第一章 白き蓮華の国(5)
5
明け方。目覚めた鷹は、隣で眠る隼をみて、ホッとした。
強靭な彼女も、長旅の後にお酒を飲まされると、敵わなかったらしい。わずかに口を開けた、あどけない少女のような寝顔だ。毛布にくるまって気持ちよさそうに眠る姿を見ていると、鷹は、彼女に出会ってからのことを思い出し、温かな気持ちになった。
『おかえりなさい、隼。貴女にまた会えて、嬉しい……』
起すのは遠慮して、外へ出る。さすがに、今朝は雉も起きて来られないらしい。誰もいない台所の入り口に立ち、伸びをしていると、井戸へ続くひらけた斜面に、動く人影があった。
残雪に朝日が反射している。
朝焼けの金色の光に向かって立つ、すらりとした長身は、トグルだ。――鷹は、息を呑んだ。
今朝は、飾り気のない濃紺の
鷹は、息を殺した。彼の横顔が、怖いくらい真剣に見えたのだ。
関節のはっきり判る骨張った両手を、顔の前で合わせ、トグルは眼を閉じていた。唇が動いているのは判るが、何を言っているのかまでは判らない。
慣れた仕草で合わせた両手を掲げると、額、唇、胸の順にそれを当て、長身を屈めて、地面に跪いた。両手を着き、地面に擦り付けんばかりに、深々と頭を下げる。美しい黒髪が、彼の仕草に合わせて、ばさりとこぼれた。髪を掻き上げもせずに立ち上がると、また、同じ動作を繰り返した。
そんな礼拝を見た事がなかった鷹は、思わず、じっと見詰めていた。人の気配に気づいて振り向くと、肩をぽんと叩かれた。
「鷲さん」
「よ。早いな、鷹」
欠伸を噛み殺していた鷲は、彼女が示した方向――トグルをみつけると、眼を細め、『へえ』という顔になった。腕を組み、柱に寄りかかる。
〈草原の民〉の族長を眺める若葉色の瞳に、思慮深い光がよぎる。彼は、いつもののんびりした微笑を、鷹に向けた。
「隼は、まだ寝てんのか?」
「うん。疲れが出たみたい」
鷲は、鷹の胸に下がっている首飾りに気づき、ひょいと片方の眉を跳ね上げた。狼の牙に触れる彼に、鷹は、照れながら言った。
「トグルに、貰ったの。お守りだって」
「へえ。こんなもの用意してたのか。マメな男だなあ」
「……雉さんに、雰囲気が似ていない?」
声をひそめて問うと、鷲は、面白そうに彼女を見た。
「鷹は、そう思ったのか」
「うん。でも、隼は、そんな風に思ったことはないって。鷲さんに似ているって、思っていたみたいよ」
「鳶が生きていた頃の、俺だろ」
くっくっと含み笑いをしながら鷲は言い、鷹は、目をまるくした。
「ギタの親父さんだとか、ヴィニガのじーさんだとか、俺も言われたけれど。いろいろ言われるなあ、あいつも。こりゃ、慣れるまでが大変だぞ……。ちなみに、俺は、あいつは隼自身に似てると思った。初めて会った時にそう思ったが、今も、そう思う。隼を男にしたら、あんな感じになるんじゃねえか」
「そう?」
「俺に似ていないことだけは、確かだよ。俺は、あんないい男じゃない」
「…………」
「なに、意外そうな顔してんだよ」
「だって……」
『鷲さんが、こんなにはっきり、他人を褒めるなんて!』
いつも、『俺がいちばーん!』だとか、『俺に敵う野郎はいない』とか。言いたい放題なのに。――勿論、冗談なんだろうけど。
「あのな」
鷲は苦笑して、鷹の額を指で軽く小突いた。視線を逸らし、わざとらしく舌打ちする。
「ひとが真面目に話してんのに、そういうことを言う……。本気で言ってんだよ、俺は。あいつはいい男だ。なんつーか、男らしい、奴だよ」
「そうなの?」
「ああ。あそこまで、『俺は男だ』って意識を、はっきり持ってる奴は、珍しい」
「……そう」
鷹には、鷲の言葉の意味は、今ひとつ判らなかった。彼は、怪訝そうに首を傾げた。
「どうした? 浮かない顔して。トグルに乗り換えたくなったか?」
「やあね。そんなのじゃないわよ。鷲さんから見ても、トグルはいい男なんだなって」
「…………?」
