第五章 数千の星
第五章 数千の星(1)
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砂と汗にまみれながら、リー女将軍一行が到着したカザ(キイ帝国の
一辺五キリア(約四・三キロメートル)程度の赤い土煉瓦の城壁に、四角くかこまれた
山の木々は紅葉していた。長城周囲の紅や黄金色の木々も、濃緑色の灌木も、兵士達の目をうるおし、砂漠の黄砂に爛れた心を癒した。
リー将軍の率いる西方守備軍には、この土地の出身者が多い。負傷した者もそうでない者も、希望者には帰宅を許したので、軍勢は、かなり縮小した。
リー家の本貫地(氏族の始祖が封じられた土地)は、この邑の南方にあたり、歴代の墓所もそこにある。姫将軍は、敗軍の将である兄の遺体を首級とともに埋葬すると、ひっそりと葬儀を行い、邑に入った。
ラーヌルク河と長城に面した砦の中に、兵士達を連れて入った将軍一行は、砦を
スー砦での戦闘の経緯の報告と、今後の相談をするために、リー女将軍とセム・ギタを含む数人の重臣たちは、守備隊の兵士たちとともに行った。《星の子》を含む一行は、丁重に迎えられ、昼食の後、別室を与えられた。
ここまでは、異変は感じられなかった。
砂漠の村チュルチェンで休憩して以来、鷲と雉の二人が落ち込んでいるのを、鷹と鳩は心配していた。男同士で何を話したかは分からないが、沈んでいる雉を励ますつもりだった鷲が、かえって気落ちしてしまったのを、奇妙に思う。
雉は、やや自分を取り戻しているように見えた。鷲は、鷹に事情を問われると曖昧に苦笑し、一度だけ、ぽつりと言った。
「俺達は仲間だが。隼は、戻ってこない方がいいのかもしれない……」
十年ちかく一緒に旅をしてきた彼等の結論がそうだとしたら、淋しいと、鷹は思った。
おそらくすべてを理解しているであろう《星の子》は、ただ優しく微笑んでいるだけだ。
おかしい、と気づくのに、それほど時間はかからなかった。
案内された部屋は居間で、寝室は別だ。スー砦に似た部屋の内装を、めずらし気に点検していた雉が、呟いた。
「あれ? 鍵が、かかってる」
鷲は、両手を軽く腰にあて、束ねていない銀髪を背へ垂らし、ゆっくり室内を歩き回っていた。足を止め、相棒を見下ろす。
椅子に座って瞑想していたルツも、眼を開ける。
一同の注目を浴びた雉は、焦って、扉の取っ手を押したり引いたりしてみせた。
「ほら。開かないぜ。どういうことだ?」
「何ですって?」
オダも手を貸したが、結果は同じだった。
少年は、無言で警戒している鷲に、助言をもとめた。
「これじゃあ、監禁みたいじゃないですか。鷲さん?」
「……みたいじゃなくて、監禁だろうよ」
「え?」
のんびりした口調に驚いて、鳩と顔を見合わせる。
「どういうことだ?」
雉が、眼を
「勘なんだが……。オン大公は、俺達がルーズトリア(キイ帝国の首都)まで行くのを、待つ気をなくしたんじゃないか。皇帝の前で悪口を言われるより、途中で片づける方が簡単だからな」
雉は、眉根を寄せた。冷静に言う。
「そんなことをしたら、リー家の兵士達が黙っていないだろう。〈
ルツは艶やかに微笑して、「お褒めに預かり、光栄だわ」 と、呟いた。鷲はそれを聞き流し、窓から砦の中庭の兵士達を見下ろした。
傍らの鷹が会話を理解できていないと気づいた鷲は、片方の眉をもちあげ、説明した。
「俺が言っているのは。俺達とヴィニガ達を隔離して、その隙にっていう意味じゃないぜ、鷹。――大公は、俺達をここへ足止めし、全員を
「何よ、それ」
鳩が、ぷくうっと頬をふくらませて、彼の袖を引っぱった。そのまま、彼の腰にしがみつく。鷹は、不安げに眉を曇らせた。
鷲は、少女の頭を撫でてやりながら、ぶつぶつと呟いた。
