第四章 星の子(5)


           5


 鷹は、冷たい石の廊下の片隅で立ち止まった。

 鼓動が激しく、胸が破れそうだった。膝から下が、他人のもののように重い。鷹は壁に寄りかかり、天井を仰いだ。目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。

 どうして逃げ出したのだろう。

 嗚咽を呑みながら、自分に驚き、呆れていた。どうしてこんなに、苦しいのだろう。好きなのだろう。

 胸がはり裂けそうに痛くて、かなしい。


「あれ、鷹?」


 名前を呼ばれ、ドキリとする。二つほど向こうの扉から、オダが顔を覗かせていた。今朝の部屋らしい。

 慌てて目元をぬぐう鷹を、少年は怪訝そうに見た。


「どうしたの。泣いているの?」

「ううん、大丈夫。皆は?」

「僕と鳩だけだよ」


 オダと一緒に部屋に入ると、卓上テーブルには夕食の仕度が出来ていた。鳩がつまらなそうに椅子に坐り、ぷらぷら足を揺らしている。少女はちらりと鷹を見て、眼を伏せた。

 窓から観える空には、弓のような月が懸かっていた。

 オダは、眉を曇らせた。


「先に食べていいって言われたんだけど。あんまり遅いから、心配でさ。鷲さん達、どうしているの?」

「ん、うん……」

、いらない。寝る」


 鳩は怒ったように言うと、小走りに部屋を出ていった。ばたんと扉を閉める。鷹とオダは、顔を見合わせた。


 鳩と入れ違いに、隼と、雉を背負った鷲が戻って来た。オダの声に不安が混ざる。


「雉さん? どうしたんですか?」

「大丈夫。眠っているだけだ」


 鷲は、少年を安心させるようにわらった。鷹は、胸の奥がふるえるのを感じた。


 鷲が雉をとなりの寝室へ運ぶ。隼とオダがついて行った。鷹は卓子テーブルの傍に佇み、それ以上、彼らに近づけなかった。

 半開きの扉の向こうから、穏やかな鷲の声が聴こえた。のほほんと。


「食べないのか? 隼」


 隼の返事は聞こえなかったが、雉に付き添うので後でいいと言ったらしい。間もなく、オダと鷲が戻って来た。鷹は、彼の顔をまともに見ることが出来なかった。

 鷲は、明らかに人数分より多い料理をながめ、呆れて言った。


「仕様がないなあ。せっかくのご馳走を。オダ、鳩は?」


 オダは鷹を顧みた。鷹は、どきまぎしながら答えた。


「あ、あの。寝ちゃったみたい……」


 鷹がちらりと見ると、鷲は苦笑していた。両手を腰に当てている。


「三人じゃ食べきれないぞ。オダ、頑張って喰ってくれ」


 鷲が椅子に坐ったので、鷹も仕方なく、反対側の席に腰を下ろした。オダは鷲の隣に坐り、雉のいる方を見遣った。


「遅いから、鳩も僕も心配していたんですよ。鷹は独りで帰って来るし、雉さんは寝ているし……。何かあったんですか? 《星の子》と」

「まあ、いろいろとな」


 言葉をにごす鷲の声音は苦い。目は笑っておらず、むしろ鋭い碧眼を避け、鷹は俯いた。


「……今日は勘弁してくれないか、オダ。お前と鳩を、のけ者にしようってんじゃないんだ」


 まだ不満げな少年に、鷲は、祈るように片目を閉じた。


「《星の子》に逢って、混乱しているんだ。落ち着いて考えないと、ろくな説明が出来ない……。俺の方から話すよ」

「わかりました」


 オダは、自分を納得させるように頷いた。


「しつこくして済みません。鳩も機嫌が悪いんですよ。解って下さい……。多分ふて寝だろうから、僕、これを持って行って、一緒に食べます」


 オダは、チャパティ(薄焼きパン)と肉餃子(モモ)、干し無花果の入った籠を持って立ち上がった。

 鷲は、済まなそうに繰り返した。


「悪い、オダ」

「いいですよ。その代わり、ちゃんと休んで下さいね」


 鳩のいる部屋へ去っていく少年を、鷲は見送った。それから鷹を顧みたので、鷹は慌てて顔を伏せた。

 ぼそぼそと食事を続けながら、鷹は、いたたまれない気持ちになった。逃げ出したくなるのを抑えて言葉を探していると、鷲の方が嘆息した。

 彼は席を立ち、彼女に背を向けると、間仕切りの向こう側へ行ってしまった。