「わたしも、トグルがいい人に思えて、戸惑ってるの。少し、怖いところもあるけれど……。雉さんはどうするのかなって、思って」
「……お前が何を気にしているのかは、知らんが」
眼を眇めて鷲は言った。口調は真面目で、苦々しい。
「雉と隼の心配なら、不要だぜ」
「そう?」
「ああ。それは、お互いにまだ好きだろうが――気持ちが消えることは、ないだろうが。二人の間で問題が起こるとか、焼けぼっくいに火が点く、なんてことは、ない。絶対に」
「そうかな……」
「人間性の問題だぜ、それって」
鷲の表情は穏やかだが、真剣だった。
「あいつらが、俺みたいに身勝手な奴だったら、そもそも苦しまなかった。やっとの思いで、ここまで来たんだ。それをぶち壊しにするようなことを、二人がするとは思えない。――隼の意志を知っている雉が、その意志に
「うん、そうよね……。失礼よね、こんな心配」
『鷲さんが身勝手な人だとは、思わないけど……』
「それより。俺が気にしてるのは――」
「お兄ちゃん」
鷲の言葉は、跳ねるような鳩の声に遮られた。お下げの髪を揺らして、後ろから、
鷲の頬に、笑顔が戻った。
「……鳩か」
「うん。おはよ、お兄ちゃん。おはよう、鷹お姉ちゃん。……隼お姉ちゃんは?」
「まだ寝ているわ。かなり疲れているみたいだから、寝かせておいてあげましょう」
「お兄ちゃんは、大丈夫?」
「少し、
鳩の髪を掻き撫でる。鷲の明るい若葉色の瞳は、とても優しかった。
鳩は、くるりと瞳を動かした。
「お兄ちゃんが?」
「……あのな。あれだけ飲んで宿酔にならなかったら、化け物だぜ。雉、多分起きてこれねえぞ。
鷲が顎で示した方向に、トグリーニの族長をみつけ、鳩は、大きく眼を瞠った。礼拝を済ませたトグルは、岩に腰掛けて、自分の髪に触れている。
鷹は、彼に聞えないよう声をひそめた。
「そんなに、強いの?」
「顔色一つ、変わらなかった。あいつにとっては、水みたいなもんらしい」
「どれくらい飲んでいたの?」
「雉が潰れたのが、一刻(約二時間)くらい前だ」
鷲は、唇を歪めた。
「雉が寝始めたから、俺とトグルも切り上げたんだ。少し寝たんだが、結局、目が醒めちまった」
「何をそんなに喋っていたの?」
「いろいろだ」
昨夜のトグルと同じことを言う、鷲。トグルの様子を窺う鳩の頭に片手を乗せ、軽く叩きながら。
「リー将軍のこと、ルツのこと。ニーナイ国のこと、タオのこと――。多すぎて、全部は覚えていない。愉しかったから、ずっと起きていても良かったんだが。俺が、気疲れしちまった」
「気疲れ?」
『意外。鷲さんが?』
鳩も、大きな眼をいっそう大きくして、彼を見上げた。少女の頭をぐりぐり撫でて言う、鷲の声には、うんざりした響きが含まれた。
「ああ、疲れた。……雉の阿呆、気を遣わせやがって。何度、ひやっとしたか判らない。トグルが気の長い奴で良かった。俺なら、途中で切れてる」
「……そうなの」
雉はやはり平気ではなかったらしい。鷹は、物悲しい気持ちになった。
鷲は、自分の首の後ろを掻いた。
「どう接したらいいか判らないんだろう、トグルに。突っかかったり、喧嘩を売ったりするわけじゃないんだが……。とにかく、黙り込まれると困った。トグルは気を遣うし。間に立った俺の苦労も考えて欲しかったぜ」
「気を遣っていたの? トグル」
「ああ」
眩い朝の日差しの中で、トグルは髪を束ねている。鷲は神妙な口調になった。
「いい奴だぜ、あいつは。俺にも、雉にも、凄く気を遣ってる」
「あの二人、仲良くなれないかしら?」
「無理だろ」
せめてもの鷹の希望だったが、鷲の声音は苦かった。難しげに首を捻る。
「トグルの方はともかく。雉はなあ……そんなことが出来るような、精神構造をしていないからな。だいたい、女が絡んでいて、野郎同士が上手く行くわけがない。それならそれで居直れる性格でもないからな。――皺寄せは、俺のところへ来るわけだ。どうにかして欲しいぜ……」
