第三章 戦士の基壇(2)


             2


 痛みを堪えてタオとともに馬に乗り、まる二日間ゆられ続けた隼は、かなり疲労していた。認めたくなかったが、体幹部の骨折をかばっての乗馬は、大きな負担となっていた。息を殺し、どんなに馬の歩みに合わせても、一歩一歩が激痛となって響くのだ。

 タオに支えられながら、隼は、何度か気をうしないかけた。

 族長兄妹は心配して、痛み止めをはじめ各種の薬を与えてくれたが、馬の背に乗ると効果が一瞬で消えた。『いかんともしがたい』 と、隼は自嘲した。

 気分も滅入ってくる。鷲の意図を察してみずからトグリーニ族のもとに残ると言った隼だが、病身で独りだと、心にこたえた。どんなにタオが親切にしてくれても、彼女とトグルの他に、言葉が通じる相手がいないのだ。

 疼痛は、彼女の硬い心にひびを入れ、突き崩して、そこからどっと北風が吹きこんだ。


 日が暮れると軍勢は馬をやすめ、荷物を下ろしてユルテ(移動式住居)を張る。すぐに終わる作業だが、彼等は総出で働いていた。

 隼は草原に腰をおろし、タオの馬と荷物の番をしていた。やっと馬から降りられて、ほっとする。

『恨むぜ、鷲』 ――あたしを殺す気か。死ぬかと思うほど痛いんだぜ。怪我人をこき使いやがって。死んだら、絶対、化けて出てやる。

 隼は溜息をつき、仰向けに寝ころんだ。馬が優しく鼻を鳴らして、彼女の顔を覗きこむ。その鼻を撫で、苦笑した。

『俺より先に死ぬなよ』 か。それには、雉の力が要りそうだ。あいつの能力も、まんざら捨てたもんじゃなかったな……。

 隼は、眼を閉じた。


『鷲。お前こそ、あたしより先には死ぬな。どうせまた、自分を責めているんだろう。そんなことをして、何になる? 

 早く気付けよ。守るものは、たった一つでいいんだぜ。

 鷹を、お前は守れ。あいつの想いを。……いい加減、お前自身の為に生きていい頃だ。きっと、とびもそれを願っている』


 瞼をあげ、隼は、群青色の空を仰いだ。小さな銀色の星が、二・三個またたいている。その澄んだ光は、憂いをおびた彼女の眼差しを連想させ、隼は溜め息を呑みこんだ。


『なあ、鳶、そうだよな。お前は、鷲を許していた。最期にも。

 あいつを、守ってやってくれ。鷹を。二人が、お前の分まで幸せになれるように』


 幻影の鳶がほほえんで、星ぼしの間にすうっと消えたように見え、隼は、思わず苦笑した。実に都合の良い幻だ。そうと承知していても、願わずにいられない。

 仲間の顔が、次から次に、脳裏に浮かぶ……想い出が。弱気になっていると判っていて、留めることが出来ない。己のよって立つ地面が、足下からぼろぼろとくずれ堕ちるような喪失感だった。


