第三章 戦士の基壇(5)


             5


 陽が西の地平へと近づくにつれ、風は穏やかになった。遅れた兵士達が、ぼつぼつと村に到着している。

 辺りは薄闇に覆われていたが、ルドガー神を髣髴ほうふつとさせる鷲の長身と銀髪を、見逃す者はいない。通りすがりに挨拶をしてくれる彼らの視線を避け、鷲は、雉を村外れへと連れて行った。

 上体を揺らす独特の歩き方で前を行く相棒の広い背中を、雉は、複雑な気持ちで見上げた。

『遂に来たか』――そう思う。心は、不思議にしずかだった。もっと動揺するかと思っていたのに。

 ごまかすことはおろか、隠そうという想いが全くわかない自分が、奇妙だった。


 砂漠とは反対側の、村外れ。タサム山脈の雪解け水が湧きでる泉の傍の、サクサウ―ル(塩木)の大木の陰。水を飲んでいる数頭の驢馬を横目に、鷲は立ち止まった。


「さて。この辺でいいだろう」

「悪いな、鷲。気を遣わせて」


 事の深刻さを知らずにのほほんとしている友を、まっすぐ見られず、雉は囁いた。


「判っているんなら、何とかしろよ」

「おれ、そんなに陰気な顔をしていたか?」


 雉が前髪を掻き上げて見遣ると、鷲は煙草を噛みながら、渋い口調で言った。


「しっかりしてくれよ、俺まで気分が悪くなる。鳩やオダに、気を遣わせるな。隼を心配しているのは、お前だけじゃない」

「ああ。済まない」

「……悪かったよ、俺も」


 鷲が神妙になったので、雉は、意外に感じた。


「お前の気持ちに気づかずに、無神経なことをした。許してくれと言えた義理じゃないが……。隼に頼りすぎたと思っている。この埋め合わせは必ずするから、今は我慢してくれないか?」


 辛そうな鷲を、雉は訝しんだ。それから、思い当たる。

『ああ、そうか。こいつは、おれが隼に惚れていると思っているんだ。それで、心配していると』


「違うんだ、鷲。隼の怪我は心配しているが。おれと、あいつは……。単なるおれの片想いなら、良かったんだ」


 鷲は、つよく眉根を寄せた。煙草を噛むのを止め、ゆらりと重心を左脚へ移動させる。


「何だ、ややこしい奴だな。もずか? あいつを巻き込んだことを、まだ気に病んでいるのか。この期に及んでそんなことを言うなら、張り倒すぞ。隼も、気にしないだろう。あいつが帰って来たら、抱き締めて、告白すればいいだろうが」

