第四章 星の子(3)


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 イエ=オリを見舞ったり、馬に飼葉を与えたり、神殿内の見学をしたりしているうちに、一日は過ぎた。日没まえに、マナは彼らを迎えに来た。

 今回、オダは席を外すよう頼まれた。鳩とイエ=オリたちとともに、鷲たちを部屋で待つようにと。常に鷲と居たい鳩はごねたが、エツイン=ゴルに宥められて諦めた。

 鷹は、最近、鳩が以前ほど自分に懐いて来ないことに気づいた。少女なりに、思うところがあるのかもしれない。



 鷲と雉、隼と鷹は、マナの案内で、神殿の奥へ向かった。昼間、巡礼の人々で混雑している本殿は、今は閑散としている。石造りの通路を抜け、何度か階段をのぼり、たどり着いたところは、天井の高い広間になっていた。


 巨大な岩盤の裂け目を、人の手で削り拡げたのだろう。岩壁には、丁寧にととのえられた部分と、あらあらしさが剥き出しになった部分とがあった。奥へ行くほど人の意図から遠ざかり、自然の造形があらわれている。数本の石の柱が、天井を支えている。柱には牛酪バターの燈明が掛けられ、辺りをやわらかく照らしていた。


 床が一段高くなっているところに、胡坐を組んで瞑想する男神の像があった。

 坐高は人の身長の二倍はあろうか。引き締まった若い男性のすがたをしている。裸身に獣の毛皮をまとい、長い髪を結い上げ、月の鎖で飾っていた。両眼を静かに閉じているが、額の第三の眼は開いている――人の運命をみすえ、いかづちをはなつ瞳だ。彩色や飾りはなく、全てが神殿と同じ、黒っぽい岩で作られていた。


 マナは、彼らに先へ行くよう身振りで促すと、自身は部屋の入口へ下がり、そこに佇んだ。四人が興味ぶかく石像を見上げていると、澄んだ声が響いた。


「ルドガー神の像。この神殿の、ご本尊よ」


 花と燈明を捧げる祭壇の傍らに、《星の子》は坐していた。艶やかな黒い床に純白の長衣チャパンの裾をひろげ、胡坐を組んでいる。まとめられていない黒髪が、その上に、ゆるやかな弧を描いている。彼女は、神像を眺めながら説明した。


「以前は、木の神殿の方にあったのだけれど。私が来てから、ここへ移したの。嵐を司る神の威力ちからを現すのに、より相応しいとか言って」


 ルツは、独り言のように続けた。


「ひとの娘に恋をして下界へ降りたものの、人間のみにくさに傷つき、世捨て人サドゥーとなった神。愛する者を亡くした悲しみのあまり、世界を破壊しようとした……人間らしい神よね。ルドガーも、彼を止めたウィル(ウィシュヌ神の別名)も。ヒルダも」


 隼が、いぶかし気に眉をひそめた。ルツは彼女を顧みて、ふふと哂った。


「ヒルディアの女神、ヒルダは太陽神だったわね。海龍から人々を救うため、海に身を投げた――津波から恋人を護るために、能力を使い果たして死んでしまった。それでも、毎朝、人々のために再生し、日没とともに死を繰り返す。なんて、人間くさい」

