第四章 飛鳥憧憬(5)
5
使者といくつか取り決めを行い、キイ帝国へ帰らせた後も、トグルは、長老達と天幕にのこり、戦略について話し合った。
その場に隼が居続けられるわけもなく。一人でユルテ(移動式住居)に戻ったのは、もう陽が西へ傾いた頃だった。
『どうすればいいんだろう……』 タオのユルテへ帰る道すがら、隼は、考え込んでいた。誰かに相談したいが、そんな相手はいない。
――鷲。トグルは、リー女将軍を殺すつもりだ。やはり、キイ帝国とは相容れないのか。あたし達は、無関係なくせに他人事に手を出した、偽善者にすぎないらしい。
あいつは、はっきりそう言ったよ。
薄紫の冷たい夕風に髪をなぶらせながら、隼は、胸の中にも、それが吹き込んで来るのを感じていた。ひどく物悲しい。
タオ、トグル……あの兄妹に、自分は心のどこかで、しっかり甘えていたのだ。彼らの厚意が、いつまでも続くことを期待していた。
『とんだ、自惚れだ』
トグルは族長で、己の意志や感情よりも、氏族の利益を優先させなければならない。知ってしまった故に、隼は困惑した。
『あたしは、あいつを斬れるのか?』
こうなることを
鷹、鳩……お前達を、傷つけたくない。雉、お前を敵にまわすのは、耐えられない。オダ、だけど、あたしは同情してしまう。
お前と同じだ、鷲。セム・ギタやリー・ディア将軍に同情するお前を、あたしは
『人質も出さずに言うことを聴かせようというのは、虫がよかろう』
トグルの冷めた声が脳裡によみがえる。隼は、足を止めた。
『お前と俺は、
『お前、俺と、結婚しないか?』
人と馬の足に踏みしだかれ、むきだしになった大地に視線を落とし、隼は考えた。――あたしと、あいつが? あれは、そういう意味なのか?
機会を与えてくれようと言うのか。
ならば、あたしは……。
一瞬、するどく貫かれるような痛みを胸に感じて、隼は呻いた。自分の胸を片手でおさえ、眼を閉じる。
掌の下で規則ただしく打つ鼓動は、弱々しく、今にも途絶えてしまいそうに思われた。
『あたしは――』
ようやく開けた眼に、枯れた草しか見えないのは、切なかった。
落ち着け。何を動揺している? 命の駆け引きをしているあいつにとって、大したことではない。それだけが、あいつを手に入れる方法だと承知しているから、大公は、幼い公女を差しだすのだ。
隼は、再び眼を閉じた。足を踏み出せば、心まで揺れそうで、動けない。まなうらに浮かぶ面影をかき消し、嘆息する。
決められない……。答えを先延ばしにすることは、逃げることと同じだと思いながら、自分の心すら、自由に出来なかった。
ユルテ(移動式住居)の前では、主のタオが、羊たちを
「帰ったか、ハヤブサ殿。どうした? うかない顔をしている」
「お前こそ」
隼は苦笑した。タオの気持ちが解る。立場は正反対でありながら理解しあえる友情を、奇妙に感じた。
ユルテへ入る隼を見上げ、タオは、淋しげに苦笑した。
「お茶をいれよう。変に思ったろう? 急に出てきてしまったから……。貴女は、もうよいのか。兄上は、何か言っておられたか?」
「あいつは、何も。今、長老達と会議をしているところだ」
隼は帽子を脱ぎ、敷布の上に胡座を組んだ。タオは、彼女に
ナカツイ国風にお茶に
「ハヤブサ殿、私は間違っているのだろうか。兄上が間違っていると思うのは……。大公の娘を娶ることを、どうとは思わない。だが、何故いまさら、リー女将軍を殺しに行かねばならぬのだ。裏切りに荷担してルーズトリアまで出向くなど、誇り高い兄上のすることとは思えぬ」
「お前が間違っているとは、思わないよ」
隼は、お茶で唇をしめらせ、両手で器を持った。やわらかな褐色の水面を眺め、考えながら言う。
「リー将軍を殺せば、キイ帝国の民衆の憎悪は、お前達に向けられる……。大公は、将軍家の兵力を手に入れ、お前達を討つだろう。のこのことルーズトリアへ出て行けば、捕らえられ、殺されてしまう。――誰にでも判る罠だ。それなのに、どうして話に乗るのか。長老達が止めない理由が、あたしには判らない」
隼は、疲れた気分で
「それで、考えているんだ。タオ」
「何だ? ハヤブサ殿」
「……もしも。あたしが、トグルと結婚すると言ったら……あいつは、今度の出兵を、やめてくれるだろうか?」
傍らのタオが黙ったままなので、隼がそちらを向くと、草原の娘は、緑の瞳がこぼれおちそうなほど眼をみひらいて、彼女を
隼は、どんな
タオは我に返ると、瞼を伏せる
「ハヤブサ殿。何故、急にそんなことを言う?」
「……あいつに、リー女将軍を殺させたくないんだ」
隼は、溜め息をついた。
「あたしの仲間達を……。お前達を、敵にまわしたくないんだよ、あたしは」
「兄上を、好きなのか?」
タオは眉間に皺を寄せ、真剣に訊ねた。
「好いて下さっているのか? ハヤブサ殿。それで、そんなことを言われるのか?」
『好き? あいつを?』 隼は動揺した。わからない……そんなふうに、考えていなかった。
隼は、彫りのふかい眼窩を長い指でひと撫でし、項垂れた。
