第二章 足のない小鳥(6)
6
オン大公の使者とゾスタ達が砦に戻って来たのは、翌日の昼前だった。トグリーニ族の長の妹、タオ・イルティシ・ゴアも一緒だ。
タオが来たという報せに、鷲たちは、負傷兵の看護を中断して、広間に急いだ。
砦の中庭に、葦毛の馬と鹿毛の馬がつながれていた。物見高い男達に囲まれながら、飼葉を
使者についてうわさしている兵士達の間をすり抜け、広間に着くと、ものものしく武装したキイ帝国の兵士達に護られた姫将軍の前に、二人の〈草原の民〉が立っていた。
一人はタオだ。もう一人は、彼女の従者だろう。
セム・ギタ達は、《星の子》一行を丁重に迎えた。護衛の兵士の数人が彼等を見遣ったが、すぐに主に視線を戻した。
姫将軍は椅子にすわり、セム・ゾスタのさしだす白樺の樹皮紙をひろげ、そこに書かれた文字を読んでいるところだった。
タオは、剣を帯びていない。鮮やかな真紅に黄金の縁飾りのついた上着を着て、同じ色の帽子をかぶり、丈の長い革靴を履いていた。片手には乗馬用の鞭。長い黒髪は、五本の細かい三つ編みに分かたれて、腰に達していた。
従者の方は、灰色にも見える紺色の上着で、縁飾りや帽子や
姫将軍は手紙を読み終えると、困惑した表情で口を開いた。
「――すると、トグル殿は、兄上の首級を返してくださり……さらに、兵を退くと仰るのか」
「御意」
リー・ヴィニガ姫とタオは、対照的な外見をしていた。タオの方が背が高く、肩幅もあるので大柄に見え、声は低く張りがある。一方のリー姫は小柄で、華奢であり、不安そうな表情をしていると、いっそう少女らしさが目についた。
兄(ゾスタ)から手紙を渡されたセム・ギタは、やはり驚きを隠せない面を上げた。鷲が、仲間から離れて、そっとギタに近づいていく。鷹たちは、入り口付近に集まっていた。
姫将軍は、《星の子》にちらりと視線を走らせたのち、タオに向き直った。
「何故だ? 貴公等は、我等に対して、圧倒的な優位におられるというのに」
「理由は、兄が書面で申し上げた通りだ」
「本当に、ニーナイ国からも手を退くのか?」
オダが、はっと息を呑んでタオを観た。
タオはこの質問には答えず、従者を促して、ゾスタが運んで来た小卓の上に包みを置かせた。ゾスタは、神妙な顔で傍らに跪いた。リー姫が、腰をうかしかける。
タオは、重々しく告げた。
「まずは。リー・ディア殿の首級を、お返ししよう」
並んでいたキイ帝国の兵士達が、一斉に跪き、剣を鞘ごと腰から外して足元に置いた。ギタも、跪く。
二人の姫が頷くのを確認して、草原の男は包みを解いた。
厚手の布のなかから、美麗な彫刻をほどこされた円筒形の箱が現れた。白樺の函だ。男が蓋を開けると、中は二重になっていて、氷がびっしり詰まっていた。さらにそのなかから、純白の絹布に包まれた首級が現れる。見覚えのある金赤色の髪が、卓上にこぼれた。
鷲は胸のまえで腕を組み、立ったまま見守った。鳩が悲鳴を呑む。少女の肩を、オダが支えた。
兵士達は、いちように面を伏せた。肩をふるわせはじめる者もいる。
姫将軍の眼が、大きくみひらかれる。一瞬、高い空を宿した瞳が潤んだように輝いたのち、かぼそい声を絞り出した。
「……確認した。ギタ」
「は」
タオの従者が一歩さがって跪き、代わりにギタが立って、将軍の首級を包みなおした。彼が、大事そうに箱を抱えて主人の傍らに戻るまで、他の者は動かなかった。
姫将軍は嘆息し、投げ出すように椅子に身を沈めた。
「丁重に扱ってくださった様子……感謝すると、トグル殿に伝えて下され」
タオは、硬い表情で説明した。
「身体の方は、運ぶというわけにいかぬ故、棺に納めて埋葬した。場所を教える故、お望みならば掘り出されよ……。表に、羊百頭、馬百頭を連れて来た。贖いになるとは思わぬが、兵士たちの食糧なり、荷運びになり用いられよ。イリ馬(注*)は、そちらの馬より大きいうえ、みなが乗馬用に調教してあるわけではない。扱いには注意して頂きたい」
