第一章 白き蓮華の国(3)
3
子ども達に湯あみをさせ、うち数人は親元へ帰らせた。雉と鳩が一息つけたのは、もう、昼を過ぎた頃だった。鷹は食事を作り、洗濯をしながら待っていた。
雉と鳩とともに、遅くなった朝食兼昼食を食べ、
「隼が、帰って来たって?」
雉は、疲れた声で訂正した。
「来ている、だよ。正確には」
「なんだ。教えてくれりゃ良かったのに」
「教えたら、お前、素直に着替えたのかよ」
雉の言葉に、鷲は、ぺろりと舌を出した。あれだけ嫌がったにも関わらず、今は、まんざらでもない顔をしている。まだ湿っている長髪を無造作に肩へ掻き上げると、鷲は立ったまま、鷹の煎れたお茶を口に含んだ。
「お前、予知なんて出来たっけ? 雉」
「予知じゃない。
鳩は
「元気かなあ、隼お姉ちゃん……」
半年前、キイ帝国の要塞都市カザで、つかのま再会したことを除けば、もう、一年近く離れているのだ。あの時、彼女は〈草原の民〉の族長と一緒にいたので、鷹と鳩は、殆ど言葉を交わせなかった。
隼の、観る者の魂を吸いこむ深い紺碧の瞳を、鷹は想った。
旅の道すがら、歳のちかい同性なこともあり、二人はよく話をした。鷲に関する相談にものってくれた。彼女の、女性にしては低い凛とした声が、鷹は好きだった。
背が高く、すらりとして優美だが、儚くはない。白銀の髪に縁取られた顔は彫りが深く、少年のようだった。永遠に凍りついた氷河のように、冴え冴えとして美しい。だけど、彼女が微笑む時、長剣を手に戦う時、双眸には秘められた情熱が現われる。何者にも屈しない意志の
鷹は、ふと、鷲の表情が変わっていることに気づいた。
先刻から、彼は立ち尽くし、チャパティ(薄焼きパン)を口に咥えていた。両手で長髪を束ねながら、考え込んでいる。銀灰色の睫にけぶる瞳は遠く、どこを観ているのか判らない。端整な横顔が、一瞬、他人を寄せ付けない彫像のように見えたのを、鷹はいぶかしんだ。
『鷲さん?』
「……戻ったぜ」
鷲が面を上げ、チャパティを手にして呟いたので、雉と鳩は振り向いた。不得要領な仲間たちに、鷲は、にやりと嘲った。
雉が、息を呑む。
「鷲……」
「着いた。今、ルツの所だ」
「『運んだ』のか?」
「いや……。しかし、雉。お前、隼のことしか
「え?」
鷹にはいまひとつ訳の判らない会話だったが、雉の瞳がぱっと輝いたのは判った。それで知る。
隼が、帰って来た……!
鷹と鳩は顔を見合わせると、微妙にぎこちない鷲の表情を見遣った。何か、気懸かりなことでもあるのだろうか。
扉が、控えめに叩かれた。
マナは、待ち受けていた彼等に驚きながら入って来た。続いて、《星の子》 ルツが。こちらは、いつもと変わらない涼し気な表情だ。
そして、ルツの夜空に染めたような黒髪の後ろから、隼が――。濃い臙脂の立ち襟の
「よお、お前ら。元気だったか?」
鷹は、こみ上げる想いに喉を塞がれ、何も言えなかった。
「お姉ちゃん!」
「……おっとと」
鳩は、一瞬の迷いもなく隼に抱きついて、彼女をよろめかせ、切れ長の眼をまるく見開かせた。
鷲は、苦笑した。
「元気だったか? 隼」
「ああ。鷹、雉、久しぶり」
隼は、首に鳩をぶら提げて、鷹と雉を見遣った。澄んだ紺碧の瞳が、穏やかで温かい。鷹は、身の内を震えが走るような心地がした。
雉も、言葉を失っている。
全員の注目を浴びた隼は、照れ臭そうに頭を掻いた。ルツが、やわらかな口調で促す。
「隼、あなた達、座ったらどう? お茶を飲みながらでも、話は出来るわ」
「ああ、そうだな。けど、自己紹介が先なんだろう? 隼」
鷲は、彼女の背後の空間へと、声を投げかけた。鳩が怪訝な顔をして、隼から離れる。ふてぶてしい呼びかけに応じて影が動いたのを、鷹たちは、呼吸を止めて見守った。
「出て来い。遠慮をすることはない。……久しぶりだな、トグル・ディオ・バガトル」
