第二章 足のない小鳥(3)
3
『考える時間がありすぎるのは、困ったものだ』
幽閉されて、どのくらい日が経つのか。三日目くらいは数えていたが、そろそろ記憶が曖昧になりつつあった。
鷲は牢で、眠るか食べるか考えるか、という生活を送っていた。
五メルテ(約二メートル)四方程度の半地下の石部屋に、窓がないことが、彼は大いに不満だった。カビ臭いのも、寝台すらないのも、すえた臭いがすることも、我慢できる。
窓がないとは、何事だ。
食事を持って来てくれるセム・ギタに、彼はこの不満を言い続け、歴戦の兵士を呆れさせた。
「鷲殿。ここに入る者が、みな貴方のように大柄とは限りません。窓を作れば、逃げ出す
「これじゃ、昼も夜も判らない。こんな所で、灯をともし続けてみろ。窒息しちまう」
ぶつぶつ文句を述べたものの、鷲は、結局たいした抵抗もせず牢にこもっていた。
立つと頭が天井にぶつかってしまうので、身体を満足に伸ばせない。部屋の中央に胡座を組み、眼を閉じている。食事と用足しの時以外、動かない。眠る時も、その姿勢のままだった。
その姿は苦行を続けるルドガー神を思わせ、見張りの兵士を畏れさせたが、本人は、いたってのんびりしていた。
『このままじゃ、太っちまうよなあ、絶対』――ある時、ふとこの考えが頭を過ぎった。
『腹が出たら、ギタの奴、どうしてくれる。この歳になったら、一度出た腹をひっこめるのは、簡単なことじゃないんだぜ……』
無精髭も、うっとうしい長さになっていた。ぼさぼさの髪とひと続きになって輪郭を縁取り、まるで灰色のたてがみだ。砂にまみれ、ところどころもつれている。基本的に身なりには頓着しない鷲だったが、いい加減、自分の体臭が気になり始めていた。
――と、まあ、雷神の
鷹と鳩、オダのことを、鷲は、それほど心配していなかった。ルツと雉がいる。あの二人は、いざという時には仲間を守れるだろう。
『隼が居てくれれば、不安はないのだが』
時間があり過ぎて、つい、考えてしまう。何を考えても、最後には隼に行き着く。彼女の姿は、彼の脳裏を離れなかった。
『俺は、あいつに期待し過ぎたのか……』
隼が己の思考と行動の一端を担っていると、鷲は自覚していた。そう仕向けてしまったことを、後悔に似た気持ちで思いかえしていた。
そして、隼。常に鵙の後ろに影のように寄り添っていた、無口な少女。
愛想のない険しい面差しと痩身は少年のようで、鷲は、鵙の弟だと間違えた。気持ちがすなおに表れる姉と違い、隼は、いつも、どこか気を許さない肉食獣の気配を漂わせていた。
頭の切れる、手なずけられない、
隼の方から、彼に剣と弓を習いたいと言って来たのだ。最初は、狩りをするためだった。いつか、野盗などから身を守るために。やがて、自分達だけでなく、エツイン=ゴルのカールヴァーン(隊商)とニーナイ国の少年を護るために。
彼女の、人の心を読みとる鋭さと、
彼が彼女に期待したのは、女らしさなどではなかった。隼自身の望みもそうだった。
ただひたすらに強く、もっと強く――。
鷲は、そっと、溜め息をついた。
隼。俺と、お前は似ている。俺達は、鳶や鵙がいてくれなくては生きてゆけない、弱さを持っている。守る者がいなければ、自分の生きる意味を見つけられない。
鷲は、己の裡なる虚無を感じて自嘲した。誰にも埋められない――鳶にすら埋められなかった、生きることへの不安だ。じっとしていたら、喰い殺されてしまう。
隼、お前なら、解るだろう?
