第一章 天人(5)


             5


 折れた肋骨を保護する為に、胸から脇腹へかけては布を巻いた。額の布は外し、白銀色の髪を後頭たかく結い上げる。

 スー砦で仲間が監禁されたことなど知らない隼は、タオのユルテ(移動式住居)の中で身支度を整えていた。


 以前着ていた服は戦闘で破けてしまったので、タオは、彼女に自分の服を与えていた。〈草原の民〉独特の、紺色に染めた羊の毛で織られた筒袖の長衣デールに、隼は、珍しげに袖を通す。下は柔らかい綿の脚衣を穿いているので、動きに支障はない。

 タオは、彼女の細い肢体を不安げに眺めた。


「本当に戦うのか、ハヤブサ殿」


 何度目かの質問を、繰り返す。既にそれは、諦めの吐息を含んでいた。

 隼は、律儀に応えた。


「約束だからな」

「兄上も、せめて傷が癒えてからにすれば良いものを……」


 隼の返事に愚痴をかえし、タオは、ゆっくり首を横に振った。いまなお納得できずにいる彼女を、隼は、優しい気持ちで眺めた。


「胸当てだけでも着けて行かれぬか」


 甲冑も手甲も要らないという隼に、タオは、頼りない表情で勧める。太い革帯ベルトを腰に巻きながら、隼はかぶりを振る。その腰があまりに優美であるのが、タオには不安でならなかった。


 紺の長衣デールは隼のしろい肌に映え、白銀の髪は、凛とした輪郭をけぶらせる。――男どもが彼女を欲しがるのは、当然と思われた。ユルテの中に飾っておくだけでも、この白い天人は、見る者に幸福をもたらすだろう。

 タオは、彼女を男の目に触れさせたくなかった。それだけで、この気高いけもののたましいが、穢されてしまいそうに感じる。


「大丈夫だよ、タオ。そう簡単に、殺されはしない」


 隼は、左の脇腹をかばいながら、低く囁いた。

 タオは、濃紫色の鞘に収めた長剣を、彼女に差しだした。隼は、切れ長の眼を大きくあけた。


貴女あなたの剣は、随分古いもののようだな。刃こぼれがひどかったので、勝手とは思ったが、修理を命じておいた。これは、私の剣だ。良ければ使ってくれ」

「凄いな」


 鞘から抜き放ち、隼は、感嘆の声をあげた。


 黒光りする鋼の剣は、ずしりと手に重い。両刃だ。柄の部分も鉄製で、彫刻が施され、鍔とつかの先端には瑠璃石ラピスラズリが嵌め込まれていた。柄には、鞘と同じ色の布が、滑り止めに巻かれている。全長は、三メルテ(約百二十センチメートル)もあるだろうか。

 隼は、刃を眼前に立て、つくづくと眺めた。二、三度振って、感触を確かめる。扱えない重さではなさそうだ。

 タオは、苦い気持ちで彼女を観ていた。


「鉄器の細工にかけては、我が部族の右に出るものはいない。長剣、短剣、径路剣アキナケス、手甲、馬具……皆、アルタイ山脈で採れる鉱石をもとに作る。冬から春にかけての、男達の仕事だ。我々は、普段は、こうした鉄器を商いしている」


 族長の妹の声に含まれた苦渋に気づき、隼は、彼女を振り向いた。

 タオは、疲れたように首を振っていた。


「皮肉なものだ。我等が作った武器を使って我等と戦うのは、ニーナイ国やキイ帝国の連中だ。平和な時期に絹や麦と交換した武器や農具を、壊すために、我等は侵略を行うのか」

「…………」

「奴等も、考えてみれば良い。痩せた北の地では、人も馬も食うのに精一杯で、肥え太ることなど出来ない。二、三年、南からの糧道を絶たれれば、蓄えは尽き、飢えて戦どころではなくなる。……我等を本気で倒したいのなら、そうすればよい。良い罠の張れそうなものを」


