第五章 数千の星(6)
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先刻から、雉は動揺していた。隼を理解できないと感じていた。ようやく会えたというのに、沈んでいるのは何故だろう。トグリーニの族長がここに居ることも、気にかかる。
黒ずくめの長身の男は、隼に気を遣い、廊下の隅に歩いて行った。階段横の壁に寄りかかり、待つつもりらしい。
窓から射しこむ白い光のなか、硬い表情で近づいて来る隼を見詰め、雉は、立ち尽くしていた。
『ああ。やはり、
雉の身の内を、ふるえがはしった。
隼が彼女の妹でなかったら、自分達は、きちんと恋が出来ただろうか。鵙を喪っていなかったら、おれは、どうしていただろう。
切なさに喉を塞がれ、雉は、息をひそめた。
――想像できない。けれど、きっと恋していた。どうして愛さずに居られただろう、いつも側に居てくれた彼女を……。離れて、どれほど自分が彼女を欲していたのかが判る。
隼……伝えたいことが、山ほどある。
「雉」
彼の正面、手を伸ばせば届く距離に、隼は足を止めた。胸が苦しい。
『あたしは、やはり――』
溜息を
『
隼は、やっとの思いで雉を見た。何から話せばいいのか、判らない。涙が溢れそうになるのを抑えるだけで、精一杯だった。
「……元気、だったか?」
彼女の囁きを聴いて、雉は問い返した。
「身体の具合は、どうだ?」
普段なめらかな彼の声は、乾き、掠れていた。形の良い少女のような唇から血の気がうせているのを、隼は、見ていられないと感じた。
「怪我をしたと聞いた。もう、大丈夫なのか?」
「ああ。心配をかけて、済まない」
隼は、ぎこちなく微笑んだ。唇を動かし、言いかけて……言葉がみつからず、苦心する。
その瞬間、雉は、全てを悟った。
彼女の意図を察した雉は、心が激しく揺さぶられるのを感じた。茫然と呼ぶ。
「隼……」
『おれは――』 しかし、声にならない。重く冷たい水に似た哀しみが足元からせりあがり、身体を浸していく。
隼は、そんな彼を見続けることが出来ずに、瞼を伏せた。息だけで囁く。
「判ってるよ。けど、頼む。言わないでくれ。……あたしは、お前が好きだった。嘘をついてきたことを、許してくれ」
「…………」
「忘れてしまいたかったんだ、鵙姉と、お前と、あたしのことを……。だけど、そんなこと、出来るはずがなかった。それをしたら、あたしは、あたしではなくなってしまう。鵙姉と生きてきた意味が、失われてしまう」
隼は眼を閉じ、嘆息した。瞼を上げ、雉を観る。銀色の睫毛にふちどられた紺碧の瞳が、
隼は、溜息とともに言った。
「終わりにさせてくれ、雉。あたしはもう、逃げたくない。お前からも、鵙姉からも、目を背けるようなことは、したくない……。お前にこたえることは、出来ない。あたしは――」
雉は足音をたてずに彼女に近づき、両腕を伸ばした。そっと、こわれ物に触れるように、細い肩を抱き寄せる。なめらかな白銀の髪を撫で、初雪にうすく覆われたサクラソウの花びらのような耳朶に、囁いた。
「お前を、愛している」
隼の目から、初めて、大粒の涙が零れた。
雉はかたく眼を閉じ、痛みにおおのく声を抑えた。
「許してくれ、隼。ずっと……」
隼は、彼の背に腕をまわし、しがみついた。肩に頬をおしあてる。雉の胸に、吐息が触れた。
「……ありがとう、雉。それだけで充分だ。あたしは」
『嫌だ』 心の片隅で、幼子のように啼く自分の声を、雉は聞いた。――嫌だ。なにも、終わってはいない。あの日、あの時から、自分達の恋は始まったのだ。
こみ上げる愛しさに、我を忘れてしまいたかった。かけがえのないひとが、今、腕の中に居るのだから。
しかし、
「雉……」
隼が促す。雉はうなずき、腕の力をゆるめた。彼女が離れて行くのを感じる。そのぬくもりも、心も。
雉はあらためて、己が失ったものを見詰めた。
自分では、彼女に未来を与えられないと、承知していた。鵙が自分にくれたようには……鷹が、鷲に与えたようには。自分達は、必ず、鵙へ戻るのだ――彼女を失うことは出来ないと、二人ともが理解していた。
