第二章 足のない小鳥(4)
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砦は、にわかに騒々しくなった。
部下たちを城壁の内へ呼びもどすギタの声は、はずんでいた。これから戦いが始まるかもしれないという懸念を、吹き飛ばす程。
大公の使者とゾスタ達を送りだす姫将軍の瞳も、あかるく輝いていた。少女は、成す術もなく砦に閉じこもっていることが、最も嫌だったのだ。
鷹たちも、急に忙しくなった。閉じ込められていた間、診ることの出来なかった負傷兵の看護に。
ルツと雉が中心となり、セム・ゾスタ配下の兵士達が、手を貸した。
夕暮れが近づき、兵士たちが食事の仕度を始めた頃。鷹は、声をかけられた。
「鷹殿」
こころよく響くふとい声に振り向くと、ギタが、包みを手に立っていた。
「これを鷲殿に届けて、ついでに呼んで来て頂けませんか。姫が、皆様と一緒に、食事をしたいと仰せです」
「いいですけど……鷲さん、リー姫と一緒じゃなかったんですか?」
鷹が包みの一番上の布を手に取ると、ギタは、からからと笑った。
「あんまり
鷹が布を広げると、鷲の外套だった。裾を引き摺ってしまいそうになり、慌ててたくし上げる。
ギタは、灰水色の眸を優しく細めた。
「鷲殿が、負傷した兵に掛けて下さったのです。本人が、いたく感動しておりました。老兵が一人、凍え死なずに済んだと」
鷹は、いかついギタの顔を見詰めた。監禁されていた自分達も辛かったが、砦の外に出されていた負傷兵たちの苦痛に思い至ったのだ。
この辺りは、日中は陽射しに焼かれるほど暑く、夜間は地面が凍るほど冷え込む。砂と風にさらされ、若者でも辛いのに。老いて負傷した身では、どれほど苦しかっただろう。
ギタは、彼女を安心させるように頷いた。
「その者は、砦内に保護しました。他の重傷者も一緒です。鷲殿のおかげで、
「兵士たちの故郷って、どこなんですか? ギタさん」
鷹は、外套をたたみなおしながら訊ねた。セム・ギタは、また眼尻に皺をきざんだ。
「ギタで結構ですよ。ルーズトリア(首都)へのぼる道中に、リー家の所領があります。彼らは、そこの出身です」
ギタは、鷹の手にした外套の上に濃紺の衣を重ね、首を傾げた。
「武装はさせておりますが、トグルートが敢えて攻めて来るとは思いません。あとは、オン大公にどう対抗するか、です――」
彼の台詞の後半を、鷹は、あまり聴いていなかった。鷲は西の小部屋に居るという言葉をもらい、歩き出す。衣類を手に、うす暗い石段を登り、部屋を捜した。三階まで行って思い出した。
『ああここは、ルツさんが休んでいた部屋だ』
扉は開いていた。窓も。西日が、まっすぐ室内を横切って、廊下に手を伸ばしていた。そこだけ、ほんのりと暖かい。
鷹は立ち止まり、室内を覗いて息を呑んだ。
鷲が居た。寝台の傍らに立ち、窓枠に手をあずけて外を眺めている。
伸びた髭はそのままだ。汚れを落とし梳かれた髪は、銀の光沢をとりもどし、豊かに滑らかに、肩から背へと流れていた。うす紅色の陽光が、髭と髪を透かしている。若葉色の瞳は、半ば伏せられた睫にけぶり、橙色に輝いている。
鷹は、声をかけるのを躊躇した。彼は夕景の一部となり、その静寂を犯すことは許されないように思われた。
鷲の瞳がうごいて鷹と出会い、ゆっくり振り向いた。片方の眉がもちあがり、髭にうもれた唇に微笑がうかぶ。
「鷹か。どうした? そんな所に突っ立って」
「うん……」
笑みを含んだ声は、いつもの彼のものだ。どこが違うとは言えない。
鷹は戸惑った。
「俺の顔に、何かついてるか?」
鷲はおどけて首を傾げ、顎を撫でた。鷹は、首を横に振った。
「じゃあ、久しぶりだから、見惚れているとか」
見惚れていたのは事実だが、認めてはいけない気がする。鷹が返答に困ったので、鷲はにやりと笑った。
「無事で良かった、鷹。心配かけて済まなかったな。だから、そんな顔するなよ」
「うん……。鷲さん。何を考えていたの?」
「別に、大したことじゃない」
鷲は哂ったが、鷹の表情が晴れないので、困ったように眉をひそめた。
