第二部 足のない小鳥
第一章 天人(テングリ)
第一章 天人(1)
1
夏の終わりを告げる風は澄んで冷たく、砂塵をまき上げては、打ち寄せる波のように砦を叩いていた。その度に、地鳴りが山々にこだまして、人の手で造られた砦は、もろい箱舟同然に身をふるわせる。
防壁の上に手をついて座っていた
どんより曇った空の下、砦は、独りぼっちで泣いているようだった。
「鷹! どこに居る?」
聴き慣れた低い声に、鷹は振り向いた。石造りの階段に足をかけた
鷹は、風に背中を押されながら、石の手すりから跳び降りた。
「やっぱり、ここに居たのか」
「うん。ごめんなさい、鷲さん。すぐ行くわ」
鷲は、すぐには立ち去らず、西の荒野を眺めた。
引き締まった長身は、強風に晒されてもびくともしない。腰まである銀灰色の髪をなびかせて眼を細める横顔は、荒削りな彫刻を思わせた。顎から鼻の下をおおう無精髭が表情を隠している。
彼も
トグリーニ族の長の妹タオ・イルティシ・ゴアの率いる斥候と、キイ帝国のリー・ディア将軍の国境守備兵が戦ってから、五日が過ぎていた。途中、トグリーニ族の本隊が駆けつけ、戦闘中に負傷した隼の安否は、未だ不明のままだ。
敵は、あれきりただの一騎も姿を見せていない。
こちらは大将のリー・ディアを喪い、負傷者の看護に明け暮れていた。
「……疲れているのは解るんだけどな、鷹」
鷲は
「悪いが、手を貸してくれ。ルツが、とうとう倒れちまった」
「ルツさんが?」
鷹は息を呑んだ。急いで階段を降りようとする彼女に、鷲は手をさしのべる。鷹は頬が火照るのを感じながら、彼の大きな手と、硬い腕に掴まらせてもらった。
トグリーニ族を退けるために甚大な能力を発揮した鷲だったが、体力を消耗し、まともに歩けるまで回復するのに三日かかった。この間、彼が鷹に、特別なことを話したわけではない。しかし、以前よりも気遣いを感じられ、鷹は少し嬉しかった。
ルツと
口の悪さはともかく。
鷹が防壁から降りると、鷲は手をはなし、砦の中庭で休んでいる兵士たちの間を縫うように歩いて行った。鷹は、小走りについて行く。
「お兄ちゃん!」
雉たちの居る天幕に近づくと、
鷲は、少女の頭に片手をのせ、ちらりと苦笑した。
「ルツはどうしてる?」
「砦の中に入ったよ」
雉が、疲れた声で答えた。いつもは身なりに気を遣う彼も、無精髭を生やしている。ただでさえ
鷲は、片方の眉をひょいと跳ね上げた。
「大丈夫か? お前」
「ああ、今んところはな……。鷲、あいつら、何とかならないのか?」
雉は、苛々と首を振った。高めの滑らかな声が掠れている。肩越しに、乱暴な仕草で天幕を指した。
「今朝から何人死んだと思う? それも、兵を指揮する立場の者ばかりだ。おれがせっかく救けた命を、あいつら、何だと思ってるんだ」
「……自死か」
鷲は、眼をすうっと細めた。腕に鳩をくっつけたまま、天幕へ入る。
雉は、鷲と並んで歩きながら、さらに語気を荒げた。
「あの殉死とかいう莫迦げた習慣を、やめさせてくれ。おれは、連中を死なせる為に救けたわけじゃないんだぞ!」
負傷兵たちが身体を休めている天幕の奥、一人の老兵のかたわらに居たオダが、雉の声に振り返った。
雉は、少年の表情を見て、忌々しげに舌打ちした。
「またか」
「舌を噛み切ってしまったんです。止められませんでした……」
オダの声は、感情が麻痺したように乾いていた。雉は、激しく首を横に振った。
鷲は、鳩の頭をなで、低く訊ねた。
「ギタは、どこに居る?」
「ルツを連れて行った。だから、多分、そこだろう。……あいつも同じだよ、鷲。話にならない」
鷲は、硬い表情を変えなかった。くるりと踵を返す。鷹は、オダを気にしながら、彼の後を追った。
「鷲さん」
『ニーナイ国を救う為にしたことが、こんな結果になるなんて……』 ぞっとしながら、鷹は鷲の横顔を見上げた。
リー・ディア将軍を喪った彼の兵士達は、みな放心したようになってしまった。特に、老齢の兵士ほど、絶望が深い。砦の警備も負傷者の看護も、ルツたちが指揮しなければ、滞ってしまうありさまだ。
