第一章 天人(6)

*R15です。殺人、暴力、流血の描写があります。苦手な方はご注意下さい。



            6


  さて。どこから来るかな。右か、左か、それとも上か……。


 黒づくめの戦闘服をまとった大柄な男を眺め、隼は、ぺろりと舌を出して唇を舐めた。

 群集のざわめきも、風の音も、彼女には聞こえない。右手にずしりと来る長剣の重さが頼もしい。無造作に剣をさげ、彼女は待った。

 時が、満ちるのを。

 不思議に、死への不安や躊躇いはなかった。もちろん、必ず勝てる自信があるわけではないのだが。

 一瞬の、ぽっかり空が抜けたような時が訪れるのを待つ。


『お前は女だから、力はないが――』

 隼の脳裡に、聞きなれた声が蘇る。何千回、何万回と剣を合わせた友の声が。眼をほそめ、腹に力をたくわえながら、隼は、彼の言葉を復唱した。

『――身軽さと、柔らかさがある。決して不利ではないはずだ。お前は速い。力で勝とうと思うな。俺が動く前に、俺の急所を狙え』


 殺されたくなかったら、殺すことを躊躇うな……か。よく言ったもんだぜ。

 遊びでは決して勝てなかった鷲の言葉に、隼はわらった。――つまりあたしには、殺さず相手を降伏させるなんて真似は、無理ということだ。

 鷲は隼を、自分と共に戦える人間に育てた。いざという時には、人を殺せる女に。何故、思い出したのか。

 隼には、理由が判った。

 トグルだ。あの男の新緑色の瞳は、昔の鷲を思い出させた。恐いものなど何もなかった頃の……自分を。思い出させるのは、それだけだろうか。

 トグルとタオは、否応なしに、今の自分を思わせた。似ているな……と、漠然と、隼は思っていた。

 似ている、生き方が。

 それは、鷲と隼自身を思わせた。四人とも、何かに縛られて――逃れようと、もがいている。守らなければならないものがあり、その何かに、逆に守られていると知っている。

 隼は、再度くちびるを舐め、風に含まれる乾いた砂の匂いを嗅いだ。

 そうだ……あたし達は皆、この髪の毛一筋だって、自分一人のものではない。必要としてくれる奴がいる。まだ、死ぬわけにはいかない。

 彼女は剣の柄を握りなおした。刀身の輝く面を相手にむけ、心もち脚を広げて立つ。風に揺らぐことのないように。


 その細身が、ふいに大きく、タオには見えた。強風に銀髪をなぶらせて立つ、荒野の女神だ。

 一瞬、彼女が白銀の光に包まれて見え、トグルは眼を細めた。


 男が動いた。


『右か……!』 隼は身をしずめ、相手が薙ぎはらう腕の下をくぐり抜けた。そうしながら、剣を引き寄せ、にぶく輝く切っ先を眼前に構える。

 まさに一陣の風のように彼女が懐にとびこんで来たので、男は息を呑んだ。

 隼の瞳に、苦笑が閃いた。


 ずん……という、重い手ごたえとともに、彼女の剣は、真下から男の喉を突き上げていた。気管の軟骨と頚動脈を突きやぶり、頭蓋底ずがいていに達する。黒い眼をおもいきり見開いたままの顔で、男の時は停止した。

 全体重と力をこめて男の喉を突きあげた隼は、勢い余って宙にうく相手の胸にぶつかりそうになり、その肩に手を置いた。鮮やかな緋い血が、彼女の顔と腕にふりかかる。

 仰向けに倒れる男をなかば跳び越えて地上に降り立った隼は、身長の倍ちかい高さに吹き上がる血飛沫にも構わずに、男の身体から剣を抜き、次の攻撃に備えた。


 しかし、誰も、動かなかった。


 一瞬の出来事に、男たちは呼吸を止めて凍りつき、女たちは、悲鳴をあげることを忘れていた。群集は、一枚の黒い岩になった。

 沈黙の中で、トグリーニ族の旗が風に翻り、時の止まっていないことを示していた。


「******!」

 鋭い叫び声がした。仲間を殺されるとは思っていなかった男が、怒りと焦燥のあらわな顔で、隼に打ちかかって来た。剣を抜くことを忘れ、鞘を被せたまま、打ち下ろしてくる。

『言葉は判らないが、だいたい何を言っているか、見当はつくな』 男の怒声を浴びながら、隼は、苦い思いを噛んだ。大の男とまともに打ち合っていても勝負にはならない。身体を捩じらせ、力を横へ受け流し、後方へ跳び退がろうとした。――その時、