そして、
突然、彼は、ぷくうぅうっと頬を膨らませた。
「はっきりしない奴だな。せっかく俺に会えたのに、鷹は嬉しくないわけ? あ、そう。嬉しくないんだ。もう、俺のことなんか、どうでもいいわけだ。ふうん」
「ち、違うわ。そんなことない、鷲さん。ただ、わたし――」
『あ……』
「ただ、何?」
にまあ、と、鷲は笑った。鷹の顔に火がついた。
「意地悪!」
「俺は意地悪だぜ。知らなかったのか?」
絶句する鷹。鷲はくすくす笑い、明るい若葉色の瞳が、彼女の胸を焦がした。
「わたし、考え事の邪魔をしなかった? さっき」
言い方を変える。と、鷲の目から笑いが消えた。彼女から視線を逸らし、優しくぼやいた。
「……ずるいな。見ていたんなら、そう言えよ」
「ごめんなさい」
「いいさ。気にするようなことじゃない」
鷲は淋しげで、鷹は胸が締めつけられるように感じた。彼は片目を閉じ、ぼりぼり頭を掻いた。それから、口元に手を立て、声をひそめる。
「……実はね、鷹」
「うん」
「俺、雉と出来てるんだ」
「…………」
「今まで隠してたけれど、四年越しの付き合いになる。いつも、俺が受け役でね――」
鷹が眼をまるくして
鷹は呆れ、情けなくなった。思わず、両手に持った衣類をふりあげる。
「もうっ、鷲さん!」
「いや、悪い。冗談だよ。
目尻に浮かんだ涙を拭きとりながら鷹にむけた眼差しは、優しかった。顔を覆う指の隙間から、微笑をたたえた黄金の瞳が見詰めた。
「隠し事が思いつかなかったから、言ってみたんだ。ふざけて悪かったよ」
鷲は、心持ち眼を伏せた。それから、穏やかに切り出した。
「鷹。鳩とオダと一緒に、ニーナイ国へ帰らないか」
「えっ?」
鷹は、すぐには言われた言葉の意味が分からなかった。鷲は、
「俺は、ルーズトリア(キイ帝国の首都)へ行こうと思う」
「…………」
「俺が言っていたなんて、ギタには言うなよ。あいつらとトグリーニ族を、和解させようと考えている。それしか方法がなさそうだ」
鷹は唖然とした。鷲は、窓に向き直ると、急速に暗くなる紫色の空を見詰めた。
「リー・ディアは、首都に年老いた母親がいると言っていた。それが人質だ。大公は、リー・ヴィニガに出頭して、戦の責任をとれと言っている。ギタは死ぬ気だぜ、鷹。リー家を守るために、自分の首を差し出すつもりだ」
「待って。それって――」
「そうだ。俺は、隼を救い出すつもりはない。あいつには、あそこでやってもらいたいことがある……。ギタ達を見捨てることは、出来ない」
眉根がきつく寄せられ、わずかに銀色の睫が震えた。
鷲は鷹をふりかえり、表情を和らげた。
「これは俺の問題だ。隼は仕様がないが、お前とオダには関係ない。……鷹。お前には、オダと鳩を連れて、〈
呼称が『君』から『お前』に変わっていることに、鷹は気づいた。鷲は、真顔で彼女を見詰めた。
「隼が生きていると、俺は信じている。だが、無事じゃない」
鷲は、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。低い声は、血のように濁った。
「無傷なら、とっくに何か言って来ているはずだ。鷹、俺もどうなるか判らない。キイ帝国は敵地だ。オダや鳩を連れては行けない。俺一人で、お前達を守りきれる自信はない」
「でも、鷲さん。鷲さんには――」
『凄い力が、あるじゃない。トグリーニ達をなぎ倒した――。雉さんにも』
そう言いかけて、鷹は言葉を呑みこんだ。
「
鷲は、
「どんな場面になろうと、あんなものを二度と使う気にはなれない。俺は、自分を人間だと思っている。これ以上化け物じみるのは、御免だ」
茫然とする鷹を見て、鷲は眉を曇らせた。声をさらにひそめる。
「鷹、帰ってくれないか。ルツと雉に送らせるから。お前達を危険にさらしたくないんだ」
それでも。鷹は、言いたかった。
『わたし達の方こそ、鷲さんを、一人で行かせたくない。こんな所で離れたくない。
鷲さん。わたしはまだ、貴方から答えを貰っていない。見ていてくれと、言ったのに。これで終わりなの?
