第五章 数千の星(5)
5
ちょいちょい、と肩をつつかれて振り向いた兵士は、黒髪の娘に驚きの声をあげる間もなく、鷲に鳩尾を殴られ、その場に
彼が、気絶させた男達を一人づつ片腕に支え、床に横たえようとしていると、隣の部屋にいた兵士が、顔を覗かせた。
鷲は立ち、剣を抜こうとする男の顎を蹴りあげた。皿のように眼をみひらく最後の一人の腹部に、拳を打ち込む。倒れる男を肩に受け止めるまで、彼はずっと無言だった。
「いっちょうあがりって、とこかな」
念のために狼煙台に顔をだし、火が焚かれていないことを確認した鷲は、風をはらんで膨らむ外套はそのままに梯子を降りて来た。
茫然としていた鷹は我にかえると、気絶した兵士達の手足を縛り、口を布で覆う。鷲は、彼女の作業を、にやにや笑いながら眺めた。
「な~んか、アヤシイ状況だよな。それって」
「……莫迦」
『これをさせる為に、連れて来たくせに。ひどい』 と思いながら、鷹は、かなり照れていた。からかいを含んだ声が、とても優しかったのだ。
「それくらいで大丈夫だろう。上がってみないか? 鷹。眺めが綺麗だぜ」
「うん」
トグリーニ族がカザ砦へ踏みこむ際、重要なのは、大公方が開けた門から、彼等が侵入することだ。そうして初めて、オン大公の売国行為が成立する。同時に、その事実がルーズトリア(キイ帝国の首都)へ伝わるのは、出来るだけ遅らせる必要がある。
鷲は鷹を連れて、烽火台(狼煙台)の見張りを倒しに来ていた。
石造りの台の頂上に立ち、
「始まったな」
「え?」
北から吹きつける風は、冷たく、厳しい。鷹が、風にあおられる髪をおさえながら鷲の示す方を見ると、朝日を反射して輝くラーヌルク河の岸辺に、無数の黒い影が蠢いていた。風にのって、太鼓の音が流れてくる。
「トグリーニ?」
「さすが、
鷲は苦嗤いしていたが、低い声は
「あの中に、隼も居るの?」
「ああ」
『鷲さんは、どうして彼女を連れて帰らなかったのだろう』 そう思う鷹の表情を読み、鷲は、鼻の下を擦った。
「いろいろ、あったんだよ。俺達と離れている間に、隼にも……。トグリーニの族長と、俺は話した。お前に話したいことが、沢山あるんだ、鷹」
それから、鷲は説明した。
トグリーニの族長が、隼に求婚していること。彼女も、彼を好きになり始めていること。しかし、隼は今でも雉を愛していて、その想いを断ち切るには、もう少し時間がかかりそうなこと、などを――。
鷹は、眼を丸くした。
「雉さんと別れてしまうの? 隼」
「別れるっつーか……くっついていたわけでもないけどな」
『でも、雉さんは、隼が好きなのに。隼もそうだったのなら、どうして、そんなことをしなければならないのだろう?』
鷹は、釈然としなかった。隼の気持ちが解らないと言うと、鷲は、困り顔になった。
「トグルは、悪い奴じゃなかったぜ。むしろ、いい男だ。……それに、結局、隼自身が決めることだ」
「それは、そうだけど」
――なにも、皆から離れる必要はないのでは。
口ごもった鷹は、鷲に頭を撫でられ、どきりとした。顔を上げると、彼は優しく微笑みながら、彼女の髪を撫でていた。
「鷲さん」
「あいつが俺達から離れると決めたのなら、認めてやらないといけないだろう。励ましてやれないか? 鷹。俺は、その方が、あいつの為だと思ってる」
鷲は、彼女から手を離すと、腕を組み、狼煙台の胸壁に乗せた。寒そうに肩をすくめる。
「隼は、ちゃんと判ってる。ずるずる雉を想ってたって、いいことなんかひとつもない。どこかで吹っ切らなきゃ。鵙か、雉か……。そのどちらも、俺達と居たんじゃ出来ないだろう。雉が精神的に頑丈ならいいんだが、あいつの脆さは、隼が一番よく知っているからなァ」
鷹が、鷲の外套を彼の肩に戻すと、鷲は、悪戯を思いついた子どものように微笑み、ばさっと外套を広げて彼女を包んだ。後ろから抱きすくめられ、鷹は息を呑んだ。
鷲は、低い声に笑いを含ませた。
「雉から離れて、あいつが考えたいと言っているんだ。待てなくは、ないさ」
「雉さん、可哀相ね」
鷹が呟くと、鷲はくすりと
「淋しい? 鷲さん」
この台詞は意外だったらしく、鷲は、片方の眉をもちあげた。ふだん細い眼をみひらく。