『さよなら』 声にならない声で、雉は告げた。彼女の瞳に宿る、数千の星に。
愛しているなら、もっと早く、自由にしてやるべきだった。おれは、お前に何もしてやれない。他のことは、何も。
だから、さよなら……。
「雉」
たよりなく繰り返す隼に、雉は、黙って微笑んだ。小さく首を横に振る。
隼はためらった末、口を閉じた。踵を返し、歩き始める。手の甲で涙を拭い……トグルの側まで来て、立ち止まった。
草原の男は、胸の前で腕を組み、どんな表情をすればいいか判らない様子で、壁にもたれていた。
「……俺は」
雉より低い声は、少し掠れた。片手で口をおおい、言葉を切る。深い緑の瞳が、隼を見て、雉を見て、再び隼を見下ろした。泣き濡れた白い
隼が、不安げに呼ぶ。
「トグル」
「俺は……生まれて初めて、嫉妬をしたようだ。ハヤブサ」
眉根を寄せながら、トグルは、穏やかに言った。口元から手を離し、自嘲をこめて呟く。
「生涯、縁のないものと考えていたから、少々、驚いている……。お前は、本当に、意外なことを俺に教えてくれるのだな」
「……ごめん」
隼は、胸の奥に火が点き、そこから熱が全身に拡がるのを感じた。目の奥が熱くなる。――そんなつもりでは、なかった。彼に側に居て欲しいと願ったが、彼がどう想うかまでは、考えていなかった。
申し訳なさと気恥ずかしさで狼狽する彼女に、トグルは、首を振ってみせた。苦虫を噛み潰す。こんな場面に立ち会ったことなどなく、どうするべきか、分からない。
トグルは帽子を脱ぎ、数回、前髪を掻き上げた。彼女に横顔を向け、迷いながら訊ねた。
「〈
隼は、眼を閉じて答えた。
「嫌だ」
隼は眼を開け、絶句しているトグルを、真っすぐ見上げた。
「あたしは、草原へ行く。お前と一緒に。……連れて行って欲しい」
トグルは、二度、すばやく瞬きをした。どうも、会話の流れが読めない。
「……だが。お前達は、」
「お前といたいんだ、トグル」
静かに、しかし断固とした口調で遮られて、トグルは、いよいよ困惑した。
隼は、すがるように彼を見詰め……眼を伏せた。
「もう少し、お前を……知りたい。一緒に、行かせて欲しい。あたしは――」
『――お前が、好きだ』と、言いたくて、言い出せず。項垂れる隼の隣に、雉が来て、並んだ。
「トグル」
ここまでの遣り取りで既に充分混乱していたトグルだが、雉に話しかけられ、鋭い眼を普段の二割増しみひらいた。
雉は、硬い声で呼んだ。
「トグル・ディオ・バガトル?」
「何だ」
「おれからも、頼む。隼を、連れて行ってくれ」
隼は息を呑み、トグルは、黙って雉を見下ろした。華奢な男の双眸に悲痛な影をみつけ、トグルは眼を細めた。
隼が、小さく呼ぶ。
「雉……」
「……お前に隼をとられて、たった今、振られた。こんなことは言いたくないが、こいつを頼む」
女性のように優美な
彼女の動きを視界の隅に捉えながら、トグルは、雉を観ていた。
雉は、トグルからも隼からも顔を背け、唇を噛んだ。呻くように言う。
「大事な仲間、なんだ」
「…………」
「おれたち《
「……言われるまでもない」
トグルは真摯に呟いた。口調と台詞の内容に反して、二人の態度は冷静だった。
胸を締めつけられる切なさに、隼がいたたまれなくなっていると、その沈黙を破り、のほほんと声が響いた。
「よお、お前ら」
三人がいつまで経っても来ないので、引き返して来たらしい。階段を昇って来た鷲は、彼等をみると片手を挙げ、首を傾げた。後ろに、鷹の姿もある。
「なんだ。まだいたのか、バカトグル」
『トグル』と『バガトル』をもじった言い方に、トグルは一瞬目をむき、舌打ちした。
「その呼び方はやめろ」
雉は、ひとの悪い笑みを浮かべた。
「あ、それいいな。おれも使おう」
「使うな」
「なんで。ぴったりじゃないか、莫迦トグル」
「お前が言うと、冗談に聞こえない、キジ」
「冗談なものか。おれは、いたって真面目だ、莫迦トグル」
「繰り返すな」
「お前ら……」
くだらない掛け合いを始める二人に、隼は、肩を落とした。疲れたように口を噤み、苦笑する。涙のかわいた紺碧の瞳で、鷲と鷹を顧みた。