「そうじゃないんだ」


 冗談めかした言い方に感謝しつつ、雉は否定した。苦々しく思う――『おれには、そんな資格はないよ。鷲、お前じゃない』


「だったら、何だ」

「…………」

「変だぞ、お前」


 雉が黙り込んだので、鷲の表情からも余裕が消えた。両手を自身の腰帯ベルトに掛け、相棒の優美な顔をのぞきこむ。


「何をそんなに煮詰まっている? 言いたくないなら、どうしてそんな思わせぶりな態度をとるんだ。おい、顔を上げろよ」


 鷲は眼を眇めた。明るくかがやく若葉色の瞳に正面から見詰められた雉は、逃れられないと感じた。

 鷲は、低い声をさらにひそめた。


「雉。俺の気のせいかもしれないが……この前から、お前、俺に何か隠していないか?」

「四年前からだよ」


 雉は眼を閉じ、ため息交じりに答えた。心の片隅で安堵する。逃れられないことを。


『そうだ、鷲。お前に訊ねられることを、おれは、待っていた気がする。終わらせる時を、待っていたんだ』


 雉は眼を開け、曇りのない気持ちで鷲を観た。相棒の端整な顔が、銀髪にふちどられ、夜目に浮かびあがって見える。

 雉は、くらい口調でささやいた。


「おれは、隼を、陵辱したんだ」

「…………」

「四年前。鵙と鳶が、殺された日のことだ。……あの晩、おれを捜しに来てくれた、あいつを、おれは、犯したんだ」

「なに?」


 咄嗟に、言葉の意味が理解できない。

 鷲の眼が、細く、糸のごとく細められ、それから大きくみひらかれるのを、雉は観ていた。憐れむような気持ちだった。今の今まで信じきっていた相手に、裏切られた男を。


『すまない、鷲。すまない、隼。

 おれはもう、隠していられない。忘れて、何くわぬ顔で過ごすことは。……隼。お前は、それを望んでくれていたけれど。

 もう、限界だ……』


 鷲の、春の陽光に透かした若葉色の瞳で、感情が揺れていた。いつも自信に満ちている口元が、震えている。


「なんだって?」

「おれは、隼を犯したんだよ、鷲」


 くりかえす雉の声の方が明瞭だった。鷲の眼がこれ以上はないほど開き、口が喘ぐように開かれる。だが、声が出ない。


「鵙と鳶が、殺されてしまった晩だよ。覚えているだろう? 鷲。……おれは、取り乱した。誰より辛かったのは、隼だったのに……。おれを慰めに来てくれたあいつの傷心を、おれは、利用したんだ」

「莫迦野郎!」


 鷲の喉から、誰も聴いたことのない大声が出た。血を吐くような声が。

 水を飲んでいた驢馬たちは頭を上げ、サクサウールの梢から、小鳥の群れが飛びたった。灰紫色の夕暮れの空を、鳥たちは、風にあおられながら、渦を描いて舞った。


「そんな、莫迦な話があるか」


 空をうめる羽音の中で、鷲は、うわ言のように呻いて頭を抱えた。かたく眼を閉じ、髪の中に両手を突っ込んで、何度も首を横に振る。この男がこれほど激しく動揺するのを、雉は、見たことがなかった。

 じっとしていられずに堂々とした長身を彷徨わせる彼の姿は、雉の胸に、裂けるような痛みを走らせた。

『鷲』


「俺は信じないぞ。こんなむごい話があるか? 冗談でも許さない、人を莫迦にするにも程がある。雉。……何とか言えよ。頼むから、嘘だと言ってくれ!」

「本当だよ」


 吐息まじりに答えた雉の胸倉を、鷲は掴んだ。振り上げられる拳を視界の隅に捉えながら、雉は彼から目を逸らさなかった。


「お前に嘘をついて何になる、鷲。……おれは、お前が思ってくれているような奴じゃない。隼に、取り返しのつかないことをした。ずっとお前を騙してきた。最低の奴なんだよ」


 鷲は項垂れ、首を左右に振ると、萎えたように雉から手を離した。振り上げていた手で顔を覆い、歯を食いしばる。後ずさりしてサクサウールの幹にもたれる彼を、雉は、拍子抜けして眺めた。


「殴らないのか? おれを」


 それから、切ない悲しみが、こみ上げる。雉は、声にならない声で囁いた。


「殴っては、くれないのか……。おれには、そんな価値もないんだな」

「イキがってんじゃねえよ」


 地を這う声で鷲が言い返したので、雉は、はっと息を呑んだ。指の隙間から睨み据える彼の瞳は鮮やかで、悲痛で、雉の胸を貫いた。

 何かが喉を塞ぎ、雉は絶句した。

 鷲は、顔を背け、しわがれた声で吐き捨てた。


「俺がお前を殴らないのは、そんな資格がないからだ。イキがるんじゃない」


 雉は、自分の唇が、ふるえるのが判った。

『おれは、お前に殴って欲しかった。殴られれば、少しは許されるような気がして……期待していたのかもしれない』

 虫の好い話だよな――。


「どうしてだ」


 己の心の深底へ潜りかけた雉は、鷲が濁った声で呟いたので、面を上げた。相棒は、顔を両手でおおっていた。


「どうして、隼なんだ。選りによって。どうして、そこまで背負わなきゃならないんだ、あいつが」

「鷲……。」

「俺は、信じない」


 呼びかけた雉を、鷲は睨んだ。長い指が己を示して微動だにしないのを、雉は、呼吸をとめて観た。


「雉。お前に、そんなことは出来ない。信じているんじゃなくて、俺は、お前を知っている。どこかで話が歪んでいるんだ。お前にそんな風に思わせるような。何があった? 話せ」

「鷲!」


 雉は、泣き出したくなった。わななく息を、辛うじて抑える。


「違うんだ、本当に……俺は、してはならないことをした。隼を傷つけたことは変わらない。もう、取り返しがつかないんだよ」

「取り返しがつくかどうかは、俺が決める」


 鷲の声は決して大きくはなかったが、雷の何倍もの威厳をもって響いた。切れ長の眼が、おし黙る雉をめつける。


「お前を軽蔑するかは、俺と隼が決めることだ。お前じゃない。今頃こんなことを言い出す方が、どうかしている。雉、独りで悩んでも、どうにもならないだろう。何故、相談しなかった?」