姫将軍は頷いたが、言葉は発しなかった。
タオは、単調に続けた。
「我等は、これより
通訳なしで話すタオの言葉は、鷲達にも解る交易語だったので、そこに込められた複雑な響きを聞き取ることが出来た。
リー姫将軍は視線をあげたが、その目に、涙などは微塵もなかった。
「我等に、今、貴女と戦う意思はない。追撃は無用だ」
「了解した」
「兄は、オン大公の申し出を、受け入れたのだ」
悲嘆と安堵のいりまじるリー姫将軍の口調に対して、タオの声は感情を抑えているぶん、厳しく聴こえた。兵士達の間に緊張がはしり、鷲は眼を細めた。
タオは、男達の反応を冷静に眺めた。
「我等も、貴女がたを追撃しない。その証に、こちらから兵を退くのだ。ルーズトリア(キイ帝国の首都)へ帰るなら、気をつけて行かれよ。これが、兄からの伝言だ」
「承知した」
凍えそうな声音で呟いて、リー姫将軍は唇を噛んだ。ギタとゾスタが、視線を交わしている。
タオは、長い黒髪を揺らして踵を返すと、鷲に向き直った。新緑色の眸が、身を寄せ合っている鷹たちを観て微笑んだ。
「センバイノー(こんにちは)、ワシ殿。お元気そうで何よりだ」
「お前も元気そうだな、タオ」
鷲は、唇の端を微かに吊り上げた。
タオは、さらりと続けた。
「ハヤブサ殿も、元気だぞ」
「…………」
「とんでもない
自分の首を斬る仕草をしてみせるタオを、鷲は、真顔で見下ろした。タオの目にも、笑いはない。
雉が声をかけた。
「隼は、どうしている? 無事なのか?」
急いで歩み寄る彼を、タオは振り向いた。オダ達も近寄っていく。
「あの戦闘で、ハヤブサ殿はあばらを折られ、頭を打撲された。矢傷も負われていた。故に、私がお救いした。今は、客として遇している」
「あばらを……」
雉の顔が
鷲は、首を傾げた。
「救けた? 何故だ。」
「戦場で、女を殺すトグリーニは居ない」
タオは昂然と胸をはった。周囲の兵士達にも聴かせるために、凛と声を響かせた。
「たとえそれが、剣を振るう女であっても。――あったから、我等は、
「……そうか」
鷲の顔に、ホッとしたような、苦笑しているような、表情が浮かんだ。
反対に、雉は苛々と訊ねた。
「だったら、何故、あいつは帰ってこない? 何をしているんだ」
「ハヤブサ殿は、御自分から、残ると仰ったのだ」
「何……?」
雉は絶句した。セム・ギタとオダが、息を呑む。鷲の頬が、再びこわばった。
タオは、リー姫将軍と一同を、静かに見渡した。
「御自分が人質になるから、リー家とニーナイ国から手を退けと仰った。あの方は、我等の
「何ですと?」
「そんな……!」
愕然と問うギタの声と、悲痛なオダの声が重なった。あまりのことに、雉は言葉を失っている。
リー女将軍が、藍い瞳をぐるりと動かして、窺うように鷲を見た。彼は、口をぽかんと開けてタオを観ていた。
そして。
突然、鷲は笑い出した。
鳩も鷹も、驚いて彼を見た。セム・ギタと、キイ帝国の兵士達も。
片手で額から目元を覆い、長身を揺らして、鷲は笑った。すぐにくっくっという含み笑いに変わる。声は明るく、空虚だった。
「そうか。あいつ、そんなことを言ったのか」
切れ切れに呟いて、また笑う。のほほんとした言葉とは裏腹に、歪んだ唇とちらり見えた皓歯は、切なかった。
姫将軍が、オダが、そんな彼を見詰めている。タオは驚かなかった。
「隼……」
雉は、鷲を見ていなかった。視線が彷徨い、滑らかな声が自失したように呟くのを、鷹は聞いた。
やがて、鷲は掌で顔をひとなでし、笑いを収めた。哂っているような哀しんでいるような、どちらともつかない表情で、足元を見下ろした。
タオは、低い声でオダに言った。
「小僧。また、あの方に救けられたな」
もとより、オダに言い返せる言葉はない。少年は項垂れた。