 うしなうべきものは、既に全部うしなった。独りでも生きて行ける――そう、自分に言い聞かせていた。

 妄言うそだ。

 あたしは、あいつらを守っていたわけじゃない。守られていた。必要とされていたんじゃなく、あたしが、必要としていたんだ。


『自分がこんなに弱い人間だとは、思っていなかったな……』


 隼は、両手で額をおおった。心のなかで何かが砕け、目を背けていたものが現れる。

 仲間達さえ、無事ならいい。そう思っていたのに、今、こんなに淋しい。鵙姉もずねえ、あたしは嘘つきだ。

 あたしは、やはり、雉が好きだよ……。

 ごめん、鵙姉。忘れようと思っていたのに。駄目だ……嘘をつけない、独りでは。

 どうして――

 納得できずに打ち消そうとしていた想いが、甦る。鮮やかに。はなれるほど、浮かんで来る。

 時が止まったような静寂の中、抱かれていた自分の声が耳に残っている。

 隼は、ぼんやり天を仰いだ。



 ――鵙と鳶が、殺されてしまった日。激しい嘆きに我を忘れ、逃げるように森へと駆け去った雉を捜しあてた時、辺りは、すっかり暗くなっていた。

 暗闇のなか、放心したようにうずくまっていた彼に、隼は、咄嗟に声をかけられなかった。


「ごめん、隼。ひどいことを言った……。お前のせいじゃないのに。どうかしていたんだ、おれは」


 隼も、魂を抜かれた心地だった。涙すら出ない。ふたりが死んでしまったことを、全く、受け入れられなかった。

 涙と土に汚れた、雉の顔。うちひしがれた彼を見て、『鵙姉なら、こんな時、何と言うだろう』 と考えたのを、おぼえている。


「おれを殺してくれ。隼」


 白皙の頬に銀の髪、少女とみまごうほど繊細なつくりの雉の、なめらかな声は掠れ、唇はかわいて裂けていた。


「おれがいなければ、鵙も鳶も、死なずに済んだんだ。今更、遅いけれど……。お前に殺してもらえるなら、本望だよ」


 隼は、首を横に振った。そんなことが、出来るはずがない。

 思うに、あれは報復だった。雉の村を襲った野盗は、彼の能力ちからによって殺された――雉も、家族を喪った。以来、残党は、復讐のために異相の人間を捜していた。鵙たちは、巻き込まれたのだ。

 そう、雉は考えたのだろう。

 彼の眼に、ぼうと涙が浮かぶのを、彼女は見ていた。


「おれは、鵙が好きだった。素晴らしい女性ひとだったのに。許してくれ、隼。おれは、守れなかった」

「お前のせいじゃない」


 隼は、息だけで囁いた。己自身にも言い聞かせる。


「誰にも、化け物だなんて言わせない。お前は、あたし達の仲間だ。鵙姉の……だから、そんな風に言わないでくれ」

「…………」

「鵙姉も、お前のことが、好きだった」


 切なさに、声がふるえた……心が。抑えようとしても。


「年上なことを気にしていたけれど。お前のことを話す時、本当に、楽しそうだった。雉。お前もそうだと知れば、嬉しかったろう」

「どうして……!」


 隼は、雉のものぐるおしい眸と出会い、口を閉じた。彼の頬を涙が伝うのを、凝然と見詰めた。


「隼。どうして、こんな事になったんだ。鵙と鳶が、何をした? おれのように、人を殺したわけじゃない。容姿すがた他人ひとと違うだけで、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」


 雉は、彼女の肩をつかみ、いた。


「答えてくれ。あいつが死ななきゃならなかった理由を、教えてくれ」


 がくがくと隼を揺さぶり、声をあげて、雉はいた。血を吐くような声だった。


「おれに生きろと言ってくれた鵙が、どうして、殺されなくちゃならないんだ。返してくれ、あいつを。おれの命と引き換えに、救けてくれ。隼!」


 隼は、眼を閉じた。しがみついて泣きくずれる彼の重みを肩に感じ、ふるえる吐息を胸に感じた。たましいが引き裂かれる。

 しかし、彼女には、答えられなかった。


 隼は、くらい木立を眺め、どこか遠くから響く、掠れた声を聞いた。


「そんなに、辛いのか?」

「…………」

「そんなに、鵙姉が恋しいのか、雉。……ならば、あたしをやる」


 雉の嗚咽が、一瞬とまる。隼は、彼を観てはいなかった。己の声を他人のもののように聞きながら、非現実な幻の中にいた。


「鵙姉の代わりに、あたしを……それで、お前の気持ちが安らぐのなら。構わない。鵙姉を守れなかったのは、あたしだ」

「隼……」


 ――違う!


