第四章 飛鳥憧憬(6)

*性的な描写があります。


             6


『本当に、戦いの民なんだな……』


 故郷に凱旋したばかりのトグリーニ族の男達が、急な出征に不平一つ言わず、アルタイ山脈越えに挑むのを、隼は、驚嘆して見守った。

 近隣諸国がおそれるのは、この機動力だ。通常の倍の速度という無謀な行軍を成し遂げ、三日目にはカザへ到着出来そうだった。

 リバ山脈とアルタイ山脈の間の峠には、幸い、雪はまだ積もっていなかった。しかし、馬も吹き飛びそうな強風には、白いものが混ざっている。殆ど日の差さない曇天の下、一日じゅう馬を叱咤して駆けつづける。


「我々にとっては、寒いくらいがちょうど良いのです」


 人馬ともに鎧で武装するオルクト氏族長は、そう言って、豪快に笑った。

 

 日中の行軍を終えると、彼等は移動用の天幕を張った。ユルテ(移動式住居)とは違い、かなり簡素なものだ。獣脂の灯をともし、持ち運び可能な鉄製の簡易炉に火をおこして、食事と暖をとる。

 隼はトグルと一緒だが、彼の天幕は、氏族長と将軍たちの会合の場でもある。トグルは、深夜までオルクト族長と部下達と、戦略を話し合うのが常だった。

 隼は疲れていたが、風の唸り声が耳について眠れなかった。


「……スマン。煩かったか」


 部下を各々の天幕へ帰らせた後、トグルは、羊の毛皮にすっぽりくるまった隼が、膝を抱えてすわった姿勢で瞬きを繰り返していることに気づいた。

 隼は、かぶりを振る。

 トグルは、炉の向こうで胡座を組み、地図を眺めている。行軍の経路と速さを確認しているのだろう。その頬骨に疲労がにじんで見えた隼は、つい労わった。


「大変だな」

「いつものことだ」


 トグルの表情は、変化に乏しい。口調も単調だが、緑柱石ベリルの双眸は、常に静穏だ。地図から目を離さずに言った。


「タイウルト族との戦いの時は、もっと酷かった。俺は、慣れているからいい。お前は寝ろ。身がもたんぞ」

「ああ」


 隼は頷いたが、ふいにぶるりと身が震え、膝を抱えた腕に力をこめた。

 火を焚いているのに、この寒さは何なのだ。毛長牛ヤクの毛皮を敷いた足元から、羊毛布フェルトの壁から、痺れるような冷気が入ってくる。彼女は、身体の芯のぬくもりを保つべく、己を抱き締めた。

 しばらく奥歯を噛みしめていた隼が、気配に気づいて面を上げると、トグルが煙管を咥え、両手で地図をひろげた姿勢で、こちらを観ていた。編んだ黒髪が、外套の襟の上にこぼれている。