「隼が、望んだんだ」


 雉の言葉は弱々しく、空疎だった。聴きとる為に、鷲は彼に近づく必要があった。左眼を細める。


「俺に黙っていろと?」

「忘れてくれって……。自分は忘れるから、俺にも忘れてくれと、そう言った……あいつは。だけど」


 肩を落とす雉の声は、今にも消え入りそうだった。鷲は舌打ちした。


「つまり、隼は、いくらかは自分の意志で、お前と寝たということだな」


 ギクリとして顔を上げた雉は、鷲と正面から目が会い、うろたえた。真摯な若葉色の瞳は、視線を逸らすことを許さなかった。有無を言わさずに続ける。


「あのな、照れたりごまかしたりしている場合じゃないんだ。俺だってこんな話はしたくないが、お前が隼を誤解しているんなら、俺には、そいつを正す義務がある。お前の片想いがどうと言うんじゃない。これは、俺とあいつの為なんだ」

「隼の……?」

「少なくとも、お前があいつを殴って無理やり犯したんでなくて、良かったよ……」


 一瞬だまった雉の動揺に、鷲は頓着しなかった。長い前髪を煩そうに掻きあげて嘆息する相棒の横顔を、雉は、半ば放心して見上げた。


「鷲……」

「救いのないことに変わりはないが、幾分マシだ。多分、あいつにも、誰かが必要だったんだろう。――雉、お前が、そんなに自分を責める必要はないんだ」

「だけど、おれは、あいつを傷つけた」


 両手を見詰めて呟く雉を、鷲は、哀れみをこめて見下ろした。滑らかな雉の声が、悲嘆にささくれる。


「あいつは、おれを、許してはくれない。決して……。どうしたらいい。どうやって、償えばいいんだ?」

「俺があいつなら、償ってなんか欲しくないね」


 鷲の応えは苦く、くらかった。眼を細め、女性のようにしなやかな雉の手を眺めた。


「お前に背負い込んでも欲しくない。隼なら、そう言うだろう。お前が自分を責めて、あいつが喜ぶとでも? かえって苦しいだけだろうが。忘れてやるのが一番だ」

「そんなことが、おれに、出来るわけないだろう!」


 雉の眼に輝くものを見つけて、鷲は黙り込んだ。飛沫を散らして首を振る雉の声が、血を含んだように濁った。


「鷲。おれに、そんなことが出来ると思うのか。何年経とうと、忘れられるはずがない。あいつが忘れても。……おれは、隼に惚れているんだ」

「だったら、何故、放っておいた」


 叩きつけるように言ってまた面を伏せる雉に、鷲は言い返した。冷厳に問う。


「こうなる前に、隼にそう言わなかった。いつまでも、あいつ一人に背負わせておくつもりだったんじゃなかろうな」

「違う! 言ったさ、何度も」


 涙を湛えた雉の目が、燃えるように輝く。恐ろしいほど澄んだ翠の瞳だった。


「何十回も、口説いた……。おれだって、男だ。あいつにあんなことをして、平気で居られたわけじゃない。最初は、拒絶されても仕方がないと思っていた……。鵙じゃない、隼に惚れたと気付いた時のおれの気持ちが、お前に解るか?」

「…………」

「『冗談だろ』って、あいつは言うんだ……笑えない冗談だと。あいつは、おれが今も鵙に惚れていると考えている。姉妹だから、面影を重ねているか、罪悪感から口説いているんだと、思い込んでいる。――そんな風に思われたおれの気持ちが、お前に解るか、鷲。『鵙姉もずねえを、忘れないでやってくれ』 と言われて、おれに、それ以上なにが言えるんだよ……」


 鷲は、言葉をうしなった。雉の嗚咽を聞いて、納得した。――ああ、隼なら、そう言うだろうな。

 未だに、鳶と鵙の死を、自分の責任だと思っているあいつだから。雉に身を任せることも出来たんだろう。自分の気持ちをおし殺して。


 凝然と眼をみひらき、涙が流れ落ちるに任せている、雉。藍色の宵闇に浮かぶ繊細な横顔を、鷲は、黙って見詰めた。

 隼のけだるい声が蘇る。

「姉妹で同じ男を好きになるなんてな……。姉妹、だから、好みも似ているのかな」

「どうするんだ? お前」 鷲が訊ねると、彼女は、躊躇いもせず言ってのけた。「あたしには、鵙姉の方が、大事だ」少し淋しげに哂っていた。深い紺碧の瞳が、さすがに雉を見られなかったことを、鷲は知っている。