 固く眼を閉じて、隼は首を振った。唇を噛み、両手で顔をおおう。

 ――違う。安らぎたかったのは、あたし。救われたかったのは、あたしの方だ。

 どんなに言葉をつくろっても、事実は変わらない。真実は、換えられない。折れた肋骨を庇うことを忘れ、隼は嗚咽を呑んだ。


「忘れてくれ、雉。あたしも、忘れるから」


 忘れたい。しかし、忘れられないことがある。忘れてはいけないことが。

『鵙姉、許してくれ。あたしは、あいつが好きだった。救いが欲しかったんだ……』


 夜空を仰ぎながら、隼は、泣きさけぶ心の声を聴いていた。昔も今も変わらない嘆きを。

 ――鵙姉、貴女を守ると誓っていた。命に換えてもと。それなのに、あたしは、まだ生き続けている。生きていたいと思っている。

 許してくれ、雉。あの夜、お前が誰かを必要としたように、あたしにも、誰かが必要だった。それが、お前である理由は、なかったのに。

 鵙姉。あたしは、貴女を裏切った。今も、あいつを恋しがっている。

 鷲。お前なら、解ってくれるか。

 あたしは、独りじゃ耐えられなかった。お前が一緒に背負ってくれることが、支えだった。鷹を幸せにしてやれるのは、お前だけなのに、それを見ているのが辛かった。

 鷹、お前の想いは、鳶に似ている。だから、見ていられなかったんだ……。


 あたしは、ただ、仲間の側に居るのが辛かったのかもしれない。

 逃げたかったのだろう。雉、お前から。だけど。

 遠くへ行くほど、思い出す。なんて……。鵙姉、救けてくれ。鷲。誰か――



「オイ!」

 突然よびかけられた隼は、びくっと肩をふるわせた。星の光を遮って、男が、自分を覗き込んでいた。

 トグルは、うろたえ気味に瞬きをした。身を起こし、離れる。地面に片方の膝をついた彼は、寝そべっている彼女を、呆れたように見下ろした。


「……驚いたぞ。気を失っているかと思った。大丈夫か?」

「別に。何でもない」


 隼は、急いで瞬きをくり返し、涙を消した。心臓が早鐘をうっている。まさか、見られるとは思わなかった。この男に。――誰であろうと、泣き顔を見られるなんて、何年ぶりだろう。

 脇腹と肩をかばって身を起こす隼に、手をかすべきか否か、トグルは迷っていた。結局、彼女が自力で出来そうなのをみて、顔を背けた。

 トグルは立ち、タオの馬の手綱をとった。隼は、努めて平静な口調で話しかけた。


「タオじゃないのか。族長みずからお迎えかよ。御苦労だな」

「……客人ジュチを扱うのは、俺の役だと言ったろう」


 トグルも、素っ気なく言い返した。タオの荷物を馬の背に乗せながら、


「女の方が、身支度に時間がかかる。だから、俺が来た。……他の者に、あまり、知られたくない」

「身支度って?」


 相変わらず感情の伺えない硬質な眸で、トグルは彼女を見返した。隼は、内心動揺した。気恥ずかしさに、攻撃的な気持ちになる。

 いつからこいつは観ていたのだろう? 気配に全く気づかなかった。不覚だ。敵かもしれない男に。

 『かもしれない』? ――隼は、滑稽に感じた。

 変な顔をしていないだろうか、あたし。日が暮れていて良かった。昼間だったら目も当てられない。

 こんなところを、鷹や鳩に見られたのでなくて、良かった……。


 トグルは、彼女を馬に乗せるべきかどうか、迷っていたらしい。隼が歩けそうなので、数歩さきに進み、促した。


「来い。歩けるだろう?」

「ああ。何だ?」

「来れば、判る」


 トグルはうすくわらったようだった。星影で、表情はよく見えない。抑揚のない声が、意外なほど優しく聞えた。


「俺達が、ただの蛮族ではないところを、見せてやる」


 独り言のように言うと、改めて歩き出した。

 腰にとどく彼の三つ編みが揺れるのを、隼は、怪訝な気持ちで眺めた。小鳥さながら首を傾げ、距離を置いてついて行く。

 夕食の仕度をしているのだろう。ユルテ(移動式住居)の側を通ると、時折、いい匂いがした。暢気に駆け回っている子ども達が居る。族長に気づいた通りすがりの男達が、会釈をした。

 トグルは彼等に頓着はせず、黙って歩き続けた。


『本質的に、この男は、冷静なんだな』 後について行きながら、隼は、そんな感想を抱いた。

 鷲ほどではないが、雉より確実に背は高い。一応、気を遣ってくれているのか、速くはないが、滑るような歩き方だった。鉄甲のついた長靴グトゥルを履いているにもかかわらず、足音を全く立てない。隼は感心した。

