第三部 白き蓮華の国
第一章 白き蓮華の国
第一章 白き蓮華の国(1)
1
むかしむかし、一匹の狐がいました。
そいつは、まだ子供で……名前も、まだついていなかったんだ。産まれたばっかりでね。よたよたずるずる、家の中を這っていた。
けれど、一日経ち、三日経つうちに、ちゃんと四本の脚で立っていられるようになった。ちょこちょこと、そこらを走り回れるようになった。つっても、親に比べりゃ全然遅かったし、へっぴり腰だったんだけどな。
それでも、自分では、ふさふさの尻尾を生やした、立派な狐だと思っていた。親や兄貴達のように、風のように走れると信じていた。
本当は、やること成すことドジばっかりだった。お前等みたいに。おまけに悪戯好きだった。
近所の人間の家に行って、屋根に吊るしてある洗濯物を引きずり下ろして、泥だらけの足で踏みつけたり。畑に飛び込んでは、せっかく生えた麦を全部倒してしまったり。
だから、ちび狐の家の近くに住んでいる人間は、みんな、ちび狐を憎んでいた。ちび狐の親や兄弟達まで、さんざん悪口を言われていたんだ。
親兄弟にとっては、いい迷惑だったんだが、いかんせん、追い出すわけにもいかない。――おい、チナ。じっとしてろよ。いい子にしていないと、続きを聞かせてやんないぜ。
ええと――ちび狐は、毎日お父さんとお母さんに叱られていた。でも、全然懲りねえんだ。人里に出て行っては、悪戯して帰って来る。ドジなもんだから、村人には、すぐにこいつの仕業だってばれちまうんだ。それで、時々捕まって、棒でぶたれていた。
あんまり小さかったから、村人も、ちび狐を殺すわけにはいかなかったんだ。
家に泣きながら帰っても、兄弟達は冷やかすし、父さん母さんには、こっぴどく叱られる。ちび狐は、面白くなかった。
ある日、父さん達は、ちび狐とその下の一番小さい弟を残して、狩りに出掛けなきゃならなくなった。ちび狐は、一応お兄さんでもあるし、弟のお守りを頼まれた。
不安だったから、父さん母さんは、近所に生えてる木や、住んでいる山にまで、ちび狐を見張っておいてくれるよう、頼んで出掛けた。
あん? 木や山が、話をするのかって? ――そう思うんなら、俺のこんな話なんて聞いていないで、夜、黙って耳をすませてみろ。木や山だって、ちゃんとお喋りしてんだぞ。失礼な……。ただし、俺達みたいな喋り方じゃないけどな。
えーと……どこまで話した?
留守番を頼まれたちび狐は、つまんなかった。ま、『お兄さんなんだから』っつわれて、嫌な気分じゃなかったし。弟のお守り、頑張ってたんだ。でも、なんてったって、弟は、生まれたばかりなんだよ。オシメも換えてやんなきゃならないし――笑うなよ、おい。大変なんだからな。――羊の乳も、やらなきゃならない。放っておけば泣き出すし、ふて寝しようとしても……お前等と、同じだよ。お話だの何だのせがんで、寝かせてくれない。
ちび狐は、うんざりした。終いには、頭に来た。それで、家を飛び出しちまった。
ちび狐だって、ひとのことは言えないんだ。兄弟の中じゃあ、一番の甘えん坊だったんだし、悪戯や人を困らせることにかけては、超一流だったんだから。でも、何でこんなことしなきゃならないんだー、なんて怒っちまって。
ちび狐が飛び出した途端、周りの木々は、捕まえて説教を始めた。頼まれていたからなあ。
『弟はどうした? 放っておいちゃ、駄目だろ』、『どこへ行く気だ? また悪戯をするつもりか』
ちび狐が暴れようが、お構いなし。家の中へ突き返されちまった。
さて、ちびは怒った。ふて腐れた。弟に当たって、わんわん泣かせた。外へ出ちゃいけないなんて、面白くない――。
で。ふと、思いついたんだよ。弟を連れて行けばいいんだって。お守りを頼まれてんだから。
ちび狐は弟を背負って、今度は、にたにた笑いながら外へ出た。木々は驚いたぜ。
『どうしたんだ? 弟は』
『泣いてせがむんだよ。外に連れて行ってくれって』
『ふうん』
木々は疑ったけれど、ちび狐がちゃんと弟の面倒を見ていたもんだから、道を開けた。
ちび狐、しめしめ。内心手を打ちながら――あん? 狐に手があるのかって? 細かいことにうるさい奴だな、お前等は。昔はあったんだよ。――里に下りてった。
さあ、もう、こっちのもんだ。
ちび狐は、また、悪戯を始めた。
弟を背負ったまんま、鶏小屋に飛び込んで、ひよこを追い掛け回した……後で、鶏のお母さんに、追い出されたけどな。畑に出掛けて行って、芋を掘り出したり、皆がいないのをいいことに、家の中に入って壁に落書きしたりした。
その凄いことと言ったら……お前らと、まるで同じだよ。
だけど、そのうち、心配になってきたんだ。
こんな風に遊んでいる内に、父さん達が帰って来たら、どうしよう? 僕が村で悪戯してたなんてバレたら、また、叱られる。どうしよう?