「…………」

「まるで、そんな人が居たようだとは思わない? 偉大な能力者たちのことを人々が語り伝えるうち、いつしか神に、天人テングリにしてしまったのだとしたら」


 隼は、答えられなかった。こんな話をする彼女の意図が読めない。


 ルツは、謎めいた微笑みを浮かべて立ち上がり、彼らの方へやって来た。神像に背を向け、足を止める。


「さて」


 鷲と隼、雉と、鷹を順にみて、切れ長の眼を細めた。涼やかにきりだす。


「――簡単なことから始めましょうか。鷹。あなたは、記憶をとりもどす為にここへ来たのだったわよね」


 突然はなしかけられて、鷹は驚いた。それから、あ……と思う。頬が火照るのを感じ、項垂れる。

 鷲が、代わりに応えた。


「そうだ。出来るか? ルツ」


 ルツは鷹に近づき、彼女の瞳を覗き込んだ。


「お安い御用……と、言いたいところだけど。私には判らないわ。それが、彼女にとって、本当にいいことなのかどうか」

「どういう意味だ?」


 鷲が首を傾げる。鷹は、ルツの瞳を見返せず、瞼を伏せた。

 ルツはそっと、彼女の頬に片手をふれた。


「病なら、体の治ろうとする力に、手をかすわ。私の能力は、そういう風に働くのよ。けれど、時にはそれが、本人にとって迷惑な場合がある」


 鷹は呼吸を止めてルツを凝視みつめた。彼女は、哀しげに囁いた。


「あなたは、過去の自分をとり戻したいとは、思っていないわね。鷹……」


 漠然とした想いを言い当てられ、鷹はかたく眼を閉じた。鷲の視線が、頬に痛い――胸に。

 ルツは、彼らに説明した。


「心に深い傷を負った時、人はどうするかしら。命を絶つかもしれない。時が傷を埋めてくれるまで、待つかもしれない。或いは、全力で傷を忘れようとするかもしれない――初めから存在しなかったことに」


 隼と雉は、まじまじと鷹を見詰めた。

 鷹がこわごわ見遣ると、鷲は、眼を細めてルツを見ていた。


「鷹が、そうだと言うのか?」


 ルツは、かぶりを振った。


「彼女の記憶は、彼女自身が封じているわ。強力な意志の力で」


 鷹は茫然と、鷲の低い声を聴いた。


「封じている?」

「……記憶とは、人が経験や感情を、無数の小箱に詰めて頭にしまったもの。ときに、開けて思い出すの……。彼女の中に、箱は全部そろっている。自分で封をして、開かないようにしているのよ」


 ルツは、しなやかな身振りで、鷹の額に触れるか触れないかの距離に掌を掲げた。眼を閉じて続ける。


「無理に箱を開けて、このの心に新たな傷を創ってしまうのが心配……。記憶や感情は人格を構成する基だから、それを封じることで、この娘は本来の人格も封じている。ほとんど白紙の状態になって、新しい自分――《鷹》という人格を、創り始めているのよ」


 手を下ろすルツを、鷹は見詰めた。輝く夏の夜空のように冴え冴えとした、《星の子》の瞳を。

 鷲たちは、黙って彼女の話を聴いている。


「記憶が封じられている以上、それを辿って過去を探ることも出来ない。何があったのか判らないけれど……彼女が自分を守るためにそうしたのなら、他人が解くのは良くないでしょう」


 ルツは溜息をついた。鷹から離れ、二・三歩、祭壇の方へと戻った。


「封を解けば、今の彼女がどんな影響を受けるか。鷹は、別人になるかもしれない。以前の自分をとり戻す代わりに、今までの記憶を失うかも……。彼女は、それを望んではいないわ」


 鷹は、唇を噛んで項垂れた。それはおそろしい予言だった。


 『今の自分』が、失われてしまうとしたら。


 ラーダとオダに出会い、エツイン=ゴルたちと旅をしてきた。……鷲を、好きになった。その記憶、想い。僅かだが、現在いまの己の全てを、失うのだとしたら――

 そして、鷹は気づいた。記憶を失くす前の自分は、そんな思いまでして、己を封じたのだと。いったい、何を恐れたのだろう?