 隼は、白い息を吐いた。


「何だ?」

「……寒いのか」


 ようやく、気づいたらしい。トグルの声に、申し訳なさそうな響きが交じった。


「それで、昨夜も眠れなかったのか。早く言え」

「いや、大丈夫だ」


 隼は遠慮したが、彼は煙管の火を落して立ち上がり、炉をまわってこちら側へ来た。外套を脱ぎ、ばさりと彼女にかぶせる。

 目をまるくしている隼の冷えた髪を、襟の中へ入れながら、表情の無い顔のなかで、瞳だけがわずかに微笑んでみえた。


「ここの冬は越せないな、お前は」

「お前は?」


 行軍に、余計な荷物は邪魔だ。毛皮も何もかも、最低限しか持ってきていないのに……。隼は、隣に坐るトグルを、当惑して見上げた。


「大丈夫なのかよ」

「慣れている」

「……済まない」

 トグルは片膝を立てて座り、燃える炉の焔を眺めた。隼も、黙り込む。


 二日間、行動をともにしているが、この男は必要なことしか話さないので、隼も、話はしなかった。いきなりこんな風に肩を並べているのが奇妙に思われ、彼女は肩を縮ませた。

 トグルの方も、話したい事柄は山のようにあると思えたが、言葉を探しあぐねていた。


 トグルは、額にかかる髪を掻き上げると、軍団に命令する時よりも大きな勇気を動員して、重い唇を動かした。


「その……悪かった」


 呟いたトグルの横顔を、隼は、じっと凝視みつめた。

『この男、何を言い出した?』 そう思っているであろう彼女を見返せず、トグルは眉間に皺を寄せた。


「お前には、一度、謝らなければならないと考えていた。傷を負わせたうえ、勝手に、こんな遠くへ連れて来た。許してくれ」

「…………」

「明日は、カザ(キイ帝国の砦)へ到着する。お前は自由だ。仲間の許へでも、〈黒の山ケルカン〉へでも、好きな所へ、行くといい」

「トグル」


 意外だった。この男は、もしかしてその為に――『あたしを、仲間の許へ送る為に、連れて来たのか?』

 そう考えてしまうほど、彼の声には、真摯な気遣いが感じられた。

 隼は、そっと訊ねた。


「戦争になるのか? どうしても、リー将軍をたおさなければならないのか」

「……さあな」


 トグルは振り向いたが、真っすぐな紺碧の瞳と出会い、うろたえ気味に視線を逸らした。


「追い詰められた女将軍と戦うのは、気がすすまない。だが、キイ帝国の連中は、俺達を通しはしないだろう」


 隼は眼を伏せ、彼の言葉の意味を考えた。

 トグルは、彼女の氷の彫像のような容貌すがたに感心しながら、聞こえる限界まで声をひそめた。


「ハヤブサ。この前の話だが……」


 隼が、こちらを向く。トグルは、今度は眼をそらさずに、深い湖をおもわせる瞳を見詰めた。


「……考え直さないか。俺は、お前を気に入っている。タオやトゥグス(オルクト氏族長)に、お前を殺させたくは、ない」


 隼は、息を殺した。

 この男が至極 真面目に話をしているのは判ったが、どう考えればいいのか判らなかった。胸中をざわつかせながら眼を閉じ、開け、溜息をついた。


「あたし達、同じことを考えているんだな。あたしは、お前に仲間を殺させたくない。お前とリー将軍を、戦わせたくない。……お前を殺したくない。お前は、あたしを殺させたくない。どうどう廻りだ」

「俺達と、キイ帝国のようにか?」


 滑らかなトグルの声は、するりと耳に入って来る。それを心地よく聴きながら、隼は首肯した。


「お前の言う意味は、解るつもりだ。悪循環を断つ方法が、一つはある。オン・デリクの考えと同じなのが、いささか癪だが。俺は、奴とは違うつもりだ」


 トグルは言葉を切り、顎に片手を当てて考えた。彼の仕草を視界の隅に捉え、隼は、鼓動が早くなるのを感じた。


「上手く言えないが……俺は、お前を、他の女とは違うと思っている。お前なら、氏族の女達とは違う風に、俺のことを観られるのではないか。どうだろう、今すぐ俺に好意を持てとは言わない……考えてみてはくれないか」

