第五章 数千の星(2)
*多少の流血の描写があります。
2
鷲が部屋を出るまえに、リー・ヴィニガ姫は目覚め、彼を止めようとした。しかし、鷲本人と《星の子》に説得され、諦めた。
そして今、鷲は、砦の外壁を素手でよじのぼっている。
見張りの注意を逸らす方法を、ルツはこう説明した。――私達は普段、『見て』いるけれど『観て』いないことが多いの。見えていても意識していない、ということが。
「屋根の上で裸踊りはしないから、大丈夫」 鷲が応えると、女性陣の冷たい視線を浴びたのは、言うまでもない。
垂直にそびえる砦の外壁を、日干し煉瓦のわずかな凹凸を頼りに登っているのは、これもルツに「あなた以外に、そんなこと、誰が出来るの」 と言われた所為である。人遣いの荒さに溜息が出るが、確かに、ルツや鳩にさせるわけにはいかず、鷹と姫将軍は言うまでもなく。ギタは重く、オダや雉では危なっかしい。自分がするしかないのは、納得だ。
三階の部屋からでて上を目指すかれを、鷹と鳩が、窓から身をのり出し、心配そうに見送ってくれている。
鷲は、片手を交互に壁から離して休憩しながら、二人に小さく手を振った。
時折、壁越しに人の気配を感じる。背後の長城では、頂面(通路)を歩く見張りの兵士がいる。いずれも、大柄な鷲に見向きもしないのは、《星の子》の暗示が効いているのだろう。
『便利だよな』
ルツの念話も、雉の治癒能力も……それは、素直に認めていた。自分は己の
『なーんか、違うんだよなあ……』
鷲は、五層の建物の外壁を登りきると、せりだした屋根に片手をかけ、歯を食いしばって身体を引き上げた。子どもの頃とは明らかに勝手の変わった我が身に苦労しながら瓦の上に立つと、両手をはたいて砂を落とした。足下に注意して身を起こす。
沈みゆく夕陽の最後の光に照らされて、砦と関の屋根は黄金に、壁は緋色に染まっていた。谷を吹きぬける西風に長髪をなびかせて、鷲は息をととのえた。改めて、長城と砦と、
東西に延びる長城に挟まれて、関が。壁を同じくして烽火台(狼煙台)と砦が。さらに周囲を高い壁に囲まれて、カザの
せっかく登ったのに、わざわざ地上へ降りる理由はない。
鷲は、ふうと息をつくと、瓦を落とさないよう注意しながら屋根の上を歩き始めた。
マナ(ルツの娘)のように、遠距離を一瞬で移動できるなら、危険を冒す必要はない。自由に予知ができるなら、もっと対処法を考えられたかもしれない。
しかし、鷲は能力をつかおうとは思わなかった。それをすると 『化け物』 になった気がするだけではない。
決定した未来を
理由を明文化できないが、鷲は、己の感覚を信頼していた。嫌なものは嫌、なのだ。それはおそらく、間違ってはいない。
ひとつの屋根をのり越え、隣の屋根へと移る。慎重に身を屈め、急速に濃くなる宵闇の向こうへ眸をこらした。
《
『あたし達……与えられたもののなかで、精一杯いきていれば、きっと、それ以上に幸せになれるはずよ』
――不意打ちのように、
隼が冴え冴えとかがやく銀の三日月なら、鵙は、真夏の木漏れ日か、満天にきらめく星だった。明るく、にぎやかで、希望に満ちていた。凛とした眼差しと口調は、忘れられるものではない。
彼女に、
それに――鷲は、首を傾げた。伝えた方がいいか、と思う。
『鷹。悪い。……俺はどうしても、お前のことは、後回しにしちまうらしい』
ぎこちなく投げた思念は、届いたか否かを確かめる術はなかった。鷲は、数秒、動作を止めて待ったのち、肩をすくめた。屋根から長城へと跳び降り、壁伝いに関所の門を目指す。
――ま、いいか。帰ってから謝ろう。
悪い予感が的中するのは、気分のいいものではない。鷲は、巨大な関の落とす影のなかで足を止め、嘆息した。