文字通り影のように隼の後ろの闇に融けていた男が、姿を現した。
黄金の縁飾りを施した黒い
*
一同は、無言で食堂の
鷹は、雉を気遣っていた。隼が帰ってくると喜んでいた雉――鷲が、『隼のことしか視てなかったろう』と言ったように。おそらく、トグルに気づいていなかったのではなかろうか。しかし、精緻につくられた硝子細工のような横顔から、感情を推し量るのは無理だった。
やがて、トグルの方から口を開いた。苦笑混じりの声は、雉より低く滑らかだ。
「……俺は、来ない方が良かったな」
「いや、そんなことはない」
その勇名と、近隣諸国を震えあがらせる部族の噂にも関わらず、彼の雰囲気はとても穏やかだった。不思議な程、澄んだ眼差しをしている。精悍な風貌は狼のように野性的で、かつ、知的な気品も感じさせた。
鷲の態度は屈託がなく、どこか嬉しそうに、鷹には見えた。
「歓迎するぜ。ただ、ちょっと驚いているんだ。行儀が悪いのは、許してやってくれ。――鳩」
「だって」
少女の勝気な瞳に一挙手一投足を
「気をつけろよ、トグル。ここには、とんでもない小姑が居るからな」
「ひっどおい、お兄ちゃん」
鳩がぷくうっと頬を膨らませたので、トグルは、心持ち眼をみひらいた。驚いたらしい。
「……小舅も、居るぜ」
雉が、ぼそりと補足する。トグルは彼を顧みたが、今度は表情を変えなかった。
トグルは、一同が彼の言葉を待っていると気づき、帽子を脱いだ。
「センバイノー(こんにちは)、《星の子》。ワシ……キジ。ハト。タカ……だったな」
「覚えていてくれたんですか?」
鷹が問うと、トグルは、まっすぐ彼女を見詰めた。
「……そう簡単に忘れられる個性の持ち主ではないからな。お前達は」
「改めて自己紹介をする必要は、ないな」
鷲は、組んだ両手を卓上に置きながら、トグルに対する鷹の反応を面白がっていた。――険しい表情を殆ど動かさずに目だけで微笑まれて、鷹はどきまぎしていた。
隼も、彼女の反応に安堵していた。
トグルは、鷹から鷲に視線を戻すと、会釈をして帽子を頭に戻した。鷲は、話を続けた。
「まずは、遠いところを御苦労さん。早速だが、いつまでここに居てくれるんだ?」
「……しばらく居るよ、あたしは」
「五日」
ためらう隼の言葉と、トグルの声が重なった。視線で互いの表情を確認する二人を、鷲は怪訝そうに眺めた。
「どっちなんだよ」
「……五日後に、下山する。俺は」
「何だ? 帰りは別なのかよ、お前等」
「そういうことだ」
隼は黙っていた。トグルは、流暢な交易語で言った。
「神殿へお邪魔しますよ、《星の子》」
「いいけれど。巡礼の人達を、驚かさないで頂戴ね、ディオ」
トグルと隼は、二十人程の〈草原の民〉の男達を連れ、一般の巡礼者のあまり通らない道を通って来た。彼等にとっても〈
ルツに釘を刺され、トグルは軽く頭を下げた。
鷲は首を傾げた。
「急ぎの用事でも、あるのか?」
無言の隼に、鷲は、ちらりと視線を走らせた。
「慌ただしいんだな。隼と一緒に、ゆっくりして行けよ」
「悪いが、先約があるのだ」
ルツは、マナに注いでもらった
「また
草原の男の頬に、明瞭な苦笑が浮かんだ。
「そうしたいわけではありませんが、《星の子》。俺は、揉め事を穏便に片づける才能には、恵まれていないようです」
ルツは溜息をついて、ゆっくり首を左右に振った。彼女の代わりに、雉が訊いた。
「どういう意味だ? 本当に、戦を仕掛けるつもりなのか」
トグルは真顔になり、目だけで隼を顧みた。それから、鷲を。二人が同じ疑問を面にうかべているのを確かめ、雉に答えた。
「……俺としては、家畜の出産に忙しいこの時期に、戦など御免こうむりたい。去年は、暮れまで戦いの連続だったのだからな……。だが、俺達が中途半端に投げ出したことのツケが、今になって返って来た。知らぬふりをするわけには、いかぬだろう」