 それは、『お偉いさん』 の考えだよな。――思ったが、隼は、黙って草原の娘の横顔を見詰めた。


 国を統治する立場にあって、食の心配をする必要のない者だけが、広い視野で物事を考えられる。或いは、第三者が。

 ニーナイ国とキイ帝国の人間とて、食べてゆかなければならない。荒野を拓き、田畑を耕す牛や農具を、彼等は誰から手に入れるのだ。多数の馬や羊を放牧できない沙漠と山ばかりの土地で、どうやって荷車を曳き、収穫した麦を運ぶ馬を手に入れるのだ。

 美しい絹を織り、胡椒を育てても、買ってくれる者がいなければ、商いは成り立たない。草原を全て手に入れても、そこで生活する術を知らなければ、移り住むことは出来ない。――トグリーニ族が、ニーナイ国の沙漠に住めないのと同じだ。

 権力者が領土を広げ、多くの富を手に入れようと、国は、そこに住む人々のものだ。その地に生きる民がいなければ、滅びるしかない。


 それを、あの族長は、知っているのだろうか。承知してなお、戦いを続けるつもりなのだろうか……。


 トグル・ディオ・バガトルの精悍な横顔を想い出しかけて、隼は首を振った。『あたしには、関係ない。』

 何を考えていようと、あいつとタオには、守るべき部族がある。族長として在り続ける義務と責任がある。

 だが、あたしは? あたし達はどうだ。

 帰るべき国も、肉親もなく。仲間がいなければ――いてさえ、生きている理由すら判らない異端者だ。あいつやタオは草原で暮らせるが、あたし達には、生きることしか出来ない。

 タオやリー・ディア将軍を、どうこう言える立場じゃない。

 あたし達は、《星の子》と同じ。あの世とこの世の境界で、ゆらゆら漂う幻みたいなものじゃないか。オダや鷹が繋ぎとめてくれなければ、どこへ行くか判らない、煙みたいな……。



 自嘲気味な隼のわらいを、どう受け取ったのか、タオも哂った。長剣を鞘におさめる彼女を眩しげに眺め、草原の娘は頷いた。


「気に入ったら、その剣は、貴女にさしあげよう」

「いいのか? 高価そうじゃないか」

「私には使いこなせぬ」


 タオは、投げやりに肩をすくめた。


「それは、兄上が使っているのと同じものを、兄上が命じて作らせたのだ。草原の社会では、剣は地位を表す。兄上は、私を、次の族長トグルにと考えておられる。……私には、いささか重過ぎる。剣も、兄上のお考えも」

「トグルって、あいつの名前じゃないのか」


 隼は、紺碧色の眸をまるくした。タオは苦笑した。


「兄上を 『あいつ』 呼ばわりするのは、大陸ひろしといえど、貴女だけだろうな……。〈草原の民〉の名は、本来一語だ。我等は、親から与えられた名の他に、個人の立場を示す名を、複数持つ」

「ふうん」

「兄上の名はディオ。トグルは、族長の名乗りだ……氏族に敬意を表して、先頭につけられる。だから、我等の族長は、皆トグルだ。……バガトルは、勇者という意味。戦で功績のあった男に与えられる名だ」


 タオの表情は、族長の名乗りについて話す時よりも、バガトルと言うときの方が誇らしげだった。しかし、自分の話になると、口調は一転して沈んだ。


「……私の名は、タオ。イルティシは、継承権を第二位に持つ者につけられる(注1)。私は、兄上とは同腹の妹で、父には他に子がなかったから。兄上に子が出来なければ、確かに、次の族長は私ということになる。名ばかりだが、女が族長になった例が、ないわけではない。ゴアとは、『貞節な女』 という意味だ」