 タオも、トグルさえ、息を呑んだ。もう一人残っていた男が、突然、横から体ごと隼にぶつかり、彼女の負傷した脇腹を殴りつけたのだ。


『何?』 と、眼をみひらいた隼は、避ける間もなく弾きとばされ、脚をもつれさせて倒れた。かろうじて剣は手にしていたが、殴られた腹部に手をやった時、口の中に、血の味がひろがった。

 しまったと思う間もなく、激痛に身を貫かれて、隼はうめいた。呼吸ができず、身体に力が入らない。片膝を立てて起き上がろうとしたが、折れた肋骨から痺れるような痛みが全身にひろがり、気が遠くなりかけた。片目で男を見上げたものの、もう、剣は一寸ちょっとも動かせそうになかった。


 男たちも当惑していた。特に、二番目の男は。自分の順番に邪魔をされて、抗議すればいいのか攻撃を続ければいいのか、決めかねていた。

『殺られるか』 と、隼が考えた時、頭の方角から声がした。

『トグルか……』 そろそろと息を抜きながら、隼は、身体がふるえ始めるのを感じた。口内に溜まった血を吐き出す。彼女の目に、足早に近づいて来る、黒衣の族長の姿が映った。

 トグルは隼の傍を通りすぎ、横合いから邪魔をした男に、叩き付けるような口調で言った。早口で言葉も判らなかったが、隼には、彼の声に含まれる隠しようのない怒気が聴きとれた。

『ああ……救けようとしてくれるのか。あたしも、これで終わりか』 立って戦えることを示したかったが、膝はわらい、頭は朦朧とした。

 族長の剣幕に、男はおどおどと言い訳をしたが、聞き入れられず、トグルの指差した方向へ立ち去ることを余儀なくされた。

 歯を食いしばって痛みに耐える隼の視界に、一対の足が入って来た。


「……大丈夫か、天人テングリ


 隼が、そしてタオも驚いたことに、トグルは片膝を地面につき、身を屈めて彼女の顔をのぞき込んだ。冷めた口調は相変わらずだが、彼女の唇に赤い雫がのっているのを見て、眉を曇らせた。


「立てるか。まだ、戦えるか?」

「……手加減は、しないはずじゃなかったのか?」


 血に濁った声で、隼は囁いた。


「何故、邪魔をした……。あたしに、死ぬまで戦わせては、くれないのか」

「手加減をすることと、勇気ある敵に敬意を払うことは、違う」


 トグルは淡々と応えた。新緑色の瞳は、まっすぐ隼の目を見詰めた。


「あの男は、自分から、お前と戦う権利を放棄した。尋常な果し合いで敵の傷を故意に攻めるような者を、氏族に持った覚えはない」

「厳しいんだな。……まるで、遊戯だ」


 剣を大地に突き刺し、それを登って立ち上がろうとしながら、隼は言った。喉元にこみ上げる血を飲み下し、呼吸を整える。

 トグルも立ちながら、怪訝そうに眉をひそめた。


「どういう意味だ」

「規則がなきゃ成り立たない、お遊びさ。戦に、そんなものが通用するか。狩でも何でも、弱いものから倒される……常識だろ?」

「……俺達の一生など、所詮、長い遊びのようなものだろうが」


『何故、こんなことを話しているのだろう。こんな時に』


 隼とトグルの双方が、その時、そう思った。

 トグルは表情を消し、か細い隼の肢体を眺めた。


「お前には、お前の規則があるらしいな。ならば、それに従っていれば良かろう。……俺達には、俺達の規則がある。それだけだ」


 眼を閉じてそうっと息をつく隼の横顔を、トグルは見詰めた。何故だろう――この女に、敵意も殺気も感じられない。人を殺すなど想像も出来ないほど優美な姿をしていながら。このつよさは、どこから来るのだ?


 ――『美しい』? 俺は、何を考えている?


