第五章 太陽の少女(4)

*子どもを虐待する描写と、差別用語があります。苦手な方はご注意下さい。



             4


    オレは、化け物じゃない……。


 かれにとって、原初のせかいは、喧噪に満ちていた。

 驚愕、落胆、疑念、嫌悪。それと名付けられる以前に、複数の感情が、かれの内に流れ込み、不安にさせた。

 棘のような飢えが、身体の内側から刺さる。冷感が、濡れた衣のごとく肌に貼りつき体温をうばう。かれが最初に覚えた感覚だった。安らぎや、ぬくもりは、全くなかった。


 言葉をおぼえると、周囲はさらによそよそしくなった。

 冷ややかな寛容……無関心をよそおう拒絶なら、まだしも。言葉以上の敵意をこめてふるわれる暴力は、かれの小さな身体を打ち据え、えぐり、引き裂いた。皮膚よりも深く、時には呼吸すら困難にさせる打撃は、母たる女性から与えられた。


『気持ちがわるい』


 生下時からずっと、低音で奏でられる基調のように。息子を不気味と断じる感情は、彼女のうちにたえまなく鳴りつづけた。もらい乳を与えるときも、着替えをさせるときも、わずかな食事を与えるときも。

 それはしばしば、やり場のない怒りや焦燥といった他の感情をともない、より大きな不協和音となった。


『なんで、アタシが』

『どうして、こんな子が産まれたんだろう』

『産まなきゃよかった』

『どこかへ行ってしまえ……!』


 他人から向けられるものよりも、その女の音は大きかった。かれは耳をふさいだが、《声》は構わず喚きつづけた。朝も、昼も、眠っている間さえ。

 かれは寝不足に陥り、食欲は落ちた。女の《声》に怯えながら暮らすようになった。


 やがて、村の誰かが言った。


「こいつ、分かるみたいだぞ。……化け物だ」


 嫌悪の情はいや増して、無抵抗な子どもの心を突き刺した。



 かれは、村の他の子ども達より色が薄く、日差しに弱かった。肌は、日焼けする先から赤く剥け、手当てされないので、ぼろきれのように貼りついていた。飢えは、子どもらしいふくよかさを奪い、ただでさえ細い手足は、血管が青く透けていた。

 飢えていることは村人全員おなじだったが、それは子ども達の心から容赦を奪い、かれは叩かれ、小突かれ、蹴られることが多くなった。毎日、生傷が絶えなかった。

 かれは泣いて母に助けを求めたが、返ってくるのは見知らぬ男による殴打か、よくて冷たい拒絶だけだった。


 母の《声》に、肉声が重なる。村人たちの《声》が。それらは、いつも奇妙に食い違い、幼いかれを翻弄した。


「食べさせてやれよ」

『――何をするか、分からんからな』


「気持ち悪いんだよ」

『あの目、肌の色……』


「そんなこと、言うもんじゃねえよ」

『誰に似た?』


「どうして、あんな子が」

売女ばいたが。どこで何をしてきたことやら……』


「覚えがないのか?」

『自業自得だろ。疫病神』


「アタシが悪いんじゃない!」

『ごく潰しは、お前もだ』


「粥を分けてやろう」

『だから、んじゃねえぞ。化け物め』


「お前なんか、産むんじゃなかった。アタシの人生を返せ!」

『出ていけ。消えうせろ……』


 貧しい村にとっては、娼婦さえ厄介ものだった。母は、次第に追い詰められていった。


「子連れでどうするんだ、お前」

『いつまで置いておくんだよ。客が気味悪がって、寄り付かなくなるだろうが』

「知らないよ! アタシのせいだって言うのかい」

『産まれてきやがって』


 ――それは、誕生に関する責任すら放棄する言葉だった。


「どこかに売るか?」

『あんな姿じゃ、奴隷だって、買い手がつかないだろう……』


 二重の《声》は、いつまでも続いた。かれは、かれ自身の思考をとうに諦めていたので、それらは、しびれた頭蓋に反響し、絶えず渦を巻いた。

 殺される、と分かった。消えることをこそ、望まれているのだ……。



「ロウ、おいで」


 母がかれの名を呼ぶのは、ごく稀だった。餌を与えるときか、よほど機嫌がよい時に限られていた。生ぬるい秋の夕暮れの陽光のごとく、憐れみが含まれていることもあった。かれはそれを待ち焦がれていたが、長続きしないことは知っていた。