 鷹は戸惑った。――鷲は悪くない。勝手に取り乱したのは自分だ。呆れられても仕方がない……。おそれ、迷い、気恥ずかしいと感じたが、意を決して立ち上がった。

 おそるおそる窺うと、鷲は、長椅子に腰を下ろしていた。月を愛でているわけではない。片方の膝を立て、ぼんやり考え込んでいる。

 鷹は、そっと声をかけた。


「休まないの? 鷲さん」

「え?」


 鷲は意外だったらしく、若葉色の瞳をみひらいた。それから、曖昧に苦笑する。気まずくなる前に、返事がかえってきた。


「考えなきゃならないことが、沢山あるからな……。坐るか? 鷹」


 鷹は静かに近づいて、彼の隣に坐った。緊張で身体が硬くなっている。それは鷲も同様らしく、しばらく沈黙が続いた。

 やがて、鷲の方から話しかけた。


「その……残念だったな。記憶、戻らなくて」

「う、うん」


 鷹は安堵した。会話が途切れるのが怖く、早口になった。


「でも。本当は、そうでもなかったの。わたし」

「君もか」


 意外な台詞にふり向いた鷹は、鷲ともろに目があって息を呑んだ。彼は、悪戯っぽく微笑んだ。


「実は、俺もだ。正直言って、ホッとした」


『鷲さん』


 『駄目だ……』 謝らないと、と思っていたのに。優しい笑顔をみた途端、胸がきゅうっと締めつけられ、鷹の視界がぼやけた。

 鷲は真顔に戻った。

 うなだれる鷹の耳に、困惑している声が聞こえた。


「怒っているのか? ルツのことを」


 否定したかったが、鷹は、すぐには応えることが出来なかった。震える声を、しぼり出す。


「違うの。これは、わたしの我が儘なの。だから……」

「我が儘なんかじゃないよ」


 鷲の口調は穏やかだったが、声には苦渋が滲んでいた。


「君は怒っていいんだよ。中途半端に君を放っている、俺のせいだ。君は、俺を、責めていい」


 鷹は、涙が溢れそうになるのを堪えて首を振った。


「お願い。そんな風に、優しくしないで。諦められなくなるから……優しいことを、言わないで」

「諦めちまうのか?」


 鷲の声が明らかに残念そうだったので、鷹は思わず顔を上げた。


「なんだ。諦めて、ニーナイ国へ帰っちまうのか? 鷹」

「……諦めて欲しくないの?」


『ちょっと』――鷲は、不器用に片目を閉じ、左手の人差し指と親指のあいだに、隙間を作ってみせた。

 鷹は一瞬、呆気にとられてその仕草を眺めた。……やがて、それが、ぼうと滲んだ。

 鷲は、労わるように彼女を見た。


「鷹」

「助けて、鷲さん」


 切なさで、胸がいっぱいになる。鷹は考えられなくなった。鷲の長衣チャパンに、しがみつく。彼の胸にすがり、口を衝いて出る言葉と想いに身を任せた。


「苦しいの。いつまで、こうしていればいい? 諦められない。でも、わたし、鳶さんには、かなわない――」

「……あのな」


 鷲は鷹の手を取り、そっと、自分の胸から離した。彼女の顔を覗きこむ。


「別の人間なんだ。かなうもかなわないも、ないだろう。強いて言えば、あいつはもう死んでいるんだから、君の方が有利だ。……俺は、君を観ていると言った。覚えているか?」


 鷹は無言で首を横にふった。胸が破れそうで、声が出せない。

 鷲の声が、苦しげに濁った。


「惚れさせて欲しいんだよ、君に。傷つけたり、悩ませたりしたいわけじゃない……。頼むから、泣かないでくれ。どうしたらいいか分からなくなる」

「助けて、鷲さん……」


 泣きながら、鷹はうわ言のように繰り返した。鷲は、深くふかく諦めの息を吐くと、彼女を抱き締めた。唇を塞がれて驚く鷹の目に、眼を閉じた彼の顔が映った。

 一瞬もがいた鷹の身体を、鷲は力をこめて抱き寄せた。背がしなり、鷹はふるえた……気が遠くなる。

 鷲は唇を離すと、彼女の顔を自分の肩におしあてた。彼の胸が溜息とともに揺れるのを、鷹は感じた。


「……俺だって、そうしたいよ、鷹」


 鷲は、己を落ち着けようと努力しながら、囁いた。


「今すぐ君を愛せるなら、どれ程いいか。自分に嘘がつけるなら、百万回でも言ってやるよ……。だけど、俺には言えないんだ。見ていてくれとしか。許してくれ……。鳶は、死んだんだ。あいつを殺したのは、俺なんだ。だから――」