こんな所で、もう、
言いたくて、言い出せず。鷹は項垂れた。
頭上で、深い溜め息が聞こえた。視界の隅で銀髪がゆれ、気の抜けた、ひどく疲れた声が、降って来た
「と――いざとなればこれくらい、言うつもりだったんだけどなあ……」
舌打ちを交えて、低い声がぼやいた。
「顔を上げろよ、鷹。悪かった。……そんな顔するなって。ったく、仕様のない野郎だな、俺は」
鷹がおそるおそる面を上げると、鷲は、右手で目を覆い、盛大に溜め息をついていた。首を振る動作にしたがい、銀灰色の髪が肩で揺れる。
「どうしてこう融通が効かないのかね。お前もお前だよ、言い返すくらいしろよ。そうすれば意地を張れるのに、そんな顔で黙り込まれたら、俺が、すっごく悪い男みたいじゃないか」
微笑を含んだ声。指の間から鷹をみる若葉色の瞳は、ふるえだしそうなほど優しかった。
「お前に何と言ったかくらい、覚えている。いきなり掌を返せるほど、俺は器用じゃない。……頼むから。俺は、その顔に弱いんだ」
「鷲さん?」
自嘲気味な苦笑が、光に透けて融けてしまいそうだ。長い前髪を何度もかき上げ、彼は囁いた。
「お前を連れて行きたくない。そうしてはいけないと思っている。……だけど、連れて行きたい。お前に、ついて来て欲しい――なんて」
息を抜く。鷹に横顔を向けたまま、殆ど息だけで続けた。
「何を言っているんだ、俺は。ずるいよな、まったく。お前に、側に居て欲しいと思うなんて」
鷲は、ちらりと鷹を見て、苦虫を噛み潰した。
「人の気も知らないで。そんな、嬉しそうな顔をするなよ。俺の言っていることが、判っているのか? 俺は――」
鷲は言葉を呑むと、ながながと嘆息した。己にいら立って髪を掻きあげ、しきりに頭を掻いた。
しかし、鷹の胸は、温かいもので満たされていた。あたたかな想いに。
『鷲さんが、わたしを、必要としてくれている……』
鷲は遂に肩をおとし、掠れた声で呟いた。
「俺は、
「…………?」
「もう一度……失うのが、怕い。二度と、あんな思いはしたくない。俺には、守り抜く力がないから――なんて。そんなもの、言っている限り、一生かかっても身につくはずがないのにな」
鷲は彼女を観ず、苦い声で続けた。
「矛盾しているんだ、俺は。他人のことなど、どうでもいいと言いながら。オダのことに首を突っ込み、ギタ達のことに首を突っ込んで……身動きが取れなくなってから、次のことを考える。そうして、いつも誰かを傷つける」
「…………」
「ずるいよな。一緒に居て欲しいと言いながら、お前を怕がっている。お前が、隼やルツのように強い女であってくれたらと、思っちまう。――こいつはただの愚痴だな。悪かった……気にしないでくれ」
鷲は肩をすくめると、腕を伸ばし、鷹が寝台の上に乗せていた衣類を手に取った。濃紺の長衣をはおり、外套に袖を通す。長い銀色の髪が、滝のように肩を滑り、背中を流れて、腰の辺りでゆるやかに波打った。襟は開いたまま上着の裾を
その間、彼は、ずっと黙っていた。端整な横顔に表情はなく、感情の動きをうかがい知ることは出来なかった。
「鷲さん」
鷹が小声で呼びかけると、鷲は、弱々しく微笑んだ。
「お前はさ。いじらしくて、可愛いらし過ぎるんだ。ほんと、俺には勿体ない……。とてもじゃないが、手を出せないよ。鷹」
「…………」
「行こう。ギタが待っている。そろそろ、ゾスタ達が、トグリーニの所へ着く頃だろう」
部屋を出る鷲の後について行きながら、鷹は、心の中で呟いていた。温かい想いをこめ、呼びかける。
『鷲さん』
……何度、ふられてもいいわ。何度でも、貴方を好きになるから……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鷲: 「俺は、ふっていないぞ」
鷹: 「えっ?」
鷲: 「俺としては……その、かなり、頑張って……言った。なのに、どうしてそうなるんだ?」
鷹: 「だって、手は出せないって――」
鷲: 「出せるはずがないだろう。この状況で」
鷹: 「ええっ?」
鷲: 「…………(頭を抱える)」
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