは、俺の氏族に殺されかねない。――お前達も、俺も」
「…………」
「俺達が居るのは、そういう世界だ」
トグルは眼を伏せた。鷲は溜め息をつき、ゆっくり首を横に振った。
「お前には、あいつを幸せにして欲しいんだがなぁ」
「……そう思っている。俺も」
唇に浮かんだ微笑は優しかったが、トグルの瞳は怜悧だった。
「そうでなければ、お前達にハヤブサを返そうなどとは、思わない」
『俺が言っているのは、そういうことじゃない』 言いかけて、鷲は言葉を呑んだ。何か、トグルの言葉の奥に、それを遮るものの存在を感じ取ったのだ。漠然とした不安のような、やり切れない絶望のような。
トグルが己の言葉の意味を理解していないとは、鷲は思えなかった。故に、そんな感覚を抱いたことを訝しく思った。
「不器用だな」
トグルの唇がわずかに開き、白い牙が覗いた。瞳に穏やかさが戻る。
「トグル。
「不器用にならざるを得んだろうが……あんな女が相手では」
嘲うような溜め息をついて、トグルは前髪を掻き上げた。
「だけど、トグル。あいつは、ただの女だ」
トグルが、鷲を見る。氷のように冷静な瞳で。この男にその程度のことが判らないとは思えなかったが、鷲は念を押した。
「隼は、ただの、女だぜ」
「……ラーシャム(有難う)」
トグルは囁き、その眸に微笑を浮かべた。
~第二章へ~
(注*)水虎: 中国の川に棲む妖怪。幼児の姿で硬い鱗に覆われ、両膝に虎のような爪を生やしています。普段は水に潜り、この爪だけを水面に出しているそうです(『本草網目』)。日本に伝わり、河童のモデルとなりました。
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