第四章 飛鳥憧憬
第四章 飛鳥憧憬(1)
1
〈草原の民〉の騎馬軍団が解散し、各々の氏族の本拠地へ帰っていくと、辺りは急に閑散とした。ニーナイ国から連れてきた捕虜の女性と子ども達も、男達は連れさった。
彼等が祈りをささげた
ひろびろとした草原が、さらに広くなったようで、隼は戸惑った。
トグルとタオの兄妹は、自分たちの私有財産である羊と馬の群れを、
日の出前にタオは起きだして、井戸に水を汲みに行く。他の女達も一緒だ。ユルテに戻ると、煙突をコンコンと叩いて煤を出し、炉に火を
搾りたての乳を、煮たてたお茶に入れて
トグルは独居なので、タオは時々、兄のユルテへ出かけて家事をした。トグルは自分の身のまわりのことは自分でするが、仕事が忙しかった日の翌朝など、妹に起こされるまで寝ていることがあった。
朝食を終えると、男達は馬に乗り、放牧にでかける。
秋は冬越えのために家畜を肥らせないといけないので、男達は、何度か、岩塩が露出しているところへ家畜を連れて行った。肥えた羊を数頭 屠殺して、保存用の肉もつくった。普段はこの
日が沈むと、男達は放牧から帰って来て、明日乗る馬に
『ふんぞり返っていられるのかと思っていたら、案外いそがしいんだな……』
数日間、トグルを観察していた隼の、これが、正直な感想だった。
トグルの許へは、軍団が去った翌日から、同盟氏族の使者たちが、続々と訪れた。
〈草原の民〉は、幾つかの血縁氏族が集まって、部族を構成している。トグルの命に従って兵をだす一方、キイ帝国や、さらに北方の狩猟民の侵略から守られている氏族もあった。
隼は、自分の知らない土地に、こんなにも多くの人間が暮らしているとは想像していなかった。タオに訊くと、トグリーニ部族だけで二十六の氏族があるという。とても覚えきれず、早々に諦めた。
毎日、トグルは天幕にでかけていく。使者の挨拶に彼等の言葉でこたえ、各氏族長の周辺の人間関係まで把握して話をする彼を、隼は、密かに尊敬する気になった。
『鷲なら、絶対に、途中で逃げ出すだろうな』
窮屈であろう礼服に身を包み、使者達と世間話をしているだけが、族長の仕事ではない。彼等の持ちこむ様々なやっかいごとを、一人で、或いは長老達の意見を聴きながら、解決に導かなくてはならない。
不作で小麦の収穫のとぼしかった地方へは、別の地方から食物を輸送させ、豪雪にみまわれた土地の住人には、別の草原をあてがってやる。その為には、当然 他氏族の協力が必要であり、そこで生じる小競り合いや、果ては氏族内の相続争いまで、トグルが裁かなければならなかった。
夜更けまで氏族内・外のもめごとの処理に追われた彼を、深夜に、酔った男どもの喧嘩が叩き起こす。
季節はずれの家畜の出産から、卒中を起した老人の葬儀に至るまで、『お前等、それくらい、族長ぬきで何とか出来ないのかよ……』 と隼が言いたくなるほど雑多な案件が、彼のところには持ち込まれた。
あらゆる知識が、彼に集約されていた。
おそらく、口伝で伝えられているのだろうと、隼は推測した。そうでなければ、これほど大きな部族を、まだ若いトグルが束ねられるはずがない。
長老達が補佐してはいるが、いま彼を喪えば、部族内で争いが起こるだけでなく、草原全体が大混乱に陥るというタオの言葉が納得できた。
トグルも、それを承知していた。天幕に居る時の彼は、どんなに忙しくても黙々と仕事をこなしていたし、タオにすら、愚痴をこぼすことはなかった。
それで、隼は、また少し混乱してしまう――
残忍な侵略者の頭目かと思えば、ニーナイ国から略奪して来た女(彼を殺したいほど憎んでいても、不思議ではない)であっても、出産に苦しんでいる妊婦であれば、優しく励ましの言葉をかけてやる。
ある氏族が食糧不足で苦しんでいる時に、そこへ送る食糧の分担で不平をこぼす他氏族を、一喝して黙らせたかと思えば……敵対する部族との駆け引きの為には、小氏族の一つや二つは、平然と荒野に放置させた。
完璧な族長であることにしか興味がないのかと思えば、夜、独りで
隼にとって、トグルは、やはり捉えどころのない男だった。
*
ある朝、十数頭の騎馬が、トグルのユルテ(移動式住居)の周りにやって来た。鮮やかな濃緑の
「トゥグス
「おう、タオ。元気だったか?」
男は両腕をひろげ、タオを迎えた。タオは、少女さながら頬をかがやかせて男に駆け寄ったが、流石に抱きつくようなことはせず、手前で立ち止まった。男は、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
親密そうな二人に対し、周囲にいた男達が一斉に跪いたのが、隼には印象的だった。
男は、満面の笑みをうかべた。
「帰りが遅くなると聞いて心配していた。怪我はないか? リー・ディアを討ちとったと聞いたぞ。お手柄だったな」
「あれは事故だ。兄上の予定にはなかったので、国境を離れるのに手間をとった。……ハヤブサ殿、来てくだされ。紹介する」
