幕間 火の祭祀(2)


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 寝台に横たわるシルカス・ジョク・ビルゲ以外の者は、ユルテ(移動式住居)のなかで円座に坐り、遅くなった朝食を摂った。トグルは寝台の枕許から離れず、ふだん家の主人あるじが坐る場所には、オルクト氏族長が腰を下ろした。

 隼は、トグルの隣にいた。

 ――思いがけず会えたのは嬉しいが、トグルが大量の仕事を放り出して帰って来たのは、それだけ親友に会いたかったからだろう。積もる話があるのでは……と思う。

 シルカス族長は、友人をからかうネタを得て上機嫌だが、トグルは彼の体調が気になるらしい。やや厳しく言った。


「去年は、肺炎だったな」

「そうだっけ?」

「夏には、熱を出して、夏祭りナーダムに参加できなかった」

「ああ。去年は、そうだったね」

「最近、多くはないか」


 トグルの愁眉はひらかない。寝たきりの盟友がこほこほ咳をするさまを、不安げに眺めた。


「熱が出る度に、回復に時間がかかるのだろう。お前は――」

「気をつけるよ」


 他人事のようにさらりと言う主人の傍らで、アラル将軍がひたすら恐縮しているのが印象的だった。タオが水汲み用の桶を手に立ち上がったので、隼は身を起こした。


「あたし、手伝ってくるよ」


 トグルは彼女を見遣ったが、引きとめようとはしなかった。女達が並んで外へ行くのを見送り、シルカス族長は、ふと息をいた。


「……ハル・クアラ部族との連携は、上手くいきそうか?」


 話題が政治に替わった。トグルはオルクト氏族長に視線をむけ、オルクト氏族長は、ふさふさの濃い口髭を揺らして答えた。


「トゥードゥ(キイ帝国の城塞都市)の襲撃では、上手くいったと考えている。勝ち過ぎず、敗け過ぎず。得るものを得て、退却時の損害はない。――双方、満足できたのではないか」

「上々だな。キイ帝国の情勢はどうだ?」


 シルカス族長は、半ば眼を閉じて訊ねる。自力で起き上がれず、食事を口へ運ぶこともなくなった友が、その頭脳に世界を収めていると知るトグルは、真摯に答えた。


「リー女将軍は、ハン将軍と手を結んだ。しばらく、こちらに仕掛けて来ることはなかろう。帝をオン大公から取り戻す方が先決だ」

「幼帝が、自ら政務を行えるようになるまでは、だな」

しかり」

「ディオ」

「ん?」

「タァハル(部族)が、来るぞ」


 単調な小声は変わらなかったが、オルクト氏族長とアラル将軍は、頬をひきしめた。トグルは、乳茶スーチーをゆっくり飲んで肯いた。


「……だろうな」

「二将軍にそむかれたオン大公には、打つがない。タァハル(部族)におれたちを襲撃させ、北から挟撃させようとするだろう……。ニーナイ国やナカツイ王国が絡んでくると、厄介だぞ」

「相変わらず、嫌な予想をしてくれるな」


 トグルはフッと嗤った。


「〈黒の山カラ・ケルカン〉に近いナカツイ王国は動かぬだろうが、タァハル部族が動けば、ニーナイ国は絡んでくるだろう。……あの国に、兵を向けたくはない」


 タオと共にちょうど戻って来た隼は、ニーナイ国の名を耳にして、動作を止めた。トグルは彼女の反応に気づいたが、表情は変えなかった。

 オルクト氏族長の方が、隼を意識して訊ねた。


「《星の子》と天人テングリが、関わるからか?」

「それもある……。後味が悪いのだ」


 トグルの滑らかな声が、わずかに濁る。隼が観ると、彼はお茶を口に運びながら、苦々しく唇を歪めていた。


「オン・デリク(大公)とミナスティア王家が、裏で糸を引いていた。初めはタァハル(部族)に、次は俺達に……。《星の子》の介入があったとは言え、リー・ディア(将軍)を陥れるために利用されたのは、気にわん。オン・デリク(大公)はらしたが、ミナスティア(王家)には手が出せぬ。……こそこそと、何を企んでいるのか」