 タオは奥歯を噛み締め、ぎりっという濁った音を響かせた。重い剣をどう腰につけようかと思案していた隼は、怪訝に思って彼女を見た。

 タオは、力なく嗤った。


「知っておいて損はあるまい。北方には、我等と同様、意味のある名を持つ者もいるからな。例えば、リー将軍」

「リー・ディア?」

「キイ帝国の者の名は、二語だ。うち一語は 『姓』 とか言って、代々同じだそうだ」

「へえ」


 長剣を鞘ごと手に持つことにした隼が、感心したので、タオは、やや満足げに微笑んだ。


「ハヤブサ殿。南方の人の名は、どのようなものなのだ? 貴女の名の意味は? 一度、訊いてみたかった」


 隼は、首を傾げた。皓い歯をわずかに見せ、


「似ているかもしれない。オダの父親は神官ラーダだし……親のつけた名か、呼び名か、どちらか一方を使っている。あたしの真の名は、シュン」

「シュン、殿?」

「ヒルディアでは、真の名は使わない。隼は、鷲がつけた呼び名だ。灰色の、飛ぶのが速い鳥だ。高い崖の上に巣を作る――」

「『風のように馳せる鳥』 か」


 タオのつけた修辞に、隼は、苦笑いした。唇を歪めて言う。


「ああ。あたしが死んだら、死体は、その鳥に食わせてやってくれよ(注2)」

「ハヤブサ殿! 縁起でもない」

「そうか? あたしは、そうなるんじゃないかと思っているんだが」


 絶句するタオに、隼は、片目を閉じてみせた。


「……冗談だよ。勝つつもりでいるよ。だけど――」


 長剣を肩に担ぎ、片手を腰にあてる隼の顔は、不思議なほど晴れ晴れとしていた。


「負けてみすみす、籠の鳥になる気はないね……」



               *



 タオのユルテ(移動式住居)の周りには、聖山ケルカン天人テングリをひとめ見ようと、草原の男たちが集まっていた。

 戦闘から七日間あまり全く外へ出なかった隼が、一歩踏み出た途端、男たちの間を、どよめきが走った。

 紺の長衣デールを身にまとい、皓い肌に白銀の髪、蒼い影を宿した碧眼の娘が、鋭い眼差しで辺りを見渡すと、彼らは一斉に道をあけた。


 隼は、黒目黒髪のトグリーニ族の男たちの中に、緋色の髪、水色の瞳、褐色の肌をもつニーナイ国の女たちをみつけた。年寄りも子どももいたが、トグリーニ族の女性は、タオ以外に見当たらなかった。

 遠征に連れて来ていないのだろうか。それとも、ユルテの中にこもっているのだろうか。そんなことを考えて佇む彼女を、臙脂えんじ長衣デールを着たタオが促した。

 隼の通るみちの両側に、人々は集まり、好奇の視線を向けていた。それで、隼も、彼等を観察するのに困らなかった。


 一体、どれくらいの人間がここに居るのだろう。


 トグリーニ族の男が多いのは当然だが、彼等は、見慣れた黒尽くめの戦闘服ではなく、色とりどりの長衣を着ていたので、隼の目はちかちかした。なかには、騎乗して、人ごみの中を移動している者もいる。

 お祭り騒ぎだな、と、隼は思った。


 意外なことに、ニーナイ国の女たちは、自由に歩きまわっていた。檻などは見かけず、〈草原の民〉の虜囚となった者の悲劇についていろいろと聞かされていた隼は、拍子抜けさせられた。

 ニーナイ国の男たちは、さすがに一人も見かけなかった。幼い子どもの中には、男子がいた。捕虜の子ども達の顔色は良かった。女たちの着ている衣は、隼がオダの村で見たニーナイ国の物より、良いもののようにさえ見えた。トグリーニ族の若い男と話している、娘の姿もある。