「ヴィニガは、ルーズトリアに母親が居る。こんなことをしなくても、悠長に構えていられるはずなんだが――」
ふいに、彼の顔がこわばった。普段ほそい眼をみひらく。
雉の声音も、一気に冷えた。
「鷲」
「――殺すはずはないだろう? まさか」
「……自死ということが、あるわ」
ルツが、静かに応えた。
鷲が、すばやく振り返る。長い銀髪が、旗のように翻った。
「ルツ」
「将軍家を絶たなければならない何かが起きたのよ、鷲。大公は、リー家の兵力を敵にまわしたくはない。彼女の忠誠心が当てに出来なくなり、暴徒と化してしまったら、手に余るわ」
「ヴィニガの母親は、人質にされるのが嫌で、自分の命を絶ったのか? 娘の重荷になると」
「子ども達に、逆賊の嫌疑がかけられている。それだけで、老女将軍には耐えられない苦痛だったでしょうね」
他のどんな言葉よりも、これは、鷲に応えた。奥歯を噛み締める音に、くぐもった呻きが混じる。ゆらりと重心を動かしたのが、ふらついたように見え、鳩は、ぎゅっと彼の腰にしがみついた。
オダも蒼ざめ、沈痛な面持ちで項垂れた。少年と鷲の両方を気づかう鷹に、鷲は、頷いてみせた。大丈夫と言うように。
ルツは、慰める口調だ。
「スー砦で観たでしょう、鷲。キイ帝国の人間は、そういう考え方をするのよ……。オダ、貴方のせいではないわ」
鷲は、片手で顔の半分をおおい、首を振った。
「惨いな。あいつには、身内はいなくなっちまったのか。……俺達は、どうすればいい?」
「もう、遅い」
雉の声に、鍵を開ける音が重なった。全員が振り返る。
沈んだ顔の姫将軍が、よろめくように入って来た。雉が駆け寄り、彼女の腕を支えた。
小声で礼を言うヴィニガ姫の後ろから、セム・ギタも入って来た。槍を構えた兵士が、一同を牽制しつつ、外から扉を閉める。
オダは、目の前で扉を閉められて、悔し気に舌打ちをした。
リー姫将軍は、放心したように扉を眺めたのち、一同を顧みた。
「済まない。お前達まで、捕らえられてしまったな」
「ここには、窓もある。前回よりは、マシだぜ」
鷲が肩をすくめて応えると、姫将軍は、ぎこちなく微笑んだ。空色の瞳が揺れている。
雉が、セム・ギタにたしかめた。
「聴いたのか?」
「ご存知ですか……。リー・クオンヒ様が、亡くなられたのです」
「ルーズトリアに、行く必要はないと」
姫将軍は面を上げ、溜め息まじりに応えた。空虚な諦念をふくむ口調は、徐々に激しい感情をおびた。
「ここで、大公の裁きを待てと。莫迦な……いつ、オン・デリクが陛下に代わり、
「姫……」
「赦さない」
姫将軍は紅い唇を歪め、ぎりりと歯を噛み鳴らした。豪華な火焔色の髪をゆらし、
「ゆるさぬ……オン・デリクめ。この恨み、晴らさでおくべきか。兄の仇、母上の仇……絶対に、この手で首を
華奢な身体をふるわせて、姫将軍は呻いた。ぽたり、ぽたりと涙が、拳の上に滴り落ちる。そのさまを、一同は、無言で見守った。セム・ギタが主人に近寄り、そっと肩を支える。
姫将軍は、天井を仰いで瞬きをくりかえした。洟をすすり、濡れた声で言った。
「いつか、この日が来ると覚悟していた。母上は、気の強いお方だ。
「姫」
セム・ギタが囁く。唇を結んで目元をぬぐう彼女を、鷲は、眼を細めて見下ろした。ゆっくり問う。
「これから、どうする?」
「どうもしない」
姫将軍は、ふるえる吐息とともに答えた。鷲は、さらに眼を
「今さら、母上が蘇るわけではない。兵士達に知れたら、直ちに戦を始めようとする者が出るであろうな」
「連中は、知らないのか?」
鷲が窓越しに外を指さすと、ギタは重々しく頷いた。
「時間の問題ではありますが」
「止めねばならない」
姫将軍は、毅然と面をあげた。澄んだ瞳が、真っすぐ前を見詰めている。