 オルクト氏族長とアラル将軍は、顔を見合わせた。

 隼は、トグルのために乳茶スーチーを淹れなおし、精悍な横顔を観た。無表情のおもての裏でそんなことを考えていたのか、と思う。


 半年前、トグルは一万の軍勢を率い、ニーナイ国を攻めた。ミナスティア王国と盟約を結んでいたキイ帝国のオン大公は、これを敢えて黙認し、漁夫の利を得ようとした。ニーナイ国の少年を連れた隼たちと〈黒の山カーラ〉の《星の子》が、キイ帝国のリー将軍を動かし、彼等の侵攻を阻止したのだ。

 ミナスティア王国は、草原からはタサムとエルゾの二山脈を越え、ニーナイ国を含む広大なタール砂漠を越え、さらに南へ行ったところにある。隼も立ち寄ったことのない、遠い国だ。

 シルカス族長が、切り出した。


「その、ミナスティア王国だが……王がたおれたぞ」

「何?」


 トグルは、強く眉根を寄せた。寝たきりの青年は、澄んだ黒曜石の瞳で、彼を見た。


「永く内乱状態だったが、王は亡命できずにたおれたらしい。キイ帝国、ナカツイ王国からの支援はなかった。次の王が定まるまで……定まらずとも、まつりごとが落ち着くまでは、しばらくかかるだろう」

「……ハヤブサ」


 遠慮しようと下がりかけた隼を、トグルは呼びとめた。シルカス族長も、彼女に視線を向ける。

 トグルは、乾いた口調で告げた。


「聴いて行け。お前達に、かかわりのある話だ」

「え……?」


 隼は意外に思ったが、トグルが微かに頷いたので、坐り直した。トグルとオルクト氏族長の間、シルカス族長の声が届く距離だ。

 アラル将軍が立ち上がり、入り口付近にいた従者たちを下がらせる。にわかに密議の雰囲気が高まり、隼は少なからず緊張した。

 トグルは、無表情のまま瞼を伏せ、低い声で語り始めた。


「……いにしえの契約に従い、俺達は、エルゾ=タハト山脈より南へは行けない。人だけではなく、馬も、羊も……そういうことになっている。だが、かつて契約に背き、南に残った氏族がいた。俺たちと同じ血をひく――連中は、ミナスティアを支配した」


 トグルは、新緑色の眸で隼をみて、彼女が話を理解していることを確認した。


「ミナスティアの王族は、黒目黒髪だった。……五百年前の話だ。今は、どうだか知らぬぞ」


 ふうと息を吐き、トグルは、節のめだつ長い指で、己の眼をおさえる仕草をした。


「俺とタオでさえ、こうだ……。〈新しき民〉との混血をすすめた者たちが、かつての容貌すがたを留めているか、否か」


 大陸に住む民のなかで、〈草原の民〉は、黒目黒髪をもっている。隼の知る限り、《星の子》とマナとその子ども達、たかと、とびはと姉妹のほかは、蒼眼紅毛だ。南方へ行くほど、肌は褐色をおびる。トグルとタオの碧眼は、〈草原の民〉が変容しつつあることを示していた。

 シルカス族長が、説明を引き継いだ。


「ミナスティア王国は、キイ帝国と手を結びたがっていた。キイ帝国のオン大公は、一族の公女むすめを、皇家や、他国の王族に嫁がせて権力を拡げるのが常套だ。タァハル部族へは、既に嫁がせている。――ディオこいつにも公女を押し付けようとしたのは、ご存知でしょう」

「……俺たち〈草原の民〉は、から来た女を大事にする」


 トグルは、苦笑まじりに呟いた。煙管キセルを咥え、火を点ける。


「女が減っている所為もあるが……。伝統的に、部族の盟主の姻族は、巨きな権力をもつ。タァハル部族は、昔から、大公の言いなりに等しい」


 トグルは、ちらと隼を見て口を閉じた。シルカス族長が、またあとを続けた。


「キイ帝国の支援を受けたいミナスティア王家が、一族の王女むすめを皇帝に嫁がせようとしたら、オン大公は、どう出ただろう。王女と公女では、身分が異なる。己の基盤たる外戚の地位を脅かす者を、歓迎はせぬだろう」

