第三章 戦士の基壇
第三章 戦士の基壇(1)
1
「いやっ。ぜったいに、嫌っ!」
トグリーニ族は、隼と、捕虜にしたニーナイ国の人々を連れて、北の草原へ帰って行った。オダ達が旅をしてきた目的が、ひとつ達成されたのだ。鷹の記憶の方は、戻っていない。
リー・ヴィニガ女将軍は、彼等が仮埋葬していた兄(リー・ディア)の遺体を回収した。こちらも首級と同様、白樺製の
戦いで負傷した兵士達を連れて帰るが、国境の要地を空にするわけにはいかない。約八千人の兵士の命を預かるセム兄弟は、残す兵士の選定に頭を悩ませていた。
鷲は、〈
ところが、鷲と離れるなど夢にも思ったことのない鳩が、彼に子ども達を連れて行く気がないと知って、猛烈に抗議を始めた。
夕食後、少女が涙目で訴えるさまに、セム・ギタは驚愕した。
「ついて行くったら、行くっ!」
「駄目だ。オダと一緒に帰るんだ、鳩」
鷲が、両手を腰にあて、少女を叱りつける。オダは困って眉尻を下げ、鷹と顔を見合わせた。
「いやっ!」
「鳩!」
「怒鳴っても、恐くなんかないんだから。お兄ちゃんと離れたら、はと、とびお姉ちゃんに怒られる」
「……お前を連れて行く方が、よほど鳶に恨まれるよ、俺は……。頼むから、鳩」
「嫌なのっ!」
鳶の名をだされると、鷲は途端によわくなる。肩を落とす彼に、オダ少年が、硬い口調で言った。
「鷲さん。僕も、帰るつもりはありません。帰れなんて、言わないで下さい」
「オダ。あのなあ……」
「僕は、ニーナイ国の使者です」
言いかけた鷲の台詞を、オダは、きっぱり遮った。晴れた空色の瞳で、彼とセム・ギタを見上げた。
「キイ帝国の
鷲は、顔を片手でおおい、声にならない声で呻いた。セム・ギタが、見かねて口を開く。
「オダ殿、それは止めた方がよい。オン大公は、我々を陥れるつもりです。巻き添えで、死を賜ることになりかねませんぞ」
「でも……」
「姫も我々も、貴方がたを危険な目に遭わせたくはありません」
セム・ギタは、きわめて真摯にこう言った。オダは項垂れ、唇を噛んだ。
鳩は、遂に、しゃくりあげて泣きだした。両手の甲で眼をこする。
「はと、はやぶさお姉ちゃんのとこに行く」
えっく、おっくという嗚咽まじりの呟きに、その場にいる全員が、少女に注目した。鷲と雉は、胸を突く苦痛に
水が堰を切って流れ出すように、耐えていた想いが、涙とともに溢れた。
「お兄ちゃんが連れて行ってくれないなら、はと、お姉ちゃんのとこに行く。はやぶさお姉ちゃんに会いたい。ニーナイ国へは、帰らない」
雉が、跪いて鳩に寄り添い、彼女の頭を撫でた。その姿勢のまま、思い詰めた視線を鷲に向ける。
鷲は、低くうめいた。
「隼は、大丈夫だ。俺は、タオを信頼している。大怪我をしているんなら、まして。ここに居るより安全だろう」
「会いたいの!」
少女は喚いた。二つにわけたお下げを振り、小さな手を握りしめ、叫ぶように
「はやぶさお姉ちゃんが、いいの! とびお姉ちゃんに会いたい。お兄ちゃんじゃない。たかお姉ちゃんじゃない。はと、お姉ちゃんとこに行く!」
うわあんと泣きだしてしまった鳩を、雉は抱きしめ、責めるように鷲を見た。鷲は、絶句した。
鷹は、鷲を顧みた。鷲は、蒼ざめた頬をこわばらせ、小声で囁いた。
「悪い、鷹……。鳩と話をさせてくれ」
「わたしに、謝らないで」
鷹は、囁きで答えた。鷲が振り返る。金色に見える若葉色の瞳に、鷹はうなずいた。
「話してあげて」
「…………」
鷲は、黙って鳩にちかづくと、雉の手から彼女を受けとり、抱き上げた。むぎゅうううっと力の限りしがみつく少女の背をかるく叩いてあやしながら、与えられた部屋へ入って行く。
緊張して見守っていた一同の間に、ほっと安堵の空気が流れた。