不得要領な雉と、食い入るように自分を
「ニーナイ国だ」
鷹と鳩が、はっと息を呑む。トグルは、鷲へ向き直った。
「誤解するな。俺は、あの国に野心はない。オン・デリク(キイ帝国の大公)をバギ(キイ帝国の都市の名)へ追った今、その必要はない」
「そういう状況なのか?」
鷲は、長い脚を組んで訊き返した。何事か言いかける隼を、片手で制する。
トグルは、二人の遣り取りが終わるのを待って答えた。
「オン大公は幼帝を擁して南方へ逃れたが、帝国内の貴族と将軍達からは、反逆を問われている。俺を、
「だが。永久にじゃあ、ない」
低い声で鷲が言い、鷹はドキリとした。
政治や戦争の話になると、鷲は、人が変わったように見える。普段の柔和さや、のんびりした雰囲気が消えて、抜き身の刃のような鋭さが表れる。――鷹は、置いてきぼりにされたような気持ちになった。
雉も、息を殺している。
トグルは、平坦な眼差しを鷲に向けた。
「トグル。お前だって、そうは思っていないんだろう? オン大公は、いずれ反撃に出る。――お前、本当は、それを待っているのと違うか? キイ帝国の連中が共喰いを始めるのを」
トグルは、息だけでフッと
鷲の顔から表情が消え、一同は凍りついた。
ルツはお茶を飲むのを止め、晴れた夜空のような瞳でトグリーニの族長を見詰めた。
トグルは、鋭い眼をそっと伏せた。囁きは、自嘲を含んでいた。
「……言ったろう。俺達が関わるのは、キイ帝国が滅ぶ時だと」
「トグル」
「だが、俺も今は、あの国に構う余裕はない」
隼の呼びかけを聞き流して、トグルは顔を上げた。狼の嗤いを形作る口元とは対照的に、眼差しはあくまで静かだ。
「問題は、ミナスティア王国だ。キイ帝国と手を組み、ニーナイ国の交易路を手に入れるつもりだったが、俺達が早々にニーナイ国から手を退いた故、予定が狂った。自力で攻めるつもりだぞ」
「ニーナイ国とミナスティア王国が、戦争するのか?」
声をあげた雉は、トグルと目が会い、当惑顔になった。トグルの方は、平然としている。
「ニーナイ国とミナスティア王国と、〈草原の民〉だ……。戦力のないミナスティア王国は、南北からニーナイ国を挟撃する為に、同盟を求めている」
「お前がか?」
トグルは、雉に問い返されて眼をみひらいた。緑の双眸に、一瞬、微笑のようなものが閃いたので、雉は、さらに狼狽えた。口ごもる。
「お前達が、また、ニーナイ国に攻め入るのか?」
「俺ではない……。俺達より西に
「そうか」
淡々と説明された雉は、どんな表情を作ればいいか判らなくなり、目を伏せた。
鷲は、黙って二人を眺めている。
隼が、
「トグル。お前、そんな話をする為に、ここへ来たわけじゃないだろう」
「そうだったな……」
草原の男の視線が離れたので、雉は胸をなでおろした。トグルは、今度は鷹を見遣った。
「しかし、興味はある。もし、俺がタァハル部族とともに、再びニーナイ国に攻め入れば。お前達
「そりゃ勿論、隼に、お前を色仕掛けで落としてもらうしかないだろうが」
のほほんとした鷲の台詞に、
決まり悪そうに口元をぬぐう隼と、急いでお茶を喉に流しこむ雉を交互に眺め、トグルは、ふっと苦笑した。
「……そう言うだろうと思っていた」
「本当かよ」
「忠告しておこう」
トグルは哂い、鷲へ告げた。
「お前の考えも悪くはないが、それでは、お前達の寿命が縮むだろう。……俺は、タァハル部族に同調する気はないが。この先、草原で何が起ころうと、お前達に介入して欲しくない。ニーナイ国が気懸かりだろうが、ここで大人しくしていてもらいたい」
「…………」
「《星の子》、貴女もです……。お前達は、《
全員が、黙ってトグルの言葉を聴いた。それから、誰からと言うこともなく、鷲を顧みる。
トグルの正面に座った彼は、煙草を噛みながら考え込んでいたが……眼を