 己の心の端を過ぎった考えに、トグルは呆れた。

 しかし、実際、血の気のうせた顔に殺した男のかえり血を浴び、剣を杖に立つ隼は、凄惨な美しさを持っていた。触れれば折れてしまいそうな肢体に力を込め、半ば伏せた切れ長の眼は据わり、敵を見据えて動じない。

 トグルは、一瞬、ひるみそうな気持ちを感じた。


「……どうする。続きは、明日にするか?」

「冗談」


 隼は、ふふっと嗤った。両手で剣の柄をつかみ、肩で息をしながら囁いた。


「あたしの規則に、そんなのはないぜ。これ以上、邪魔をしないでくれ」


 トグルは無言で踵を返した。この時、彼には、とうてい隼が生き残れるとは思えなかったので……惜しいな、と考えた。

 戸惑いながら、トグルは、長老達の間に腰を下ろした。傍の誰かが何か話し掛けてきたが、彼は己の内面を見詰め、聴いていなかった。


 隼も、族長の背中を見送りながら考えた。面白い男だと。実は、結構いい奴じゃないか。

 それから、改めて意識を眼前の敵に集中させる。気を失わないように、奥歯を強く噛みしめた。身体が、特に左半身が、他人のもののように痺れている。

 まずいな……早く、終わらせないと。本当にやばい。

 隼は剣をかまえ、呼吸をととのえた。


 相手は、まだ迷っていた。隼と話をしていた族長が、ふいにいなくなってしまったので。しかし、剣を構えた隼を見て、剣を取り、鞘を投げ捨てた。

 隼は眼をすがめた。かすかに嘲う。

 彼女の方から動いた。


 上段から叩きこんだ隼の剣は、剣の重さだけに頼り、力はこめられていなかった。二、三合、あしらうように続けた後、相手が自分から突きだす動作を待って、隼は跳んだ……高く、高く。

 瞬間、曲げた腹部の痛みに顔をしかめたものの、彼女を見失ってうろたえる男の隙を逃す程ではなかった。

 隼は、剣に全体重をかけ、男の胸に突き入れた。


 はがねと肋骨がこすれ合う嫌な音が響いたのと、男が夢中で薙いだ剣が、彼女の肩を殴ったのが同時だった。

 二人の血が辺りにとび散り、隼は、剣から手を離して横へ弾きとばされた。それでも、勝負のついたことは判っていた。彼女の剣は、男の左胸をふかく貫いて、肺と血管を突きやぶり、肩甲骨に達した手ごたえを知っていたのだ。

 がっくりと跪く男の、胸と口から血が噴き上がるさまを、左肩から地面へ叩きつけられながら、隼は見ていた。にやりと唇を歪めた時、甲高い女の声が、耳に響いた。


「ハヤブサ殿!」


 タオが、悲鳴をあげて駆けて来た。あらい息をついて地面に身をあずける隼に、すがりつこうとして、手を離す。

 隼の身体の感覚は麻痺しかかっていたが、それでも、右肩が焼けるように熱く、真っ赤になっているのが自分で見えた。タオに嘲いかけ、起き上がろうとして、隼は喘いだ。激痛に呼吸が止まり、痙攣するように胸が震えた。

 タオは、眼に涙を溜め、彼女を抱き起こした。


 辺りはしんと静まり、続いて、驚きとも怒りともつかないどよめきが、地嵐のように湧き起こった。

 顔を見合わせる長老達の間で、トグルはじっとしていた。隼がこちらを見据えて立ち上がろうとするのを、無表情に眺めていた。


「ハヤブサ殿! 動いては駄目だ!」


 タオが涙声で訴えるのも耳に入らない様子で、隼は、折れそうな脚で立ち上がると、トグルに向かって嗤ってみせた。その嗤みを、トグルは半ば呆然と、半ば圧倒された気持ちで見た。

 これは――『こいつは、何だ?』

 トグルの胸に、どす黒い感情が渦巻いた。身のうちを、密かな震えが駆け抜ける。初めて感じる、血が燃え立つような感覚だった。


 隼は、口に含んだ血をぺっと吐き出した。タオに肩を預けた彼女は、臆する風もなく言った。


「これで、お前と、対等か? トグル」


 ……まだ、余韻が残っている。己の裡のかすかな畏怖を押し遣りながら、トグルは答えた。


「そうだ、天人テングリ。お前は自由だ。どこへでも、好きな所へ行くがいい。スー砦へでも、聖山ケルカンへでも。馬を与えよう。ここにいるなら、お前は客人ジュチだ。望む通りにするがいい」