見張りはいない、通る者もいない。野良犬いっぴき。……こんなことは、あってはならないはずだ。
門の扉は、夜へと開かれていた。
「あの、莫迦」
胡坐を組み、瞑想する姿勢で待機していた雉は、小さく舌打ちをした。耳朶が紅色に染まる。
ルツがくすくす笑いだしたので、リー・ヴィニガ姫と鳩はいぶかしんだ。
雉は、半分哂い、半分怒った表情で、《星の子》を窘めた。
「笑っている場合じゃないだろう、ルツ。あいつに教えた方がよくないか。お前の
「教えてしまったら、面白いものが聞けなくなるじゃない」
天女もかくやと微笑む《星の子》を、雉は、じろりと
「肝心の相手に届いていないんじゃ、どうしようもないだろう。全か無かって勢いの
「そうね、伝えておくわ。……出るわよ」
ルツはふふと哂った。彼女から鷲の《声》を届けられた鷹が、みるみる真っ赤になって項垂れる。ルツは、初々しいその反応を微笑ましく見遣ると、真顔に戻って瞼を伏せた。暗い城門を通り抜けていく彼の背を
雉も、頬を引き締める。
仲間たちの思念の網をくぐりぬけ、鷲は、長城の外へ足を踏み出した。
*
『ああ、本当に嫌になる。どうしてこう、あたしは頭が悪いんだ……』
峠を越え、ようやく辿り着いた
隼は、返しそびれたトグルの外套を羽織り、彼の馬の後ろを進んでいた。後ろには、オルクト氏族長と彼等の率いるおよそ一万の騎馬がいる。
勇壮な騎馬軍団の先頭にいながら、彼女は、まとまらない気持ちを持て余していた。
――雉に、何と言えばいいのだろう。
あいつに会って、あたしは、自分を見失わずにいられるのだろうか。トグルに惹かれていると、どんな顔をして言えばいいのだろう。
雉が、好きだ……。逢えば、想い出す。なんて、トグルに、どう説明すればいい。
ぐるぐると、思考は同じところを巡る。隼は、己が溜め息をくり返していることに気づいていなかった。
あたしは、二人の男に、同時に惚れてしまったのか。笑えないトグルの冗談よりも、
自分で自分が、嫌になる……。
「ハヤブサ」
声と同時に伸ばされた腕が、彼女の馬の手綱をつかみ、立ち止まらせた。隼は、息を呑んだ。
トグルの鮮やかな新緑色の瞳が、心配そうにこちらを見詰めていた。
うろたえて面を伏せる隼の耳に、単調な声が告げた。
「着いたぞ。あの丘の向こうが、カザ(キイ帝国の城塞都市)だ。ここで待て」
トグルは、黒い戦闘用の
トグルは曖昧に
「甘やかせると、つけあがるぞ。そいつは牡だから、お前に惚れさせてやればいい。大抵のことは、聴くようになる」
トグルにしては出来の悪くない冗談だったが、隼が黙ったまま、にこりともせずに彼を見たので、戸惑い気味に視線を逸らした。長い前髪が顔にかかるのを掻き上げ、彼ら遊牧民の言葉で何事かを呟く。強く寄せられた眉と軽く尖らせた口元が、不器用な少年を思わせた。
トグルはすぐに無表情に戻り、鞭のようにしなやかな長身を地上へ躍らせた。
「トグル」
隼は小声で呼んだが、彼には聞こえなかったらしい。
「スブタイ!」
トグルに呼ばれて駆けて来たスブタイ
馬から降りる隼に、トグルは説明した。
「オン・デリクの使者が言った通り、城門が開いているか、調べさせる」
トグルは、馬の背に括りつけていた荷を下ろし、眼を細めた。
「俺達がカザへ入る時には、お前も来るのだろう?」
「ああ」
「ならば、今のうちに休んでおけ。戦闘になれば、眠る暇はない」
「……そうだな」
「獲りたければ、首を獲るのは、今のうちだ」
隼は、すぐには彼の言葉の意味が判らなかった。気づいて、ギクリとする。
トグルは、平板な眼差しを彼女にあて、厳然と言った。
「仲間と一緒なら、俺達を追い払えるだろう、ハヤブサ。判っていると思うが、俺達が進めば、数十万人のキイ帝国の民衆が、路頭に迷う」