それは、俺が母親に捨てられたせいなのか。お前が、他人に石をぶつけられながら生きて来たせいなのか。かけがえのない者が側に居てさえ、不安がある。
化け物とよばれ、故郷を追われ――そうでないと言ってくれる相手を求めて、旅をしてきたのか。その為に、仲間を傷つけ、喪って……。たどり着いてみれば、なんのことはない。俺達は、本当に 《化け物》 だったわけだ。
それでも、今更、やめるわけにいかない。
『まるで、足のない小鳥』
鵙の言葉を思い出して、鷲は嗤った。
『あなた達は、どうしてそうなの。とび出して行かずに、いられないの。あなたは鷲じゃない。一度飛びたったら死ぬまで飛び続ける、足のちぎれた小鳥よ……』
ああ、そうだ。鵙、済まない。俺は今度は、隼まで傷つけちまった。お前と鳶を失って、それでもまだ、飛び続けるしか能がない。
鳶……ゆるされるなら、どうか、隼を守ってくれ。
『俺は 《鷲》 になりたいんだよ、鵙。』 眼を閉じて、鷲は、心の中で呼びかけた。あいつは、《隼》に。
生きる理由をさがして飛ぶ。俺達は、足のない小鳥だ。
扉の向こうの気配に、鷲は思考を中断した。ゆっくり眼を開ける。足音が近づき、覗き窓が暗くなった。
「鷲殿」
「……来たか、ギタ」
「ええ。貴方の仰った通りでした」
セム・ギタは、扉の鍵を外すと、大きく開けて片膝をついた。
「オン・デリク大公の使者が、
「判った」
鷲は、短く言って立ち、長身をかがめて扉をくぐった。再び閉じ込められることはないと承知して、ひとの悪い笑みをうかべた。
「ギタ。こんど俺が入る時までに、牢には、ちゃんと窓をつけておいてくれよ。そうでないと、次からは居座って、お前が窓を作るまで出ていかないからな」
「承知しましたよ、鷲殿」
ギタは、片目を閉じて笑い返した。先にたって歩き出す。
彼の後について行きながら、鷲は、胸の中で、もう一度呼びかけた。――隼。
『無事でいろよ、必ず。お前に、美人薄命だとか、薄幸の美少女なんて言葉は似合わない。お前は、俺達の 《隼》 だ。
だから、必ず、無事で帰って来いよ……』
**
広間で、リー・ヴィニガ女将軍は、ギタを待っていた。木製の椅子に豪華な身をあずけ、軍人には不似合いなほそく白い指を噛む。甲冑をまとった屈強な男達を、周囲にはべらせていた。
ルツ達も部屋から出されていた。しかし、四日が過ぎても、姫将軍の
「遅い! ギタは、何をしておるのだ」
「お待ち下さい、姫。先刻出て行ったばかりではありませんか」
セム・ゾスタの声には、やや呆れたような響きがあった。ギタや鷲とは別の意味で、この人も実は大物かもしれない、と鷹は思った。
姫将軍が、肘掛をコツコツと指で弾きながら言い返そうとした時、扉が開いて、ギタが入って来た。
「お待たせしました、姫」
「お兄ちゃん」
《星の子》と雉の後ろで、鳩が呟いた。
兵士達がさっと緊張する中、ギタは身体をずらして鷲に道を開けた。数日ぶりに姿を現した彼は、部屋に入ると顔を上げ、ゆらりと重心を左脚に移した。
鷹は、鷲の長身を眺め、安堵した。酷い目に遭わされていたわけではないらしい。衣服はくたびれていたが、傷つけられた形跡はなかった。
ルツも、息をつく。
鷲は、骨ばった手を腰にあて、リー女将軍に相対した。ボサボサの長髪が、肩から背中へと広がっている。長く伸びた髭とともに彫りの深い顔を縁取っていた。
「鷲さん!」
「よお、お前ら」
オダの声に、鷲はこちらを向き、いつもの笑っているような声で応えた。切れ長の眼に、微笑が浮かぶ。明るい若葉色の瞳にみつめられた鷹は、身体の芯があたたかくなるのを感じた。
「元気そうじゃねえか」
鷲は、仲間達を眺めて言った。
「多少、寿命は縮んだけどな」
雉が苦笑まじりに返すと、鷲は、にやりと
