第三章 黒の山(6)
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切りたった岩壁に沿う巡礼の道は、荷物を載せた馬がやっと登れる急勾配だ。大きな岩や木の根を避けて曲がる際、人は手で掴まって登る必要がある。小柄な鳩がつかえる度、鷲とオダは手援けしなければならなかった。
標高はさらに高くなり、数歩あるくだけで息切れがした。彼らは、のろのろと進んだ。喋るとさらに苦しくなるので、皆、無口になっていた。身体の重いエツイン=ゴルは特に辛そうで、一行の最後尾を、マナと並んで歩いた。
クド(ユキヒョウに似た獣)は、岩壁を登ったり隠れたりしながら、彼らの先を進んでいる。
マナは、言葉通りに迎えに来たが、イエ=オリを連れて行った方法では、彼らを運ばなかった。空気の薄さに身体を馴らさないと危険、というのがその理由だ。鷲と隼は彼女を警戒していたので、言われるまでもなかった。
「私は、《星の子》の娘です」
二日目の夜、彼らとともに焚き火を囲みながら、マナは説明した。四十歳という年齢にふさわしい落ち着いた態度で、彼らの警戒を解こうとした。
「〈黒の山〉に住む者で、黒髪なのはルツと私、私の子ども達の四人です。他は、ナカツイ王国やキイ帝国から移り住んできた人々です。〈草原の民〉の巡礼者は、黒髪をしていますが……」
「そうなんだ」
鳩は、マナに作ってもらった麦焦がし(ツアンパ)を食べ、軽く唇をとがらせた。マナは少女に微笑みかけた。
「ソウ・リン・ドルマ(鳩の本名)という名は、ここより南……ナカツイ王国とヒルディア王国の国境に暮らす人々に、多い気がします。クド山脈の方ですね」
「だが、あの辺りに、この子のような風貌をした者はいません」
エツイン=ゴルが、疲れた顔で応えた。鷲は黙っている。
「どこかから移り住んで来たのでは、と思うのです。〈草原の民〉との混血ということは、ありませんか?」
マナは、首を傾げた。
「あり得なくはないでしょうが、難しいと思います。彼らは、このタハト山脈以南へは、何十年も足を踏み入れていません」
「タオ達は――トグリーニ族は、麓のチャガン・ウス村まで来ていたぞ」
鷲は口を開いたが、彼より先に、隼が訊ねた。鷲が口を閉じたので、マナは彼女を顧みた。
「そこより南へは行かないはずです。取り決めですから」
「どういう意味だ?」
隼のするどい紺碧の瞳に怯むことなく、マナは淡々と答えた。
「〈
タオの長い名前を聴くと、鷲と隼は顔を見合わせた。鷲は、鷹と鳩を見遣ってから、眉根を寄せた。
「じゃあ、鷹と鳩は、何処から来たって言うんだ? マナ、あんたも」
マナは、お茶に唇を浸し、困った風に微笑んだ。
「私に分かるのは、ここまでです。あとは、答えられることがあれば、《星の子》が話すでしょう」
――三日がかりで岸壁をよじ登り、最後の傾斜をのり越えた一行は、そこに拡がる光景に、呆然と立ち尽くした。
天が近かった。
麓に比べるとはるかに色の濃い青空が頭上にひろがり、灰色の雲が、勢いよく流れている。眼前には、草原があった。背の低い草が生い茂り、銀色にきらめく川が、そのなかを流れている。
雪をかぶった〈
自分達が苦労して登って来たのは、聖山の
この巨きさ、この荒涼……。世界に対する己の卑小さを、思い知らされる。
「〈
強風に長い黒髪をなぶらせつつ、マナは説明した。腕を伸ばし、道の先を示す。
「巡礼者は、徒歩か
これには、エツイン=ゴルが真っ先に首を横に振った。鷲も苦嘲いしている。マナは、くすりと微笑み、別の方向を指さした。
「ええ。そこまでする必要はありません。神殿は、あそこです。」
西の方角。聖句を刻んだ石を積み上げた
半分は木、半分は岩を削って造られた建物だと、遠目にも判る。道端には、いくつもの
クドは、いつの間にか姿を消していた。
案内をするマナが先頭を行き、鷲たちは、馬を引いて従った。目的地を前にして、みな口数が減っていた。