 これなら、あたしが気付かないはずだ……。


 隼は、腰の剣に手を触れた。無防備に背中を向けているトグルの腰に、剣は無い。彼女がその気になりさえすれば、トグリーニの族長の首級をとることは、難しくはなさそうだった。彼の氏族のなかにいて、刺し殺される覚悟があるのなら。

 隼は苦笑して、手を離した。

 トグルは振り返らない。彼女の仕草に気づいていないのか、気づいて無視しているのかは判らないが、隼には、後者に思えた。大胆な男だと思う。

『あたしが、無謀なだけか』

 トグルの歩調が緩んだので、隼は、彼の前方をうかがった。


「……何だ、あいつら」

 トグルは呟くと、歩く速度を元に戻した。


 てっきりユルテへ向かうと思っていた隼は、なだらかな斜面に人が数人すわっていたので、意外に思った。中央に、タオが居る。彼女は白い長衣をまとい、宵闇のなかに輝いて見えた。


「兄上。ハヤブサ殿!」

「……これは何だ、タオ」


 トグルは、馬を人の輪の外に立ち止まらせると、道を開ける男達の間を、苦虫を噛みながら通った。隼も、ついて行く。

 白地に色とりどりの花を刺繍した美しい晴れ着をきたタオは、艶然と微笑んで二人を迎えた。


「いつの間に、こんなに増えた?」

「皆、話を聞いて集まってきた。天人テングリを間近に見られるのが、楽しみなのだ」

「***」


 トグルは、タオから大きな革袋を受けとり、呟いた。隼には解らない言葉だったが、表情と口調から、愚痴を言ったのだと想像できた。

 トグルは、袋を手に、車座の一隅に胡座を組んだ。


「ハヤブサ殿、適当に座ってくれ」

「****、***テングリ」


 タオと男達が、笑顔で促す。トグルは、袋から箱のような物を引っ張り出した。

 隼は、草原の男達の人懐こさに、驚いていた。心から歓迎してくれているように観える。手招きを断れず、トグルと男達の間に、戸惑いながら腰をおろした。

 トグルは、箱型の胴に細長い柄がついた木製の楽器を抱えている。長い首(棹)の上端にならんだ糸巻き(弦軸)を捻って弦の張りを調節し、指で弾いて音程を確かめる。真剣な表情だった。――もっとも、隼は、彼のふざけた顔を見たことはない。

 糸巻きの上には、馬の頭が彫られている。弦も、膝に乗せた弓も、馬の毛のようだ。


「モリン・フール(馬頭琴)」


 男達の一人が、教えてくれた。隼が振り向くと、タオが、片手を自分の腰に当て、微笑んでこちらを観ていた。


「興味があるか? ハヤブサ殿。良かった。兄上の演奏など、滅多に聴けぬからな」

「……モリン、何?」

「モリン・フール」


 トグルが、箱型の胴を膝にのせ、右手に弓を持って答えた。声に感情はなく、隼を見てもいなかったが、精悍な顔は、気のせいか僅かに微笑んでみえた。

 タオが、凛とした声を投げ掛ける。


「準備よろしいか? 兄上」

「ああ」

「兄上から始められるか? それとも」

「お前から始めろ」


 タオは隼に一礼すると、人の輪の中心へ歩いて行った。トグルは、馬頭琴に弓を当てる。

 タサム山脈に向き直ったタオが、両足を広げて立つと、彼は弾き始めた。小さな木の箱から、力強い低音が出た。

 タオが声をはりあげて唄い始めたので、隼は、文字通り眼を丸くした。すらりとした体躯からは想像もつかない声量が、ほとばしり出て来たのだ。

 ある時は、丘の上に揺れる蜃気楼のような……またある時は、馬のいななきのような。節が効いている。言葉は解らないが、ぐるりと地平線に囲まれた草原に、夜空に、声は響き、隼は、圧倒された気持ちになった。