どうして、こいつの冗談は、いつも笑えないのだろう。
冗談のつもりではないのかもしれないが……。
隼は、かたい表情で首を傾げた。複雑な気持ちになる。
トグルは彼女の反応には構わず、天幕を張る作業を始めた。毛皮を敷き、縄を張って
精神的にも肉体的にもトグルが疲れているであろうことは、察しがついた。この男は、時に自虐的な言葉を吐くことで、投げ出したくなる責任と彼女との間で揺れる心を、平静に保とうとしているのかもしれない。
隼の胸を、重い切なさが浸した。昨夜かれに言われた言葉が、解ったような気がした。
『あたし達は、似ている』
この世の誰よりも、己自身を信じていない。だから、守るべきものを己に課し、強がりを自嘲という殻に閉じ込めて、そこから逃れる手段を捜しているのだ。否定しても否定しても湧き起こる、自由への渇望に喘ぎながら。
己の弱さを――雉への想いを。忘れたいと言いながら、夢みていたのだろうか、あたしは。
いつか、自分を赦せる日を、待っていたのか。あってはならないと思いながら。
『俺に対して、何も、背負う必要はない』 彼の言葉を、隼は、待っていた気がした。雉にも、鷲にも、言えなかった。
トグルも、そうではないのか。
『やめよう』 心から思う。……終わりにしよう。届かない幻を追い、手に取ることを禁じている夢をみるのは。
自分を傷つけるのは沢山だ。誰かを傷つけながら生きるのも。
トグル、あたしは、お前を愛することが出来る。鵙姉を亡くし、雉を失くしても。あたしが生きる意味を与えてくれる。きっと――。
隼が、トグルに借りた外套を返そうとして身をかがめると、彼は眼を開けた。奥に闇を宿した
一頭の騎馬が、土を蹴たてて彼らの許へ駆けて来た。兵士が、馬から降りて跪き、早口に報告する。
トグルは強く眉根を寄せ、立ち上がった。隼には、彼が困惑しているように見えた。
「どうした?」
「長城から出て、国境を越えようとした者がいる」
愛馬の手綱を引き寄せ、トグルは、歯切れわるく言った。
「銀髪の白い男だ。ハヤブサ、お前の仲間ではないのか?」
「…………!」
隼は、目を瞠った。手にした外套を彼におしつけ、身を翻す。
トグルも、黒馬に跳び乗った。
*
『大切なものを守る為に、強くなりたいと思っていた。
だけど、何かを守る為に、他の何かを否定しなければならないなら。壊すことでしか、守れないのなら……俺達はどうしたらいいんだろうな、隼』
関所の建物を抉るよう開けられた通路を抜け、長城の外に出た鷲は、日干し煉瓦と葦を交互に積んで築かれた壁を振り仰いだ。皮肉な気持ちで。
陽は西の丘陵にしずみ、緋色の光が、わずかに紫紺の空の端を染めている。天頂には星が煌めき、新月にちかい痩せた月が、糸のように掛かっていた。風が、黒い霧のごとく砂をまきあげている。
外から眺めても、城壁の上に見張りの姿はなかった。門扉は開かれ、砦は無防備な姿をさらしている。
鷲は、両手を
《星の子》と自分の予想は正しかった。オン大公は、リー将軍を
鷲は、心もち眼をみひらいた。踵を返し、長身を揺らして歩き出す。
その時、
ヒュンと風を切る音とともに、一本の矢が、鷲の左肩に刺さった。
衝撃をうけて鷲はよろめき、己の身体から突き出す異物を見た。舌打ちする。
数本の矢が飛来して、足許の土を弾いた。
矢を抜いたとたんに血が噴きだしたので、鷲は顔をしかめたが、声を洩らしはしなかった。蹄の音が近づいてくるのを聴き、すばやく辺りを見回した。矢と馬蹄は、西の方角からやって来る。
鷲は、北へ向かって駆けだした。
『狼煙を上げられたら終わりだ』 と思ったが、それどころではない。国境から離れるのが先決とばかりに
