第四章 飛鳥憧憬(4)
4
『そう言えば。リー・ディア将軍は、ルーズトリア(北の国の首都)に母親が居ると言っていたな……』
するすると足早に歩くトグルの後を、タオと並んで行きながら、隼は思い出した。
――そうだ。だから、人情によわい鷲の莫迦が、ディア将軍を助けてタオを殺そう、などと言い出したのだ。
もし、あのとき鷲がトグルを知っていたら、タオを殺すなんて考えられなかっただろう。最初からお互いを知っていたら、事態は、こんなにこじれなかったかもしれない。
隼は、苦い思いを噛みしめた。
リー女将軍に起きた不幸をトグリーニ族に報せに来たのは、他でもない、オン・デリク大公の使者だった。表の喧騒はまだ続いていたが、さすがに、男達は緊張して族長を見守った。
トグルの隠れ場所はすっかり知られてしまったわけだが。無表情の仮面をかぶり、黒い外套を翻していく草原の狼には、そんなことは、もうどうでもよいのだろう。
天幕の中には長老達が揃っていて、
キイ帝国に特徴的な金赤毛を短く刈りこんだ男が、玉座の前に坐っていた。
「挨拶はぬきだ。説明しろ」
背後から通りすがりに声をかけられて使者は仰天したが、トグルは構わず、どさりと投げ出すように長身を玉座にあずけた。
「呼び戻しておきながら、何故、リー女将軍の老母を殺した。それほど戦争を起こしたいわけか、オン・デリクは」
「よく、ご存知で」
隼は、長老達より上手の椅子に案内され、タオと並んで腰を下ろした。トグルの横顔がよく見える場所だ。普段しずかな彼の声に、あらい響きを聴きとった。
縁談をもって来た男とは違い、
「俺を愚弄する気か」
「…………」
「貴様にもオン・デリクにも、そんな権限を与えた覚えはない。訊かれたことに答えよ。オン・デリクがリー将軍家を滅ぼさんとする、理由をな」
そういって唇を歪める。隼は、彼が全てを承知していると気づいた。直感的に悟る。
トグルの頭の中には、過去から現在に至るキイ帝国の状況、導き出されるあらゆる未来の選択肢が、整然と並べられている。今回の出来事も、その一つに過ぎない。洞察力に優れた鷲同様、彼は、未来の一部を
しかし、鷲は……それを変えようにも、個人の知恵と力と、仲間たちの僅かな助力しかあてに出来ないが。トグルの方は、運命を動かす巨大な力の一部を、ある程度、己の意思で動かせるのだ。
彼自身の自由と引き換えに。
使者は、頭を下げて非礼を詫びた。
「リー・クオンヒ様を
トグルは椅子に頬杖をつき、瞼を伏せた。関心があるのかないのか判らない、相手を見捨てたようなその態度に、使者はきょときょと目を泳がせた。
「リー女将軍がルーズトリアへ帰還するまで、人質として監視しておりました。ところが、老女将軍は、こちらの僅かな隙に、喉を裂いてしまわれたのです。このことを知るのは、大公家の者と、貴方がただけです。トグル・ディオ・バガトル殿」
「烈婦は賞賛されるべきだが。俺達には関係ない」
トグルは冷淡に言い捨てた。精悍な顔が横を向き、壁に掛けられた氏族旗を眺める。
「貴様らは、敵前で兵を退くことを潔しとせず、敗れて生き恥を晒すことを嫌い、虜囚となって味方の枷となることを
「リー女将軍は、未だこのことを知りませぬ」
意味ありげな使者の口ぶりに、トグルは目だけで彼を顧みて、すぐ逸らした。
使者は、そんなことには構わず、得意げに続けた。
「
「寝言を言うな」
『遂に来たか……』 ぞっとしない気持ちで、隼は使者の口上を聴いた。長老達は互いに顔を見合わせ、オルクト氏族長は、鼻の下の豊かな髭を指先でこすっている。
頬杖をつくトグルは、相変わらず無表情だ。低い声に、かすかに憮然とした気配がただよう。
「この時期に、騎馬を率いてアルタイ(山脈)を越えろだと。凍死者が出るぞ。貴様等にはどうでも良い
「め、滅相もございません」
タオと長老達が、ひそひそと話し合っている。なんだろうと隼が思っていると、トグルと目が会った。
長い前髪の下から、眼尻の吊りあがった切れ長の双眸が、いつからか隼を見詰めていた。鮮やかな新緑色の瞳が、彼女の心の動きを読み取ろうとしている。
『何だ? あたしに、何か言えというのか?』
わけもなく反発しかけた隼は、彼に対してそういうことが多いと気づいた。
トグルは、ふと
トグルは表情を消すと、焦って声をあげる使者へ視線を戻した。
「誤解です。貴公は、公家の婿になられる方ではありませんか。その御方の血族を、どうでもよいと考えるなど……。大公は、予期せぬ事態に困っておられます。貴公を息子と思し召し、頼っていらっしゃるのです」
「……生憎、俺の方は、奴を親父と呼べるほど図太い神経を持ち合わせてはいないのだがな」
トグルが皮肉を言うところを、隼は、初めて見たように思った。
タオは、あからさまに
「己の所業を考えれば、そこまで厚顔になれぬ。そも、肝心の公女は、未だたどり着いていないぞ。
「兄上……」
トグルは妹の為にふざけたのだが、あまりに出来の悪い冗談だったので、タオは呆れた。隼も……こいつのこういうところは何とかならないのか、と思う。
使者は蒼ざめている。トグルは、唇だけで嗤った。