口の中でぶつぶつ言いながら、鷲の視線は、トグルに注がれていた。
鳩が二人の側を離れ、小走りに、彼の方へ向かった。少女の動きを追うことで、鷹の注意も、鷲からトグルに移った。
トグルは岩に腰掛け、長髪を三つに分け、それぞれを編んでいるところだった。慣れた手つきで、小さな金環を使って毛先を束ねている。彼の後ろから近付いた鳩は、しばらく、声を掛けるのを躊躇った。
髪を編み終えたトグルは、首だけで少女を振り向いた。
「……珍しいか?」
滑らかな低い声は良く響き、鷹の耳に届いた。鳩の高く澄んだ声も。
「男の人なのに、どうして、髪を編んでいるの?」
少女の質問が、可笑しかったらしい。体ごと振り返るトグルの顔に、穏やかな微笑が浮かんだ。
「どうして、だろうな。知らない。……俺達は、昔から、髪を長く伸ばして編む。習慣だ」
「ふうん」
鳩は、トグルの辮髪を手に取った。
鷲は苦笑し、そちらに向かって歩き出した。両腕を胸の前で組み、上体を揺らす、独特の歩き方で。鷹も、彼に付いて行った。
トグルは、鷲たちの動きを眺めながら、説明を続けた。
「トグリーニは、子どもの頃は、髪を切らない。一歳で一本、二歳で二本……歳の数だけ編んでゆく。女は、結婚すると二本にして、白髪が目立つようになると一本にする。男は、成人すると三本にして、子どもが生まれると、一本にする。――どんな意味があったかなど、忘れられてしまった。しかし、未だに続いている」
「綺麗な髪ね。
「……ラーシャム(有難う)」
トグルは、戸惑って苦笑した。しかし、物怖じしない少女との会話を、楽しんでいる風でもあった。
「あたし、トグルって、もっと怖い人だと思ってた」
「そのようだな。この前会った時は、ハヤブサの後ろに隠れていた……。今も怖いか?」
鳩は、空いている方の片手を腰に当て、心持ち脚を広げて、大袈裟にトグルを眺めた。鷹と鷲をちらりと見遣り、にこりと笑った。
「ううん。今は、怖くない。いい人に見える」
「そいつは、どうも……」
「トグル」
少女に辮髪を掴まれたまま、トグルは、何か言いかけ――言い淀むと、目だけで二人を振り向いた。
「センバイノー、ワシ。タカ。……ワシ、大丈夫か?」
「ああ。何とかな」
「……キジは?」
するどい眼を心持ち伏せ、囁くように言う、トグル。その時、鷹も、彼が隼に似ている気がした。
「大丈夫か、あいつ」
「潰れてるよ。大丈夫、放っておけば、そのうち起きるさ。……それよりトグル、お前、飯は喰ったか?」
「いや」
トグルは、遠慮のない鷲の態度を、面白がっているらしい。鮮やかな新緑色の眸が、愉快そうに煌めいた。
「一緒に喰わないか? 今日、暇なら俺に付き合えよ」
「構わないが……どうするのだ?」
「釣りに行こう」
「釣り?」
鳩が髪から手を離すのを待って、トグルは、ゆっくり立ち上がった。帽子をかぶり直し、怪訝そうに眉を寄せる。
鷲は、にんまりと歯を見せて嘲った。
「お前が来てくれたお陰で、子守りから解放された。宿酔で狩りは面倒でも、釣りなら出来るだろう。一緒に来ないか?」
「ああ。お前達は、魚を食べるのか」
「食べないの?」
トグルが怪訝そうにしている理由が、判った。きらきら瞳を輝かせている鳩を、優しく見返した。
「……俺達は、魚を、水の神の使いと考える。滅多に食べはしない」
「へえ、そうなの」
「俺が教えてやるよ」
トグルの背を叩いて誘う、鷲の嘲いは愉しげだった。並ぶと、二人の背は殆ど同じで、長身が際立っている。
トグルは黒髪に濃紺の
馴れ馴れしく肩に腕を乗せてくる鷲に、トグルは、白い牙を見せた。
「なら、こちらも、美味いナンの作り方を教えてやろう」
「ナンを作るんですか? 族長なのに」
意外に思う鷹に、トグルは微笑み返した。
「俺は、独り身だから。自分の食べ物は、自分で作る」
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