*
陽は傾き、空は暗くなった。灰色の雲が垂れこめ、今にも雨が降り出しそうな気配だ。
巡礼の人々が、お辞儀をしながら通りすぎる。ここの礼儀なのか、狭い場所をすれ違う際には、登る側が先を行き、下る側は立って待っている。慣れているマナは、優雅に会釈を返す。頭から外套をかぶった鷲と隼の容姿の特異さに、敢えて目をとめる者はいなかった。
馬を専用の小屋につないで神殿に近づくと、木造部分の外壁は、全て白く塗られていた。神官か巫女か、マナと同じ濃紺の
使われている言語が、ナカツイ国やニーナイ国と同じと分り、一行は安堵した。
マナは、神官たちと二、三言葉を交わすと、彼らのもとへ戻って来た。
「先に、お仲間のところへ案内しましょう。こちらです」
エツイン=ゴルとナカツイ王国の商人たちは、喜んで顔を見合わせた。イエ=オリの容態を、彼らはずっと心配していたのだ。
木製の箱型の部屋が、狭い通路によっていくつも繋がった構造の建物を抜け、岩を削って造られた部分に入る。途端に天井が高くなり、通路の幅も広くなったのは印象的だった。壁のところどころに窪みがあり、獣脂の灯が置かれている。
案内された部屋は広く、南向きに扉と窓があった。壁石を削って造られた長椅子と、木製の
「きじお兄ちゃん!」
鳩がまっ先に駆け寄る。濃緑の絹の
「良かった。遅いから、心配していた」
「こちらこそ、だ。イエ=オリはどうしている?」
エツイン=ゴルが問うと、雉は部屋の反対の壁を指さした。二つ小部屋が並んでいるうち一方の部屋の寝台に、イエ=オリが居て、手を振っていた。
青年は寝台に横たわり、涙ぐんで仲間を迎えた。長衣の裾からは細い管状の紐が伸び、足元の桶に繋がっている。不審げに眺める鷲とオダに、雉は説明した。
「肺臓が破れていたんだ。胸に溜まった空気を、その管で抜いている。《星の子》が入れてくれた。お陰で、随分良くなった」
この間、マナは部屋の入り口に佇み、彼らの様子を見守っていた。
鷲はマナを見遣り、イエ=オリを観てから、相棒に視線を戻した。
「《星の子》に会ったのか」
雉はうなずいた。
「少しだけ。ろくに話はしていないよ。おれも、今朝まで寝込んでいたんだ」
眉を曇らせる仲間を安心させようと、微笑んだ。
「高山病というらしい。空気の薄いところへ急に来たせいで、頭痛と吐き気がひどかった。今はいい。オダ達は、大丈夫かい?」
「はい」
「はと、平気よ」
雉は、元気よく答える子ども達から、隼と鷹に視線をうつした。隼の表情は硬い。仲間の無事を喜ぶよりも、得体のしれない何かを警戒している風だ。
遠雷が鳴った。
急速に暗くなる部屋の扉が開き、女たちが数人はいって来た。手に手に、灯火と、お茶やチャパティ(薄焼きパン)、蒸し団子(モモ)を乗せた盆を持っている。
マナは、黙って佇んでいる。
開いたままの扉の隙間から、音もなく、クド(ユキヒョウに似た獣)が入って来た。ぎょっとする一同の視線の先を横切り、石の長椅子に積み上げられた枕や敷き布のうえに居場所を定める。黄金色の瞳で彼らを見据え、太い尾の先を揺らすと、また前脚を舐めはじめた。
最後に、女性がひとり現れた。マナが、そっと扉を閉める。
彼女は、広い方の部屋の中央、卓子の傍に立ち止まると、一同を見渡した。
マナほど背は高くない。細い身体を、白い絹の長衣に包んでいる。肩から腰へと流れる髪は黒く、夏の夜の銀河のごとく輝いていた。顔は皓く、長い睫毛に縁どられた瞳は、やはり黒い。
若い娘だった。どう見ても、二十代としか思えない。しかし、小柄な身体から放たれる威厳は、ただものではない。
彼女はにこりともせずに、新参者の顔を順にながめた。相手の心の底にとどく
雉と隼、鷲をみて、彼女はやっと口を開いた。
「ようこそ、〈
~第四章へ~
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