「それは、命令じゃないよな?」
トグルは、わずかに唇を歪めた。
「氏族十万人に
「そいつは、どうも」
「別に、言質をとるつもりはない。俺は、言いたいことを言ったまでだ」
そう言うと、トグルは元の無表情に戻った。お茶に唇をひたす。
鷲は、気を呑まれている雉と鷹、うんざり顔で頬杖を突いている隼を眺め、
トグルは、咎めるような隼の視線に気づくと、前髪を掻き上げた。
「……
「え? あ……いえ」
トグルがぎこちない苦微笑を浮かべ、意外なほど優しくこう言ったので、鷹はどきりとした。
雉は、鷲とトグルを交互に見比べた。
「お前たちの話を聴いていると、戦争を
「そうかあ?」
鷲は、さらりと言いながら、苦虫を噛み潰した。雉も、しまったという表情になった。
一同は息を殺したが、トグルの気色は変わらなかった。
「『娯しんでいる』……」
トグルは、神妙とも言えるほど真面目に呟き、首を傾げた。
「……そうかも、しれないな」
心情を読み取るには、曖昧すぎる囁きだった。
雉は戸惑い、黙り込んだ。鷲の面から苦みが消える。
「それくらいで、いいだろう?」
場の緊張が解けたのをみて、隼が言った。
「鷲、雉、トグル……。顔合わせはそのくらいにして、本題に入らないか。今日の主役は、鷹のはずだぜ」
「ああ、悪い。ハヤブサ」
トグルの表情が和らいで、野性味のある笑いを形作った。
「何だよ。俺は、主役じゃないわけ?」
おどける鷲に、隼は皓い歯を見せた。
「当然だろ? 妊娠したのは鷹なんだから。お前は、二の次」
「酷いなあ。俺だって、少しは貢献してるはずだぜ」
「相手が鷹じゃなかったら、上手く行ったかアヤシイもんだ。だいたい、お前、偉そうに言える立場か? あんなに苦労させておいて。鷹が許しても、あたしは許さないからな」
隼――口調は明るいのだが、瞳は笑っていない。
鷲は子どもさながら唇を尖らせ、恨めしげに彼女を見た。
「そうだ。お前は、酷かった」
雉も笑った。
「おれも、鷹ちゃんはよくこいつを嫌いにならないなぁと、感心した覚えがある。鷹ちゃん、おれと隼が証人になる。恨み言の一つくらい、言ってやれ」
「……たかぁ~」
鷲が、苛められて途方に暮れる子どもさながら鷹を見たので、彼女は吹き出した。雉は、けたけた笑って相棒の肩を叩いた。
「こんなこと言って、いぢめる」
「拗ねるな。不気味だ」
「ぶき……。隼、久しぶりに会ったってのに、そこまで言うか?」
「久しぶり、だからだよ。あたし以外の誰が、お前をこき降ろせるんだ」
「ひでぇ……。トグル、お前、よくこんなのと付き合っていられるなあ」
「余計なお世話だ」
掛け合いを続ける鷲と隼を、しかし、トグルも笑いながら見ているだけだった。声を立てず、
トグルは、骨張った片手で口元を覆い、眼に微笑をたたえて言った。
「ワシには、
「ありがとう。さすが、トグル。気が利くなあ。ルツ」
《星の子》は、鷲に声をかけられると、『仕様がないわね』と言うふうに肩をすくめた。
「止めたら、恨まれそうね。マナ」
マナは微笑んで頷き、お酒をとりに部屋を出て行った。
大喜びで歓声を上げる男達――鷲と雉を、《星の子》は、息子を観るように眺めている。
好奇心たっぷりに自分を観ている鳩に気づいて、トグルはちらと皓歯を見せた。少女の頬に、ぱあっと笑みがひろがる。
隼は、改めて鷹に右手を差し出した。
「本当は、こいつを一番に言わなきゃならなかったんだよな。……久しぶり、鷹。また会えて、嬉しい。おめでとう」
「うん。ありがと、隼。おかえりなさい」
彼女の手を握り返して、鷹も、ようやく言いたかった言葉を言うことが出来た。『おかえりなさい』
隼は、切れ長の眼をほそめ、眩しげに笑った。
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