 ここにいる女たちに、家族や故郷を奪われた怒りや嘆きは、あまり観られない。

 隼は安堵したが、複雑な気持ちにもなった。



「なあ、タオ。先刻の話だが――」


 隼は、先を行くタオに遅れまいと足を速めた。タオは、無神経な野次馬に苛々しながら応じた。


「何だ、ハヤブサ殿」

「トグルがお前に族長の座を譲るとか言っていたが、どういうことだ? あの若さで。子どもが出来ないってわけじゃないんだろう?」

「こんな時に、よく他人の心配をしていられるな」


 きわどい質問に、タオは、呆れて振り向いた。

 隼は、ひょいと肩をすくめた。


「出来ないも何も、兄上は独身だ。一度も、正式に結婚していない。しかし、決して若くはないぞ。次の春には二十五になるのだから(注3)」

「若いじゃないか」


『それなら、鷲と同い年だ。鷲が聴いたら怒りそうだな』

 隼は内心で苦笑したが、タオは憮然としていた。


「若くない。トグリーニの男は十五で成人し、その年のうちに正妻を娶る。結婚は親同士で決めるから、女はまだ赤ん坊のうちに、未来の夫が決まっている。……ハヤブサ殿、貴女にも、夫くらい居るだろう?」


 隼は、再度、肩をすくめた。タオの目が丸くなった。


「では、許嫁は? 失礼だが、ハヤブサ殿。貴女はいったい、いくつになられる?」

「今年の冬で、十九だ」

「十九?」


 タオはぎょっとして声をあげたが、隼が平然としているので、口を噤んだ。

 タオの新緑色の瞳に、困惑と同情と、種々雑多な感情が乱れとんだ。ややあって、気を取りなおして話を再開した。


「と、とにかく……族長は、他氏族の長の家系から妻を娶るのが慣わしだ。兄上にも、クチュウト族に許嫁がいた。しかし、その娘はオルタイト族に奪われ、取り戻そうとした我が父は殺された。以来、兄上は、オルタイトを、ボルドを、キイ帝国とニーナイ国を相手に戦いに明け暮れ、結婚どころではなかった」

「…………」

「部族をまとめ、育て上げるのに、十年かかった。兄上は、結婚など面倒だと考えている。正妻は仕様がない――兄上の身分にかなう血筋は、もはや望めぬからな。せめて側室なりとと長老サカル達が口を酸っぱくしているが、聞き入れて下さらぬ」


 正妻。側室……。


 知識では知っていても、本当にあるとは思っていなかった習慣を聴いて、隼の口は、あんぐりと開いた。後継者をのこすための結婚と、一人の男に何人もの女が仕えるという構図は、理解出来ない(あまり理解したくもなかったが)。

 隼は、みっともなく開いたままになってしまった口を片手でおおい、解釈を試みた。


「それは……周りにあれこれ言われるから、つむじを曲げちまったんじゃないのか」

「そんな単純なものではないから、私も心配しているのだ」


 タオは苦い表情で、首を振った。腰まである長い三つ編みも、ゆっくり左右に揺れる。瞼を伏せて、嘆息した。


「草原では、戦に勝てば、男どもは、破った氏族の女を適当に分けあって己のものにする慣わしだ。兄上も、何人か……女と寝たのを、私は知っている。ところが、兄上はいつも、すぐ他の男に与えてしまった。最近では、それすら避けている。……周りに女を置くことを」

「…………」

「要するに、兄上は、『弱い女』 が嫌いなのだろう。……私さえ、そう思われているのではないか。無理もないが」


 タオの淋しげな横顔を、隼は見詰めた。何か事情があるらしいことは察せられたが、訊ねるのは気がひけた。

 隼は、この娘に対する己の感情を、はかりかねていた。純粋な友情や好意だとは、言えない。そこまで図々しくは。

 ときおり彼女が自分に見せる心情を、どう受け止めればいいのか、隼は戸惑っていた。


 タオは、やや恥ずかし気に哂った。


「長老どもには頭の痛い話だが、私は、そういう兄上の方が、好きだと思える時もある。もう充分、氏族の為に生きてこられたのだから。好きになさればよいのだ。しかし……もし、兄上が妻を娶らぬまま血筋が絶えれば。部族は後継をめぐる内乱に陥るだろう」