「…………!」


 振り返った隼は、トグルの眸と出会い、動揺して顔を背けた。『こいつは、今、何と言った?』 鼓動が、さらに早くなる。凍えていたのに、項から頬へと熱がのぼった。

 トグルは、生真面目に続けた。


「難しいとは、思う。俺自身、族長でない自分など、想像がつかない。だが、お前なら、出来ないか? ハヤブサ」

「待ってくれ……!」


 隼は、掠れた声で遮った。胸が、破れそうだ。彼の視線を頬に受け、そろそろと息を吐いた。


「待ってくれ、頼む……。いちどに言われたら、わけが判らなくなる。お願いだ」


 トグルは、素直に黙った。

 隼は、数回 唾を飲み、ようやくまともな声を出すことに成功した。


「あたしは、お前が思ってくれているような奴じゃないよ、トグル。お前が嫌っている女達と、変わらない……。自分の弱みを他人に見せられず、強がっているだけだ」


 トグルは、静かに隼を見詰めていた。彼女がそう言い出すと、最初から承知していたかのように。次の台詞を待っている。

 隼は、居たたまれなく感じた。――言わなければならないのだろうか、この男に。忘れられずにいる想いを……自分から揺り起こすことは、辛かった。

 胸が、引き裂かれるように痛む。掌でおさえ、隼は、眼を閉じた。


「あたしには、惚れた男がいたんだ」


 トグルはわずかに眉を曇らせたが、巌のような表情は、殆ど変化しなかった。

 ふるえだしそうになる声を、隼は、なんとか抑制した。


「そいつは、あたしの姉に惚れていた。姉も、そいつが好きだった。……だから、あたしは、諦めるつもりでいたんだ。姉の方が、大事だった」


 トグルは口を開けかけ、止めた。紺碧の瞳が哀しみに翳り、今にも泣き出しそうに揺れていることに、彼は気づいた。


「ところが、鵙姉もずねえは、あいつを残して死んでしまった。想いを打ち明ける前に……。あたしは、彼女を守れなかった。鵙姉を殺したのは、あたしだ」

「…………」

「辛くて、苦しくて……あいつは、酷い状態だった。そんなあいつを、見ていられなかった。なんて――言い訳だ。あたしは、ただ、抱かれたかっただけなんだ」

「…………」

「鵙姉を死なせてしまっただけでなく……あたしは、彼女を裏切った。きっと、心のどこかで、ホッとしていた。姉妹で男を獲り合わなくて済むと……。そういう気持ちがなかったなんて、言えない。ずっと、考えるのが恐かった」

「ハヤブサ」


 両手で顔をおおう彼女に、トグルは呼びかけた。自分のことばで自分を傷つけている隼に、話を続けさせない方が良いと思えたのだが、何と言って止めればよいか判らなかった。

 隼は、両の掌を愕然とみつめた。外套がはだけ、細い肩があらわれる。


「あたしは、あいつを寝取ったんだ。鵙姉から」

「…………」

「いろいろ言い訳をして来たけれど……やったことに変わりはない。鵙姉とあいつの二人ともを、あたしは、裏切ったんだ」

「……いや。俺は、そうは思わない」


 トグルは、溜め息を呑んだ。彼女の肩に外套をかけ直しながら、語りかける。隼は、落ち着いた低い声に耳を傾けた。


「ハヤブサ。何故、自分を貶めるのだ。お前を抱いた男は、その時、お前を必要としていたのだろう? 死んだ女の方ではなく。お前も、相手を必要としていた。それだけではいけないのか?」


 隼は項垂れた。銀の髪が胸にこぼれ、皓い項がのぞく。トグルは、粛然と続けた。


「お前は生きている。その男も……。生き続ける為に、お前達が互いを必要としたのなら、死んだ者に負い目を感じる必要はなかろう。仮に、お前の言う通りだとしても……生きていく為には、人は、己を赦すことを覚えなくてはならない。生涯罪を背負って生きるには、一生は永いし――」


 ふいに、トグルは苦笑した。皮肉な嘲笑が、唇の隅に閃いて、すぐ消えた。


「――己を赦してしまうほど簡単なことは、この世にはない」

「ああ。判っているよ」


 隼は、首を左右に振った。血の気のうせた唇で囁く。


「だけど、あたしは赦せないんだ。これから十年……もし、二十年も生きたら、平気になるかもしれない。あいつを愛せるのかもしれない。でも、それはもう、『あたし』じゃないんだ。鵙姉を忘れてしまったら、あたしは、あたしではなくなるんだよ」