ちび狐は、一所懸命考えた。そして、思いついたんだ。
家の正面に、高い山がそびえていた。あの山に、登ってやろう。あそこなら、父さん達が帰って来るのが見える。あの山のてっぺんから手を振ってやったら。ちゃんと弟のお守りもしていたって知ったら、父さん達、驚くぞ。
よーし! てなわけで、ちび狐は、山を登り始めた。
ところが、この山が、木なんて一本も生えていない、ごつごつした、随分険しい山だったんだ。ちび狐は、切り立った崖みたいなところを、弟を背負って登っていくわけなんだが……その姿は、狐一家の住んでる山から良く見えて、山は気が気じゃあなかった。
『おーい、下りろ。危ないぞ!』
『なあに。大丈夫、大丈夫』
なんて言いながら、ちび狐は、今にも落っこちそうなんだ。山は、はらはらして怒鳴った。
『大丈夫なもんか。戻って来い!』
『大丈夫だってば!』
ちび狐は、どんどん頂上へ近付いて行く。ごつごつした岩の剥き出した、危なっかしい所を。
山は、びくびくして身を震わせ、それで、山に生えていた木々も気がついた。
『おーい、戻って来ーい!』
皆で呼ぶ。ちびは、知らんふりして登り続けた。
『おい、こら! 聞えないのか?』
『そんな所に登ったら、危ないぞ。下りて来い!』
『へへーんだ! もう、登っちゃったもんね。』
ちび狐は、弟を背負って、頂上へ着いちまった。あかんべ、をして、下の山を見下ろした。
『どーだ? お前より高いんだぞ』
『早く降りて来い!』
『へーんだ! 悔しかったら、もっと高くなってみろ!』
ちび狐は得意になって、住んでいた山をからかった。あんまり気持ち良かったから、下りたくなかったんだ。
ところが、これを聴いて、山の怒ったのなんの、悔しがったのなんの。
もともと、向かいの山のことは、気に入らなかったんだ。でも、相手には木も草も生えてなくて、岩と雪しかないのに、こっちには、雪も木も草も、狐の一家まで住んでるって、自分を慰めてたんだ。
だから――あの小僧。心配してやってるのに、よくも! って、カンカンになった。大声で怒鳴った。
『小僧! 戻って来い!!』
……山が、あんまり大きな声を出したもんだから、せっかく積もっていた雪が、雪崩になって落ちちまった。雪崩になって、ちび狐の家も木々も、麓の村も、すっかり綺麗に流しちまった。
幸い村には誰もいなかったから、怪我をした人も死んだ人もいなかったけど。さすがに、ちび狐は慌てて山を下りた。
麓の村は、大騒動。戻ってきた父さん達も、仰天したぜ、これには。
そしてちび狐は、今度こそ、こっぴどく叱られちまった。
それから狐一家は、引っ越さなきゃならなくなった。あんまり山が怒ってたし、人間達も怒ってたから――当然だな。
それでも。ちび狐の悪戯は、ぜんぜん無くならなかった。新しい山に引越してすぐ、近所の村にちょっかいを出し始めた。
ただし、山をからかうことだけは、止めた。
そして、ちび狐は、いつまでもその日のことを忘れなかった。父さん達に叱られたこと、雪崩を起したこと。何より――
ちびは、自分が一人であの険しい山に登り、頂上から麓を見下ろした時のこと。あの、気持ち良かったことを、いつまでも忘れなかった。
**
「いて。この、蹴とばしやがった……」
夜更け。マナと
獣脂の灯がひとつだけ点された薄暗い部屋の中。羊毛の絨毯に寝そべり、子ども達に囲まれていた
めいめい気楽な格好で寝ついた子ども達の手や足が、毛布からはみ出しているのを、包み直してやりながら……鷲は、頬杖をついた姿勢で二人を見上げた。
「どうやら、寝ついたぜ」
鷲は、子ども達を起してしまわぬよう、そっと部屋を出た。片方の肩を叩きながら、鷹に片目を閉じて見せる。
マナは静かに扉を閉めると、彼が自分で自分の肩を揉んでいるのをみて、くすりと哂った。
「ごくろうさま、鷲。腕枕でもしていたの?」
「ああ。チナと、メルベの二人に。参ったぜ……あいつら、俺になら、何をしても壊れないと思っているらしい。よじ登るわ蹴とばすわ……。疲れた」
