幕間 Ⅰ「火の祭祀」

幕間 火の祭祀(1)


            1


 カンコンと煙突を叩いて煤を落とす音で、隼は目覚めた。

 まだ夜は明けきっていない。ユルテ(移動式住居)の真ん中に立つタオを、天窓から射しこむ蒼白い光が照らしていた。うすい綿の衣の上に羊の毛皮をかぶって寝ていた隼は、片目を開けて彼女をみた。


「目が覚めたか、ハヤブサ殿。待っていてくれ、すぐお茶を淹れる」


 そう言って、タオは桶を片手に行こうとする。隼は、身を起こし、欠伸をかみ殺した。


「あたしも行くよ」


 季節を問わず、水汲みは草原の女の大切な仕事だ。特に冬は、家畜を放し飼いに出来ないので、井戸と家畜小屋ウルジュの間を一日に何往復もしなければならない。

 隼が、寝ぐせのついた髪をそのままに、長衣デールを羽織り、革靴グトゥルを履くさまを見て、タオは笑った。


「ゆっくりしていて下され。手は足りている」

「やりたいんだよ……」


『もう、客人ジュチじゃないんだから』 そう続けたかったが、気恥ずかしくて黙った。隼は、無造作に腕を伸ばして手桶を受け取ると、毛皮の帽子をかぶった。


「……うう。寒い」


 扉を開けた途端、叩きつけてくる寒風に、隼は震えあがった。呼吸をするだけで、口の中が凍りそうだ。思わず唸ると、彼女の寒がりを知っているタオは、また笑った。


「だから言ったのに。寝ていて下さればよいのだぞ」

「いや、行く」


 隼は、外套の襟を合わせ、帽子をかぶり直すと、ぎくしゃくと足を踏み出した。夜明け前の藍色の空の下、白く凍てつく大地を踏み、井戸を目指す。囲いのなかから、羊と馬たちの鳴き声が聞こえた。



 隼とタオが、キイ帝国との国境から軍を退き、アルタイ山脈西の冬営地オウルジョフへ戻って、十日が経つ。

 隼は知らなかったのだが――〈草原の民〉が行う遊牧とは、家畜を連れて勝手気ままに放浪するのではなく、季節に応じて、計画的に移動をくりかえす牧畜のことだ。部族ごとに、根拠となる(縄張りの)草原は決まっている。そのなかでも、夏は夏の、冬は冬の場所があった。

 一年かけてよく乾燥させた羊の糞ホロゴルを、秋のうちに敷き詰めて、ユルテを建てる場所を用意する。小さなホロゴルは隙間に空気を含むので、絨毯を重ねると暖かいのだ。ユルテを覆う布デーブルも、冬は二重になっている。

 家畜小屋ウルジュは、石を積んだ壁と木枠で円形につくり、北側半分に木製の屋根をかぶせておく。この屋根の下に、さらに小さな囲いを作り、予定より早く産まれた仔羊を入れていた。

 出征していたタオとトグルの家畜たちは、留守中、自由民アラドの家族が世話をしてくれていた。戻ると、すぐに牧民としての生活に戻る。早朝の水汲みに始まり、家畜の世話や干し肉ボルツ作り、刺繍など、タオは実によく働くと、隼は感心していた。


 ユルテの屋根にも草原にも、うすく雪が積もっていた。新鮮な朝の日差しを浴びて、氷の粒がきらきら輝いている。

 井戸へいく途中に、トグルのユルテが建っている。オルクト氏族長とアラル将軍ミンガンとともに前線にいたトグルは、三日前に戻って来たはずだが、ユルテからのぞく煙突から煙は出ていなかった。政務を行う天幕から、帰っていないのだ。

 秘かに彼の身を案じている隼と違い、タオは、平然としていた。


「族長とは、窮屈なものだ。いくさに勝てば勝ったで、敗ければ敗けたで、長老達に絞られる。なに、トゥグス兄者(オルクト氏族長)がついている。どうせ、毎晩飲んでいるのだろう」