「俺だって。毎日、一日ずつ寿命は縮むぜ?」
「とりこみ中のところを、済みませんが――」
ゾスタが声をかけた。姫将軍は、仏頂面で頬杖をついている。
鷲の目に、一瞬、射るような光が過ぎった。ひょいと片方の眉を上げ、普段の飄々とした態度にもどった。
「何だ。おっさん」
「生憎、貴方の冗談に付き合っている暇は、我々にはないのですよ。
「…………」
「遅れれば、帝の命に背いたとして、大公と親衛軍に口実を与えることになります。ワシ殿。貴方は、我等の択るべき道に、我等が思いつかないものがあると仰った。貴方がたの身の安全は保証いたしますから、教えて頂けないでしょうか」
ゾスタは苦笑したが、姫将軍の表情は険しかった。主君の顔色を伺っていたギタが、小声で促した。
「鷲殿」
「やだね」
鷲は、面倒そうに横目でギタを見ると、もう一方の耳をほじりながら言い捨てた。
ぽかんと口を開けるゾスタの後ろで、姫将軍は腰を浮かしかけた。鷲は、彼女をじろりと睨みつけた。
「地下牢に窓もつけない奴の言うことを、信用出来るか。教えた途端に 『ばっさり』 じゃ、わりに合わない」
鷲とギタ以外の全員が、いぶかしんだ。
『……窓?』
「貴様!」
首の前で掌を水平に動かして、ぺろりと舌を出す、鷲。姫将軍は怒鳴りかけたが、一瞬早く、ゾスタが声をあげて笑いだした。
明るい笑声は石造りの壁に響き、ギタは勿論、姫将軍すら唖然とさせた。
「成る程。殺すには惜しい男ですな、姫」
「……お前もそう思うのか。ゾスタ」
「おっさんは黙ってろ」
しかし、鷲の口調は一変して厳しくなった。ゾスタを睨み据える。唇が歪み、牙を思わせる白い歯をむき出した。
「俺は、そこの小娘に呼ばれて来たんだ。自分で話す気がないなら、牢へ帰らせてもらおうか」
「ゾスタ、退がれ」
姫将軍は、片手を振って合図した。ゾスタは気を悪くしたふうもなく、笑いながら一礼して後ろへ退がった。
鷲は、不機嫌なようすでゾスタを見送ったのち、姫将軍に向き直った。
「それで。貴様の首をトグルートへの土産にするかわりに、どんな策があると?」
鷲は片目を閉じ、左手で、ぼりぼり首の後ろを掻いた。
姫将軍の紅い唇が、苦笑を形づくる。眸から怒りが消え、面白がる表情になった。
「お前達の身柄をどうするかは、返答次第だ、
姫将軍は、椅子の背によりかかり、頬杖をついて鷲を眺めた。
「帝の使者とやらは、どうしている?」
鷲は、ぼそりと訊ねた。姫将軍の黄金色の眉が、かるく跳ねた。
「別室に通してある。目通りを願おうというのか?」
「会う必要はない。大公の使者が帝の使いも兼ねるというのは、どういうことかと思ったんだ」
「オン大公は、
答える姫将軍の声は、苦々しげだった。
「大公家は、皇家の外戚だ。キイ帝国だけでなく、ミナスティア王家にも、ナカツイ王国の朝廷にも、姻戚を持っている。我等のような成り上がりとは、格が違うというわけだ」
「成る程」
鷲は、面倒そうに相槌をうった。姫将軍は首を傾げた。
「〈
「成り上がり者でね、俺達も。使者は、お前達を脅すほかにも用があるだろう? トグリーニ族の所へ行きたいはずだ」
ギタをはじめ兵士達の間に動揺が走った。鷹は《星の子》を顧みたが、ルツの面は静かだった。
「切れるというのは、
姫将軍は、ちらとギタを見遣った。ギタは、恐縮気味に肩を縮めている。
姫将軍は、表情をひきしめた。
「オン大公はミナスティア王国と盟約を結び、〈草原の民〉の力を利用して、ニーナイ国の交易路を手に入れるつもりだ。大公家の戦略は、味方にしたい相手に血族の娘を嫁がせ、同盟を結ぶこと……。この機に、トグルートの族長にも、その策を用いるつもりなのだろう」
鷲は、足元を見詰め、考え込んだ。