会話の最中にも、男がちらちらと隼を観ているので、タオは彼女を手招いた。折しも、ユルテ(移動式住居)の扉が開き、出て来たトグルが、この光景に足を止めた。
「オルクト・トゥグス・バガトル(注*)。我等トグルート五氏族がひとつ、オルクト氏の族長だ。私の従兄でもある。トゥグス兄者、〈
「センバイノー(こんにちは)、天人。お初にお目にかかる」
オルクト族長は帽子を脱ぎ、うやうやしく一礼した。にこにこと愛想は良いが、顔の面積に比して小さな眼の中の黒い瞳が、油断なくこちらを観ていることに、隼は気づいた。
隼も、軽く頭を下げながら、相手を観察した。非常に大柄な男だ――背の高さは鷲と同じくらいだが、横幅も厚みも、鷲の二倍はある。腹も少し出ている。それでいて、愚鈍さを全く感じさせない。三十代半ばか。血色は良く、長い髪は黒々として、太い一本の三つ編みに纏められていた。鼻の下のふさふさの口髭が、実に濃くて柔らかそうだ。
オルクト氏族長も、隼を眺めた。最初に銀髪を、紺碧の瞳と気品のある
「いや、失礼。噂にたがわぬお美しさだ。イリへようこそ、
多少なまりは感じられたが、非の打ちどころのない交易語で言い、右手を差し出した。隼が、躊躇いつつ厚い掌に右手を添わせると、オルクト氏族長はすかさず左手を添え、両手で包んで握り返した。あたたかく、さらりと乾いた感触が、隼の手に残った。
オルクト氏族長は、
「お会いできて嬉しい。お仲間と《星の子》が、リー女将軍に囚われていると伺った。我等に援けを求めて来られたのか。お手伝いできることがありますかな?」
『え?』
隼は、瞬きを繰り返した。――そういう話になっているのか?
トグルが、オルクト氏族長の背後に近づいて声をかけた。
「
「……はあ?」
氏族長のただでさえ大きな口が、さらに大きく開いた。トグルと隼を交互に観る。彼の反応が大袈裟だったので、隼は、いっとき己の疑問を忘れた。
トグルは、舌打ちをして、従兄の腕を引いた。
「行こう。
「待て待て、ディオ。そういう趣味だったのか? お前」
「黙れ」
ぴしゃりと言い捨てて、トグルは歩きだした。オルクト氏族長は苦笑して、隼に手を振った。
「天人、またのちほど」
彼がトグルについて歩きだすと、跪いていた男達も立ち上がり、会釈をして行った。タオは、隼と肩を並べ、笑いながら言った。
「気をつけられよ、ハヤブサ殿。トゥグス兄者は、無類の女好きだ。既に、妻が四人いる」
「四人?」
隼が眼をまるくすると、タオは思案気に眉間に皺をよせた。
「五人だったかもしれぬ。私が知らぬ間に増えているので、もう分からぬ。全員、可愛くて仕方がないそうだぞ。ああ見えて、氏の重騎兵は、部族最強だ」
「重騎兵?」
隼が訊ねると、タオは得意げに頷いた。
「人馬ともに鎧で武装する、大型の騎馬のことだ。キイ帝国の
隼は、トグルとオルクト氏族長が去って行った方向を見遣った。その視界に、また別の騎馬が現れた。
男達は、タオと隼に気づくと馬から降り、先ほどのオルクト氏族長同様、帽子を脱いで挨拶をした。話しかけては来ず、そのまま天幕を目指した。
先頭をいくすらりとした長身の、青味がかった黒髪の男の
タオが説明してくれる。
「シルカス族のアラル
他の氏族は使者なのに、この二氏族は、族長本人と代理が来た。――隼の疑問を察し、タオは続けた。
「シルカス族とオルクト族は、我が氏族に最も近しい親戚だ。今後のことを考え、兄上が呼んだのだろう」
『今後……』 相槌をうちながら、隼は、己の左の脇腹に片掌をあてた。
折れた骨が治るまで、一か月の猶予を得た。まだ日はあるが、傷はほぼ治っている。不用意に捻らないかぎり、痛みはない。
落ちた体力が回復するには、さらに日数が必要だろうが、現状でも戦えなくはない。
「お前に、決闘を、申し込みたい」 確かに、自分はそう言った。トグルが 『俺を殺すため』 と言ったのは、仲間を牽制する意図か。
しかし……殺せるのか?
実力云々より、隼は、自信がなくなっていた。タオが悲しむだろうと考えてしまう。全力で好意を向けてくれる草原の娘にとって、兄と隼が戦うのを観るのは、辛いだろう。
トグルは既に、ニーナイ国からは手を退いている。リー女将軍とも、停戦していると言えなくはない。自分たちにとって必要な力の持ち主を、殺す理由は?
ああ、いや。そうではなく――
隼は首を横に振った。そうして、気づく。自分はまだ、肝心なことをトグルに訊いていない。
占領も、支配もせず、ニーナイ国から撤退したトグリーニ族。暮らしむきは素朴で単純だ。強奪してきた財宝で、贅沢をしている風はない。
いったい何故、彼等はニーナイ国を攻めたのだ……?
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(注*)オルクト・トゥグス・バガトル: 外伝『狼の唄の伝説』では、一人称の語り手として登場しています。本編より約十年前の設定です。
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