「馬は、いらない」


 そろそろと息を吐き、隼は首を振った。めまいがする、息があがる……それでも、死んだ男の身体から剣を抜き、蒼ざめた面をトグルに向けた。


「どこへも、行くつもりはない。一ヶ月、お前達と、一緒に、居させてくれ」


 トグルは眼を眇めた。低い声が、用心ぶかく問い返す。


「何だ? 時間稼ぎか。一ヶ月すれば、俺達は北へ帰る。それまで、俺達を監視する気か?」


 隼は、首を横に振った。タオが、彼女の背に掌を当てる。


「お前に、決闘を、申し込みたい」


 隼の囁きに、トグルの片方の眉がぴくと動いた。


「決闘? 何を賭ける――何が、望みだ」

「賭けるのは、あたしの命。望みは、ニーナイ国の侵略の中止と……リー将軍との、停戦だ」


 トグルの眼が、いよいよ鋭く細められた。タオが息を呑む。

 不安げな妹の顔と、真っしろな隼の顔を交互に眺め、トグルは、少し口調を和らげた。


「今のお前と俺では、勝負にならんぞ」

「判っている。だから……一ヶ月経って、あたしの傷が治ったら、その時に、勝負だ」

「面白い」


 トグルはわらった。眸に笑みはなく、冷静に隼を映していた。


「それまで、俺に待てと言うのか。お前の命に、それだけの価値があると?」

「…………」

「お前が俺達の所にいたいと言うのなら、許可しよう。身の安全も、保証しよう。だが、一ヶ月、俺がこんな所でじっとしていると思うのか? お前の傷が癒える前に、ニーナイ国へ侵攻を再開したらどうする。俺達が手を出さずとも、リー女将軍(リー・ディアの妹)が戦いを仕掛けて来たら、どうするつもりだ?」


 隼は瞼を伏せ、静かに呟いた。


「その時は、仕様がない。お前の首級を土産に、仲間の所へ、帰るさ……」

「ハヤブサ殿!」


 朦朧としかける隼の肩を、タオが慌てて揺さぶった。トグルにも、彼女が既に限界を超えていることは解った。

 周囲のどよめきが大きくなる。長老の一人が、若き族長を促した。


おさ

「……連れて行け、タオ」


 隼に横顔を向け、トグルは、苦々しく吐き捨てた。


「いい度胸だ。……覚えておいてやる」

「ハヤブサ殿!」


 タオが悲鳴をあげたのでトグルが振り返ると、彼の言葉にほっとしたかのように、隼は崩折れてしまった。ぐったりと倒れかかる天人を、タオが慌てて支えている。トグルは腰を浮かしかけ、舌打ちした。


