第一章 白き蓮華の国(2)
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翌朝。鷲より先に目覚めた鷹は、眠っている彼を起こさぬよう、静かに身を起こした。
《星の子》の神殿は、村よりも山頂に近い場所にあり、〈
晴れた空は、真夏の海より青く澄んでいる。険しく切りたった峰が周囲をかこみ、純白の雪をかぶった頂きが、朝日を反射して黄金に輝いている。ところどころに雪を残した黒い大地に、木は殆ど生えていない。新しい緑の絨毯が広がり、その上に、黄色や白の小さな花が散っていた。風に揺れる花々の向こうでは、早起きの村人が、
鷹は眼を閉じ、澄んだ空気を吸った。喉を流れて行く風は、小川の水より冷たく、身体の中まで透明になるようだった。吐く息は、まだ白い。足音を聞いて振り返ると、
鷹は、軽く慌てて、彼へ駆け寄った。
「おはよう、雉さん」
「おはよう。どうしたの、遅いじゃん。……いいよ。鷲のオヤジは、まだ寝てるの?」
鷹は桶を持とうと手を伸ばしたが、彼は、哂って首を横に振った。
雉は、毎日、鷹が朝食を作るのに合わせて、水を汲んで来てくれている。いつもは日の出とほぼ同時に起きる鷹だが、今日は寝過ごしてしまったので、恐縮した。
「うん。疲れているみたい。昨日ので」
「だろうなあ」
六人のちびっこと鷲の騒動を思い出し、雉は、くすくす笑った。下がり気味の目尻に笑い皺が刻まれ、とろけるような微笑になる。
「凄かったもんなあ、あいつら。さすがの鷲も、六人がかりで来られたら参ったか。このところ、狩りにも行かず、食っちゃ寝ばっかりしてるから、相当、身体がなまってるんじゃないの。『オヤジぃ、歳なんだから止めておけ』って、言っといたんだけどな、おれ」
「……そう思うんだったら、雉さん、代わってくれたら良かったのに」
「冗談」
雉は、やや高めの滑らかな声を、喉の奥で転がして笑った。『虫も殺さない男だよ、おれは』という顔立ちだが、こと鷲に関すると、彼は毒舌家になる。台詞との落差に戸惑いながらも、女性にしてみたいほど優雅で繊細な微笑が朝日に透けそうなのに、鷹は見蕩れた。
「遠慮するよ。オヤジが敵わないのに、おれなんかが、相手出来るわけないじゃないか。チナだけで、充分だよ」
雉は器用に片目を閉じると、台所の水瓶に、運んで来た水を流し入れた。脱ぎ落とした彼の
雉の顔に
「どうしたの? 雉さん。にこにこして……。何か、いいことでもあった?」
「いや、別に」
低い声にも、微笑が含まれている。鷹は、つられて哂いそうになった。
「本当? ご機嫌に見えるわ」
雉は、観る者を幸せな気分にさせる微笑で、囁いた。
「……
「隼」
「もう、すぐ近くに、来ているよ」
「判るの?」
雉は、黙って頷いた。眩しげに細められた瞼の下、銀の睫にけぶる若葉色の瞳が、優しく澄んでいる。心持ち項垂れ、戸外へ視線を移した。決して大袈裟な事を言うわけではないが、
常人にはない特殊な能力をもつ雉は、遠く離れた場所の出来事を
『今、隼に逢えたら、雉さんは、どうするのだろう……?』
手を止めていた鷹は、雉が怪訝そうに振り向いたので、曖昧に笑った。
雉は、乾燥させた
「うわあ!」
続いて、甲高い、子ども達の歓声。
鷹は、思わず立ち上がった。雉は、ひとのわるい
「始まったな」
「雉さん」
「放っておこ、鷹ちゃん。オヤジのことだ。壊れやしないよ」
『それは、そう思うんだけどね……。こう、毎日じゃあ、可哀想』 眠っているところを、子ども達に叩き起こされたのだろう。逃げ回る足音と、子ども達の嬌声を聞きながら、鷹は溜め息をついた。
「わたしが代わった方が良かったかしら」
「駄目だよ、鷹ちゃん」
小声で言ったつもりの独り言に、雉がやけにはっきり言い返したので、鷹は驚いた。
