幕間 火の祭祀(3)


            3


 トグルは、いったん、放牧している自分の羊と馬の様子を観に行き、冬の日は短いため、暗くなる前に戻って来た。久しぶりに馬たちの様子を観られて、安堵したらしい。シルカス族長もオルクト氏族長も、彼のそういう行動に疑問を挟まないところは、やはり遊牧民なのだな、と隼は思った。

 トグルは、祭祀に用いる羊をえらび、ユルテ(移動式住居)の外で、屠殺する作業を始めた。羊を殺すのは男の仕事で、女性は手を触れてはいけないのだという。タオは、お茶と焼酎アルヒ、移動用の簡易炉などを用意した。

 隼は、シルカス族長の傍らにいて、彼等の作業を眺めていた。

 アラル将軍に羊の脚を押さえてもらい、トグルは、その腹を少し裂いて手を入れ、血を一滴も流さずに殺した。胸の肉を少し切り取り、紐を付けて炉の中にくべる。さらに牛酪バター、干しなつめ、黒砂糖や胡麻飴などを入れて、あとの肉は料理へまわした。


 アラルやオルクト氏族長と彼らの言葉で会話する、トグルの表情は和らいでいた。戦場にいるときや、キイ帝国の使者と交渉しているときの硬い無表情を見慣れていた隼は、安堵した。――彼が、真に気の置けない人々の間に戻って来たのだと解る。

 シルカス族長も似たことを考えたのかもしれない。手もち無沙汰でいる彼女に、そっと教えた。


「……火の女神は、聖なる天神ホルムスタ・テングリの娘なんだ」


 寝台に痩せた身を横たえた彼は、血の気のうすい瞼を伏せた。


「地上の貧しい男に恋をしたために、天上界を追放されてしまった。毎年、七日間だけ帰ることを許された女神を、天上へ送るのが、火の祭祀ガリーン・タヒルガなんだよ」

「ふうん」

「女神の留守中は、餓鬼ジル跋扈ばっこするから、気をつけないとね……。紅い物を身に着けるといいと言うよ」


 そう説明してから、面白いことを思いついたように微笑んだ。


「あなたには、不要かもしれないね。ディオにとっては、あなたこそ女神、だろうから」

「……え?」


 すぐには言われた意味が分からなかった隼だが、ひと呼吸の後、顔から火の出るような思いを味わった。シルカス族長は、掠れた声で笑った。


「ごめん……。驚いているんだ。あいつが、まさか本当に、女性を連れて帰るなんて」


 隼は、両手で顔を覆った。驚きと恥ずかしさで、声が出せない。鼓動が耳に響き、頭が心臓になったように感じた。背筋が熱で融けそうだ……。

 シルカス族長は、せてこほこほ咳をした。心配する隼に、わずかに首を振ってみせ、


「大丈夫……。あいつは、育ちが特殊だから、誰にも想いを懸けられないんじゃないかと、父親を心配させていた。――いい報告が出来そうだよ」


 トグルとタオの父は、十年前に亡くなっている。報告は彼自身の死後のことだと察し、隼は、表情を引き締めた。


 トグルが、アラルとオルクト氏族長とともに、ユルテの中へ入って来た。黄金の鹿の紋様で飾られた角杯を手にしている。小さく咳をしている親友と、まだ頬のあかい隼をみて、かるく眉をひそめた。


「どうした。……大丈夫か?」

「ああ。始めるかい?」


 答えられない隼の代わりに、シルカス族長が訊いた。トグルは頷き、ユルテの中心に立った。

 タオが、小声で注意を促す。


「ハヤブサ殿、もう少し、下がった方がよい。気をつけて……」


 隼が観ると、シルカス族長は寝返りはうてないが、顔をトグルの方へ向け、その上の天窓を仰いでいた。


 トグルは、炉の正面に立つと、静かに息を吸い込んだ。それから、立ったまま、炉の中へ角杯の焼酎アルヒを注ぐ。

 金の火焔がゴウッと音をたてて伸びあがり、彼の手を焼く勢いで、天窓へと昇った。オルクト氏族長が、ひゅうと声をあげる。炎は、一同の瞳を照らし、血のような紅から紫、橙色へと輝かせた。