「……そうか」


 突然、トグルは気づいた。吾知らず、表情に哀しみがよぎる。胸の奥に、重石が落ちた。


「お前は、まだ、その男が好きなんだな? ならば、ここで俺が何を言っても、無駄ということだな」

「…………!」


 隼は眼をみひらいた。打ちのめされて呼吸が止まり、身体が、小刻みに震えだす。

 彼女が片手で口をおおうのを、トグルは、怪訝な気持ちで眺めた。


「あ。……あたしは」


 隼は、鋭く息を吸いこみ、涙の浮かんできた眼を閉じた。呼吸を落ち着けようと努める。まなうらに宿る面影を首を振ってうち消し、肩を抱いた。


「違う。あたしは……愛しているわけじゃない。そんなことを、してはならないんだ。二度と」

「…………」

「忘れて欲しいのに、あいつは忘れない。忘れられない、あたしは。……怖いんだ」


 嗚咽を呑む隼を、トグルは観ていた。触れたら折れてしまいそうな肩を。――彼女の本当の心を、知ったように思った。


 天幕を叩く風の悲鳴にかき消されそうになる隼の声を、トグルは聴き取った。


「恐ろしい、あいつの気持ちが。挫けてしまいそうになる。いつか、全て、投げ出して……。そうなったら、あたしはもう、あたしでは、ないのに。あいつは、あいつでは――。あたしは、自分が怖いんだ」


 トグルは、眼を閉じた。彼女の息遣いを間近に感じ、抱き締めたくなる衝動を抑えて。いくつかの台詞を口のなかで噛み潰したのち、囁いた。


「お前を、仲間の許へ帰さなければならないと思っていたが……。仲間とともにいる方が、お前にとって辛いなら、帰したくはない」


 隼は、凍りついたように前方を見詰めている。泣き濡れた紺碧の瞳が、炉の炎を照り返して虹色に輝いている。

 トグルは、しずんだ口調で続けた。


「ハヤブサ。俺とお前は、似ていると思う。俺達は……誰も観ず、己すら信じられない臆病者だ。俺は、お前なら、信じられる。お前は――」


 言葉を切り、彼は、彼女の項を見下ろした。片手を伸ばし、そっと、蒼ざめた頬に触れる。

 隼が、びくっと身を震わせる。自分の方を向かせるトグルの手に、おとなしく従いながら、唇がわなないた。かれの瞳が己を映すのに怯え、瞼を伏せた。

 頼りない少女のようになっているかんばせに手を添え、トグルは、息だけで囁いた。


「……俺では、駄目か?」


 隼の呼吸が、一瞬止まる。彷徨っていた瞳が、彼の面で焦点を結んだ。


「俺ならば、お前にそんな思いはさせないだろう。忘れさせることが、出来るかもしれない。……ハヤブサ」


『トグル』 応えようとしたが、声にはならなかった。彼の掌の温かさに、隼は絶句した。

 ただ喉を塞ぐ切なさに、彼女は喘いだ。涙が零れ落ちる。


 彼女の動揺を、トグルは、つよく眉根を寄せて見守っていた。瞳に翳が宿る。しばらく躊躇していたが、隼の頬から片手を離すと――彼女を引き寄せた。

 両手で肩をつかみ、拒絶されることを怕れつつ、トグルは、彼女の唇に、唇を重ねた。触れるか触れないか、ぐらいに。それでも、凍えた感触は伝わった。

 茫然としている彼女を、トグルは呼んだ。


「ハヤブサ」


 隼の唇が、もの問いたげに開かれた。澄んだ湖のような瞳から、涙があふれて頬を伝う。

 くずおれそうになる身体を抱き締め、トグルはもう一度、今度は、しっかりと口づけをした。

 外套が落ちる。背がしなう程だきよせられた隼は、厚い胸に顔を埋め、嗚咽に喉を震わせた。身を斬られそうな優しさが伝わる。ぬくもりが……。しがみついて、彼女は泣いた。初めて感じる狂おしい愛しさに。


