第四章 飛鳥憧憬(2)


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「クチュウト族は、どうした?」


 いつものように使者達の持ちこむ問題を長老達と協議していたトグルが、珍しく、話の途中で考えこんだ。ややあって訊ねた彼の瞳が翳っていることに、隼は気づいた。


「クチュウトは、イル河畔に住む小氏族だ」


 タオが通訳がてら、小声で説明してくれる。長老達は黙りこみ、互いの顔を見た。

 トグルは、少し口調をやわらげた。


「今年は、まだ使者が来ていない。ザムカ老は息災そくさいか」


 ザムカ老とは、部族の長老の一人で、かつてオルタイト族に襲われて弱体化したクチュウト氏族を守る権限を与えられた者だと、再びタオが説明した。最近のトグルは忙しく、隼はタオのユルテ(移動式住居)で暮らしているので、いちいち説明している暇がないのだ。

 カブルという長老が、言いにくそうに、ザムカはクチュウト族の民に囚われていると答えた。

 トグルは、眉をくもらせた。


「いつのことだ」

「ひと月前です。その……ザムカ老は、特権を行使するのだと称して美女狩りを行い、かの氏族の怒りをかったのです」


 トグルの口がぽかんと開き、それから苦虫を噛み潰した。滑らかな声が、忌々しげに濁る。


「あの好色爺が……」

「ニーナイ国のこともありましたので、いい薬になると思い、放っておいたのです。長老会の判断ですので、盟主には申し上げませんでした」

「一か月もあれば、充分だろう。オーラト族のスブタイが、かの氏族とは親しい。スブタイに使いを頼んでくれ」


 真顔に戻ってトグルは言い、早速、スブタイが派遣された。しかし、翌日、彼も囚われてしまった。

 トグルは首をかしげて考えると、今度は、十人ほどの護衛の兵士とともに、ノイグという男を派遣した。武力に訴えず、事を穏便に解決するよう命じて。

 二日後。ノイグは、死体になって帰って来た。


 殺した後で首に縄をつけ、馬にでも曳かせたのだろう。遺体の皮膚はすりきれ、剥げ落ちて、全身襤褸ぼろのようになり、顔は誰だか判らなくなっていた。

 ただひとり生きてかえされた兵士が、それを担いで来た時、冷静なトグルも流石に立ち上がり、愕然と肉塊を見下ろした。

 オルクト氏族長とアラル将軍、他氏族の使者と長老達、タオと隼の前で――ちぎれかけた腕や脚にのぞく黄色い骨を凝視したトグルは、骨張った手で、己の額をおさえた。


 一瞬、長身が揺らいだのを見て、タオが小声でよびかけた。

「兄上……」


 トグルは、凍るような炎を宿した眸を上げ、命令した。


「イル河の流域を焼き払え。テディン、アラル将軍ミンガン

御意ラー!」


 待っていたかのように将軍たちは応え、天幕を出て行った。

 隼は二人を見送ると、玉座に戻るトグルを顧みた。彼は隼の方を見ておらず、横顔から、内心を窺うことは出来なかった。

 長老達は死体をかたづけさせ、彼等は、何事もなかったかのように政務に戻った。

 隼は、しばらくじっと、トグルを見つめた。何故だろう? と思う。

 命を下したトグルの声に、僅かな……本当に僅かではあるけれど、奇妙な違和感を、彼女は聴き取ったのだ。



 翌朝、辺りが薄暗いうちに水汲みに行くタオに、隼はついて行った。

 しなやかな痩身を濃紺の長衣デールで包み、毛皮の帽子をかぶった隼を、タオは、まぶしげに眺めた。――美しい天人テングリへの憧れは恋慕にも似て、友人というより恋人に接しているかのごとく、終始あまく微笑んでいる。そんなタオに閉口しつつ、隼も気を許していた。

 馬の鼻息や蹄の音を聞きながら井戸へ近づくと、トグルがいたので、タオは目を丸くした。


「兄上。どうなされた?」


 トグルは、馬を一頭連れていた。漆黒の身体で額に白い星の入ったイヒナス(六歳の牡馬)だ。神矢ジュベという名のその馬に水を飲ませる傍らで、彼は髭を剃っていた。

 桶に汲んだ井戸水に薄氷がはるほど、今朝は冷えこんでいる。氷を割って馬に飲ませた後の水で顔を洗い、妹を見上げたトグルは、眠そうだった。長い前髪から、水滴がしたたっている。長衣デールの袖で顔をぬぐうと、低い声で単調に答えた。


「俺が髭を剃ると、天変地異でも起こるのか」

「そうではないが、珍しい」


 たしかに珍しいと、隼は思った。髭剃りではなく、ここで彼をみかけることが。寝起きのトグルの髪は、きちんと編まれておらず、豊かに波打って、肩から背へと流れていた。繻子さながら藍色の艶を宿している。