「…………!」


 ここまで聴いて、隼は、ようやく、二人が誰の話をしているのか理解した。何を説明しているのか――。

 トグルは、彼女の顔色が変わったことに気づき、そっと囁いた。


「伝聞と、憶測にすぎぬ……。ハヤブサ。そうと決まったわけではないぞ」

「ああ、わかるよ。でも、もし、」


『もし、たかが……!』 剣呑な空想が脳裡をめぐり、隼は蒼ざめた。

 トグルは、煙草の煙をほそく吐いた。


「どうせ、キイ帝国では、俺の所為にされている」

「そうなのか?」


 隼が問うと、オルクト氏族長が、くつくつと笑いだした。トグルは、冗談事ではないと言いたげに呻いた。


「濡れ衣だ……。俺は知らぬぞ」

「ああいや、そういう意味じゃない。ごめん」


 シルカス族長は、愉快気に瞳を煌めかせた。


「おれたちは、《狼》ですからね……かの国人にとって。人ではなく、家畜の糞を追って徘徊する、卑しい黒狗くろいぬなわけです。何でもやってのけると考えている」

「真偽は判らぬ」


 トグルは真顔に戻り、厳粛に結論を下した。


「噂だけだ。ナカツイ王国へ行って調べられれば良いのだが……。俺達は、〈黒の山カラ・ケルカン〉より南へは行けぬ」

「ナカツイ王国、だな」


 隼は、独り言ちた。トグルは、横目で彼女をみた。

 ナカツイ王国は、きじの故郷だ。仲間と過ごしたことがある。エツイン=ゴルという商人の知り合いもいる。――などと考え始める隼を、トグルは窘めた。


「もう少し、調べさせよう。今の時期に、天山テンシャンの峠を越えるのは無理だ。雪が融けるまで待て」

「ああ、そうだな」


 隼は頷き、シルカス族長を顧みた。今はもう、彼がこの話を報せに来てくれたのだと、疑う余地はない。


「ありがとう。仲間のことで、面倒をかける」


 シルカス族の賢者は、眩しげに眼を細めて頷いた。

 オルクト氏族長が、自身の太い膝を叩き、声をかけた。


「用件は終わった。せっかくシルカス公が来てくれたのだ、火の祭祀ガリーン・タヒルガを始めぬか? ディオ。」

「……待て。今、ここでか?」


 親友と隼のやりとりを穏やかに眺めていたトグルは、煙管を手に瞬きを繰り返した。凱旋してはじめて自分のユルテに戻ったのに、寛ぐ暇もないと言いたげだ。

 オルクト氏族長は、鷹揚に笑った。


「嫌か? 羊肉の塩煮ブヘル・ホニなら、儂が作ってやるぞ。お前とて、ジョク(シルカス族長)とハヤブサ殿と一緒に居たいだろう。それとも、天幕に戻って長老たちジジイども皺面しわづらに囲まれたいか?」

「トゥグス……」


 トグルは眼を閉じ、困惑している時のいつもの癖で、額にかかる前髪を掻き上げた。それで隼にも、彼等がシルカス族長を歓待する口実で、長老会を抜け出して来たのだと判った。戦場にいるより、本営オルドウの草原にいるときの方が、トグルは忙しい。

 シルカス族長は、やわらかく微笑んだ。


閉ざされた日ビトゥニ・ウドル(注*)まで滞在するつもりで、アラルにユルテ(移動式住居)を持たせて来たから、邪魔はしないよ。……おれも、お前の祝詞ユルールを聴きたいな。ディオ」


 この一言で、全ては決まった。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注*)「閉ざされた日」: 「白い月」は旧正月、「閉ざされた日」は大晦日を示します。モンゴルで旧正月を祝うようになったのは、中国の影響です。本作では、遊牧民古来のシャーマニズムに基づく「火の祭祀」を脚色して扱っています。


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