タオは、ふふと哂うと、きびきびとした動作で姫将軍を振り返り、改めて一礼した。
「我等は、これにて失礼する。トグル・ディオ・バガトルの口上、確かにお伝え申し上げたぞ。リー将軍」
「確かに、承った。道中気をつけて……そう、申し上げて下され」
半ば呆けていた姫将軍が、居ずまいを正して応える。タオは、今度こそ、はっきり
「御武運を」
「タオ」
歩み出そうとするタオに、鷲が声を掛けた。髭に覆われた口元は哂っていたが、眼差しは神妙だった。
「隼を、たのむ……。伝えてくれ。俺より先に死ぬなよ、と」
「伝えよう」
タオはにやりと嘲い返すと、従者を連れて、振り返ることなく歩いて行った。裾広がりな長い上着を翻し、黒髪を揺らして去って行く彼女の背中を、鷹は、不安な気持ちで見送った。
鷹が鷲を顧みると、彼は、口元に片手を当てて考えこんでいた。伏せた眼は、どこを見ているのか判らない。ギタに呼ばれ、振り向いた。
「鷲殿。どうなさるおつもりだ?」
「どうもしない」
鷲は、リー姫将軍に言った。
「俺は、あんたと一緒にルーズトリアへ行くよ」
姫将軍は、きつく眉根を寄せた。何事かを言いかける。
雉が、戸口へと駆けだした。オダが、驚いて呼ぶ。
「雉さん?」
「すぐ戻る!」
雉は肩越しに、焦り声で叫んだ。そのまま駆けていく。
鷹の心に、閃いたものがあった。息を呑んで見上げると、
「……そうか。そういうことか」
同じことに気づいたのだろう。鷲が、やや茫然と、掠れた声で呟いていた。
「鷲さん」
「ギタ! 馬を貸してくれ」
鷹の声は、聞えなかったらしい。鷲は長い髪を翻した。
ギタは、少なからずうろたえた。
「それは構いませんが……どうなさったんです? 鷲殿」
「待って、お兄ちゃん!」
鷲も、駆けて行ってしまった。鳩が、慌てて追いかける。
それをきっかけとして、兵士達が動き出した。次から次へと、部屋を出ていく。退却するトグリーニ族の様子を観に行くのだ。リー姫将軍も、躊躇いながら席をたった。
鷹たちは、釈然としない気持ちで立ち尽くしていた。
セム・ゾスタが、主人の首級を抱えている弟に、小声で話しかけた。
「あれは恐ろしい男だぞ、ギタ」
ギタは、
「トグリーニの族長のことですか?」
彼と直接まみえたゾスタは、ニーナイ国の少年に、思慮ぶかい眼差しを向けた。
「リー・タイク将軍に仕えていた我等が父は、よく言っておりました。味方に武なきことより、敵の徳を恐れよ、と」
キイ帝国流の言いまわしでは、意味が解らない。ゾスタは少年のために、丁寧に説明した。
「敵将の首級を白絹できよめ、穢れなき氷河からきりだした氷で保管する。神宿る白樺の函におさめ、返還する――これは礼です。無益な戦闘をさけ、兵を退く。敵兵を労り、羊馬を贈る――これらは仁です。敵に礼をつくし、民に仁を施す君主には、徳がある。我等にとっては残念なことに」
かわいた砂岩のごとき男の声が、重く湿った。
「かつて、リー・タイク将軍が捕らえたトグルートの盟主を、先帝はその皮膚を剥ぎ、切り刻んでラーヌルク河に棄てました。今上陛下の幼きをよいことに、オン大公は
「
セム・ギタが、苦い声で窘めた。ゾスタは、大袈裟に溜息をついた。
「分かっている。姫はまだ
《星の子》が長杖を手に近づいたので、兄弟は畏まって頭を下げた。眉間に皺をきざんでいる少年を、ルツは優しく見下ろした。
「僕、トグリーニの族長に、会ってみたいです」
悔し気に、オダは呟いた。西方に開かれた窓へ視線をうつし、拳を握りしめる。
「何故、ニーナイを攻めたのか。会って、訊いてみたい」
「……そうね」
ルツは、桃色の唇に、柔和な微笑をうかべた。夢みるように囁く。
「約束はできないけれど。想いつづけていれば、いつか、会えるでしょう」
*