「……お前では、駄目なのか?」


 話の内容に考えをめぐらせながら、隼は訊ねた。

 タオは、かぶりを振った。


「何故? お前が族長になって、子どもを産めば済むことだろうが」

「私には子は産めないのだ、ハヤブサ殿」


 囁くようなタオの言葉に、隼は、いったん呼吸を止めた。


「ゴアとは、『貞節な女』 という称号だ。これは、夫に先立たれた貴族ブドゥンの女に付けられる。新しい夫に嫁ぐことは、認められていない」


 隼は、数秒、言葉を失った。かろうじて、掠れた声を搾り出した。


「立ち入ったことを訊いた。……許してくれ」

「なに、気にすることはない。夫と言っても、顔も知らないのだ。……ボルド氏族の長の息子が、私の許嫁だった。赤ん坊の頃に決められた。しかし、ボルド氏族は父を裏切り、兄上に滅ぼされた。そして、私は 『ゴア』 になったというわけだ。笑い話だろう?」


 絶句してしまう、隼。タオの嗤いは、皮肉に満ちていた。


「長老会の許しがなければ、この名を消すことも、名に背く行いも出来ない。『名を辱めた』として、全ての名を奪われ、氏族を追放されるからな……。兄上が抗議して下さっているが。族長の家系の女は、よく、こういう憂き目に遭うのだ」

「そうか……」

「ハヤブサ殿が、羨ましい」


 タオは、銀髪の天人をまぶし気に見遣った。観る者のたましいを吸いこむ紺碧の瞳を見詰め、囁いた。


「我等は、ただ女に生まれて来たというだけで、自由を奪われている。戦で氏族を滅ぼされた者は、勝った男の意に従うしかない。我が身を守りたくても、その力さえない者が殆どだからな……。私も、こうして剣を取っているが、男の力には抗し得ない。兄上の仰るとおり、男どもに守られていなければ、戦場に立つことは叶わない」

「…………」

「だが、貴女には関係ない。おのが身を守る誇りも、力も、持ち合わせておいでだ。……貴女を死なせたくはないな、ハヤブサ殿。貴女は、私の憧れだ」


 隼はこれには応えず、剣を手に足を踏みだした。荒野に楕円形に柵をめぐらせた場に、辿り着いたのだ。

 タオが、不安げな顔で、彼女の斜め後ろにつき従う。

 待ちかまえていた群集が、わあっと歓声をあげた。



 隼は、胸を張り、たかい空を仰いだ。男たちの声が、そこに吸い込まれて行く気がしたのだ。

 すらりとした彼女の肢体を見て、歓声は、沈んだどよめきに変化した。

 誇りたかい紺碧の瞳に気圧される群集の向こうに、隼は、トグリーニの族長をみつけた。

 即席の柵がめぐらされた広場の正面に、一段高い台が組まれ、白髪まじりの長老達や屈強な老兵達が、腰を下ろしていた。その中心――濃紺の敷布の上に、片膝を立てて座っている族長が居た。


 隼とトグルは、初めて、明るい日の光の中で、お互いを見た。


 黄金の鷲獅子グリフィンを描いた巨大な黒い旗が、風にはためく。それを背に、ゆったり胡座を組んだトグルの服も、黒尽くめだった。だが、戦闘服とは違い、襟や袖口や革帯ベルトには、旗とおなじ金糸で植物の模様が刺繍されている。厚地の黒い帽子にも、皮靴にも、高雅な黄金の装飾が輝いていた。

 隼は、迷うことなく、彼と視線を合わせた。


 日焼けした荒削りなかおのなかで、くらめく真夏の木の葉のような濃緑色の瞳が、隼を見下ろした。――砂混じりの風に舞う、白銀の髪。毅然とした美しいおもてと、痛ましいほどの痩身に、鋭い眼が細められる。