『隼』 鷲は、息をするのが苦しくなった。 『隼、四年が経つんだぜ……』 やりきれない気持ちで、呼びかける。

 俺は鷹をみつけて、鳩にも、オダが居る。お前が強がりを続けなければならない理由は、どこにもないのに。

 ――俺が、悪いのか。

 そうやって、雉を拒んで、俺がこうで……。なら、誰が、本当のお前を知っているんだろう。誰が、お前を支えてやれるんだ。

 隼。本当に、欲しいものは何もないのか?

 目の前に、彼女への恋しさに、恥もてらいもなく泣き崩れている男が居る。――他の誰でもなく、お前の為に、こいつは今、泣いているんだぜ。やっと雉がお前のものになったのに、拒むのか。

 そんなに、鵙が大切なのか。鳶が……。


 鷲は、雉から顔を背けた。


「隼……」


 雉は己の掌をみつめ、うわ言のように呼んだ。――彼女の肌のぬくもりが、今もこの手に残っている。指に巻いた、冷たい髪の感触が。

 傍にいて、どうして今まで、耐えられたのだろう。

 もう一度、抱き締めて、気持ちを確かめたい。そう思いながら、指一本触れられなかった。惹かれてゆく、魅せられてゆく、己の心を知るのはおそろしかった。

 鵙の笑顔が、脳裡に浮かぶ。許してくれと、何度祈っただろう。守り切れなかった彼女への想いを憧れにすりかえて、自分をごまかしてきたのだろうか。

 目の前で息づく生命に焦がれながら、犯した罪の大きさに、恐れおののいていた。「忘れてくれ」 という彼女の声が、耳に残る。打ちひしがれて、細い肩を震わせていた。

「忘れてくれ、頼むから。二度と、そんなことを言わないでくれ」 と。息を殺し、記憶を封じて、その日が来るのを待っていた。

 けれど、もう、自分をごまかすことはできない。お前がどんなに否定しようと、おれは、お前を愛している。

 一緒に生きていけたなら。未来をともに作っていけたなら、と願う。だが、お前の未来を壊したのは、おれだ。

 おれが、この手でお前を引き裂いたのだ。

 いったい、どうすれば、許しを得ることが出来る。お前に。

 隼、教えてくれ……。



 永い時間、雉の嗚咽をきいていた鷲は、悄然と、相棒に語りかけた。


「雉。未だに隼がお前を拒む理由は、俺には解らん。四年前、お前に抱かれた理由なら、解る」

「…………」

「教えれば、あいつは、俺を怒るだろうな……。雉。隼は、鵙と同じくらい……ひょっとしたらそれ以上に、お前のことが好きだったんだ」


 雉は、ひくっと嗚咽を呑んで鷲を顧みた。泣きぬれた翠の瞳が。

 残酷なことをしている、と、鷲は思った。隼に知られれば、間違いなく、『どうしてそんなことを言った!』と怒鳴られるだろう。しかし、伝えなければ哀れ過ぎるように思えたのだ、隼が。鵙が。

 誰より、雉自身が。


「鷲……」

「本当だ。そうでなければ、いくら何でもそんなことまでするか。あいつは、鵙のために、言わないつもりだったんだ。その鵙に死なれて、俺がこうで――。どんな気持ちで、今まで、俺達と一緒に暮らしていたんだろうな」

「…………」

「泣きたいのなら、泣け」


 鷲は、踵を返した。雉の視線を背中に受け、腕組みをして天を仰ぐ。


「俺は知らん。後は、自分で考えろ。今夜だけだ」

「…………」

「今夜だけ、見て見ぬふり、してやる」


 ゆらりと重心を動かす相棒の肩を、雉は見た。視界がにじむ。

『済まない……』 相棒に感謝しつつ、雉は、溢れる想いに身をゆだねた。生まれてから今まで、こんな泣き方をしたことはないと思いながら。


「莫迦野郎……」


 鷲は、自分が誰に向かって悪態をついているのか判らなかった。雉になのか、己になのか、隼になのか。それとも。

 きれぎれの涕泣が、夜気を震わせる。サクサウールの梢越しに、冷然とこちらを見下ろす数千の星を仰ぎ、鷲は溜め息をついた。

 彼には、もう、判らなかった。




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