木いっぽん、草のひとすじも生えていない荒野に、遠雷のような地響きが轟く。陽焼けした緋色の岩盤は、ところどころ駱駝の瘤のように隆起していた。
彼方には、雪におおわれた山脈が聳えている。青空に冷たい稜線を晒し、雲のうえから地上を見下ろしている。どこまで行っても、氷の女神の眼差しから逃れることは出来ない。美しいその面に、黄色い砂の紗がかかっていた。
兵士から馬を借りてタオを追いかけ、なだらかな丘に駆けのぼった雉は、砂埃に顔を叩かれ、風下に顔を背けた。左手で目をかばいつつ、向き直る。
風が砂を吹き散らし、いっとき霞を晴らした。馬蹄の轟きは遙か遠い。眼前に拡がる世界の巨きさに、彼は、一瞬われを忘れた。
風が啼く。舞うなどという生易しいものではなく、砂を巻き、唸り声を上げて、こちらに体当たりを仕掛けて来る。
雉は、不安げに鼻を鳴らす馬の手綱を、引き締めた。
馬の群れが、大地を揺らして駆けて行く。その背に乗る男達は、馬と一つの生きもののようだった。鞭をふり、大声で呼ばわっている。畳んだユルテ(移動式住居)や人間を乗せた荷車を中心に、武装した騎馬が、周囲をかこみつつ移動しているのだ。
男達の顔に、戦場へ向かう時の険しさはなかった。笑いながら、口々に叫んでいる。
帰るのだ、草原へ。狼の故郷へ。
一年の半分は凍りつく北の大地。短い夏に草は萌え、遮られることのない太陽が、頭上に輝く。永久に自由の土地。何者にも縛られず、何者にも犯されない。――謳うように。彼等は
あの中に、隼も居るのだろうか。
雉は、眩暈をおぼえた。
隼……美しい、マハデーヴィ(ルドガー神の妻)のような女。気高いヒンズークシュの氷河のような冷たい姿の奥に、情熱を抱いた女。
おまえは、狼達と、共に行くのか。おれの手の届かない遠くへ。たった一人で闘い続けるつもりなのか。
今もまだ、おれを、許してはくれないのか。
叩きつける風に、雉の心はふるえ、
胸を締め付けられる心地がして、かれは喘いだ。
誰にも、本当のおまえを教えずに。いつまで走り続けるつもりだ。おれには、もう、耐えられそうにない。
いったい、どうすればいい? 隼。頼む、教えてくれ……。
「お兄ちゃん!」
少女の高い声に振り向くと、額にひとすじ白い紋の入った栗毛の馬に、鳩と鷲が乗っていた。
相棒の束ねられていない銀髪が、強風にあおられて踊るのを、雉は苦笑して見守った。相変わらず堂々とした奴だ。己に恥じるところがないからだろう。
鷲。最初に、おれを仲間だと言ってくれた男。
おれは、ずっと恐れ続けるのか。こいつに軽蔑され、見捨てられてしまうことを……。隠し、裏切り続けるのか。その方が、よほど卑しい。
「雉」
彼と馬首をならべた鷲は、眼下に広がる光景に息を呑んだ。地平線をみつめる彫りの深い横顔を、青空がふちどる。明るい若葉色の瞳は、どこまでも澄んでいる。
雉は相棒を観て、そっと溜め息をついた。羨ましいと感じたのだ。今までより、更に強く。
鳩が、怪訝そうに二人を見比べている。
〈草原の民〉の軍勢は、既に北の地平へ去ろうとしていた。蒼天と褐色の大地の境界に、砂埃が、薄絹のように漂っている。
「砦に帰ろうぜ、雉」
「ああ。そうだな……」
鷲は手綱を操り、雉は大人しく従った。事情を察したであろう相棒が、そんな素振りを全く見せないのが、嬉しくもあり、哀しくもあった。
いつまで、恐れなければならないのだろう。同じ疑問が、胸を刺す。
初秋の清澄な
~第三章へ~
(注*)イリ馬: イリ盆地(アルタイ山脈の西、天山山脈の北、バイカル湖周囲、イリ河流域。新疆ウイグル自治区・モンゴル国・カザフスタン共和国に及ぶ地域)で産する馬。アハルテケに近い系統で、モウコノウマより大型で頑丈。伊梨馬、漢代には天馬、汗血馬と称えられた。
現在のイリ馬は、改良種です。
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