 いつも、ふとしたきっかけで、女の機嫌は急変した。そうなると、罵声とともに殴られるのが常だった。

 女は、かれに綽名を与えなかった。――彼の住んでいた地方では、真の名は悪霊に目をつけられるといって使わず、綽名を呼ぶのが普通だと、彼が知ったのは随分あとだ。

 かれ自身が、女にとって悪霊じみたものだったから、だろうか。


「腹がへったから、山へ行こう。木の実くらい、あるだろう」

『そして、捨ててしまおう』


 母の意図は、言葉より明瞭に、かれの裡に響いた。若干の後ろめたさと、それ以上の暗い喜びをともなって。


 かれは、黙って母の後をついて行った。



 村が見えなくなるところまで山に入ると、女は、息をついて腰を下ろした。


「ああ、疲れた。のどが渇いたよ。お前、汲んできておくれ」


 そういってとりだした竹筒に、最初から何も入っていないことを、かれは知っていた。生い茂る木々に隠れた谷間から、水の流れる音がする。

 かれは、不思議に静かな気持ちで、母の手の竹筒を眺めた。

 そうか……と思う。これが最後なんだな、と。

 しかし、同時に……わずかな希望。母のこの望みを叶えたら、喜んでくれるかもしれない。一片のうすい憐みでも、投げ与えてくれるかもしれない、という――殆ど消えかけた獣脂の灯のごとく、くすぶるが故にかれを苛む思いが、筒を手に取らせた。

 かれは、後方をたしかめつつ、茂みのなかを下って行った。

 母は、待っているふりをしていた。待っていたのだろう、かれの姿が消える、その時を。予想にたがわず、何度目かに振り返ると、母はいなくなっていた。


 待って!


 かれは恐慌に陥った。幼くとも、森の危険は承知している。飢えと貧しさと敵意に晒されているとしても、人の集まる村のなかだから、獣は近づいて来ないのだ。子どもが森のなかで独りにされたら、夜明けを待たず、虎や狼に食べられてしまう。

 だから。


 待って……母さん!


 声にならない悲鳴をあげて、かれは母を追いかけた。竹筒を放り出し、斜面を這いのぼる。駆け去ろうとする母を見つけ、すがろうとした。

 母は、悲鳴をあげた。


「放せ!」

『化け物!』


 その《声》は、かれを打ち据えた。衣の裾を掴もうとした小さな手を、女は払いのけた。岩をよじ登る痩せた息子の肩を、女は力任せに蹴りとばした。


『 お 前 な ん か、 死 ん で し ま え ! 』


 かれの手から力が抜け、視界は闇に覆われた。



 それから先の記憶は、切れ切れだ。



 暗闇に、かれの意識は溺れた。どこを彷徨っていたのか、どうやって生き延びたのか、覚えていない。たまにぼんやりとした光のなかで、草の根を齧ったり、死んだ鳥の羽をむしって噛みついたり……腹を壊して倒れ、熱にうなされている場面が、端切れのように残っている。

 村に戻れば、殺される。その恐怖が、小さな胸を埋めた。


     オレは、化け物なの? 母さん……。



 突然、世界が明るくなった。

 かれは弾かれ、蔓の網に捕らわれて、宙ぶらりんになっていた。何が起きたのか判らない。人里に近い場所で、いつも通り草の根を掘ろうとして、罠にかかったのだ。

 木の葉の濃緑と、雨季の合間の空の青さが、目に沁みた。


 逆さに吊られて手足を折り曲げ、眼をまるくしているかれを、痩せた男が見上げていた。

 見慣れない、赤銅色の髪をした男だ。引き締まった体躯に、麻の貫頭衣をまとっている。まだ若いはずだが、日焼けした顔には、浅い皺が何本もあった。瞳は、鮮やかな藍色をしている。

 男は、怪訝そうに顔を近づけてかれを見ると、皺を折り畳んでにやりと笑った。


「*****、**」


 最初、何と言ったか判らなかった。かれがきょとんとしていると、男は片方の眉をひょいと跳ね上げ、言い直した。


「どんな珍しい猿かと思ったら、人間じゃねえか。小僧、この畑荒らしが。どこの村のもんだ?」


 あの《声》がない。この男の声は、二重でない……。そのことに、まず驚いた。


「おーい、デファ! どうした?」


 数人の声が近づいて来た。かれは怯えたが、男は飄々と応えた。


「おう。なんか、変なのがかかった」

「変なって……子どもじゃないか」


 デファと呼ばれた男は、罠の蔓を弛め、かれを地面に降ろしてくれた。網を解かれたかれは駆け出そうとしたが、デファは襟首をつかみ、逃がさなかった。


「待てよ。俺の畑のものを盗んでおいて、逃げようってのか? 一言、あやまるくらい出来ないのかよ」

「デファ。こいつ、変だぞ」


 骨と皮ばかりに痩せた子どもを、他の男たちも、怪訝そうに眺めた。殴られるかと思ったが、彼らの視線は同情的だった。

 デファは、くちゃくちゃ煙草を噛みながら答えた。


「変なのは、みりゃ分かる」

「そうじゃない。ユアンみたいに、戦乱で焼け出された孤児じゃないか? 言葉が喋れないのと違うか?」

「あん?」


 デファは首を傾げ、しげしげとかれを観察した。白い肌に散る火傷の痕と、無数の傷、破れた衣、ほつれた長髪に飢えた獣のような瞳を見て、ふんと鼻を鳴らした。



 雲を衝く山々に囲まれた、小さな村。その外れの小川に、デファはかれを抱えて行った。文字通り、小脇に抱えて。暴れるかれを、仔猪のように軽々と扱い、流れの中にざんぶと漬けた。