 雉が、躊躇ためらいつつ口を開いた。


「それじゃあ、鷹ちゃんの記憶は、もう一生戻らないのかい?」


 ルツは、静かに首を振った。


「戻らないかもしれないし、ある日突然――明日にでも、全て思い出すかもしれない。彼女が自分でかけた封印なら、解くべき時も、彼女が知っているでしょう」


 鷹は、そっと鷲をうかがった。彼は、腕を組んで考えこんでいる。ほつれた髪が頬にかかり、表情は分からない。

 彼が、こちらを向く。

 その顔を見られなくて、鷹は面を伏せた。


「大丈夫?」


 ルツの声には、いたわりの響きがあった。鷹は動揺した。どこか心の片隅で、己が安堵していることを自覚していたのだ。


「力になれなくて、ごめんなさい」

「いえ。そんな……」


 後ろめたい気分で視線を彷徨わせた鷹は、鷲と目が会いギクリとした。若葉色の瞳に表情はなく、彼の考えは解らない。鷹は、目のやり場に困った。

 ルツの言葉が、胸に沁みた。


「今の自分を大事にしなさい、鷹」


 上目遣いにみると、《星の子》は微笑んでいた。


「あなたの気持ちを、大切にすることね。いつか、封じていた自分が蘇っても、失うものはないでしょう」


 ……《星の子》は、心を読んだのだろうか。全てを知って、こう言うのだろうか。

 考えながら、鷹は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ルツは踵を返した。鷲と隼が――雉が、彼女を見守っている。

 鷹は、彼らを見ることが出来なかった。




 《星の子》は神像の足元へ戻ると、一段床の高くなっている所に腰を下ろした。彼女が落ち着くのを待って、今度は鷲が話しかけた。


「そろそろ教えてくれないか、ルツ。あんたは何者だ? 俺達を待っていたと言ったな」


 鷲は、ぎりっと奥歯を鳴らした。声は、石畳の床にひくく響いた。


「俺達は、ずっとあんたに会いたかった。教えてくれ。……俺達は、何者だ?」


 隼と雉も、神妙な面持ちで《星の子》を観ていた。

 ルツは眼を伏せ、そっと独りごちた。


「銀髪碧眼は、《古老》のしるし……。驚いたわ、こんなに見事だなんて。生まれながらに覚醒しているのね、あなた達は」

「何?」

「あなた達は、《古老》と呼ばれる者です。ロウ」


 訊きかえす鷲を、ルツは、真顔で見詰めた。瞳は、彼らよりどこか遠くを観ていた。


「或いは、《時空の番人》と私たちは呼んでいます。異世界からこちらへ来た彼らの子孫です」


 雉が呼吸を止め、隼は、紺碧の瞳をこれ以上ないほどみひらいた。鷲は眉間に皺を刻み――ほかっと開いた口から、大音量の呆れ声がこぼれ出た。


「はあァっ?!」



「ロウ。いえ、鷲と呼ぶわ」


 不信感をありありと示している三人によわりながら、ルツは続けた。


「雉、隼……あなた達の姿は、彼らが能力ちからを発揮するときのものです。あなた達が受け継ぐ遺伝子がどの人種のものであれ、無関係に、《古老》の能力がとらせます」

「ちょっ、待ってくれ」


 隼は、眉間を指先でおさえ、いそいで言った。


「どういう意味だ? さっきから……。あんた、あたし達が人じゃないって言うのか?」


 鷲はもう、憮然としている。ルツは苦笑した。


「いいえ。人間よ、隼。あなた達の不幸は、彼らを全く知らないこと。自分の能力ちからを操る術を、知らないことね」


 鷲と隼は、胡乱な目つきでお互いを見た。雉は蒼ざめ、頬をこわばらせている。

 鷲が、しぶしぶと訊いた。


「《コロウ》ってのは、何だ。あんたもそうなのか?」


 ルツは、ふっと自嘲気味に哂った。


「だったら、嬉しいのだけれどね……。私とあなた達とでは、能力の使い方が違うわ」

「…………」

「私とマナは、自分の生命エネルギーを、物理的な力に変換している。《古老》は自分だけでなく、ほかの生物のエネルギーを集めて操ることが出来る。仲間と共鳴し、増幅させ、強大な力を発揮する特殊な能力者よ。――だから、《時空の番人》に選ばれた」


 三人の表情は、彼らが話を全く理解できていないことを示していた。


「昔語りをしましょう」


 ルツは溜息をつき、膝の上で両手を組んだ。




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