鷲は、やや憮然と訊ねた。
「何故だ? 大公も皇帝も、畏れる理由はないだろう」
「それでも、ここは
「……そいつを聴いて、安心した」
鷲は哂った。若葉色の瞳は真摯で、黄金色の影を宿している。声をひそめ、囁いた。
「あんたが部下を第一に考えてくれる奴で、良かった。だが、ここで殺されるのを待つ理由もないだろう。大公は、兵士達も一緒に片づけようとするはずだ。連中が、素直に従うとは思えない」
「鷲殿が仰る通りです、姫」
セム・ギタも、説くように話し掛けた。沈鬱でありながら堅牢な
「ギタ」
「姫。我々の帝への忠誠は、貴女を通して捧げられるものです。その帝を軽んじ、リー家を滅ぼそうとする大公を、なにゆえ敬うことがありましょう。どうぞ、お命じ下さい。オン・デリクを
リー姫将軍は、参謀の灰色がかった水色の瞳を見詰め、それから、ぐるりと周囲を見渡した。信じられない、という風に。
己にまだこんなに失うものがあったのかと、初めて気づいた少女のように、鷲を見た。そして。
それが限界だった。張り詰めた糸がふっつりと切れ、彼女は、セム・ギタの胸にしがみつき、声をあげて泣き出した。
母と兄を呼びながら泣きじゃくる姫将軍の顔を、広い胸に押しあて……セム・ギタは、壁際に腰を下ろし、彼女が泣き止むまでそうしていた。
鳩は、神妙な表情で彼の隣にしゃがみ、姫の頭を撫でていた。
全員が、それぞれの場所で、彼女の慟哭を聞いた。ひとしきり激しくしゃくりあげていた声がおさまって、彼女が眠りはじめたのは……もう日も暮れかけた頃だった。
オダが、鷲に声をかけた。
「鷲さん」
少年は、またも責任を感じていたらしい。両膝を床につくオダに、鷲は、人差し指を自分の唇の前に立て、首を横に振った。『言うな、今は』 と囁くように。
オダは頷き、後ろへ下がった。
「ルツ」
鷲が呼ぶと、瞑想に耽っていた《星の子》は、長い睫にけぶる瞼を持ちあげた。白い頬に、微笑がよぎる。銀鈴をふるわせる声が、
「トグリーニ族が、来るわ」
「やはり、そうか」
ルツは肯き、セム・ギタやオダの為に、小声で説明した。オン大公は、リー将軍を〈草原の民〉に売るつもりだと。
反逆の意志のない女将軍とオダに、皇帝の御前で釈明されては、リー・ディア将軍を追い詰めた自分の立場が危うくなる。だから、本当は、リー将軍の宿敵であるトグリーニ族に、スー砦で姫将軍を
しかし、大公に恩を着せられることを嫌ったトグリーニの族長は、公女を受け入れる約束だけをして、軍を退いてしまった。
母親を人質にしている間は、姫将軍が武力に訴える心配はなかったが、今、彼女を止めるものは何も無い。
リー家の軍勢が本格的に反旗を翻すことを、大公は恐れている。ここで足止めし、トグリーニ族を使って滅ぼそうとしているのだ。
「あくまで、自分の手は汚さないんですね……」
オダは口惜しげにつぶやいた。言葉は辛辣だが、口調に力がなかったのは、軍をもたないニーナイ国の立場を省みたのだろう。
ルツは、あわく微笑んだ。
「ただでもリー将軍家は同情される立場にある。大公が自らの軍をつかって攻めれば、国内の反発はまぬかれないからよ」
「そうでしょうね……」
「トグリーニ族は、もともと敵なのだから、リー将軍を攻めても不思議ではない。彼等には、リー家の領土を与えるとでも約束して……後で、口を封じてしまえばいいのよ」
「本当に、来ますか?」
恐る恐る訊ねるオダに、ルツは、はっきりと頷いた。セム・ギタは、前方の床に視線を落とし、考え込んでいる。
片膝を立てて床に座った雉が、ゆるく巻いた銀髪を揺らして首を傾げた。
「奴等も莫迦じゃないだろう。罠と判っていて、手を出すかな」
「連中の目的が、リー将軍を
鷲が突然口を挟んだ。雉は息を呑み、セム・ギタは、ぎょっとして目を瞠った。