「早く行け! タオ。誰か、手を貸してやれ。その女の命、俺が預かるぞ。いいか、お前達――」


 タオと数人の男たちが、隼を抱えて行く。トグルは、敗れた者の死体をはこぶ部下と長老達をみわたし、宣言した。


「今後、聖山ケルカン天人テングリに害を成す者は、俺の客人ジュチに害を成す者と思え。トグル・ディオ・バガトルの名の下に、俺が斬る」


               *


 どれくらい時間が経ったのだろう。隼がうすく瞼を開けると、例によって心配そうに覗き込んでいたタオと、目が会った。

 タオはほっと表情をゆるめたが、安堵は、即座にいかりに変化した。


「莫迦だ、貴女あなたは! この大莫迦者! 命が惜しくはないのか? まったく、無茶をしおって!」

「いてて……痛いよ、タオ」


 腕を掴まれて、隼は頬を引き攣らせた。掠れた声で囁く彼女から、タオは手を離した。

 隼が自分を見ると、右肩と胸から腹部へかけて、真新しい布がぎっちりと巻かれ、温かい寝台の上に横たえられていた。さらに、毛布を幾重にも掛けられている。

 己の状態を把握した隼は、草原の娘に、感謝をこめて囁いた。


「また、世話になっちまったな、タオ。ありがとう」


 タオは、長い三つ編みを揺らして首を振った。


「貴女に礼など言われたくないぞ、ハヤブサ殿。何故、あんな無茶をする。兄上を殺すなどと……。せっかく救かった命を、みすみす投げ捨てるつもりか」

「そう怒らないでくれよ。よく戦っただろう? あたし」


 隼は、動かせる左手で前髪を掻きあげた。溜め息を吐く。


「それに、無謀なことかな。自分にしては、いい考えだと思ったんだが」

「何だと?」

「お前には悪いと思ったけどね、タオ。女嫌いの兄貴が死ねば部族は内乱に陥ると、教えてくれただろう。そうなれば、戦どころではなくなる」

「女、嫌い」

「ああ。だから――」


 隼はどきりとした。タオの呆れ声に、おし殺した、喉の奥で転がす男の笑声が重なったのだ。

 視界に入っていなかった。首をめぐらせた隼は、黒髪の男の姿に驚き、反射的に起き上がろうとした。


「トグル……!」

「済まない、ハヤブサ殿」


 脇腹が引き攣れる痛みに、声もなく、隼は喘いだ。その肩に枕を挿し入れながら、タオは、申しわけ無さそうに眉を曇らせた。


「ここは、兄上のユルテ(移動式住居)だ。貴女を運び込むべきか、迷ったのだが」

「なん、だって?」


 隼が、歯を食いしばりながらみまわすと――確かに、タオのユルテより、二周りほど広かった。内装も違う。落ち着いた紺色を基調とした絨毯は、トグルの趣味だろうか。

 天窓から、やわらかい陽光が差しこんでいる。絨毯にヤクの毛皮を重ねた上に、トグリーニの族長が、くつろいだ様子で胡座を組んでいた。


 まじまじと見下ろす隼の視線を受けて、トグルは、乳茶スーチーを飲みながら、唇の端を吊り上げた。帽子も上着も脱ぎ、生成りの柔らかな綿の服をまとっている。男の逞しい肩から胸へかけて、解かれた漆黒の髪が、ゆるやかにうねって流れていた。