「お腹に子どもが居るのに、万一のことが起きたらどうするんだ。鷲に任せておけよ。いい練習だ。今のうちに、子育てがどれだけ大変か、思い知ればいいんだ」
鷲もだが、雉も、鷹の妊娠に神経質になっていたかもしれない。生真面目な口調と表情に、彼女は驚いた。
雉は、自分がいつになく感情的になったと気付いた。自嘲気味に苦笑していると、鷲の疲れた声が降って来た。
「何を思い知れって? 雉」
「……なんて格好してんだよ、鷲」
鷹と雉は、同時に吹き出しそうになった。
チナを肩に乗せ、右腕にさらに小さな子どもを抱き、長い脚の両方に一人ずつ男の子をしがみつかせた鷲が、上着の裾をメルベに引っ張られ、長髪を手綱のごとく少女に握り締められた格好で、立っていたのだ。
彼を捕まえて得意満面な子ども達とは対照的に、寝起きの鷲は、いかにも眠そうだった。
目隠しをしようとするチナの小さな掌の下から二人を眺め、鷲は、げんなりと言った。
「こいつら、俺の上に、跳び乗って来たんだ。死ぬかと思った……。思い知るも何も、俺は、赤ん坊の世話は、ガキの頃からやっている。偉そうに言っている暇があるんなら、助けようとは思わんのか、雉」
「な? 壊れそうにないだろ? 鷹ちゃん」
「え、ええ……」
「雉ぃ~」
チナに耳を引っ張られ、鷲は、恨めしげに唸った。チナは、きゃっきゃと笑っている。
「鷹……助けてくれ……」
「う、うん。ほら、チナちゃん、いらっしゃい」
「やだ!」
チナは、けらけら笑って拒絶した。鷲の頬を、うにい、と引っ張る。
「やだ。わしが、いいの!」
「でもね、チナちゃん。おじさん、困ってるでしょ。降りてあげて、ね」
「やー!」
「られがおりさんら、らか(誰がおじさんだ、鷹)」
そんな場合ではないはずだが。口の両端を引っ張られながら、鷲は抗議した。
雉は、腹を抱えて笑っている。
「ろらえられ、ろんなことをりう(お前まで、そんなことを言う)。りろいなあ(酷いなあ)。……えーい、やめんか」
業を煮やした鷲が、ぶるんと首を振って手を離させると、チナは、眼を大きくみひらいた。みるみる表情が崩れていく。
あ、まずい、と思う間もなく、今までの数倍の声をはりあげて、幼女は泣き始めた。
「うわあああああああん!」
「あー、泣かせた。いけないんだ、鷲」
「うるせえ。ほざいてんじゃねえよ、雉。と……何とかしてくれ。鷹……」
「はいはい。泣かないの、チナちゃん。おいで、ほら。ね?」
「わーん!」
しかし、チナは鷲の頭にひしとしがみついて、離れようとしない。そんなに、鷲が好きなのか……。
閉口する鷲の腕の中で、つられた赤ん坊が泣き始め、彼に、ふかい溜め息をつかせた。
「……判ったよ、チナ。おじちゃんが悪かった。乗ってていいから。頼むから、泣かないでくれ……」
「本当? うにいいいいぃぃ~」
笑顔に戻って鷲の顔を引き伸ばす、チナ。雉は、息を切らせて笑っている。鷹は仕方なく、泣いている赤ん坊を受け取った。
メルベ達に身体のあちこちを引っぱられている鷲は、真に玩具状態だ。
「いいな、いいな。チナ、俺に代わって」
「や!」
「ずるーい! あたしにも肩車して、おじちゃん!」
「ろにーさんとろれ、ろにーさんと(お兄さんと呼べ、お兄さんと)」
「おじちゃん! 次、あたし。あたし、ねえ!」
「痛い痛い痛い痛いっ」
「鷲お兄ちゃん?」
髭を引っぱられた鷲が悲鳴をあげていると、背後の扉から、
ルツやマナと同じ黒髪を、二本に編んで垂らし、両腕に洗濯物を抱えた少女は、黒い大きな瞳で、鷲を睨んだ。
「何を騒いでいるの、お兄ちゃん。朝っぱらから」
「見りゃ判るだろう? オモチャにされてる」
「ふうん」
鳩は大して感銘を受けた風もなく、鷲の四肢にしがみついている子ども達を眺めた。彼のぼさぼさの長髪を見て、溜め息をつく。
「お兄ちゃん」
「な、何だよ」
「その服、いったい何日着ているの?」
「え?」