彼らの反応に驚いた鷲が、決まり悪そうに頭を掻いたので、ルツはフフと哂った。
「乱暴ね、鷲」
「そうか? 他に思いつかないんだが、俺は」
「間違ってはいないわよ、ロウ(鷲の本名)。……確かに、そうでしょう」
何もかも承知しているかのようなルツと鷲の会話に戸惑い、ギタが問う。
「《星の子》? どういうことですか、鷲殿」
「言ったろう、ギタ。俺がトグリーニの族長なら、今のリー将軍を斃すことに魅力はない。大公が出兵を依頼してきた――大っぴらに軍を動かしても警戒されない状況を、俺なら、見逃しはしない」
しなやかな指を顎にあてがい、雉が言う。
「キイ帝国を相手に、戦争を仕掛けて来る、ということか」
鷲は頷いた。
「そんな……! そんなことが、あるはずがありません」
セム・ギタは声をあげかけ、急いでひそめた。リー家の参謀を、鷲は目だけで顧みた。
「トグリーニの族長は、大公の娘を嫁に貰うんだろう? リー将軍を
「大公とて、その気になれば、〈草原の民〉の数倍――数十倍の大軍を、帝都に集結させることが可能なのです。トグル・ディオ・バガトルが、そんな危険な賭けをするとは思えません」
「確かに、時間があれば、大公は兵を集められるんだろう。俺達を足止めしているのは、準備が出来ていないからじゃないのか」
セム・ギタが困り果てているさまを観て、ルツはくすくす哂いだした。助け舟を出す。
「ギタ。ディオ(トグル)の賭けが無謀にみえても、彼等は、こちらへ向かっています。アルタイ山脈を越え、長城を破ろうとするでしょう。議論している場合ではありませんよ」
「は……」
「ずるいなぁ」
鷲は、煙草を口の中に入れながら、悪戯っぽく嘲った。神妙なセム・ギタを尻目に、ルツも声を立てて笑う。
「俺はこいつに理解させようと頑張ってんのに、あんたは、
「便利でしょう。ずるいついでに付け加えれば――ディオの親征よ、これは。精鋭中の精鋭を、揃えている」
鷲の眼から、嘲いが消えた。煙草を噛みながら、
「……会いたいな」
ぽつりと言う。ルツは、夏の晴れた夜空のような黒髪を揺らして、首を傾げた。
「そう?」
「会って、話がしたい。トグリーニの族長には、借りがある。隼も、いい加減に返して貰わないと」
隼の名に、雉とオダ、鳩と鷹も、鷲を観た。鳩はもの言いたげだ。
セム・ギタが、思い詰めた視線を上げる。
「鷲殿。これは、我々と大公と、〈草原の民〉の戦いです。貴方がたには関係ありません。ルツ様。どうか皆様、お逃げ下さい」
「ふざけるな」
鷲は真顔に戻った。若葉色の瞳に、
「ギタ。元はと言えば、お前の案だろうが。俺は、刺し違えてでも、トグリーニの族長の気を変えると言ってんだ」
「鷲殿、しかし――」
「それ以上、言うなよ」
鷲は、右掌をギタへ向けた。舌先で音を鳴らす。
「鬱陶しい。それ以上ぬかすようなら、張り倒す」
豪華な金赤毛の頭を肩にあずけて眠っている主人を、ギタは、かなり不安そうに眺めていた。やがて、ひとり頷くと、深々と頭を下げた。
「宜しくお願いします。鷲殿」
「鷲」
二人の遣り取りを眺めていた雉が、沈んだ声で呼んだ。鷲は、相棒を振り返る。
「何だ。止めるつもりじゃないだろうな、雉」
「そんな無粋なことをするかよ。……おれに出来ることはないか?
「いや。ひとりで行く」
心配そうな鳩とオダを尻目に、鷲の口調は、
「お前は、ここに居ろ。鳩と鷹を頼む。……ルツ」
《星の子》は艶やかに微笑み、鷲を眺めた。
「見張りの兵士達の注意を、私が逸らすわ。大丈夫……任せて頂戴」
「よし。じゃあ、行ってくるか」
両手の指を鳴らして、鷲は立ち上がった。
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