「鷲、鷹。あたしは、トグルと一緒に行くよ」
「そうか」
「しばらく、お別れだな」
「すぐ、また、逢えるだろ」
何でもないことのように、鷲は言う。隼は、日の光に透けて融けそうな微笑を浮かべた。
「ああ。会いに行くよ、必ず」
「*******、*****、**」
「うるさい。文句なら、判る言葉で言え」
「トグル。雉」
隼が呼んだので、トグルと雉は、言い合いを中断した。雉は憮然と、トグルは決まり悪そうに前髪を掻き上げる。
鷲は哂って、鷹と視線を交わした。
遠く、獣の咆哮のような声がきこえてきた。長く伸びた物悲しい哭き声が、冴えた朝の空気をふるわせる。
隼は耳を澄ませ、トグル以外の全員が、天井を仰いだ。
雉が呟く。
「何だ? あれ」
「……トゥグス(オルクト氏族長)が、呼んでいる」
軽く唇を歪めて、トグルが説明する。いつもの無表情に戻るまえに、少しだけ残念そうな表情が、頬をかすめた。
「長居をした。行かなければ。……ハヤブサ」
「ああ。じゃあな、鷲。雉、鷹」
「元気でな、二人とも」
鷲の言葉を聴くと、トグルは、隼と顔を見合わせた。精悍な狼の嗤いをひらめかせ、外套を翻して歩き出す。
隼は、鷹と雉に微笑を向けた。踵を返し、トグルの後を追っていく。身軽な風の精霊さながら、白銀の髪をなびかせて。
二人が階段を駆け下り、待たせていた馬に乗って行くのを、三人は見送った。砦の外から、喚声が湧きおこる。リー女将軍の配下か、〈草原の民〉の男達か。
鷲と雉は、しみじみと呟いた。
「……行ったな」
「ああ。行っちまった」
「なかなか、いい男だろ?」
「…………」
「認めてやれよ、おい。それだけで、お前が勝てるんだから」
「勝てなくてもいいよ、おれは、一生」
「ちっさい野郎だなあ、お前って」
「放っとけ」
男達の声が、ひときわ大きく響いた。トグルの軍勢が、出発するのだろう。鬨の声と太鼓の音が重なり合い、地響きとなって砦を震わせる。
「なんか、娘を嫁に出す、父親みたいだなあ」
「お前みたいに出来の悪い親父から、あんないい女が産まれるかよ」
「悪かったな、出来が悪くって」
「悪い。あいつは男を見る目があるから、さっさと飛んで行っちまった。お前みたいなのを、ずっと見て育って来たからだ。お陰で、おれは、いつも貧乏くじだ」
鷹には、この台詞は、雉の、トグルと鷲に対する最大級の賛辞に思われた。さすがに、鷲も真顔になって相棒をみた。
雉は、二人から顔を背け、窓越しに空を眺めている。
ぽりぽり頬を掻く鷲に、鷹が微笑みかける。
「鷲さん」
「ああ、鷹。俺達も、帰ろう。〈
**
この戦いに関するキイ帝国側の記録は、次のようになっている。
――オン大公と同盟を結んだトグルート部族の騎馬軍団は、カザ砦に侵入したものの、リー女将軍によって撃退された。
トゥードゥ砦を守護するハン北方将軍は、一時劣勢に陥ったものの、駆けつけたリー女将軍とともに戦い、蛮族を退けた。
一時、敵の侵入をゆるしたキイ帝国では、オン大公が幼帝を擁し、ルーズトリア(首都)を離れ、南の離宮へ
リーとハンの両将軍は、大公がトグルート族のためにカザ砦の門を開けたことを非難し、それぞれ王を名乗った――。
以後、帝国は、内乱状態となる。
翌年、オン大公の命を受けたタァハル部族が、トグルート部族に対し宣戦布告した。
~『飛鳥』 第二部・足のない小鳥~
完
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。
第三部に続きます。
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お疲れさまでした。ここまでで、本編の三分の一が終了です。
幕間を挿み、第三部へ入ります。
予告……第三部 『白き蓮華の国』、鷹の記憶が戻り、素性が判明します。
第四部 『蜃気楼、燃ゆ』、トグルが草原で戦争を開始します。
7月9日(月)より連載開始します。
お付き合い頂ければ、幸いです。
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