「トグル……!」


『忘れさせてくれ、どうか。何もかもを――』

 声にならない懇願を聴いたトグルは、彼女の髪を掻き撫でると、眼を閉じ、己の裡に湧き起こる想いに身を委ねた。


                 *


 トグルは、ていねいに、慎重に、彼女をひらいた。

 忍び込む夜気からまもるように身を重ね、比類ない練絹ねりきぬの肌を、掌と唇で、あたためる。残ってしまった剣と矢傷の痕を、ひとつひとつ数え、癒すように。それは、閉じられた瞼から、まろやかな胸の頂き、秘所は勿論、血色のあつまる爪先に及んだ。

 隼は息があがり、心臓は早鐘を打って、胸が破れそうに感じた。堪えようとしても、唇からは、歔欷きょきに似た声がもれる。思考は熱に融け、たしかに全てを忘れ、考えられなくなった。

 内心、おそれていたのだ――これまでは辛いばかりで、およそ女性の得る官能などとは縁遠かった故に。自分は、生涯、そういうものを知ることはないかと。

 筋肉ばかりの硬い身体も、小さな乳房も、今更ながら気おくれした。

 トグルは、彼女の懸念を、あっけないほど簡単に取り去った。骨が抜けたかと思うほどとろけ、乱されながら、隼は、与えられた安堵とぬくもりに溺れた。


 忘我のひとときが過ぎて。隼から離れたトグルは、彼女の傍らに、その滑らかな肩を抱いて横になった。

 隼は、されるに任せている。泣き濡れた眼をうすく開け、ぼんやり天井を眺める横顔を、トグルは、密かな感動をもって見詰めた。

 小さくなった炉の炎が、やわらかな黄金の光を周囲に投げかけている。その光に陶然と照らされた彼女の身体は、いよいよほの白く、うちがわから輝いて見えた。清らかな、幻のごとく。

 トグルは息を殺した。そうしないと、今にも消えてしまいそうに想われた。

 ほそい首と、しなやかな長い四肢。白銀の髪にふちどられた横顔は、凛々しい少年のようだが、銀の睫にけぶる碧の瞳は、愁いをおびた女性のものだ。焔は小刻みに揺れて、ゆるやかな半月を描いた胸や、痛々しいほど肉づきのうすい腰のまわりに、淡い紫の陰を落としている。

 胸がかすかに上下していることに気づかなければ、彼女は、美しい死人のようだった。


 儚いぬくもりを外套に包み、トグルは、何度目かの溜め息を呑み込んだ。

『まずいな』――と思う。本気で惚れているらしい。

 手放したくない。その為なら、何を投げ出しても構わない。

 族長にあってはならない衝動を己にみつけ、トグルは困惑した。

 後悔をおぼえながら隼を見遣ったが、静謐に横たわる彼女は、トグルの知るどの女性よりも麗しく、彼は心を乱された。


 一方、隼も、考え込んでいた。トグルの腕に身をあずけ、長くうねる銀髪のなかに頭を沈めて。気だるい快楽の波間にたゆたいながら、視線を宙に彷徨わせていた。

『何をしているのだろう、あたしは……』 自問しても答えはなく、物悲しい切なさが、胸を浸した。

 昂っていた気持ちは落ち着いたが、判らない。何故、こうなってしまったのか。

 あたしは、トグルが好きなのだろうか? それとも、彼を利用しているのだろうか。――甘い痛みに胸を衝かれ、隼は眼をみひらいた。

 そんなつもりはない。けれど……『あたしは、雉を、愛している?』 否定も肯定もできない。しかし ……『トグルを、愛している?』 敵であるはずの男を?