「雉じゃないからな、俺は。それに、今は、お前が居てくれれば充分だよ」
鷲は、彼女の肩に顎をのせ、耳元で囁いた。
「たまには、俺にも言わせてくれ。……お前が、好きだ。ずっと放ったらかしにしてきたけれど、いつも、お前のことを考えていた。気がつくと、お前が俺を占めていた。……今なら約束できる、鷹。俺には、お前しかいない。ずっと、居てくれないか? 俺の側に」
体の芯が痺れるような心地がして、鷹は眼を閉じた。彼の腕から伝わるぬくもりが、心を浸していく。胸が、熱くなる。
鷲は、聞えるか聞えないかに声を抑えた。
「
声がせつなく濁る。しかし、鷹は答えられなかった。身体がふるえ、心がふるえる。喉が詰まり、彼女は、呼吸が出来なくなった。
『鷲さん!』
「駄目か? ついて行けないと思ったか……こんな、我が儘には。それとも……俺が、恐いか?」
鷹は、懸命に
彼女が泣いていたので、鷲は、腕を弛めた。鷹は逆に、彼の首にだきついた。
「……大好き。鷲さん」
他に何も言えず、鷹は夢中でしがみついた。
鷲は躊躇したが、彼女の言葉を聴くと、眼を閉じ、ぎゅうっと抱き返した。ぬくもりが嬉しくて、鷹はしゃくりあげた。
「嬉しいの、凄く……嬉しくて、たまらないの。鷲さん、有難う、わたしを好きになってくれて。大好きだから、わたし。鷲さんのこと」
「礼を言うのは、俺の方だ」
鷲の声もふるえた。深く、長い吐息をついて……彼女の頭を肩におしあてた。
「鷹、有難う。俺を、待っていてくれて。何て礼を言ったらいいのか、判らないけれど。俺は――」
鷹は、言いかける彼の唇に指をあて、黙らせた。ぎこちなく微笑みかける。
鷲は一瞬 眼をみひらいたのち、ふにゃりと微笑んだ。明るい若葉色の瞳に彼女を映し、抱き寄せる。
切れ長の彼の眼が閉じられ、端整な顔が近づくのを、鷹は観ていた。滑らかな唇が、そっと口を押し包むのを感じ、眼を閉じた。身体から力が抜ける。
鷲は、鷹に頬ずりをした。長く伸びた無精髭が、彼女の首筋をさわさわと撫でた。
鷹がくすくす笑い出したので、鷲は、拍子抜けして彼女を見た。苦虫を噛み潰し、彼女の肩を掴むと、やにわに、首筋にぐりぐり顎をこすりつけた。
「きゃ……いや! ごめんなさい、鷲さん。……許して。やだ、ねえ!」
「このこのこのこのこのこのこのこの! ひとが真面目に口説いてんのに、何て奴だ。もう二度と言ってやらないからな、こいつめ」
「やん、やだ! ごめんなさい、鷲さん。やだ、許して……!」
唇を塞がれて、鷹は黙った。間近に、うっとり瞼を閉じている彼が見える……頭の中が、真っ白になる。
すっかり力の抜けてしまった彼女を軽々と抱き上げて、鷲は、にやりと嘲った。目が会った途端、かあっと火が出る心地がして、鷹は両手で面をおおった。
「……可愛いよ、鷹」
「やだ、もう」
「さて、と」
鷲は鷹を降ろすと、外套に袖を通し、眼下に広がる街並みを眺めた。戦闘は行われていないが、どことなく騒然としている。
鷹は両手で頬を押さえ、彼の横顔をぽーっと見上げた。夢見心地でいる彼女に、鷲は
「寒くなって来た。降りるとしようぜ、鷹」
……それから数日間、火照った彼女の身体は、冷めることがなかった。
*
オルクト族の重騎兵は、長城の門と砦の中庭を制し、リー将軍家の兵士達を包囲する形でとどまった。攻撃も反撃も行われていない。居並ぶ黒づくめの軍団を、キイ帝国の歩兵達は不安げに見守っていた。
トグルが率いる軽騎兵は、重騎兵に護られて砦の奥へと進んだ。ここを守備する兵達も、迎撃すればよいのか降伏すればよいのか判らず、呆然としている。
トグルは委細かまわず、オルクト氏族長と合図を交わすと、馬を降り、建物のなかへ入って行った。隼は、彼の後をついて行く。
見覚えのある大公の使者が、数人の配下を連れて駆けて来た。
「トグル殿! これは、どうしたことです? リー将軍の兵士はあちらです。
男の台詞の途中で、トグルは剣を抜きはなち、切っ先を相手の喉元へ突きつけた。使者は、ごくりと唾を呑んで硬直した。
「なに、を」
「決めろ」
トグルは、無表情に告げた。口調は極めて静かだが、地を這う声には喩えようのない威圧感があった。