「……そうなのか」

火の祭祀ガリーン・タヒルガには戻るゆえ、大丈夫」


 曖昧に相槌をうつ隼に、タオはにっこりと微笑んだ。羊たちに水を与え、岩塩を舐めさせながら、


白い月ツァガーン・サルの前に、火の女神に祈りを捧げる儀式だ。氏族長たちは、祝詞ユルールを詠唱してユルテをめぐる。客人もやって来る。楽しみにしておられよ」


 知らないことが沢山ある。隼は自信なく頷き、トグルに言われたことを思い出した。



 カザ砦で仲間たちと別れ、トグルについて行った隼は、タオの率いる軍と合流した途端、彼に指示された。

「ここからは、個人の武は意味を成さない。お前は、タオと共にいてくれ」と――。

 オルクト氏族長の率いる重騎兵と、ハル・クアラ部族とともに軍を指揮する盟主としては、当然の対応だった。タオは驚喜して迎えてくれたが……以来、隼は、彼とろくに会っていない。話が出来ない。

『トグルは忙しいんだ。仕方ない……』判っていたはずだが、悩んでいた分、拍子抜けした。

 前向きに考えよう。折角タオといるのだから、いろいろ教えてもらおう――そう彼女が気を取り直した矢先だった。


「ハヤブサ殿!」


 タオの悲鳴及ばず。後ろから突進してきた羊に膝裏を押され、隼はよろめいた。狭い柵のなかで押し合いへし合いしている羊たちの間に、倒れ込む。もこもこの毛と蹄と角にもみくちゃにされる彼女の腕を、タオが引っ張った。


「大丈夫か? ああだから、待っていて下されと」


『これは、前途多難だ……』 柵の上によじ登ってから、帽子を落としたことに気づき、隼はがっかりした。乗馬はなんとかなったが、羊や山羊の扱いには慣れていない。家事を含め、〈草原の民〉の暮らしを習得するのに、いったいどれほど時間がかかるだろう。

 タオは、羊たちに踏みつけられていた隼の帽子を拾い、土や糞を払って形を整えた。しょんぼりしている彼女を、何と言って励まそうかと考える。


 聞きなれない馬の声がした。

 タオと隼は、同時に振り返り、家畜小屋ウルジュの傍らに佇む人馬をみた。四、五人の男達が、替え馬を従え、それぞれ騎乗している。毛長牛ヤクが二頭いるのが目を惹いた。

 先頭の男が馬から降り、帽子を脱いだ。


「タオ殿、ハヤブサ殿」


 長身のシルカス族の男は、深い瞳で彼女たちを見詰め、一礼した。

 タオは柵から出て、隼に帽子を手渡した。気安く声をかける。


「アラル将軍ミンガン、センバイノー(こんにちは)。兄上に、会いに来られたのか?」

御意ラー盟主トグルはお留守デスか?」


 タオは、隼にも理解できるよう、交易語で話した。それに合わせるアラルの口調には、軽い訛がある。軽騎兵の軍団を率いる勇猛な将軍だが、トグル同様、ふるまいは穏やかだ。隼は、彼の声を初めて聴いたように思った。

 それに――隼は、毛長牛ヤクが気になった。

 アラルの連れた牛の一方の背には、大きな籠のような物が括りつけられていた。一見しただけでは、構造が分からない。毛織の絨毯や羊の毛皮で厳重に包まれた奥から、一対の眸がこちらを窺っていた。

『子ども?』 隼は、訝しんだ。〈草原の民〉は、女性も子どもも、器用に馬を乗りこなす。固定されているのは珍しい。姿が見えないだけではない、こんなにぐるぐる巻かれては、身動きがとれないだろう。