ぎくりとして鷲は後ずさりしようとしたが、脚にくっついた子ども達が邪魔で、思うように動けなかった。
鷹が赤ん坊をあやしながら見遣ると、鳩は、大きな眼を糸のように細め、じとっと彼を睨んでいた。
「このところ、洗濯物の中に、お兄ちゃんの服を見かけないのよ。下着も。何日替えていないの? 白状しなさい」
「……お前の気のせいじゃないか?」
「嘘おっしゃい!」
鷹は、『鷲さんに対して、ここまで強い言い方が出来るのは、隼か鳩ちゃんだけだろうなあ』と、感心した。
鳩は、大量の衣服を片手に抱え直すと、手を伸ばし、鷲の上着の胸倉をぐいと掴んだ。
「何すんだよ。……嗅ぐな!」
「汚いわね! そんな格好で、子ども達に近寄らないでよ。鷹お姉ちゃんに
「お前……そこまで言うか? 普通」
「普通の人は、言われなくても着替えるわよ。お兄ちゃんが普通じゃないんでしょっ」
絶句する、鷲。
「ふつーじゃない。ふつーじゃない!」
面白がって、子ども達が囃したてる。雉は
幼い頃に母親に捨てられた鷲は、絵師の養父に拾われるまで、およそ『人間らしい』生活を送っていなかった。その名残なのか、単に面倒臭いだけなのか。彼は今でも、よほどのことがなければ、自ら沐浴しようとしない。
伸び放題の銀髪といい、髭といい、格好に頓着しない男なのだが……ここまで言われると気になったらしく、己の服のにおいを嗅いでみた。
子ども達が、早速、真似をする。メルベが、嫌そうに顔をしかめた。
「臭うか? やっぱり」
「臭うよっ!」
「ほら御覧なさい。本人は慣れているからいいでしょうけど、周りは、たまったもんじゃないわ。ほら、脱いで! 洗うんだからっ。ついでに、身体も洗ってらっしゃい!」
「……ぐすん」
鷲は、子どものように唇を尖らせたが、鳩に睨み返されては、降参するしかなかった。溜め息まじりに上着を脱ぎかけ、最後の抵抗を試みる。
「洗えって……朝っぱらから?」
無言で睨む鳩を見て、雉が助け舟をだした。
「おれが、湯を沸かしてやるよ」
雉は立ち上がり、鷹の手から赤ん坊を抱きとると、まだ不満そうな相棒を見上げた。
「観念しろ、鷲。手伝ってやるから、ついでに、子ども達も洗ってやれ。朝風呂なんて、贅沢極まりないじゃないか。感謝しろよ」
「へいよ」
「本当? お兄ちゃん、沸かしてくれるの?」
子ども達が、歓声をあげる。仙人の微笑を浮かべる雉とは対照的に、鷲は
「ちょっと待て。雉が『お兄ちゃん』で、俺だと『おじちゃん』なわけ? お前ら、ガキのくせに、おべっか使ってんじゃねえよ」
「だって。わしの方が、老けてるもん。なあ!」
「言ったな。こら、待て、メルベ!」
「お兄ちゃん! 逃げないの、ちょっと!」
大喜びで逃げる子ども達を鷲が追いかけ、彼の服を取ろうとしていた鳩が、慌てて後を追った。
一斉に外へと駆けて行く彼等を見送り、雉は、声をあげて笑った。鳩の手からこぼれた洗濯物が、白く点々と野に散らばり、日差しを反射している。
鷹は、溜め息をついた。
「仕様がないんだから、本当に……」
「まあ、いいさ。あいつ等のことは、おれに任せて。鷹ちゃんは、チャパティ(薄焼きパン)を焼いていてくれないか?」
「いいの? 雉さん」
子ども達と、大きな子どものような鷲をまとめて世話するなんて、考えただけで大変そうだ。
雉は、上着の袖をまくりながら、皓い歯を見せて笑った。
「おれと鳩が居れば、大丈夫。隼が帰って来るのに、あいつを汚いままにしておくわけにはいかないからね。着替えを用意してやってくれ。いい運動になりそうだ」
心地よい歌のような口調で言うと、雉は、表へ走り出した。途中で二、三枚の洗濯物を拾い、鳩と子ども達に揉みくちゃにされている鷲のところへ駆けて行く。
鷹は軽く吐息をつくと、熱した鉄板に、生地をひろげ始めた。
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