 村人たちが、遠巻きに眺めている。

 デファは、土と垢と血と傷にまみれたかれを、容赦なく、ごしごしと洗った。かれは悲鳴をあげかけたが、相変わらず声は出せなかった。ただ、敵意は全く感じない。村人たちにも、この男にも。それが、不思議だった。


「なんだ、お前。これ、地毛か」


 汚れが落ちると、かれの髪は、白銀色の輝きを取り戻した。岸に坐らせた少年の身体を無造作にふいていたデファは、伸び放題の前髪をぐいと掻き上げ、かれの顔をのぞき込む。珍しい碧色の瞳をじっと見て、笑った。

 かれが息を呑むほど、屈託のない微笑だった。


「良かった。どこかの阿呆が子どもの髪の色を抜いたのかと、心配した。火傷も、大したことなさそうだな。あとは飯か?」


 見物している男達が、くすくすと笑いだす。二人の年配の女性が近づいて――おそらく、子どもの古着だろう。かれに衣を着せた。


「ずいぶん、痩せているな」


 しげしげと眺めていた男達が、喋り始めた。女達も、ひそひそと囁く。


「ろくなものを食べていなかったのと違うか? どこから来たんだろうな」

「肌の色は、北方の人間のようだが。あんな髪の色は、見たことがない」

「あら、綺麗じゃない、凄く。緑の目も。育てばきっと、いい男になるわ」

「いい男、だって」


 若い娘の言葉に、村人達は笑った。あたたかな笑声が、谷に木霊する。

 どこからも、あの《声》は聞こえなかった。悪意も、嫌悪の情も――

 呆然とするかれの前で、デファは顔をあげ、大声で呼んだ。


ユアン! ユーアーン!」


 人形さながら成されるままになっていた彼のところに、ひとりの少女が現れた。

 己の容貌が普通ではないと、かれは知っていた。しかし、少女もかなり珍しかった。陽光をおもわせる黄色い肌に、ふたつに別けて編んだ黒髪、黒い瞳。烏の羽根を思わせる。

 垂れ目の、おとなしげな美貌をもつ少女は、黒曜石のひとみをおおきくみひらいて、彼を見詰めた。

 逃げることを忘れているかれの頭を撫で、デファは言った。


「鳶、こいつに何か食べさせてくれ。一緒に暮らすんだ。面倒をみてやれよ」

「え?」


 鳶は、潤んだような眸を瞠り、デファとかれを見比べた。かれも驚いた。自分より年下に見える少女の背に、赤ん坊が括りつけられていたからだ。



 デファは、かれに村を案内した。切りたった崖に剥き出しになっている岩のところへ連れて行き、得意げに指さした。


「凄いだろう。ヒルディア王国に、三賢王がいた時代のものなんだぜ」


 子どものようにはしゃいだ声で言う。視線をあげたかれは、ぽかんと口を開けた。

 岸壁にはりつくように、足場が組まれていた。無数の細い丸太を組み合わせ、天高くそびえている。ところどころに板を渡した作業場に、男達がいた。ある者は胡坐を組み、ある者は腹這いになっている。岩壁にとりつき、熱心に描いているのは、神々の姿だ。

 金に銀、朱に緑青、瑠璃ラピスラズリ……。目に鮮やかな顔料をふんだんに用いて描かれた、蓮華や桜、水仙の花が咲き乱れ、胡蝶が舞い、鹿が啼き、天女が楽を奏でる天上の世界だ。妖艶な微笑をたたえた女神が、腰にわずかなしなをつくり、彼らを見下ろしている。

 絵師たちのある者はのみを持ち、ある者は絵筆を手に、一心不乱に描き続けていた。


 彼らの出身は、さまざまだった。デファと同じ赤銅色に黄色い肌の者もいれば、ナカツイ王国の者らしき朱色の髪、褐色の肌の者、混血らしき者もいた。

 女たちが、麦焦がしツアンパ牛酪バター茶を配っている。皆、ここで絵を描くために集まっているらしい。


「ここは、絵師フワジャの村だ。お前、俺を手伝ってくれないか」


 かれの肩に片手を置き、デファは、目の高さを合わせて言った。

 かれは、口の動きだけで繰り返した。


「(手伝う?)」

「そうだ。俺は、一日中、あの上にいる。お前――ジオウ。お前の身軽さなら、平気だろう」


 名乗れないかれに、デファは勝手に綽名をつけた。うれしげに繰り返す。


「鷲。俺んところに、水や飯や、顔料を運んでくれ。ちょうど、助手が欲しかったんだ。鳶には出来ないし、グーズりもあるからな……。手伝ってくれるなら、飯と寝床は与えてやる。文字と、絵の描き方も教えてやろう。……どうだ、悪い話じゃないだろう?」




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