 自分の問いに、愕然とした。



 トグルが身を起こした。片方の膝を立てて腕を伸ばし、炉のなかで消えかけていた火をかき熾す。天幕のなかが明るくなる。

 上着を羽織った広い背を、隼は、横たわったまま眺めた。狼を思わせる精悍な横顔が、物思いに沈んでいる。

 隼は、そっと呼んだ。


「トグル」


 穏やかな瞳が、肩ごしに顧みる。身のうちを震えるような衝撃がはしり、隼は、息を詰まらせた。

『ああ。あたしは――』

 裸身にかけられた長衣デールと外套を胸元にひき寄せ、そろそろと息を吐いた。


「トグル。……あたしは」

「何だ?」


 トグルが、身体ごと振り返る。漆黒の髪が、先刻 抱かれたばかりの胸に零れた。

 隼は、ためらった。『あたしは、何を言おうとしている?』


「お前は、約束を、守ってくれた。ニーナイ国から手を退いて……リー将軍からも。ここまで、来てくれた。だから、あたしは――」


『お前を、好きになってみようと思う』


 そんな風に、言いかけたのかもしれない。

 トグルが片手で顔を覆ったので、隼は、怪訝に思って言葉を呑んだ。

 彼は首を振り、濁った声で呟いた。


「……参った。そんなことを考えていたのか」

「…………」

「お前のせいではない。しかし、これは――」


 その時、隼は、己の拙い台詞が彼にどんな風に聴こえたのかを察した。身体から血の気が引いていく。

 トグルは面をひと撫ですると、弱々しく苦笑した。眸は、隼を観ていなかった。


「誤解されることには慣れているが……。待ってくれ。今のは、こたえた……」

「トグル」


 隼は、急いで起き上がった。髪が、肩をすべり落ちる。

 トグルは片手で鳩尾をおさえ、苦痛に耐える風情だったが、やがて、一語一語を区切り、うめくように応じた。


「話してきたつもりだが、通じていなかったのだな……。仲間のためなら、やめてくれ。身勝手かもしれぬが……お前の仲間を助ける条件に、お前を望んだわけではない」


 隼は、トグルが自分を正確に理解してくれていることを知った。伝えたかった気持ちと言葉が乖離して、彼を傷つけたことも。

 どうすればいいのだろう……。

 トグルは、彼女から顔を背け、苦い声音で続けた。


「俺は、お前を、客人ジュチとして扱ってきた、つもりだ。どうやって仲間の許へ帰そうかと、考えていた。リー将軍の許へ帰せば、仲間とともに、大公に討ち取られる。まとめて援ける方法を、探していた」


 自嘲気味に唇を歪める。


「最初から、こう言えば良かったのだな。『お前の仲間と戦うつもりはない。だから、自分を貶めるな』 と……。お前には、偏見がない。国でなく民を、民族でなく個人を観られる、稀有な存在だ。きっと、仲間もそうなのだろう……。自由なお前が羨ましい反面、憎くも思った。お前達に憧れている、俺は」


 彼女を顧みたトグルは、胸を刺す苦痛に、視線を落とした。


「……お前が好きだ、ハヤブサ。己の心からも自由であり続けようとする、お前が……。俺に対して、何も、背負う必要はない」


 隼は茫然としながら、これまで心を占めていた感情が何であったのかを、ようやく理解した。

 敵だと見做していたのは、自分の方だった。確かに、トグルは、対等な者として扱ってくれていた。

 彼は、誠実だった……いつも。いつだって……。

 ――しかし、伝えることは出来なかった。今言うと、全てが妄言うそになってしまう気がした。

 言葉と想いの間によこたわる溝をまえに、途方に暮れた。


 トグルは、黙然としていた。話を再開したとき、緑柱石ベリルの瞳は、深い憂愁の淵に沈んでいた。


「誤解をさせて悪かったが、俺は、既に決めている。お前に、俺の許へ来てくれる気持ちがあるなら、そうしてくれ。――答えがどちらだろうと、俺は、お前達を、援ける」


 トグルはそう呟くと、淋しげに微笑んだ。





~第五章へ~

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