「隼が、聴いてやっていたんだ」
雉は立ち上がると、
「きみと鷲のこと、鳶のこと……。鳩は鳩で、いろいろ不安なんだ。置き去りにされる気分だったんじゃないかな。隼が、話を聴いていたんだ。その隼がいなくなって、こたえたんだと思う」
木製の扉ごしに、しゃくりあげている鳩の声が聞こえた。なだめている鷲の低い声も。
鷹は、項垂れた。鳩が無邪気に自分に接してくれなくなったのは、いつからだったろう。気づいていたのに、自分の気持ちだけで精一杯で、何もしてあげられなかった。誰よりも理解といたわりを必要としていたのは、彼女だったのに。
鳶に、申し訳ない。――自然にそう思えた。自分は守られてばかりで、何ひとつ、彼等の役に立っていない。隼やルツのように強くという鷲の言葉が、解る気がした。
雉は、鷹から顔を背けると、舌打ちまじりに呟いた。
「
セム・ギタが、気をとり直して話しかけた。
「ルツ様」
《星の子》は、長杖を手に、ふわりと微笑んだ。
「誰も私を傷つけられないことは、知っているでしょう。今は
「しかし、楽な道ではございませんぞ」
ルツは、星のきらめく夏の夜空のような眸を伏せ、フフと哂った。
「彼等を連れて来たのは、私よ。その私が、最初に抜けるわけにはいかないわ……。オダと鳩の為にも、一緒に行った方がいいと思う」
オダ少年に頷いてみせ、鷲と鳩がこもる部屋の扉を眺めてから、セム・ギタに視線を戻した。
「傷の癒えていない兵士もいることだしね。帝とオン大公に対しても、トグリーニ族に対しても、私の存在は
《星の子》は、最後の台詞を冗談めかして言ったのだが、セム・ギタは深々と一礼し、鷹は心底ぞっとした。
*
仲間と使っている部屋で。鷲は鳩を抱えたまま、壁際に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。十三夜だ。いつの間にか丸く肥えた金の月が、紫紺の空に浮かんでいた。
鳩は、なかなか泣き止まなかった。ひっくうっくとしゃくりあげる少女の背を叩きながら、鷲は、苦い想いを噛みしめていた。
本当に大きくなったな、と思う。出会った頃の鳶より、ふたつほど年下だ。当時は赤ん坊だった。鳶は素性を語りたがらなかったが、歳の離れた姉妹には、他にも兄弟がいたかもしれない。
〈草原の民〉とおなじ黒い瞳、黒い髪、黄色い肌の姉妹。
鷲と三人で
ヒルディア王国に攻め込んだキイ帝国の兵士達は、国境の村に火を放った。夕暮れの
天高く聳える岸壁。絵師たちがまいにち石を刻み、
上へ、どんどん上へ! 子ども達が崖の頂きに達したことを確認して、
「
――あれから、何年経ったのだろう。デファを喪い、鳶を喪って、二人きりになってしまった。幼かった鳩はすっかり成長した。もう一年もすれば、鷲は、触れられなくなるだろう。
嗚咽が小さくなったので、鷲は、鳩の耳に囁いた。
「悪かったよ……放っておいて」
鳩は、ずぴずぴと洟をすすり、彼の肩に顔をこすりつけた。鷲は、彼女のほつれた黒髪を撫でた。
「隼は、今はタオに預けておこう、な? 必ず、助けるから。お前は、俺達と一緒に行こう、鳩」
「うん」
諦めて言うと、鳩は頷き、また鷲にしがみついた。首を絞められてげんなりしながら、鷲は少女をあやし続けた。
「お前、鷹のことが嫌いか? 鳩」
「そうじゃないけど……。お兄ちゃんは、とびお姉ちゃんの、じゃあないの?」
「……俺は俺だよ」
憮然として答えると、鳩は、ふちの赤くなった眼で鷲を睨んだ。
「ひどい」
「ひどくない。鳶は、確かに俺のだったけど、鳩、お前の鳶でもあっただろう? それ以前に、鳶は、鳶自身だ。お前がお前であるように」
鳩は唇を尖らせたが、この言葉について考える風だった。鷲は、彼女の額に額をおしあて、澄んだ黒曜石の瞳をのぞき込んだ