 年齢も性別も判らない黒い瞳は、まっすぐ隼を観ていた。怜悧な輝きは、磨いた黒曜石のようだ。

 タオが、息を呑んだ。声をひそめる。


「兄上……」


『え?』 と、隼は彼女を振り向いた。タオが兄上と呼ぶのは、トグルしかいない。しかし、これは――。

 意外なだけではなかった。タオは、今にも泣き出しそうだった。いそいそと毛長牛に歩み寄り、話かける。


「兄上は、天幕から戻って来ていない。ユルテで待っていて下され。すぐにお茶を淹れる。……ハヤブサ殿」


 今度の『兄上』は、トグルを指しているのだろう。隼は、タオについて行きながら、男達を眺めた。アラルは部下とともに、丁寧にお辞儀をした。

 毛長牛ヤクに乗せられた人物の眼は、わらっているようだった。



 主人あるじが留守のユルテ(移動式住居)の扉を開けると、タオは炉に火をおこし、早速お茶を沸かしはじめた。使われた形跡のないトグルの寝台をととのえ、居心地よく枕を配す。隼になかへ入るよう促すと、自分は客人のために扉をおさえた。

 アラル将軍たちは、ユルテの傍らに馬を繋ぎ、毛長牛ヤクの背の荷をとく作業を開始した。

『やはり、籠だ』 と隼は思った。柔らかな柳の枝を編んで作られた籠は、中に身体を伸ばして入れられるようになっている。

 アラル将軍は、人を入れた籠を丁重に抱え、ユルテの中へ運んで来た。寝台に載せると、ちょうど脚を伸ばして坐る姿勢になる。タオがすかさず、彼の背と肩に枕をあてがった。アラルが恭しい仕草で籠と毛布を取り去ると、〈草原の民〉には珍しく切りそろえられた黒髪が、肩にこぼれた。

 黒々と澄んだ瞳が、隼を見上げた。


 失礼な話だ――隼は眼をみはり、内心、己を叱責した。ぞっとするほど痩せていると思うなんて……。しかし、頬はこけ、首も、鮮やかな藍の長衣デールにしずむ手足も、骨と皮という表現が似つかわしい。不用意に触れたら、ぽきりと折れそうだ。窪んだ眼窩の中で、黒い瞳が異様に大きく輝いてみえた。

 タオはその手に触れ、涙ぐんで言った。


「シルカスの兄上、よく来て下さった。身体の具合はよろしいのか?」

「ユムグエー(大丈夫)。お前も、元気そうだな、タオ」


 彼は、低く囁いた。とがった喉仏が上下し、隼は、彼がたしかに男性だと理解した。兄と呼ぶからには、タオより年上なのだろう……とてもそうは見えないが。

 タオは、立ち尽くしている隼に微笑を向けた。


「紹介する、ハヤブサ殿。シルカス族の族長、シルカス・ジョク・ビルゲだ(注1)。……兄上、こちらは、ハヤブサ殿という」

「寝たままで失礼する、天人テングリ


 彼は、小声だが、明瞭な交易語で言った。


「大きな声が出せないのだ。すぐ、疲れてしまう」

「ああ、いや。すまない……」


 何を謝っているのか。隼は自分がよく分からなかったが、シルカス族長の方は、こんな反応に慣れているのだろう、くるりと悪戯っぽく瞳を動かした。


「驚いた。本当に、天人テングリだ」

「…………」

「あなた、独りか? 仲間は? 何処かに、あなたのような人の棲む国があるのか」

「あたしは――」


 邪気のない質問に答えようとした隼は、シルカス族長がきこんだので、口を閉じた。アラル将軍が、すばやく腕を差し伸べる。痩せた肩を揺らしてせる主人を抱きおこし、背をさすった。

 タオが、急いで陶製の器に乳茶スーチーを入れ、アラルに手渡す。アラルは、お茶がじゅうぶん冷めていることを確認すると、氏族長の頭を支え、唇に器の縁をおしあてた。

『自力で飲むことも出来ないのか……』

 隼は、タオとアラルが寝台の傍らに控えているのは、ただ彼を手助けする為なのだと気づいた。こんな風に衰弱した人間に、心当たりがある。――亡くなる前の父を思い出し、血の気がひいた。