 トグルは、立ち昇る炎に向かって、祝詞ユルールうたった。



    高き蒼天が宮殿であった太古のときから

    母なる大地が踵ほどであったときから

    生まれ授かった火の母に

    乾酪ホロート(チーズ)と牛酪マルス(バター)を捧げん

    馬乳とアルヒを注がん

    向上する大いなる福のなかで

    平安にあれかし



 いつもは独り言のようにぼそぼそと喋るトグルが、凛と声を張りあげて詠唱すると、迫力があった。

 タオとオルクト氏族長、アラル将軍が、彼の後について唱和する。



    湖いっぱいに立つ馬群を授けたまえ

    峠いっぱいに草食む羊を授けたまえ

    人の先頭に数えられる子を授けたまえ


    天の馬を呼び覚まし

    わが土地は緑になり

    わが水は湧き上がり

    我等のよき福が栄えることを

    祈って祝詞ユルールを捧がん

    平安にあれかし


    …………



 トグルは、交易語を交えて、二度詠唱した。隼にも内容を理解できるよう、配慮したのだ。隼は、シルカス族長も小声で唱和しているのを聴き取った。

 トグルは、ひととおり詠い終えると、角杯に残っていた酒を、再び炉に注いだ。紅色の火焔が派手に輝き、黄金の光の粉を撒き散らしながら天窓へと昇るさまは、真に火の女神が天へと帰っていく姿のようだった。

 炎が小さくなるのを見計らい、トグルは妹を呼んだ。


「タオ」


 タオは、木の棒に酒を染ませた布を巻きつけたものを持ち出すと、炉の中へ挿し入れ、残っていた火をすばやく掬い取った。大急ぎでユルテを出て、外に用意していた簡易炉のなかへ移す。オルクト氏族長が、彼女のために扉を開けておかなければならなかった。

 トグルは、戸外の炉に無事に火種が移ったことを確かめると、元の炉に蓋をして、火を消した。ほっとした空気が、ユルテ内に漂う。


 隼は、首を傾げて問うた。

「これで終わりか?」


 トグルは頷き、角杯をアラル将軍に手渡しながら付け加えた。


「これから、閉ざされた日ビトゥニ・ウドルまで、この炉は使えない……。お前たちは、料理でも食べていてくれ。俺は、トゥグス(オルクト氏族長)とともにユルテを巡って来る」


 アラルが、新しい酒を角杯に入れて、次の詠唱に備える。氏族のユルテを一軒ずつ巡るのだと聞かされ、隼はぎょっとした。

 タオが緩やかに笑って補足した。


「まさか、全てではないぞ、ハヤブサ殿。自由民アラドの代表者のユルテだ」

「そうか……そうだよな」


 シルカス族長が、満足げに囁いた。


「いい祝詞ユルールだったよ、ありがとう」


 トグルは外套を羽織り、毛皮の帽子をかぶりながら、親友をみおろした。


「もうしばらく、起きていられるか? 帰ったら、飲みたい」

ああラー、おれも……。待っている」


 シルカス族長が答えると、トグルは改めて、遠慮なく友を抱きしめた。名残惜し気に身を離すと、アラル将軍から角杯を受け取り、オルクト氏族長を促して出かける。ユルテを出ていく間際、寝台の傍らに坐っている隼を見遣ったが、特に声はかけなかった。

 アラル将軍は、あるじと隼に丁寧に一礼して、二人の後に従った。


 タオは、戸口に設置した簡易炉で、羊肉を煮込んでいる。我知らず嘆息した隼をみて、シルカス族長は囁いた。


「……ごめんよ。おれの、我が儘の所為で」

「いや。あたしも……楽しかったから」


 答えてから、これではまるで、あいつと一緒に居たかったと白状しているようなものだと気づき、隼は絶句した。もう迂闊に話せない、と思う。――そんな彼女の心情を全て承知しているかのように、青年は微笑んだ。


「優しい男、でしょう? あなたは、解っていると思う……。おれには、いい奴、なんだ」


 シルカス族長は、小声で、苦し気に息を継いで喋った。隼は、息をひそめた。

 彼は、溜息をついて呼吸を整えた。


「おれは、こんなだから……。来年は、会えないかもしれない」

「…………」

「あなたに、会えて良かった。ディオを頼みます、ハヤブサ殿」


 隼は、黙っていた。こんな時、何と答えればよいか解らない。おそらく、言葉による返事など要らないのだろうと思い、ただ一度、頷いた。

 シルカス族長は眼を閉じ、ほっと息をいた。


 タオが、料理を入れた器を手に、得意げに声をかけてきた。


「出来たぞ、ハヤブサ殿。シルカスの兄上、召しあがるか?」


 族長は面をあげ、柔らかく微笑んだ。


「おれは、麦粉粥バンタンにしてくれた方が嬉しいな、タオ」

承知したラー。待っていて下され」


 出来上がった料理を並べ、うきうきとハレの食卓を整える、タオ。隼は、彼女を手伝いながら、先刻 皆でうたった祝詞ユルールを思い出していた。



    湖いっぱいに立つ馬群を授けたまえ

    峠いっぱいに草食む羊を授けたまえ

    …………


   

 トグルは確かに、そう詠唱していた。

 『平安にあれかし』 と――。





~幕間「火の祭祀」、了~

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