矢が、雨のように降り注ぐ。馬の鼻息と、地響きが迫る。
鷲は、倒れ込むように地に伏せた。矢が頬を裂き、背中に刺さって、くぐもった呻き声をあげさせた。
馬蹄が、眼前の土を跳ねあげる。
鷲は、歯を食いしばって痛みに耐えた。一騎、もう一騎……傍らを駆けぬける馬を数え、唸り声をあげて迫る
ひきかえして来た馬たちが、蹄を大地に叩きつけ、ぶるると鼻を鳴らした。
冷たく輝く戟の切っ先を突きつけられ、鷲は面を上げた。
『でかいな……』
星空を背景に、馬上の男は黒くそびえていた。鉄製の鎧が、星明かりを反射している。戟の刃に促された鷲は、無言で身を起こした。
黒衣の男が、三人。剣や戟を手に、こちらを見下ろしている。鷲は、左肩をかばいながら胡座を組み、話しかけた。
「トグリーニの斥候か? お前たち」
男達は、互いの顔を見合わせた。
「族長はどこにいる? 俺を、連れて行って欲しい」
しかし、男達は当惑気味に視線を交わしているだけだ。
鷲は、苦笑した。
「誰か、言葉のわかる奴はいないのか。トグル・ディオ・バガトルと、話をしたい。案内してくれ」
「*****!
「****?」
トグルの名を出した途端、彼等が勝手に話し始めたので、鷲はうんざりした。『だあ! うだうだ喋るな。さっさと連れて行けばいいんだよ』 そう言いかけた時、新たな蹄の音が聞えた。
「鷲!」
凛とひびく女声。懐かしい仲間の声に、鷲は、瞬間、我を忘れた。
「隼?」
草原の男達は、一斉に振り向いた。
数頭の騎馬が駆けて来る。先頭の鹿毛の背に、白銀の髪をなびかせた若い女性の姿を見つけ、鷲は目を輝かせた。
馬上から飛ぶように降りた隼が、半分泣きながらしがみついて来たのを、鷲は、しっかり抱きとめた。
「鷲!」
「いてーっ!」
傷ついた肩と背をもろに締められ、鷲は呻いた。隼が、焦って離れようとする。鷲は彼女の腕を掴んで引き寄せ、もう一度、力の限り抱き締めた。
男達が、目を丸くしている。柔らかな銀髪を掻き撫で、鷲は、こみ上げる思いを呑んだ。
「隼! 本当に、お前なんだな?」
泣き笑いしながら、隼は、陽光に透かした若葉のような彼の瞳を覗きこんだ。
「あたしが、幽霊にでも見えるのかよ。お前こそ、鷲。でかい亡霊になったわけじゃないよな」
「生きてるよ、一応。……いてて」
「大丈夫か?」
鷲の頬の血を掌でぬぐい、隼は柳眉をひそめた。か細い手首を支え、鷲は、彼女の身を離させた。遅れて到着した馬上の男を仰ぎみる。
隼が顧みると、トグルは、彼女の馬の手綱をとり、静かに二人を見下ろしていた。
「トゥグス。***、*****」
「*****、***、****」
「…………」
トグルは、戸惑いを含む口調で、オルクト氏族長と言葉を交わした。兄妹のように似ている二人を眺め、眉根を寄せる。
「傷の手当てが先だろう」
隼は、トグルの顔を見返せず、眼を伏せた。流暢な交易語を耳にして、鷲は片方の眉を持ちあげた。
トグルは、馬首をめぐらせた。
「連れて行け。話は、それからだ」
隼は頷くと、自分の馬の手綱を受け取って、鷲を促した。
黒髪の下からこちらを睥睨する双眸が、月光を反射して緑色に光ったことに、鷲は気づいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この時のトグルとオルクト氏族長の会話。
トグル: 「トゥグス。俺は、こいつに毛一筋でも傷を負わせたら、殺されるんだが」
オルクト:「なんだ、お前、まだ口説き落とせていなかったのか」
トグル: 「…………」
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