姫将軍の口調が変化した。慎重に問う。
「お前は、兄上をけしかけながら、大公の使者が来ることを予測していたのか。
「帝の使者を幽閉するわけには、いかないだろう?」
鷲は、伏目がちに彼女を見て、問い返した。
姫は椅子の背にもたれ、大きく、深く、溜め息をついた。
「通すわけにはゆかぬ。本音を言えば、叩っ斬ってやりたいくらいだ。だが、オン大公に口実を与えてやる気にもなれぬ」
「姫……」
「通してやれば、いいじゃねえか」
労わるようなギタの声と、飄々とした鷲の声が重なった。姫将軍の優美な眉が、また、ぴくりと跳ねた。
「何だと? 天人」
「通してやれ、と言ったんだ。邪魔するのは無粋だろ」
ギタが、息を殺して、主人と鷲を見詰めている。
姫将軍にも、鷲の性格が呑み込めて来た。怒りだすことなく、彼の言葉の続きを待った。
「俺がオン大公なら、そう考える。お前なら、腹いせに使者を殺すくらいのことはするだろうと。それなら口実が出来る。後で、もう一度トグリーニ族を手なずければ済む話だ」
「…………」
「どうせお前達は、都へ帰らないわけにはいかない。使者がトグリーニ族の所へ到着して同盟が成立するなら、さらに都合がいい。奴等はお前を追撃して、首をとってくれるだろう」
鷲の目に、笑いは欠片もなかった。試すように、窺うように、姫将軍を眺めている。
「だが、俺がトグリーニの族長なら、どう考えるだろう。戦うつもりもなく、リー・ディア将軍の首級をとってしまった。お前達の窮状は知っている。大公のたくらみも、だ」
「…………」
「お前達を倒すのは、奴等にとっても容易ではない。大公とともに東西から挟撃する方が有利だ。キイ帝国との共存をはかり、オン大公の飼い
「何? ワシ殿、今、何と言った?」
姫将軍が身をのり出し、さらに敬語まで使ったので、鷲は愉快そうに
「お前が決めることだ。俺は、トグリーニの族長の、頭の程度を知らない。奴が俺程度なら、お前を追撃はしない。俺より頭がいいか、もしくは莫迦ならば、とうに攻めて来ているはずだ」
言葉を切り、鷲は眼を伏せた。いっとき考え、また嗤った。
「ま、奴等が攻めて来るなら、その時はその時だ。俺とギタと……隼で、何とかしてやるよ」
「鷲殿」
ギタが息を呑む。鷹にも、見えた気がした。
鷲の長身が、淡い光に包まれたのだ。決して、まばゆいものではなかった。柔らかな白い光が輪郭をふちどり、風もないのに、銀灰色の長髪がふわりと揺れた。
雉が眼を細める。ルツは表情を変えなかった。
ほかの兵士達や姫将軍は、気づかなかったらしい。
「
姫将軍は立ち上がると、鷲に近づいた。火焔のような髪が、ほそい肩を流れ落ちる。
鷲は、小柄な彼女を見下ろした。若葉色の瞳に赤毛が映りこみ、夕陽色の影となった。
姫将軍はフッと嘲い、彼に横顔を向けた。部下たちに聞こえるよう、声をはりあげる。
「貴様の知恵がどれ程のものか、確かめさせてもらおう。天人の能力を試すのも悪くはない。ギタ。こやつ等の身を、お前に預ける」
「ありがとうございます」
セム・ギタは、深々と頭を下げた。
姫将軍は、薄笑いしている鷲を見て笑った――艶やかに。紫の外套を翻して踵をかえすと、参謀に命じた。
「ゾスタ。使者を丁重に、トグルート族の許へ送れ。護衛を連れて、お前も行け。ほかの者は、戦に備えて兵を武装させろ」
「御意」
「〈
ルツがにっこり微笑んで優雅に腰を屈めたので、姫将軍は、やや照れくさそうに苦笑した。少女らしくない厳格な顔に、素顔がのぞいた。
「今度は、監禁ではない故、望みのものを取らせよ。ギタとワシ殿は、
――かくして、立場は逆転した。
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