「ハヤブサ殿」


 タオが、座るよう促す。構わずに、隼は訊ねた。


やまいなのか?」


 ひとくちふたくち乳茶を飲んで落ち着いたシルカス族長は、冴えた眼差しを彼女にあてた。隼は眉根を寄せ、アラルに言った。


「《星の子》を連れて来た方が良かったか。雉を……。あたしでは、治せない」

「ああ。違うよ」


 アラルより先に、シルカス族長が答えた。再び寝台に身を横たえ、穏やかに微笑む。


「これは生まれつき、なんだ。〈黒の山カラ・ケルカン〉の巫女には、治せない。天人テングリも、そうだろう。無理は言わないから、安心して」

「……生まれつき?」

「おれのことより、あなたのことを教えて欲しいな。何処から来たの? いつ、ディオ(トグルの本名)と知り合ったの。あいつは気難しいと思うけど――」


『そんなことがあるのか?』 隼は困惑してアラルを見遣ったが、彼は面を伏せている。タオも、氏族長の様子に集中している。周囲の者に比べ、本人は飄々として、好奇心に眸を煌めかせていた。

 と、

「ジョク!」


 ユルテの扉が開き、懐かしい声が飛び込んできた。隼は振り返り、ほっと息をついた。トグルだ――。オルクト氏族長の姿もある。

 報せを聞いて帰って来たのだろう。トグルは、自分の留守中に入り込んでいる者達を、ざっと見渡した。

 シルカス族長は、血の気のない頬に微笑を浮かべた。


「おかえり、ディオ」


 トグルは寝台に近づくと、主人あるじのごとく悠然と寛いでいる友を見下ろした。呆れた気配が緑の双眸にひらめいたが、彼は、すぐにそれを消し、痩せた身体を抱きしめた。

 隼は驚いた。トグルは、滅多に感情を露わにする男ではない。それほど大事な相手なのだろうと察し、少し胸がせつなくなった。

 シルカス族長は(腕が上がらないので、抱き返すことが出来ない)、大柄な男が覆いかぶさるのを大人しく受け止めていたが、やがて、そっと窘めた。


「重い、ディオ」

「ジョク……***、*****」

「うん。まだ、地獄エルリックは門を開けてくれないんだ(注2)。もう少し、こっちにいろってさ」

「……来るなら、そう言ってくれ。迎えに行く」


 トグルは〈草原の民〉の言葉で話したが、相手が交易語を使うので、切り替えた。かるく咎める口調で言われたアラル将軍は、恐縮して項垂れた。

 シルカス族長は、ハッと、喘ぐように笑った。


「お前が独身主義を返上しそうだと聴いたから、これは、見物みものだと思って。からかってやろうと」

「ジョク……」


 トグルはちらりと隼を見遣り、返答に困って口ごもった。オルクト氏族長が、笑いながら近づいた。


「どうだ、ジョク。眼福がんぷくであろう?」

ああラー草原イリを探しても、見つからなかったわけだ。生きているうちにお目にかかれて、光栄ですよ。天人テングリ


 そう言って、シルカス族長は、屈託なく哂った。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注1)シルカス・ジョク・ビルゲ: 『ビルゲ』は、『賢者』という意味の尊称。トグルとタオとは父親が従兄弟同士という設定です(鳩子)。外伝『狼の唄の伝説』に、約十年前のジョクが登場しています。当時は自力で坐位姿勢を保ち、食事もできました。努力をすれば、立って歩くことも出来ていました。本編では、彼の病気はかなり進行しています。


(注2)地獄: ユーラシア北方民のシャーマニズムに基づく宇宙観では、世界は天上・地上・地下に別れ(それぞれ複数の層があるともいわれ)ていますが、地下界に「地獄」の概念が結びついたのは、外来宗教(チベット仏教やイスラーム教)の影響を受けた16世紀以降と言われています。チベット仏教では輪廻転生を説いていますが、シャーマニズムにその概念はありません。この作品では、地下界に今日的な「地獄」の概念をつけています。

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