「使者をその使命に
「え……ええ?」
オルクト氏族長が、ガシャンと鎧を鳴らして近づいた。トグルの言葉では足りないと考えたのか、口元には、余裕のある薄笑いがうかんでいた。
「我等は、これよりトゥードゥ(キイ帝国の城塞都市)へ向かう。正々堂々と長城を破り、ルーズトリアへ赴くゆえ……首を洗って待っていろと、オン・デリクに伝えよ」
使者は、零れ落ちそうなほど青い目をみひらき、彼等を凝視した。言葉の意味を理解したのだろう。抵抗の意思なしとみて、トグルは剣先を下げた。
「《星の子》と
「三階の……正面の部屋です」
答えるや否や、男は身をひるがえし、部下たちとともに駆け去った。このままここに居ても、解放されたリー女将軍に報復されると気づいたのだ。大公方に着いたばかりに損をみた男を、隼は、半ば同情して見送った。
トグルは、既に使者に対する関心を捨て、オルクト氏族長とともに階段を昇っている。
『族長の顔だ』彼の横顔を眺め、隼は思った。――やはりこいつは、生まれながらの族長だ。
無表情の仮面に隠された、優しい青年の素顔を知っている彼女は、切なくなった。
隼と数人の部下を従えて階段を昇ったトグルとオルクト氏族長は、鉄製の錠のかかった扉の前で立ち止まった。見張りは逃げたのか、辺りには誰もいない。オルクト氏族長と一人の重騎兵が、剣の柄で錠前を殴りつけた。
トグルは、胸の前で腕を組み、作業を見守っている。
オルクト氏族長が、鍵を固定する横木の上に剣を挿し、力任せにねじ込むと、横木はひび割れ、音を立てて弾けた。割れた木片の上から、さらにガツガツ殴り続けると、錠前は床に落ち、扉は、軋みながらゆっくりと開いた。
オルクト氏族長は、「ふう」と息を吐いて、三歩後退した。
最初に現れたのは、セム・ギタだった。
続いてルツが、夜空に染めたような黒髪を揺らして現われた。白い衣の裾をさばき、草原の男達に、優雅に微笑みかける。
「はやぶさお姉ちゃん!」
「鳩!」
セム・ギタの後ろから、少女が駆けてきて、隼の胸に抱きついた。すぐに泣きじゃくり始める細い身体を、隼は抱きしめた。
「鳩、元気だったか? 大丈夫か?」
「隼さんこそ……」
オダも涙ぐんでいたが、〈草原の民〉への警戒は解いていなかった。雉も、セム・ギタと並び、距離を置いている。
オルクト氏族長と部下達は、兜と帽子を脱ぎ、跪いて《星の子》に拝礼した。トグルは立っていたが、剣を鞘におさめると、帽子を脱ぎ、それを胸に当てて一礼した。
ルツは、彼を観て、切れ長の眼を細めた。涼しい声で言う。
「久しぶりね、ディオ。今は、トグルと呼ぶ方がいいのかしら……。随分、大きくなったわね」
「……《星の子》は、お変わりなく」
「知り合いなのか?」
隼は、驚愕して訊ねた。姫将軍とセム・ギタも、眼を瞠っている。
トグルは、帽子をかぶり直しながら、平然と答えた。
「昔な……。子どもの頃、親父とともに、
「三度よ、あなた。赤ん坊の頃にも、来ているわ。覚えていないのでしょうけど」
艶やかに微笑んで訂正するルツを見下ろし、トグルは、皮肉に唇を歪めた。
「手の込んだことをなさいましたな。貴女の命とあらば、草原諸族は、異論なく馳せ参じたでしょうに……。相変わらず、ひとの悪い御仁だ」
「あら」
ルツは、小鳥さながら首を傾げた。
「私に干渉させまいと、タオに国境を見張らせていたひとの言葉とは思えないわね、ディオ。お陰で、余計な手間がかかったわ」
トグルはこれには答えず、平板な眼差しで一行を眺めた。鳩とオダの姿にわずかに眉を曇らせたものの、姫将軍とセム・ギタと雉には、殆ど注意を向けなかった。『無視をする』という
盟主の意図を汲んだオルクト氏族長が、兜を脇に抱えて立ち上がり、代わりに話しかけた。
「セム・ギタ殿」
リー女将軍の参謀は、野太い声で呼ばれて、身構えた。
「
リー女将軍は、紅を刷いた唇をきゅっと結び、きらきら輝く藍の瞳でトグルを
オルクト氏族長は、口髭を揺らして哂った。
「長城の外へというわけにはゆかぬだろうが。ハン北方将軍なら、貴殿らと志を同じう出来るのではないか。改めて、トゥードゥと、ルーズトリアで