『でも。わたし達が援けを求めなければ、リー・ディア将軍は死ななかった。殉死する人もいなかった。隼が傷つくことも……』
気分が重い。オダがずっと沈んでいるのが、鷹は気懸かりだった。
鷹が項垂れているのに気づいた鷲は、足を止め、彼女の肩をかるく叩いた。鷹が顔を上げると、彼は勢いをつけ、二、三段ずつ階段を駆け上がっているところだった。
鷲は、セム・ギタを呼びながら、二階の部屋の扉を片端から開けて行った。
「ギタ!」
幾つ目の部屋だったろう。鷲は、凍りついたように動きを止めた。
赤地に金の刺繍をほどこした絨毯の上に、十数人の兵士がうずくまっていた。ほぼ無傷で、甲冑を身につけ、剣を手にした年配の男達だ。セム・ギタの姿もある。
彼らは、一斉に振りかえった。うす水色の小さな瞳を見たとき、鷹にも、彼らが何をしようとしていたのかが判った。
鷲は、苦汁を大量に呑まされたような顔をして、扉を閉めようとした。彼ひとりだったら間違いなくそうしたのだが、その時、鷹の視線に出会った。彼女は、すがるように彼を観ていた。
鷲は手を止め、天を仰いで嘆息した。数秒まよい、勢いよく身を翻した。
「何だ。みんなで、死ぬ相談か?」
鷲が投げかけた声は決して大きくはなかったが、石造りの部屋にうつろに響いた。
「仲良く一緒に逝きましょう、てか。いい歳した野郎が情けない。外では、傷を負ったじーさんが、舌を噛み切って一人で死んだってのに。戦う時には敗けるなんてこれっぽっちも考えなかった連中が、小娘にあしらわれたくらいで、弱気になるんだな」
「鷲さん」
鷹はさあっと蒼ざめた。露悪的にもほどがある。
「お前に、何がわかる」
案の定、髪にも髭にも白髪のまざった年配の兵士が、怒気をふくんだ声で言い返した。
「若造。異国人のお前に、儂らの悔しさの、無念の、いったい何がわかると言うのだ」
「わからんね」
鷲の口元に貼りついた嗤いは、毒気に満ちていた。入り口の壁に寄りかかり、あざけるように彼等を眺めた。
「――解りたくもない」
「鷲殿、どうか、抑えてくれ。止めないで欲しい」
セム・ギタが仲間を制した。彼は上級兵のなかでは若い方だ。年若かったリー・ディア将軍に、気に入られていたことが察せられる。彼は、弱々しく懇願した。
「我が国では、
鷲は動じなかったが、声は低くこもった。
「止めるつもりはないが、お前ら、異国人の若造に莫迦にされるのは悔しくて、戦いに負けたことは悔しくないのか。負けて生き恥を晒すのは許せないのに、汚名を雪がずに死ぬのは許せるのか」
「…………」
「俺は悔しい。目の前で仲間を傷つけられて、悔しくてどうにかなりそうだ。傷ついた部下を放りだして、勝手に死ぬ算段をしている不甲斐なさもな」
鷲は踵を返し、肩ごしに言い捨てた。
「お前らの人生観につき合えるほど暇じゃない。ギタ、《星の子》はどこに居る?」
「三階の、西の角の部屋です」
答えたギタに、鷲は背を向けたまま手を振った。後手に扉を閉める。その目が、一瞬、足元を睨んだ。
「鷲さん」
鷹が小声で呼ぶと、彼は、決まり悪そうに肩をすくめた。
*
三階には、高貴な客人を泊めるためにしつらえられた部屋があった。鷹と鷲が入って行くと、ルツは、寝台に起き上がっていた。
青白い顔で優雅にほほえむ彼女を見て、鷲は眉を曇らせた。
「ルツ。起きていて、大丈夫なのか?」
「平気よ。ただの貧血だから、心配しないで」
「それならいいが、」
蒼ざめていてさえ彼女は美しく、肌はしっとり輝いて、妖艶な雰囲気さえあった。しかし、微笑は少女のようだ。
優しく囁かれて、鷲は、戸惑いぎみに視線を逸らした。
「あんたは誰にも傷つけられないが、倒れても、俺達にはどうしようもないと言うから……。気にしていたんだ」
「ありがとう」
『そうだ。ルツさんは、鷲さんに口付けしたんだっけ』 鷹は、ふいに胸騒ぎを覚えた。一体、どういうつもりなのだろう? 彼女は。
あの後二人がどんな会話を交わしたのか、見当もつかなかった。鷲は、どう思っているのだろう?