「あいつを、斬りたくないんだ……。自分の命を惜しんでいるんじゃない。殺したくないんだよ」
「ハヤブサ殿」
タオは、身体ごと彼女に向き直った。声に力をこめ、真顔で説く。
「貴女と私達は、価値観も、考え方も違う。私にはよく解らぬが、貴女達の感覚では、好きでもない男と結婚するのは、嫌なのではないか」
「…………」
「貴女が兄上のことを好いて下さっているのなら、私は嬉しい。だが――そうでないのなら、止めた方がよい。貴女にとっては、不幸だと思う。……兄上にとっても。私は、貴女に、不幸になって欲しくはない」
隼は虚をつかれて、草原の娘をみた。
たしか、タオは顔も知らない許嫁がいたと言っていた。トグルも。大公の幼い公女のことといい、彼等にとってはそちらが普通で、隼たちの方が特殊なのだ。
しかし、隼は、また混乱してしまう。トグルを嫌いなわけではない……。
扉をかるく叩く音が、会話を遮った。
娘達が振り向くと、トグルが、ユルテ(移動式住居)の入り口の柱に寄りかかり、こちらを見ていた。
「……話をしているところを、邪魔して悪いな」
感情の読めない
「大公の婿に用はないぞ、私は」
「まだ拗ねているのか、お前」
トグルの心地よい声に呆れた響きが交じるのを、隼は、落ち着かない気持ちで聴いた。タオは
トグルが隣に来て胡座を組むのを、隼は、視界の隅で見守った。彼は、懐から
「ひとの話を最後まで聴こうとしないから、来てやったのに。その言い草はなかろう。俺の方は、用があるのだ」
「あれ以上、何を聴けと言うのだ」
「お前には、してもらわなければならない仕事がある」
妹の癇癪には慣れているのか、トグルは、差し出された
トグルは隼を見ていなかったが、新緑色の眸は思慮深い。妹が正面に腰を下ろすのを待って、きりだした。
「まず。ハヤブサの旅支度を、手伝ってやれ」
「へ?」
隼も、驚いた。
毒気を抜かれてきょとんとする妹を、トグルは、苦嘲いして眺めた。
「へ? ではない……お前がせずに、誰がするのだ。ハヤブサは、アルタイ(山脈)の険しさも、真冬の
隼は、自分を指さして訊ねた。
「あたしも、行くのか?」
「来ないのか?」
トグルは、やや憮然と問い返した。
「ハヤブサ、お前は、仲間を見捨てるのか? 約束の一ヶ月は、まだ終わってはいない。その間に、俺がニーナイ国へ侵攻するか、リー女将軍と戦端を開いたら、お前は、俺の首級をとるのではなかったのか」
「…………」
「俺とお前の決着は、まだついていない。一緒に来い」
トグルは、黙り込む隼から、妹へと視線を移した。
「タオ」
兄と隼のやりとりを見詰めていたタオが、息を呑む。
「な、何だ? 兄上」
「お前は
「はあ?」
頓狂な声をあげる妹を、トグルは無表情に見返した。隼は、兄妹を交互に眺めた。
「あの、兄上……何のことだ? 二万の騎馬を率いて、私が?」
「……俺がいつ、リー女将軍を
タオは口を閉じ、さっと頬を引き締めた。トグルは平坦な口調で続けた。
「いつ、俺がオン・デリクの飼い狗に成り下がった。長老達は判っているぞ。俺に、大公の
「それでは、兄上……」
「
僅かに白い牙をのぞかせるトグルの風貌は、獲物を狙う狼を思わせた。
「
「…………!」
絶句する、隼。トグルの口調は、
「ただし、以後は知らぬぞ……。リー女将軍が頑迷に俺達に向かってくるなら、戦わなければならない。
「仲間に、手を出すな」
言い返しながら、隼は、自分の裡に、焔のような感情があることに気づいた。熱く燃えさかり、全てを焼き尽くさずにはいられない。
「あたしの仲間に、毛一筋でも傷をつけてみろ。あたしは、お前を殺すからな」
「……いい勝負になりそうだ」
トグルは、眩しげに隼を眺め、呟いた。
「俺はお前を懐柔しようとし、お前は、俺を殺そうとするわけだ。面白い……。決着をつけよう」
氷の焔のような眼差しでトグルを見据える隼と、平静に彼女を見返すトグル。二人を交互に見ていたタオが、おずおずと声をかけた。
「それで。どうなさるのだ? 兄上」
トグルは、妹に向き直った。
「アラルが五万、テディンが三万の騎馬を率い、先発する。陽動だ。北からハル・クアラ部族とともにトゥードゥ(ルーズトリア北にある砦)を攻め、ハン将軍(キイ帝国の北方将軍)をひきつける。俺は、トゥグス(オルクト氏族長)と一万の騎馬を率いて、カザへ向かう」
「しかし、それでは――」
少なくないか? と言いかける妹を、トグルは、軽く片手を振って遮った。
「リー女将軍と
「承知した。兄上」
真剣に頷くタオの瞳にも、明るい輝きが戻っていた。トグルは頼もしげに妹を眺め、お茶を喉に流しこんだ。
「相手の裏をかくのが作戦だ。親父も、盟約は破るためにあると言っていた。――タオ。せめて、惚れた男の裏をかけるくらいには、成長しろ」
「……その一言は、余計だ。兄上」
狼の兄妹の会話を、隼は、ただ呆然と聞いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます