第三章 戦士の基壇(3)


             3


「疲れたか? ハヤブサ殿」

「ああ、いや。大丈夫だ」


 男達は、羊肉の石焼きホルホグと、麦粉粥バンタンを作ってくれた。夕食を戸外で済ませて、隼たちがトグルのユルテ(移動式住居)に帰って来たのは、もう、夜も更けた頃だった。

 隼は飲まなかったが、トグルとタオは飲酒もした。二人とも、サクア(葡萄酒)に全く顔色をかえていない。

 隼の身体にも、酔ったような心地よい疲れがあった。心から笑ったのは久しぶりだ。他人と打ち解けることが、こんなに楽しいとは思わなかった。


「待っていてくれ。茶を淹れる」


 タオは、肩を支えて連れてきた隼を敷布のうえに座らせると、晴れ着を着たまま、いそいそと動き回った。

 トグルは胡座を組み、馬頭琴モリンフールの弦を直している。煙管キセルをくわえた横顔を、隼は、穏やかな気持ちで眺めた。彼女の視線に気づいたトグルが、表情を変えず、ぼそりと問う。


「弾いてみるか」

「いいのか?」


 少なからず、嬉しい。


 手渡された馬頭琴は、想像していたよりずっと軽かった。何の木で作ってあるのだろう。先端に彫られた馬の頭に、作り手の器用さがうかがわれた。


「兄上が彫ったのだ」


 お茶に塩を入れながら、タオが言う。隼がトグルを見ると、彼は、無表情に煙草を吹かしていた。


『いい奴、なんだろう』

 無口で無愛想きわまりないが、実は照れ屋で律儀なところに、隼は親しみを感じた。

 困ったな――そう思う。斬るなんて、出来そうにない。別の方法を考えなければならない。


 隼と目が会い、トグルは、微かに苦笑した。(この男の場合、あまりに顔の動きが乏しいので、それと判断するのは難しかったが)鋭い眼が心持ち和らぎ、唇から牙が覗く。タオからお茶を受けとり、またぼそりと言った。


「話せるか、ハヤブサ」

「何だ?」

「リー・ヴィニガのことだ」


 トグルは、左手の指に煙管を挟み、お茶に唇を浸した。明日の天気の話をするくらいさりげない口調だが、隼は絶句した。

 タオが、たしなめるように口を挟む。


「兄上。なにも今、そんな話をしなくてもよいではないか。せっかくハヤブサ殿の気が紛れたと言うのに」

「……俺は、天人テングリの方に言いたいことがあろうと思い、訊いている」

「え?」


 タオが、怪訝そうに振り返る。

 トグルは、淡々と話しかけた。


「違うか、ハヤブサ。リー女将軍の許に残った天人テングリは、俺に伝えたいことがあった。だから、俺達がお前を連れて来ても、何も仕掛けて来なかった。そうでもなければ、俺は、悠長に茶など飲んではいられぬだろう」


 トグルは、右手で手刀をつくり、己の首に当ててみせた。片目を閉じるが、笑いはない。

 隼は溜息を呑み、慎重に訊いた。


「あたしを試したのか?」

「そうではない……。お前に、俺を斬る機会はいくらでもあった。報復を恐れるお前ではなかろう。――俺達を薙ぎたおした天人テングリなら、お前を救い出すのは、造作もない」


『やる気がなかっただけなんだが……』隼は、そっと嘆息した。鷲なら考えそうなことだ、と思う。


 トグルは、興味深げに彼女を見ている。


「天人にとって、俺の利用価値があるわけだな」

「……そんなところだ」

「タオ」


 トグルは、妹を顧みた。呆然としている彼女に、ぶっきらぼうに指示する。


「お前、いつまでそんな格好をしているつもりだ。着替えて来い。それから、しばらく、誰もここへ近づけるな」

判りましたラー


 事実上、人払いを命じられたタオは不満そうだったが、兄に逆らうつもりはなかった。妹が隼を案じつつユルテから出るのを待って、トグルは煙管に火を入れなおした。


「……では、聞かせてもらおうか。天人は何をたくらんでいる? 俺に何をさせたい」


 天窓へと上っていく薄紫色の煙を目で追いながら、隼は囁いた。


「たぶん、鷲は、お前とリー将軍に同盟を結ばせたいんだと思う」


 変わらないトグルの表情を見ると、この男がそれを予期していたと判る。隼は、唇を舐めて続けた。


「もとはセム・ギタの案だった。大公の策から逃れる為に、お前たちと同盟を結ぼうと。しかし、リー・ディアは、お前に助けを求めるくらいなら、刺し違えた方がましだと言っていた」

「……さもあろう。俺がギタでも、主人あるじには言わぬな。追い詰められて気の毒とは思うが、同情はしない」


 トグルの口調は、毒気より苦渋を多く含んでいた。右手をかるく顔の前で振る。


「悪い、話の腰を折った。続けてくれ」

「あたし達は、リー・ディア将軍の口実になった」


 トグルは黙って隼を観た。新緑色の瞳に、酔っている気配はない。


「お前達からニーナイ国を守る為に……。将軍かタオを殺せば、お前は、軍を退いて戻って来る。トグリーニ族をリー家との私闘に持ち込ませれば、このさき数年、ニーナイ国は安泰だ。そう考えたんだが」


 隼の白い指が、額にかかる前髪を掻き上げるのを、トグルは無表情に眺めていた。


「力の差が大きい。リー・ヴィニガ将軍が激昂して戦っても、すぐに蹴散らされるだろう。ニーナイ国を護るには、別の方法が必要だ」

「……それで、俺を殺そうと考えたわけか」


 煙管をくわえてトグルは嗤ったが、眼は冷静だった。低い声に、からかうような響きが含まれる。


の俺をたおせば、部族をまとめる者はいなくなる。タオなら何とかなると考えたか。だが、どうする――俺は、今更、ニーナイ国に野心はないぞ。これ以上、お前達が、関わる理由はない」

「ああ。それで、正直言うと、困っている」


 隼は、馬頭琴を片手で抱え、苦笑した。トグルが不思議に思うのも無理はない。自分でも、莫迦げていると思うのだから。

『まったく。やっかいな役を押しつけてくれるな、鷲は』 隼は、乾いた唇を再び舐めた。


「……鷲は、お前が大公の話を承諾するとは、考えていなかったと思う」

「俺のことは、どうでもいい」


 トグルは、やや憮然と遮った。腕を胸の前で組む。


「それはそれ、これはこれだ。……俺とリー・ヴィニガが同盟を結ぶことと、お前達に、何の関係がある」

「甘いと思うかもしれないが、あたし達は、リー将軍家を滅ぼしたかったわけじゃない。むしろ、奴等を巻きこんで悪かったと思っている……。リー・ディア将軍の部下達を、救いたいんだ」


 トグルは、改めて、彼女を観た。

 隼は、生ぬるくなったお茶を口に含んだ。鷲とオダの顔を思い出す。『あいつ等なら、きっと言うだろう』と。一語一語をたしかめるように続けた。


「ニーナイ国を見棄てようとしたのは、大公とミナスティア王国だ。あたし達のせいで、リー・ディア将軍は、きっと――」

「逆賊」

「その、『逆賊』という汚名を着せられるんだろう。ギタ達を、殺させたくないんだ。大公にも、お前にも」

「…………」


 トグルは眼を閉じ、隼の話について考えこんだ。隼は、待った。我ながら、奇妙な話だと思う。


 最初、ニーナイ国に攻め込んだのは、トグリーニ族の方だ。大公とミナスティア王国が漁夫の利をせしめようとし、リー将軍家は間に立たされていた。オダと自分達が、リー・ディア将軍を巻きこんだ。それなのに、今度は、敵であるトグルに助力を求めている。

 どうして、こんなことになったのか……。

 大それたことをしている自覚は、隼にはあった。自分達は、王でも将軍でもない。オダがニーナイ国の使者としての立場を与えられ、《星の子》が後ろ盾してくれているだけだ。トグルからみれば、毛色の変わった珍獣に過ぎない。

 自意識過剰という言葉の意味は、理解していた。まったくその通りだ。本来まみえることのない相手と、あり得ない交渉をしている。


 やがて、トグルは眼を開けると、首をかしげて隼を観た。言葉を選んでいるようだったが、やはりひとこと言いたくなったらしい。


「……偽善だな」


 ぽつりと言う。隼はうなずき、項垂れた。トグルの瞳は容赦なく、彼女のしろい項を映した。


「ハヤブサ。甘いと言うより、偽善だ、それは。結局、お前達自身の気持ちを、納得させたいだけではないか。俺がリー・ヴィニガなら、即刻、お前の首を叩き落しているところだ」

「判っている。けれど――偽善だからと言って、それを途中で投げ出す卑怯者には、なれない。あたし達は」


 のちに隼は、この台詞は、トグルにとってかなり失礼ではなかったかと考えた。

 トグルは気を悪くしたふうはなく、顎に片手を当てた。「リー・ヴィニガは、天人の首を俺へ寄越さなかったな……」 小声で独りごち、促した。


「それで?」

「でって――」

「お前達が、酔狂にも、リー女将軍を救おうとしていることは判った。しかし、何が出来る。……オン大公は、皇帝の名の下に、将軍をルーズトリア(キイ帝国の首都)へ呼び出すだろう。だが、決して無事には辿り着けない。俺が大公なら、途中で事故とでも称し――『トグルートが奴等を襲った』くらいの言い訳は、用意しておく」

「大公は、何故、そうまでリー将軍を殺そうとするんだ? 国境を守る将軍がいなくなって、困らないのか」


 これも、トグルに訊くのは奇妙な気がしたが、彼は倦むことなく答えてくれた。


リー家は、もとは王だ。五代前のキイ国の皇帝が、北方の蛮族――俺達のことだ――から国をまもるために、弟たちに姓を与え、王とした。北のハン、西のリー、東はヤオ、南はカイ……だと思う。代を経て、連中は、帝国の四方を護る将軍となった。オン大公は、皇家の外戚になって大臣の地位へのしあがった男だ。反発する輩が、かつての王を担いで反旗を翻すことを惧れているのだ」

「そうか……」


 隼は、左手親指の爪を噛んだ。キイ帝国の内情について、自分達がろくらないことを痛感する。トグルが詳しいのは、長年戦い続けて来た相手だからか。間諜でも使っているのだろうか。

 トグルは、わずかに眼を細めた。


「どうする、ハヤブサ。俺を殺しても、大公は謀を止めぬ。俺達が駄目なら、他の部族を使うだけだ。……本気で、俺をリー・ヴィニガの味方にさせるつもりか? 正気の沙汰とは思えぬが」


 狼のようなトグルのかおを、隼は凝視みつめた。決して哂わない緑柱石ベリルの瞳を見ていると、ふいに哀しくなった。


「駄目か、トグル」

「……お前は、いくさを知らない、ハヤブサ」


 静かなトグルの声は、憐れんでいるように、隼には聴こえた。


「お前達は、戦争の何たるかを知らない。俺達の間では、憎しみが憎しみを、怒りが、怒りを裁く。何百年も、そうして来たのだ。一度や二度、利害が一致したところで、どうにもならない」


 トグルは、眼を半ば伏せ、煙管にたまった灰を炉に落とした。


「俺の祖父バヤンは、リー・ディアの祖父タイクに捕らえられた。生きながら皮を剥がれ、身体を細切れにされて、河に投げ込まれた。タイクとその息子をころしたのは俺だ。今回は、リー・ディアを殺した。――誰に何と言われようと、女将軍が俺を赦すとは思えんな。所詮、どちらかが滅びなければ、相容れぬ仲だ」


 それでも、不思議なほど、トグルの態度には怒りも憎しみも感じられないのだ。むしろ深いかなしみを感じ、隼は、何も言えなくなった。

 トグルは、彼女に横顔を向けると、ゆっくり前髪を掻き上げた。考えながら、続ける。


「……仮に。俺達が同盟を結んでも、奴の邑民くにたみは俺を認めぬだろう。俺の盟友アンダ達も……。リー・ディアは頑迷だったのではなく、それを知っていたのだ。リー将軍を救う前に、部族は内乱に陥る。そんな危険な賭けは出来ない」

「大公となら、結べるのか?」


 隼は、必死に考えをめぐらせた。トグルが、鮮やかな新緑色の瞳を向ける。


「大公の姫を貰って、リー将軍を滅ぼすつもりか。飼いいぬに成り下がるのは、構わないのか」

「俺達の最終目標は、あの国を滅ぼすことだ」


 トグルの表情は、風化した岩石のように動かなかった。


「俺の代で成し遂げられなくとも、長老達は、そう考えているだろう。お前の挑発にはのらぬ、ハヤブサ。リー将軍は、俺達の天敵だ。たおしておいて損はない」

「しかし――」


 隼は、強く眉根を寄せ、言葉を探した。鷲なら上手く言いくるめられるのだろうが……己の頭の悪さが、もどかしい。


「大公の次の標的は、お前達だぞ、トグル。それくらいのことが、判らないわけじゃないだろう」


 トグルは口を閉じ、怪訝そうに隼をみた。呟く声に、呆れた響きが交じった。


「異なことを……。今頃、気付いたのか。鋭い奴だと思っていたら、案外、抜けたところもあるのだな」


『悪かったな』 思いかけて、隼は、自分の気持ちに驚いた。

 トグルが笑った。穏やかな笑声を喉の奥でころがす彼の目が、ドキリとするほど優しかったので、彼女は戸惑った。


 トグルは骨ばった手で口元を覆い、からかいを含んだ眼差しを隼にあてた。


「……まあいい。俺は、嫁が欲しくて大公の話に乗ったわけではないぞ。あれは、人質だ。向こうから人質を出すと言っているのを、断る理由がなかっただけだ」

「大公の娘が来たら、引き換えにリー・ヴィニガを殺す気か。自分達の安全を確保した上でなければ、動くつもりはないというわけか」

「そう、オン・デリクは要求するだろうな」


 隼がつとめて動揺を抑えて訊ねると、トグルも真顔に戻った。薄紫色の煙を吐き、他人事のように続けた。


「今の、手負いのブルクのごとき女将軍を、正面から相手するつもりは、大公にはなかろう。娘を俺に寄越し、奴等を攻めろと言ってくるはずだ。公女の役目は、それで終わる。人質にはなり得ず、俺は、下手をすると新床で首を掻き斬られる」

「…………」

「戦争とは、そういうものだ、ハヤブサ」


 トグルは、唇を歪めた。眸はくらく、地獄のふちを覗いていた。


「オン・デリクの第五公女は、まだ十歳だと言う。それでも、それくらいのことはするだろう。俺の初陣は八歳だったのだから、何でもない……。リー・ディアを利用した天人テングリの遣り口など、大したことではないぞ。殺し合いを続けられる人間の憎しみは、それほど深い。ハヤブサ。お前達は、足を踏み入れるべきではなかった」


 隼は蒼ざめ、言葉をうしなっていた。トグルの視線が、かすかに揺れた。


「お前の方が、感覚はまともだ。人間としては、俺達は狂っているも同然だからな……。狂った連中を相手に、まともな理屈を通そうとするのは、無理がある。偽善者ぶるのも結構だが、そんなことでは命を落すぞ。手を退く方が、お前達の為だ」


 今度は、隼が彼の言葉の内容を考える番だった。いったん眼を閉じ、もう一度、草原の男のかおを見た。


「どうしても駄目か? トグル」

「……自分の言っている意味が、解っているのか」

「解っている。リー・ヴィニガを助けられるのは、お前しかいない。お前の力が、あたし達には必要だ」


 トグルは、柔らかい黒髪を揺らして首を振った。関節のめだつ指で前髪を掻き上げ、舌打ちする。声に、あらい感情がこもった。


「お前達は、不要な乱を起こし、あの国を滅ぼそうとしている」

「国など、滅んで構わない」


 隼は、静かに答えた。トグルは、額に片手をあてた姿勢のまま固まった。つよい意志を宿す眸が、みひらかれる。


「トグル。国が滅びても、人が滅びなければ、あたしはそれでいい。大事な人が幸せなら」

「…………」

「国があるせいで戦争が起きるのなら、そんなものは滅びればいい。民族があるせいでいさかいが絶えないのなら、そんなもの、なくなればいいんだ」


 迷いのない隼の顔を、トグルは凝視みつめた。夜の森のような瞳に、さまざまな感情が過ぎるのが、隼にも判った。


 トグルは、彼女から視線を逸らし、呟いた。


「そうか。お前は、ヒルディア(東国)出身だと言っていたな……。キイ帝国の懐柔を拒み、カイ将軍に滅ぼされた国か」

「…………」

「お前の考えは、危険だ。それに、矛盾している。その理屈で言えば、俺もリー将軍も、この世には不要だ」


 苦い声で窘められ、隼は項垂れた。しかし、トグルの表情は穏やかだった。


「考えておこう。どうせ、大公に従うつもりはない。だが――俺達が長城チャンチェンを越えるときは、俺達かキイ帝国の、どちらかが滅びるときだ」

「トグル」


 煙管の灰を落として、草原の男は立ち上がった。今の話の内容を、長老達とはかるのだろう。

 隼の囁きに、決して懇願の調子があったわけではないが、彼はそっと応えた。


「もう休め、ハヤブサ。明日も早い。お前が気をまわすことではない。……後は、俺に任せておけ。お前は、傷を治すのが先決だ」


 流暢に交易語をあやつるトグルだが、真に言葉の意味を理解しているのだろうか、と隼は思った。時折、驚くほど優しいことを言う。

 トグルは、己自身に戸惑ったように眉根を寄せた。


「これは、俺達とキイ帝国の問題だ。天人がどんな超常の力を使おうと、簡単に片付くことではない。かかわりのないことで、一つしかない生命を無駄にするな。……お前ひとりに言っても、仕様がないがな」


 ユルテを出て行く男の背を、隼は、やや茫然と見送った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る