 タオは、同意を求めるように隼を顧みて、くすりと笑った。

 トグルは天人の意見に興味はないらしく、表情のない新緑色の瞳で一瞥しただけだった。


「井戸なら、天幕の側にもあるだろう。どうして、わざわざこちらへ来たのだ? 長老達が、心配する」

「今日は、天幕に行くつもりはない。テディンとアラルが還って来る。それで、タオ、お前に頼みがある」


 兄の言葉を予想したのか。タオは溜め息をついた。隼は、黙っていた。

 トグルは腕組みをし、左脚に重心を移した。


「俺と仕事を代わってくれ。トゥグス(オルクト氏族長)もいる故、適当でいい。無理なものは、後で俺がやる。家畜の世話も、しておこう」

「また、長老達に何と言われるか。ごまかし切れるものではないぞ」

「悪い」


 トグルは、申し訳なさそうに、片手を顔の前に立ててみせた。

 タオは、両手を腰に当てて首を振った。


「大公の娘を娶るぐらいのことで、長老達が納得するとは思えない。後で苦労するのは、兄上だ」

「……お前にも、苦労をさせているがな」

「私のことは、どうでも良い。私はゴアだ。だが、兄上は……。長老達の懸念も判るぞ。いい加減、観念なさったらどうだ?」


 隼の目に、この時の二人は、ちょっと気弱な妹思いの青年と、気の強い兄思いの妹にしか見えなかった。

 トグルは、お目こぼしを願う少年のように小さく言った。


「そのうち、考える……」

「そのうちって……私にそんなことを言って、どうする」


 タオは彼に横顔を向けた。トグルは、決まり悪そうに項垂れた。

 だいたい話の筋は理解できたが、隼は、いちおう声をかけてみた。


「何の話だ?」


 タオは、応えかけて言葉を呑んだ。トグルが、目だけで彼女を顧みる。


「今日は出歩かぬ方がよいぞ、ハヤブサ。タオといれば大丈夫だろうが……俺の言葉を、忘れる者もいるだろう」

「ハヤブサ殿に、見せたくはないな。せっかく馴染んで来られたものを」


 タオは、悲しげに首を振った。いつも明るい瞳が曇っているのが、隼は気になった。トグルが呼ぶ。


「タオ」

「……引き受けた。ハヤブサ殿のことも、任せてくれ。私から長老達に、」


 タオの台詞は、また遮られた。トグルやタオのものではない馬のいななき声に。


 三人が振り向くと、朝日を浴びて銀色に煌めく甲冑と、槍の穂先が群れていた。騎馬たちだ。トグルが独りごちる。


「早かったな……」


 隼もそう思った。速攻を最大の武器とする騎馬軍団とはいえ、一夜の内にイル河畔へ行って戦い、翌朝に帰って来るなど不可能に近い。特に、捕虜を連れては。

 馬たちの吐息は、蒼く透明な朝の風にながれて白くただよい、つややかな毛皮からは、汗が湯気のように立ちのぼっていた。騒ぎを聞きつけた人々が、ユルテの扉を開けて出てくる。馬はどれも見事だったが、男達の関心は、クチュウト族の女達に集中していた。

 トグリーニ族とは微妙に形の異なる長衣を着て、黒髪を数本に編み分けている〈草原の民〉の女達だ。兵士達は、彼女達を歩かせず、一騎に一人ずつ、または、略奪した馬に二、三人ずつ括りつけていた。

 くたびれて抵抗する気力のせている彼女達を、馬から降ろすよう指示していたテディン将軍ミンガンが、トグルを見つけ、ザムカらしき老人とスブタイを連れてやって来た。


「クチュウト族の男は、ことごとく屍となり、イル河畔の樹木は、全て灰に化しました」


 テディン将軍は族長の前に片膝をつき、復命した。トグルは無表情に戻り、冷徹に応えた。


「御苦労だった。カブルとトクシンにも報告してくれ。お前は、休んで良い」

御意ラー

「ザムカ・ウト・サカル」


 将軍の後ろで跪いてこうべを垂れていた白髪の老人は、おずおずと面を上げた。監禁生活は辛かったとみえ、皺に埋もれた頬はこけ、眼の下には土気色の隈が出来ている。瞳には、うす青白い濁りがあった。

 トグルの口調は静かだったが、その分、抑えた憤りを感じさせた。


「己のしでかしたことの意味が、判っているのだろうな」

はいラー


 しわがれた老人の声に、トグルは右手を振った。その仕草が、隼には、ひどく疲れて見えた。


「お前を極刑に処すべきだろうが、そうすると、何の為にノイグが命を落としたのかが判らなくなる。何の罪で、クチュウト族が誅されたのかも。故に、俺は死より重い罰をお前に与える。ザムカ」

はいラー

「お前には、ノイグの家族を養うことを命じる。お前は、お前の家族と共に、生涯、己の犯した罪を背負って生きよ。命数を使い果たすまで、自ら死ぬことは許さない。その為に、俺は、お前の名を奪わない。判るな?」