「人質も出さずに言うことを聴かせようというのは、虫がよかろう」
「ここまでの道のりは、幼い姫には過酷です。大公は、リー女将軍を葬ってから、迎えを寄越して欲しいと仰せです」
「……やられたな」
おそるおそる使者が応えると、トグルは首を反らせて嗤い出し、長老達は一斉に気色ばんだ。タオも、あんぐり口を開く。
隼が見ると、オルクト氏族長は眉尻を下げて苦笑し、アラル将軍は片手で顎を撫でていた――歯が痛むかのように。
「
トクシンという白髪の長老が立ち上がり、しわがれた声で叫んだ。トグルは、片手で彼を制し、もう片方の手で己が額を押さえ、喉の奥で声を転がして嗤い続けた。
「
「かまうな、トクシン。俺が決めたことだ。……傑作だな。間抜けな二歳のタルバガンだ。狐の尾を振ってやるから、穴から出て来いと言う(注4)」
「貴公等にとっても、宿敵を
使者の額には脂汗がにじんでいた。トグルは嗤いを収めたが、眼差しは酷薄だった。
「逆賊を
「……フン」
トグルは、顔の筋肉を一切動かさずに鼻先で相手をせせら嗤うという、器用な真似をしてみせた。トクシン長老とタオが、不安げに彼を眺めている。
トグルは、平坦な口調で訊ねた。
「リー女将軍の一行は、あと何日でカザへ到着する?」
「二日です」
タオは息を呑んだ。長老達は黙っている。トグルは、顎に片手を当てて考えた。
「アルタイ(山脈)を越えるのに、最短でも三日かかる。
「我々が、リー女将軍を足止めします」
それも命じられていたことなのだろう。使者は、自信ありげに応えた。
「陛下の親衛軍よりは早いのです。ルーズトリアからカザまで、十日はかかります」
タオは、言いたくて言い出せず、ぱくぱく口を開け閉めしていた。そんな妹に気づいていないのか、気づいて無視しているのか、トグルは冷静だ。
「カザは要塞だ。リー女将軍にのっとられたらどうする。俺達は、どうやって長城を越えるのだ。まさか、
「城門を開放します」
トグルの瞳に、鋭い光が走った。
「……同じ国の人間を、売ろうと言うのだな」
「お約束して頂けますなら、必ず」
「兄上!」
遂に耐えかねて、タオが立ち上がった。長老達とオルクト氏族長、二人の将軍は黙している。
トグルは、妹に横顔を向けたまま言った。
「黙れ、タオ」
「いいや、黙らぬ! 兄上こそ、何故、こんな下郎に話をさせるのだ。私が斬り捨ててやる。汚らわしい! バガトル(勇者)に、このような話を持ちかけおって。愚弄するにも程がある。首を塩漬けにして、大公へ叩き返してやる!」
「……
小さくぼやいて、トグルは額を片手で覆った。口調は穏やかだが、言葉は厳しかった。
「落ち着け、タオ。そも、戦とは唾棄されるべきことだ。俺もお前も、他人をとやかく言えぬぞ」
「しかし、いくら何でも……!」
「下がれ、タオ」
毅然とトグルは遮り、タオは、それ以上話が出来なくなった。不承不承、座り直す。
重苦しい沈黙が降りる天幕の中で、トグルは、腕組みをして考えた。
「……よかろう」
やがて、呟いた彼の言葉は、その場に居合わせた全員の心を叩いた。タオが、鋭く息を呑む。
トグルは、硬い無表情で告げた。
「この話、引き受けよう。五日以内にカザに赴き――ルーズトリアへ向かえば良いのだな」
「お約束して頂けるのですか?」
「ジョルメ、カブル」
質問には答えず、トグルは、二人の長老に声をかけた。青年と、白髪の老人が、揃って頭を下げる。
「至急、男達に武装させろ。一万人、馬はその倍。軽装で良い。ユルテ(移動式住居)は持たせず、移動用の天幕と、食糧を用意してくれ」
「
「アラルに指揮を執らせますか?」
「いや、俺が行く」
カブル長老の問いに、トグルは
「リー女将軍を相手に、他の者では心もとない。俺が指揮を執ろう。ここまで膳立てしてくれた、大公への礼だ」
「さぞかし、お喜びになられると思います」
使者の社交辞令を、トグルは聞き流した。我慢できなくなったタオが、身を翻す。憤然と天幕を出ていく妹を、トグルは、うす
トグルは表情を消し、悠然とした仕草で脚を組んだ。再び頬杖をつく。
「さて。もう少し、詳しい話を聴かせてもらおう」
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(注1)バガトル: 勇者、英雄といった意味の〈草原の民〉の尊称。現代モンゴル語では「バァートル」。
(注2)パウルス: シベリア地方の伝説の黒毛長毛の犬の名。バルク犬。
(注3)
(注4)タルバガン: シベリアマーモットMarmota sibirica。中国内陸部、ロシア南部、モンゴル高原の草原に住む体長50㎝前後のげっ歯類の一種。北米のプレリードッグに似て、地面に穴を掘って棲む。
『二歳のタルバガン』とは、性成熟したばかりの未熟な個体で、落ち着きがないことを言う。
『狐の尾を振る』 タルバガンには、動くものを観ると動作をとめて立ち上がり、じっと観察する習性がある。狩るときには、この習性を利用して、キツネの尾にみたてたハタキを振っておびき寄せる。
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