 隼は、どっと激しい疲労を感じ、寝台に身を預けた。観念して眼を閉じる。


「……何の話をしている、お前は」

「兄上」

「起き上がれるか? 天人テングリ


 トグルの穏やかな声に、隼がうすく眼を開けると、彼は、片手に白い布をかぶせ、白い陶器の椀にお茶を注いでいるところだった。立ち上がり、彼女の支度を待っている。

 隼がタオに手をかりて身を起こすと、トグルは、両手で捧げるように器をさし出した。


客人ジュチをもてなすのは、家のあるじの役目だ。俺達には、細かい規則が、山ほどある」


 隼が動かせる左手でそれを受け取ると、トグルは、手に被せていた布を、彼女の首にかけた。純白の絹布カタだ。端には、黄金の糸で、鷲獅子グリフィンが縫い取りされている。

 わけが分からずにいる隼に、トグルは、右手で何かを弾く仕草をしてみせた。

 タオが解説する。


「お茶を捧げるのだ、ハヤブサ殿。指を浸して、三度、弾けばいい」


 隼が、躊躇いがちに右手の親指、人差し指、中指の三本をお茶に浸し、かるく弾くと……トグルが呟いた。


「天と……地と……神に」


 隼は不得要領なままだったが、トグリーニの族長は、彼女に向かって深々と頭を下げた。思わず、隼も一礼する。

 とまどう紺碧の瞳に、草原の男は、うすく嘲いかけた。


「これで、お前は俺の家の客人ジュチだ。くつろぐがいい。氏族の客人でもある。二度と、お前を傷つける者は現われないから、安心しろ」

「…………」

「タオ」


 トグルは、隼の滑らかな肩から視線を逸らし、妹に声をかけた。寝台の側を離れる。


「何か着せてやれ。お前の長衣デールでよかろう。もう、連れ帰っていいぞ」

「どうする? ハヤブサ殿」


 タオは、浅葱色の上着を隼の肩へかけながら、おずおずと問うた。隼は、敷布の上に胡座をかくトグルの動作を眺めていた。

 視線に気づき、トグルが振り返る。隼は、瞼を伏せた。


「礼を言うべきなんだろうな、本当は……。救けてくれて」


 トグルはフッと嘲った。低い声は、深く響いた。


「俺は、何もしていない。いい戦いだったな。驚いた」

「恨んではいないのか?」


 躊躇うような隼の言葉に、トグルは首を傾げた。


「恨む? 何を」

「あたしは、手加減をする余裕がなかった。お前の仲間を、殺してしまった」


 トグルは首を横に振った。わずかに歪めた唇から、皓い歯が覗く。いちど眼を閉じ、問い返した。


「お前こそ、仲間の許へ帰らなくて良いのか。俺の首をとると啖呵を切った度胸はいいが――本気で、出来ると思っているのか?」


 隼は、首に掛けられた白絹を、所在なげに眺めた。端に縫い取りされた黄金の鷲獅子を、指でなぞる。

 しなやかな指の動きを、トグルは、やや眼を細めて見守った。


「俺を斬れば、お前も命はないぞ。十万の我が軍を、敵にまわすことになる。お前の仲間達もだ。そんな危険を冒すつもりか?」


 隼とトグルを交互に見遣るタオの顔には、不安が宿ったままだ。

 妹をちらりと見て、トグルは胡座を組みなおした。自分の膝に頬杖をつく。


「解らんな……。お前も、お前の仲間達も、ニーナイ国の者ではないだろう。何故、拘るのだ? 己の命を賭けてまで、ニーナイ国とリー将軍を守ろうとする、理由は何だ」

「そんな、大袈裟なことじゃない」


 隼は、眼を伏せたまま囁いた。お茶で唇を湿らせたものの、飲み干す元気はなく、疲れたように肩をすくめた。


「あたし達は、確かに、ニーナイ国の人間じゃない。でも、ニーナイの村は、本当に綺麗だった。砂漠の中なのに、川も畑も……。平和で、公正だった。あそこの人達は」

「公正? ニーナイの連中がか」


 タオは抗議の声をあげたが、トグルに片手で窘められ、口を噤んだ。トグルは、目顔で彼女に続きを促した。

 隼は、溜息を呑んだ。


「オダは、神官ラーダの息子だ。ウィシュヌ神(慈悲と平和の神)に仕える小僧が、人を殺すところを見たくない……。あの子の伯母さんが、魚料理を作ってくれた。それが、美味かったんだ」

「ハヤブサ殿は、魚を食べるのか?」


 タオが、ぞっとしない声音で訊いた。隼は、くすりと哂った。


「あたしは、ヒルディア国の海辺で育ったんだ。旅をしていたら、ここ数年、魚なんて食べられなかった。久しぶりに食べて、嬉しかった。……あんな美味いものを作ってくれるひとを、傷つけたくない」


 タオは、兄へ視線を移した。トグルは、無表情に隼を見詰めている。

 やがて、地を這うような低い声で、トグルは訊いた。


「その為には、人を殺すことも、厭わないのか?」


 隼は、かすかに苦笑して首を横に振った。

 トグルは、重ねて訊いた。


「自分が死ぬことも、慄ろしくはないのか?」

「慄ろしいさ」


 今度は、隼は顔を上げた。儚く、今にも消えそうな苦笑を二人に向け、再度眼を伏せる。自嘲気味に呟いた。


「本当は、ずっと恐かった。人を意図的に殺したのなんて、今度の戦が初めてだ。殺すのも、殺されるのも……考えただけで、ぞっとする」

「初めて、だと?」


 言い淀み、肯く隼を、タオは呆れて見下ろした。トグルの新緑色の瞳が、強い光を宿した。


「……成る程」


 トグルは頬杖を外し、胡座を解いて立ち上がった。隼は、彼を見上げた。

 トグルは、骨張った片手に外套を提げた。


「話ができて良かった、天人。ゆっくり養生しろ。お前の世話は、タオに任せておく。――俺は、女が苦手だ」


 真顔で冗談をいうトグルに、隼は、ふっとわらった。トグルは踵を返しかけ、動作を止めた。


「お前に教えておこう。先刻、入った情報だ。リー・ヴィニガ女将軍が、スー砦に入ったぞ」


 隼の頬から哂いが消えた。トグルは頷いた。


「リー・ディアを戦にけしかけたお前の仲間達を、妹がどのように遇するかは、疑問だな」

「そんな奴なのか?」

「会ったことはないのか?」


 トグルは、状況を面白がっていた。


「よくそれで、奴らと俺を戦わせようなどと企んだな……。言っておくが、とんでもない娘だぞ。ただでもリー家の軍隊は勇猛だが、あの娘には、天賦の才がある。何をしでかすか判らない奴だ」

「そう、なのか」


 さすがに茫然とする、隼。トグルは、たのしげに嘲った。


「どうする。その身体では、動けまい。仲間を救けようにも――」

「……いいよ」


 隼は、肩をすくめた。


「放っておくさ。あたしの出る幕じゃない。あいつらは、あいつらで、何とかするだろう」


 トグルは、自身の腰に当てていた手を顎に移動させ、隼を眺めた。


「しかし、お前の仲間は、心配しているのではないか? 否定はしないが、俺達に関する悪評を、お前も知っているだろう」


 これを聞くと、隼は、しぶい顔になった。何を今さら、と思う。

 トグルは、平然と続けた。


「まあ、いい。好きにしろ。何か判れば、その時には教えてやる。今は休め。……後で、何か滋養になるものを持って来させよう」

「ありがとう」


 隼が礼を言うと、トグルは肩をすくめた。


「……口に合うかどうかは、保証しない」


 ぼそりと言い捨ててユルテを出て行く後ろ姿が、一万の騎馬軍を率いる族長と言うより、ただの若い男のようだったので……隼は、そっと哂った。





~第二章へ~

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