御意ラー


 老人は、死刑を免れたことよりも、名を奪われなかったことの方に安堵していた。

 こういう話をしている時にしては珍しく、トグルは、相手と視線を合わせなかった。


「早く帰って、家族を安心させてやれ……。三日間の休養を命じる。俺の前に出なくて良いから、身体を治せ。よいな」

「有難うございます、長」


盟主トグルディオ・バガトル」

 オーラト族のスブタイが、顔を上げて呼んだ。愛馬の手綱を引いて立ち去ろうとしていたトグルが、振り返る。眸は暗く、物憂げで、訊きかえす声に力はなかった。


「……何だ」

「あの女達は、オルクト盟友アンダとタオ・イルティシ殿に、お任せすれば宜しいですか?」

「俺に訊ねるまでもなかろう。奴等の好きにさせてやれ。本営オルドウで剣を抜くことは許さんと伝えておけ」 

御意ラー


 台詞に溜め息が混じりそうになるのを、辛うじて、トグルは堪えた。馬の背に跨り、騒ぎをちらりと見遣ると、肩をすくめた。

 族長の言葉が聞えたのか。男達の間から、どっと喚声が湧き起こった。獲物の肉塊に群がる飢えた狼さながら、捕虜に殺到する。気に入った女をり合う男達を、隼は呆然と見守った。

 タオは、苦虫を一気に三十匹くらい噛み潰したような顔をしている。

 トグルは馬首をめぐらせた。頃合を見計らい、馬に声をかける。


「族長!」

 ジョルメ若長老が呼んだが、神矢ジュベの名をもつ駿馬は、天幕の方へ走り去ってしまった。中ほどで束ねられた長い尾が揺れて行くのを見送って、ジョルメは溜め息をついた。


 隼は、眼前の光景をどう理解すればよいか迷っていた。噂には聞いていたが――聞いていたからこそ、信じられない。家畜の世話も、自分の女達も放り出して、男達は、捕虜をうばいあっていた。

 同じ〈草原の民〉であるクチュウト族の女達は、敗者の運命を悟っているのか、抵抗はしない。ひとところに身を寄せ合って坐り、抱き合って項垂れ、すすり泣いている。なかには、乳飲み子を抱いた若い母親の姿もあった。

 彼女たちの絶望をよそに、男達のあいだで喧嘩が始まる。彼等の狂気を慄れてユルテにこもっていた女が、新しい女を連れ込んだ男に放り出されると、今度はその女をめぐって新たな争いが起こる始末だった。さすがに、アラル将軍がそれは止めた。

 興奮して酔ったように輝く男達の目を観ていられなくて、隼は、顔を背けた。


 物静かな狼の末裔達は、どこへ行ったのだろう。オボ祭に出ていた、敬虔な彼等は……。戦争に勝ったというだけで、人は、これほど残虐になれるのか。

『鷲。あたし達は、とんでもない間違いを犯しているのかもしれない』

 呼びかける想いは、声にすれば、悲鳴だったかもしれない。男達の下卑た声が耳に響く。女達の泣き声が。

 タオが、哀しげにこちらを観ている。

『理解されたか。我々が蛮族と蔑まれる理由を。兄上に、あのようなことをして欲しくはないと、私が思っていることが』

 タオの眸はそう語っていたが、隼には、何と応えればよいか判らなかった。女から見れば、これほど下劣で残酷なことはないと思える――


 ジョルメ若長老、アラル将軍、オルクト氏族長がやって来て、男たちを宥め始めた。地に足が生えたかのように動けなくなっている隼を、タオは気遣った。


「我等はここに残るが、ハヤブサ殿は、どうなさる?」


 隼は、ごくりと唾を飲んだ。平静をよそおう声の底が、震えた。


「あたしは、ユルテ(移動式住居)へ戻るよ。悪い、タオ。少し、気分が悪い」


 うなずくタオの眼差しには理解があった。


「無理もない、ハヤブサ殿。気になさらないでくれ。私のユルテならば、安全だ。気をつけて」

「ああ。是非、そうさせて貰う」


 隼は、片手を挙げて応え、踵を返した。羊毛の帽子をかぶり直し、目立たぬよう。去り際、さきほどの赤子を抱いた母親に、オルクト氏族長が優しく声をかけているのを見かけ、安堵した。

 タオのユルテに入り、普段はすることのない閂を木製の扉に挿すと、表の喧噪は小さくなった。隼は、胸のなかほどまでこみ上げていたものを、苦労して呑み下した。静寂に満たされた部屋の空気を、深く胸に吸い込んだとき、突然、薄暗がりの中から声がした。


「……何だ。お前か」


 隼は、ギクリとして呼吸を止めた。

 寝台と戸棚の間に身体を沈めて――うずくまっていたトグルが、長い前髪の下から、彼女を見た。





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