「嫌。鷲さん」


 鷹は恐怖をおぼえた。いま、この状況で、彼から鳶の話を聴きたくはない。しかし、鷲の力は強く、身動きを封じられた彼女は、耳をふさぐことすら出来なかった。


「お願いだ、聴いてくれ。俺はあいつを、子どもと一緒に殺した。君に好かれる資格なんてない……。なのに、惚れているんだ。どうしたらいいか分からない。助けて欲しいのは、俺の方だよ……」


 鷹は懸命にもがき、鷲の腕をふりほどいた。腕を突っぱねて離れた鷹は、彼と目が会い、息を呑んだ。

 ……何も言えず、何と言ったらいいか判らず。鷹は、彼から目を逸らした。身を翻し、今度こそ、本当に逃げた。


                *


 ――鷹が駆け去る音を、鷲は、茫然と聞いていた。己の言動が信じられない。喉の奥から苦いものがこみ上げ、舌打ちをした。

 それから、我慢が出来なくなって、石の壁を殴りつける。奥歯を噛みしめると、口のなかに血の味がひろがった。


「何を言っているんだ、俺は。いったい、何をやっている……」

「まったくだ」


 冷静な相槌にギクリとして、鷲は振り向いた。疲れた顔をした隼が、胸の前で腕をくみ、壁に寄りかかっていた。

 鷲は、自嘲気味に唇の端を吊り上げた。


「お前には、いつも、救いようのないところばかり見られるな。隼……」


 隼は、黙って前髪を掻き上げた。何と言うべきか迷いつつ、口をひらく。


「わざと見ているつもりじゃなかった、許してくれ。救いようがないとは思っていない。ただ……あたしの周りにはどうしてこう、莫迦正直な奴が揃っているんだろう――とは、思うね」


 鷲は、フッと苦笑した。少し、救われた気分になった。

 隼は、頬をひきしめて続けた。


「鷲。あたしがお前なら、ああは言わない。黙っていれば済むことだ……。どうして、自分を傷つける? 鳶を殺した、なんて。お前が手を下したわけじゃないだろう」

「お前はそう思うのか。ありがたいな」


 鷲は、片手で顔を覆いながら応えた。低い声の底に宿るやり場のない怨嗟えんさを聴きとり、隼は眉を曇らせた。


「気持ちの上では、殺しているのと同じだ。俺は、あいつを……。今度は、消そうとしているのかもしれない」

 隼は、溜め息をついて彼を見下ろした。


「お前が自分を責めるのは、お前の勝手だよ。だからと言って、鷹を傷つけていい訳じゃない」

「判ってるよ、んな事は。……だが、隼。俺は、自分を許せない」

「…………」

「あいつを死なせておいて、鷹に惚れようとしている、自分自身が許せない。隼。……傷つけたくないと思う度に、浮かんで来る」


 隼は、鷲を見詰めた。項垂れた彼の肩は、泣いているように見えた。


「あいつの顔が」

「…………」

「今なら、判るんだ。どうしてやれば良かったのか、何て言えば良かったのか……。酷い野郎だ。あいつにしてやれなかったことを、鷹にしてやりたい、なんてな」


 隼は、そろそろと息を抜いた。眼を閉じ、鳶の姿を想い浮かべようとしてみる。

 隼からみて鷲と鳶が気の合う夫婦だったかと問われれば、微妙だと思う。幼馴染からなし崩しに一緒になったような二人だ。傲慢で我が道をいく鷲に、気弱な鳶が従っていた……言い争うことも、あった。


 それでも、たしかに彼女は鷲を愛していたし、今も彼の一部なのだ。


 彼女なら、鷲にどう言うだろう、と考える。しかし、その面影が、いつの間にか鷹に代わってしまっていることに、隼は気付いた。――生きている者がいちばんになってしまう、自分は鷲より薄情かもしれない。と、隼は自嘲した。

 己に聴かせる思いで、口を開いた。


「なあ、鷲。確かに、酷い話だ。あたしも少しだけ、お前をひどい奴だと思っている」


 鷲は、黙って聴いている。隼は、そっと囁いた。


「でも……お前が鳶を想って、その為に、鷹への気持ちに嘘をついたら。多分、それもお前の本心なんだろうけど――あたしは、その方が、もっと酷いと思う」


 鷲は隼を見上げた。若葉色の瞳に感情は読みとれなかったが、隼は、彼が何かを決意したように思った。


「礼を言う、隼」


 鷲は呟くと、立ち上がり、彼女の肩にかるく手を触れ、部屋を出て行った。

 長い銀髪が灯火に照らされて柔らかく輝くのを、隼は、無言で見送った。


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