 厳しい光を宿した暗い瞳が、ふと、嘲ったようだった。


 トグルは、酷薄な印象を与える唇をかすかに歪めて立ち上がると、台から降りて来た。

 周囲のどよめきが、静かに退いてゆく。

 草原の男は、隼を正面から見据え、ゆっくり歩いて来た。

 タオが、そっと後ろに退がる。


 隼は動かなかったが、トグルは、彼女の前に四、五歩の距離をおいて立ち止まった。片手を腰に当て、しげしげと彼女を眺める。

 隼も、武器を持っていないトグリーニの族長を眺めた。こんなに大柄だったろうかと、ぼんやり考える。

 トグルは、隼が手にしている剣に気付いたが、表情を変えなかった。彼女から視線をそらさないまま、軽く右手を挙げた。


「*****。**、***……」


 彼が隼には判らない言葉で何事かを言うと、群衆が歓声をあげた。

 隼は、視界の隅で、こちらに近づいて来る三人の男を見た。


「本当に、戦う気か?」


 あまりに静かな声だったので、隼は、最初、トグルが自分に話しかけたことに気づかなかった。それで、まじまじと彼を観た。


「今からでも、遅くはないぞ。まだ傷は癒えていないのだろう?」

「…………」

「強情な奴だな」


 トグルは、ふと哂った。意外なほど優しい光が、瞳に差す。胸の前で腕をくみ、軽く首をかしげた。


「その無謀さに免じて。……奴等は、お前を傷つけたくないと言っている。真剣を使わずに戦わせることも出来るが、どうだ?」

「余計なお世話だ」


 タオが背後で息を呑む気配を、隼は感じた。トグルは全く表情を変えていない。大陸の狼を思わせるその風貌に感心しながら、隼は言った。


「――そう、言ってくれ。あたしは、お前達と果し合いをする為に来た。そちらが何を企もうと勝手だが、手加減をするつもりはない。死にたくないのなら、余計なことは考えるな、と」


 トグリーニの族長が通訳をつとめたのは、この時が初めてだったろう。彼が伝えると、男たちのある者は嗤い、ある者は憮然とした。隼は、彼等の反応を平静にやり過ごす。

 トグルは、幽かに唇を歪めた。


「……大した自信だが、女。そうまで言われては、俺も、奴等に騎士道を説く気は失せた。部下を殺されることは覚悟してやるが、お前も、ただでは済まないぞ」


 隼は、真っすぐトグルの目を見詰めた。深い湖のような瞳に、トグルは、瞬間、どきりとした。

 低い声は、彼の心に沁み入るように響いた。


「お前は、あたしを戦士として扱うと言ってくれたじゃないか。一人の戦士として、戦わせてくれると。……とうに死ぬ覚悟は出来ている。情けを懸けられてなお生き残りたいと願うほど、あたしは、愚かでも恥知らずでもないつもりだ」


 しろい顔は静かで、気負った風にも、意地を張っている風にも見えなかった。鏡のように、彼を見詰め返す。

 草原の男は、理由の判らない戸惑いを感じ、彼女から視線を外した。そんな己に苦笑し、片手を振って踵を返した。


「***」


 トグルの言葉に群集はどよめき、隼の相手をする三人のなかから、一人の男が場の中心へと進み出た。

 隼も、タオを残して歩き出した。長剣をすらりと抜き、鞘を革帯ベルトに挟みながら。彼女の唇には、不敵な嘲いが浮かんでいた。

 トグルは、自分の席に腰を下ろし、その様子を眺めた。


「ハヤブサ殿……」


 タオは、柵の所まで退がり、息を殺した。味方と隼が戦うことの苦痛は微塵もなく――彼女は、隼の無事だけを祈っていた。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注1)遊牧民の社会では、多くが末子相続です。直系男子の末子が親の財産を相続します。トグルには弟がいないので、彼が嫡子。

 娘に年下の婿をとらせて権威を与える制度は、モンゴル帝国時代にありました。『チンギス・ハーンの娘婿』と呼ばれ、例えばティムールなどがこれを名乗っています。

 (イルティシは川の名で、この作品のみの造語です。ゴアも、本来は別の意味の称号です。ご注意下さい。)


(注2)「死体を鳥に食べさせる」: 隼が言っているのは、鳥葬(天葬)のことです。

(注3)満年齢では二十四歳。トグリーニ族は「かぞえ」歳です。隼は満年齢で考えているので、タオとの会話は微妙にずれています。

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