鷲は、鷹からもルツからも顔を背け、しきりに前髪を弄んでいた。
「休んでいてくれ。鷹、ルツを頼む」
「お待ちなさい、鷲」
もごもごと口ごもって部屋を出ようとする彼を、ルツは、静かに呼び止めた。傍らの椅子を示す。
鷲は、鷹と顔を見合わせると、みぶりで彼女を促した。先に鷹を、ルツの枕に近い椅子に座らせる。
ルツは、二人が別々の木製の椅子に腰を下ろすのを待って、口を開いた。
「今のうちに話しておきましょう。鷹も、聞いていて頂戴。……鷲。あなた達、これからどうするつもり?」
「ああ」
低い声で、鷲が応える。ルツは、長い脚を放りだすように組む彼を、真顔で見詰めた。
「ここを離れるのなら、今のうちよ。リー・ヴィニガ将軍が来てしまうと、話がちょっと、ややこしくなるわ」
「隼を、置いてか?」
鷲は、鼻の下を擦りながら彼女をみた。
ルツは、無言で
「改めて訊くことはないだろう、ルツ。予知が出来るから言うんだろうが。あんたの予知に振り回されるのは、俺は御免だ」
「自分の無力さを、痛感してしまうから?」
「…………」
「未来を変えられなかったことが、そんなに悔しいの。そういうものだと言ったはずよ……。ギタに言ったのは本心ね。隼を連れて行かれて、いちばん悔しい思いをしているのは、あなただものね」
「……あんた、俺に喧嘩を売ってるのか?」
眉間を指でおさえて聴いていた鷲は、地底から響くような声で言い、じろりと彼女を
ルツは、涼しい顔で応えた。
「売っても、あなたはどうせ買わないでしょう」
「知った風な口を利くな」
鷲は舌打ちした。鷹は、はらはらしながら二人を見た。
「俺は、あんたのその、何もかも見透かした言い方が気に入らない。俺達と一緒に行動するつもりなら、止めてくれ。神経を逆撫でされる」
しかし、ルツは黙って微笑んでいるだけなので、鷲は目を逸らした。
ルツは、ぼりぼり頭をかく彼を、生意気な少年を見るように眺めた。それで、鷲は結局、自分を抑えた。
「……悪かった。変な言いがかりつけちまって、謝るよ……。だが、オダは、ここに居て大丈夫なのか?」
ルツは長い睫を伏せ、ふふと哂った。
「大丈夫よ。それに、当分、大規模な戦いは起きないわ」
鷲は頷いたが、鷹は意味が分からず首をかしげた。ルツは彼女のために説明した。
「ミナスティア王国との盟約を破ってリー・ディア将軍が兵を出したものだから、キイ帝国の大公は慌てているわ。ヴィニガ女将軍が兄の仇討ちをしたいと望んでも、許されないでしょう。トグリーニ族の方も、困っている」
「困っているって?」
鷲が、面倒そうに説明を引き継いだ。
「タオもリー・ディアも、ここで殺し合うつもりはなかったからな」
本当にふて腐れた少年のように、鷲は言った。
「覚えているだろう? 鷹。リー・ディアは、タオを生け捕りにしたかったんだ。トグリーニ族とオン大公の双方を、牽制するために。その意図をぶっ壊したのは、俺達だ」
鷲は、右脚を左の膝のうえにのせ、ぶらぶら足先を揺らした。ルツが相槌を打つ。
「リー兄妹に比べれば、ディオ(トグリーニ族長)は慎重よ……。こちらの意図が判るまで、攻めては来ない」
それから、鷲をなだめるように続けた。
「どちらが死んでいても、結果は同じだった。あの状況で、隼が傷つかなかったとは言えない。あなたの
「判っている。それについて悩むつもりも、自分を正当化するつもりも、俺はない。だが、あいつらが死ぬ必要はなかった。じーさんが、舌を噛むことなんか」
「…………」
「雉の言うとおり、莫迦げている。莫迦げているが……ひとの心を読み損ねた、俺の責任だ。ルツ。俺たちは、とんでもない間違いをしたような気がする」
鷹とルツは、彼を見詰めた。
眉間に皺を刻んで考えこむ鷲の、本来明るい若葉色の瞳が、哀し気に
ルツはかるく嘆息した。
「……そうね、間違えてしまったかもしれない。でも、あなたは彼等を守ったわ、ロウ」
ルツは、時々、鷲を本名で呼んだ。意図は解らなかったが。
目だけで顧みる鷲に、ルツは、一語一語を区切るように告げた。
「あなたが食い止めなければ、トグリーニは、こちらを壊滅させていた。ギタ達は、皆殺しにされていたわ」
鷲は、のろのろと首を横に振った。
ルツは、囁き声で続けた。
「救われた生命をどう使おうが、本人の責任よ。あなたには関係ない……。鷲、あなたは彼等のルドガー(雷神)になったのだから、もう引き返せないわ。……お入りなさい」
ルツは、ふいに顔を上げ、扉へ声をかけた。鷹と鷲が、振り返る。
「遠慮は要りません。鷲なら、ここに居ます。彼に話があるのでしょう?」
おずおずと、扉が開いた。
どことなく気恥ずかしそうな顔をしたセム・ギタと、年配の兵士たちが三人いて、深々と頭を下げた。
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