 トグルの弾く馬頭琴の伴奏には、細かな装飾音が付いている。唄と同じほど見事だ。

 二人だけの演奏に、周りの男達も、じっと聴き入っていた。


 短い曲が終わると、一瞬の沈黙ののち、拍手が起こった。タオが、心持ち頬を上気させて問う。


「如何かな? 私の、オルティン・ドー(長声唱)は」

「……凄い声だな」


 隼は、他に褒める言葉をみつけられなかった。タオは、声をあげて笑った。

 珍しく、トグルもふっと哂った。


「*****、***」

「ええ? 兄上、それはなかろう」

「なんて言う曲なんだ?」


 兄妹の会話におずおず口を挟むと、トグルは彼女を見ず、無愛想に答えた。


「ジャハーン・シャルガ――『小さな淡黄色の馬』」


 ふうんと、感心する隼の表情を見て、タオは、得意げに言った。

「笑ったな、ハヤブサ殿」

「え?」

「兄上の仰る通り、気が紛れたか。沈んでおられる顔も美しいが、やはり、その方がずっといい。なあ? 兄上」

「……そうだなラー


 トグルは、彼女に横顔を向けたまま呟いた。感情の読みとれない険しい顔立ちだが、夜目に頬骨の辺りが照れて見えたのは、隼の気のせいだろうか。

『わざわざ、あたしの為に、こんなことをしてくれたのか?』

 驚きをどう処理したらよいか判らず、隼は戸惑った。


 彼女が見詰め続けたので、きまり悪くなったらしい。トグルは、忌々しげに舌打ちをした。タオを見上げ、弓を持った手を軽く振る。


「****、**。……余計なことは言わなくていい。タオ」

「はい、兄上」


 タオは、隼に悪戯っぽく片目を閉じてみせると、かろやかに身を翻し、男達の輪へ歩いて行った。

 トグルは、馬頭琴の弦に触れていたが、隼の視線に気付くと、片方の眉を持ち上げた。ぎこちなく、苦笑したようにも見える。

 しかし、隼が呆然としていたので、また眉根を寄せた。軽く咳払いをして、弦に弓を押し当てる。

 そして、弾き始めた。


 最初は、ゆっくりと。――演奏を始めると、すぐに真顔に戻ったのが印象的だった。予め打ち合わせてあったのか、タオが、小型の弦楽器を合わせる。

 先程よりずっと速い馬頭琴の音は、草原を駆ける馬を思わせ、タオの弾く小揚琴ヨーチンは、その周囲を流れゆく草原のようだった。

 弦は、首に押し当てるのでなく、横から指を当てて音程を取っている。こんな曲も弾き方も知らなかった隼は、トグルの骨張った手を、まじまじと見詰めた。


 彼女の知るナカツイ王国やヒルディア王国の音楽は、恍惚トランスを誘う、宗教に根ざした曲ばかりだ。〈草原の民〉の音楽は、生活の匂いがした。草原の……馬の。素朴な旋律が、心地よい。

 トグルは集中して弾いている。充分に楽しんでいる気配が、みて取れた。意外であると同時に、嬉しい。

 疾走したかと思うと、ふっと跳び上がって大空を眺めでもしたような、緩急とりまぜた調子をとって弾き続ける。こんなたのしそうな彼を、隼は、初めてみた。こちらも、気持ちよくなってくる。

 曲が、徐々に速くなる……馬脚が。弓が目まぐるしく動くのを、隼は、食い入るようにつづけた。我知らず、息を殺して。地平線の彼方に、一頭の馬が風のように駆け去ったのを見送ると、ほっと息をついた。


 トグルの鋭い新緑色の眸が、一瞬みひらかれた。真顔に戻る。

 今度は、隼が微笑した。翳のない笑顔に、トグルは戸惑った。


「……何だ」

「いや。気持ちよさそうに弾くんだな、と思って」

「…………」

「今度は、何て曲だ?」

「ボーラル・モリ――『雲のような灰色の馬』」

「馬の曲ばかりだな」


 憮然と答えたトグルだが、男達の拍手に隼の笑声が重なると、はにかむように哂った。

 『救われたな』と、隼は思った。温かな気持ちが、胸に沁みてくる。


 族長の指示を受けて、男達の幾人かが楽器を取りだした。全員というわけではないが、懐や革帯ベルトの間に、笛などを挟んでいたらしい。

 男達は互いに乳茶スーチーを捧げ、くつろいで、また演奏を始めた。隼は、自分も、彼方の草原に呼ばれている気がした。


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