「あい分かった。……かたじけない」
セム・ギタが、緊張を解くことなく小声で謝辞を述べると、オルクト氏族長は声をたてずに笑った。トグルは、姫将軍から鳩へと視線を移した。
オルクト氏族長も、口髭を指先でつまみながら、頭の上から爪先まで少女を眺めすかした。
「ところで、先ほどから気になっているのですが……何故、ハル・クアラ部族の娘が、ここに居るのですか? ハヤブサ殿」
隼は、瞬きをくりかえした。自分の腰にしがみついている鳩と、顔を見合わせる。
「ハル・クアラ部族? 観ただけで、判るのか」
「勿論です」
オルクト氏族長は、愉快そうに肯いた。眉尻をさげ、
「我等〈草原の民〉は、血縁によって三つの部族に別れています。それぞれ、面差しに特徴がある。逆に、ナカツイ王国とニーナイ国の民などは、見分けられないことがあります」
「そうなのか?」
鳩は、隼の背後に隠れるように身体を寄せ、腰にまわした腕に、さらに力をこめた。隼は当惑しつつ、少女の頭を撫でた。「大丈夫」 と囁く。
ルツが、爽やかに
「その娘は、ハル・クアラ族ではないわ。タハト山脈より南で生まれたそうよ」
族長二人が眼を瞠り、少女と《星の子》を交互に見遣ったので、隼は驚いた。トグルさえ、無表情の仮面を外して、呟いた。
「タハト(山脈)以南で……?」
「そう。だから、あなたに来てもらいたかったのよ、ディオ。それと、もう一人――」
しれっと言ってのけるルツの傍らで、トグルは革手袋をはめた片手を口にあて、鳩を観た。お世辞にも柔和とは言えない眼光に、少女は、ますます身を縮める。居るだけで
「――ああ、来たわ。良かった」
少し焦って周囲を見渡していたルツが、安堵の声をもらした。その視線の先を追った一同は、朝の日差しが斜めに射しこむ廊下を、鷲と鷹が、のんびりやって来るのを見つけた。
鳩が、ぱっと面を輝かせる。
「お兄ちゃん!」
「よお。来たか、トグル。何だ、もう片付いたのか」
姫将軍とセム・ギタが並んでいるのを見て、鷲は、満足げに頷いた。オルクト氏族長が、挨拶する。隼は、鷹の
ルツや隼ほどではないが、ニーナイ国の民より白い肌は、キイ帝国の民に似る。赤みがかった黒髪と黒い瞳は、焦げ茶色に近い(改めて比べると、鳩の黒髪は青味があり、トグルに似ていた)。背がすらりと高く大柄なところは、〈草原の民〉に通じている。
鷹は、男達の視線に怯えたように面を伏せ、控えめに瞬きをした。
隼は、トグルとオルクト氏族長が、鳩のときのように既存の部族の名を挙げてくれるかと期待したが、そうはならなかった。むしろ、トグルが――この表情の判りにくい男が、戸惑っている風なのを、意外に思う。
ルツが、澄まして紹介した。
「彼女は、ニーナイ国で保護されたの。記憶を失っているわ。彷徨っていたのは、一年以内だと思うのだけど。素性を調べられる?」
「……時間を頂ければ」
トグルは、鷹から視線を外した。改めて、鷲と《星の子》を見遣る。
「〈
「お願いよ」
「ああ。頼んだぜ、トグル」
鷲が鷹と顔を見合わせて頷くと、トグルはフッと哂った。
話が終わったと判断し、兵士達は、ガシャガシャ鎧を鳴らして踵を返した。オルクト氏族長が、恭しく《星の子》を促した。
「では。《星の子》、
「それは不要よ。私達、来た道を戻るから。オダをニーナイ国へ送るついでもあるし、ね……」
ルツが答え、オルクト氏族長の先に立って歩き始めたので、一行も動き出した。鷲は、隼に片手をあげ、トグルににやりと笑いかける。トグルは、幽かに唇の端を持ち上げて応じた。鷹と鳩、オダが鷲について行く。
ニーナイ国の少年は、真剣な表情で草原の黒い狼を見詰めていたが、彼と目が会うと、身を翻して駆けだした。
「我らも行くぞ、ギタ」
「御意」
姫将軍は参謀に声をかけると、真正面から、トグルをひたと
トグルは、リー将軍家の参謀が
隼が、呼んだ。
「トグル」
トグルは足を止め、彼女を顧みた。隼は項垂れ、囁いた。
「待ってくれ。……話を、つけてくる。だから、そこに、いてくれ」
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