鷲はうんざり顔だったが、マナと鷹は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
チナは、マナの孫で、今年三つになる。メルベは、この〈
農繁期で忙しい村人や、《星の子》に会いに来た巡礼者から、彼等は、一時的に子ども達の世話を頼まれていた。
ちょっとそこらに居ないくらい大柄で、顎全体を覆うもしゃもしゃの髭を生やした鷲は、一番、子ども達に懐かれている。『ひげのおじちゃん』(おにーさんと呼べ! と、鷲は主張したのだが、彼等には通用しなかった。)と呼ばれて、朝から晩までつき纏われるので、彼は、うんざりしているように見せかけていたが……。
毎晩、仔狐の話を即興で作って聞かせている様子は、結構楽しんでいるように、鷹たちには見えた。
「明日も、お願いね」
そうマナが言うと、鷲はしかめ面をしたが、今ひとつ、説得力に欠けていた。
マナに挨拶をして寝室に入り、鷹と二人きりになっても、鷲の当惑しているような照れたような表情は変わらなかったので、鷹は、くすくす笑った。
「今日も、ちび狐のお話?」
「ああ。今日は、山登り」
鷲は、溜め息混じりに両手を挙げると、一つにまとめていた髪を解いた。腰を覆うほどもある豊かな銀灰色の髪が、肩から背中へと広がる。
寝台に腰を下ろして靴紐をとく彼の隣に、鷹は座った。
「いい加減、ネタに困らない?」
「困ってるよ。もう、尽きた。まさか、ガキを相手に、下ネタを話すわけにもいかねえからなあ」
「莫迦」
鷹が
「だいたい、何であいつら、俺にくっつきたがるんだ?
「やっぱり、大きさの問題じゃないかしら?」
鷹がこう言うと、鷲は、片方の眉を跳ね上げた。
「おおきさぁ?」
「うん。子どもって、身体の大きな人が好きじゃない。頑丈で、頼りになりそうな人が。くっついていたい、よじ登ってみたいって、思うんでしょう」
「よじ登るって……俺は、山かよ」
ぼやく鷲の表情が優しいことに、鷹は気づいていた。明るい若葉色の瞳が、やわらかく、灯火の光を反射している。
「鷲さん」 声を出さず、息だけで呼ぶと、彼は片手を差し伸べた。温かな腕の中へ、鷹は、そっと抱きすくめられた。
「……子ども、嫌い?」
「不安だな」
彼の胸に片頬を押しあてて囁くと、鷲は、少し哂った。長い指で彼女の髪を弄び、眼を細める。
「俺みたいな野郎が、父親になっていいのか……それが、一番、不安だ。ひとの親なんて器じゃない。けど……」
身を起こす鷹を下から見上げて、鷲は、楽しげに苦笑した。長い指で彼女の頬にかかる髪を掻き上げ、頭を撫でる。低い声は、どこまでも優しかった。
「実は、ガキどもに振り回されるのが、恐いだけかもしれん。ここんとこ、自分が老けたと痛感しているからな、俺は。……子どもが生まれる頃には、二十六か。やっぱり、少し遅いんだろうなあ」
「鷲さん?」
「……動いてんの、判るかな?」
鷲は、鷹をひょいと抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。彼女の腹部に、片方の耳を押し当てる。
鷹は、思わず笑った。
「無理よ。六ヶ月くらいにならなきゃ駄目だって、ルツさんが言っていたじゃない」
「そっか。まだ、掌くらいだって言ってたもんな。動くどころじゃねえか。……しかし、不思議だよなあ。外からじゃ、まるで判んねえのに。ちゃんと、この中で育ってんだよな」
「……鷲さん」
「無事に出て来いよ、おい」
鷲はそのまま、小声で呼びかけた。眼を閉じ、歌うように。
彼女の腰をしっかりと抱きかかえる彼の耳に、鷹は、そっと囁いた。
「鷲さん」
「鷹も……どうか、無事に。俺は、亡くしたから、一度……。だから、お前達は」
「うん」
膝に顔を埋めて言う彼の頭を、鷹は撫でた。子どものように邪気のない横顔を見詰め、頬にかかる髪を掻き上げていると、彼は哂った。
いつか鷲は、そのまま眠り込んでいた。
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