「それにな、鳩。鳶は、ちゃんといる、だろう?」
「…………」
鳩は、呼吸を止めて鷲を
鷲は溜息を呑み、細い身体を抱きかかえた。
「お前のなかにも、俺のなかにも、鳶はいる。これまでも、これからだって……一緒だろ、俺達は」
「うん。お兄ちゃん」
鷲は、自身が泣きたいような気持ちで、鳩の頭を撫でた。豊かな黒髪からは、鳶と同じにおいがした。記憶のなかの彼女と。
――口に出すのは辛かった。言葉にするのは。この苦痛は、ずっと抱えていくものだと、鷲は覚悟を決めていた。忘れられることではない。まして、赦されることでは。
なら、生涯、抱えていこう。
鷲は、ぽんぽんと鳩の肩を叩いた。
「だからさ……鳩。俺達の
「…………」
「お前に泣かれるのは、俺は、ほんとに辛い。
「本当っ?」
鳩は、がばと身を起こした。鼻がぶつかりそうな至近距離で、彼の目を見据える。
「本当に、お兄ちゃん、はとが言ったら、たかお姉ちゃんのこと諦めるの?」
鷲は、ぐっと詰まった。
「……努力する」
「うそ。むり。出来ない約束をするのは、うそつきだって、はやぶさお姉ちゃん言ってた」
「…………」
「要するに。お兄ちゃんは――」
鳩は、重々しく言った。
「たかお姉ちゃんがいないと、さびしいのね?」
「……ああ、淋しい」
一瞬おし黙ったのち、鷲はふにゃりと苦笑した。鳩は、赤く腫れた瞼をこすり、続けた。
「とびお姉ちゃんと、はとと、きじお兄ちゃんと、オダと……たかお姉ちゃんがいないと、さびしいんだ。はやぶさお姉ちゃんも」
「淋しいよ。俺は、全員にいて欲しい」
「欲ばりね」
鳩は笑った。泣き笑いだった。鷲は彼女をだきしめ、大きめの衣に包まれたほそい肩に顔を埋めた。
「……ああ。俺は、淋しがりで、欲ばりだ」
「しようがないなあ、もう。わかったわ、はと、たかお姉ちゃんとも仲良くする。その代わり、約束して」
鳩はくすくす笑いだした。涙のしずくに反射してきらめく声が眩しく、鷲は、少女をまともに見ることができなかった。まったく、誰に
髭だらけの彼の頬に両の掌をおしあてて、鳩は言った。
「ぜったいに、はとも一緒に連れてって。離れるなんて、言わないで。約束よ」
鷲は、頷くことしか出来なかった。
**
翌朝も、よく晴れた。リー女将軍は、ルーズトリア(キイ帝国の首都)へ行く前に、兵士達に訓話を行った。
彼等の労をねぎらい、ひきつづき砦に残る者たちを励まし、共に出発する者には、リー将軍家への忠誠を誓わせる内容だった。移動の途中、立ち寄る邑で強姦や略奪行為をおこなう者は処罰する、とも。
鷲達は、馬車を一乗と馬を二頭あたえられた。鷲と雉は歩き、ルツと鳩と鷹は、オダが御する馬車に乗ることになった。
「どうぞ、お気をつけて」
城壁の東側の門で、セム・ゾスタが見送る。結局、負傷者を含む約三千人が、リー家の所領へ戻ることになった。そこからさらに半数が、女将軍とセム・ギタとともに首都を目指す。
馬上の姫将軍はうなずくと、朝陽に向かい、傲然と
セム・ギタが号令し、彼女を先頭に、軍は出発した。砂漠を越え、東の
城門の傍らに立ち、兵士達の長い行列を見送りながら、セム・ゾスタは、〈草原の民〉の族長の鮮やかな
『
彼等の存在が、窮地に陥ったリー家にとって救いとなるか否か。大公に牛耳られているこの国の行く末に、波乱を起こすのではないか……ゾスタは不安だった。〈
若者の智慧と力が、新しい世界を創造する。伝説の神々が、白き蓮華の国から降臨する。
『ギタ。姫、どうぞご無事で……』
祈りながら、彼は、急に己が老いたように思われた。
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