第三章 黒の山(4)


           4


 昼過ぎ。カールヴァーン(隊商)の本隊と別れたエツイン=ゴル達一行は、〈黒の山カーラ〉の登山口にたどり着いた。わい道が、そびえる絶壁に沿って急峻に曲がりながら、雲にかすむ山上へと消えている。仰いだ鷲は、うんざりと言った。


「うへぇ。これを、登るのかよ」


 エツイン=ゴルとイエ=オリが、顔を見合わせて苦笑する。

 荷車の台から跳び降り、隼が言う。


「トグリーニに、駱駝と馬を交換してもらって正解だったな。ここを駱駝を連れて登るのは無理だ」


 隼は、鳩が荷台から降りるのに手をかすと、外套を羽織りなおし、荷袋を右肩に提げた。代わりに持とうとする鷹に、構うなと首を振った。長剣を細い腰に提げ、すらりと立つ。

 エツイン=ゴルは、頼もしげに彼女を見た。


「では、宜しく頼むぞ。日暮れまでに、どれだけ登れるか。後を頼む」

「任せて下さい。気をつけて」


 見送りの仲間たちと挨拶を交わす。彼等は天幕を張って、エツイン達の帰りを待つ。

 オダ達の行く末は決まっていない。〈黒の山カーラ〉に登り、《星の子》に会って、キイ帝国のリー将軍への口添えを願う。ニーナイ国を〈草原の民〉の侵略から守るために、無事に援軍を連れて戻れるのか。鷹の記憶は戻るのか――。

 少年の褐色の頬には、不安と期待と、何者にも立ち向かおうとする決意とが、入り混じって表れていた。


「《星の子》に任せるのは、無理だろうな」


 鷲は、穏やかにオダに言った。


「タオの話では、天人テングリってぇのは、下界の出来事に干渉しない主義だそうだ。《星の子》に会えても、俺達で何とかしなきゃならないだろう。タハト山脈を北へ越えて、スー砦を目差すのが近道だな」

「そうですか」

「今のうちに、別れを惜しんでおいた方がいいぜ、オダ。鷹も」


 鷲は、荷物を乗せた馬の手綱を引いて、エツイン=ゴルの方へ歩いて行った。


 ――鷹に対する鷲の態度は、変わらなかった。これまで通りの口調と表情で、接している。

 隼と雉の方が、戸惑っていた。鷲と鷹のどちらに対しても、どう接すればいいか判らない。そんな雰囲気だ。


 大人がふたり並んでやっと通れる幅の山道を、慎重に行く。左側は〈黒の山〉の名のとおり黒ずんだ岩壁がそびえ立ち、右側は谷底へと落ちている。エツイン=ゴルと鷲が先頭を歩き、その後を、イエ=オリとナカツイ国の商人三人が。馬をつれた雉とオダと、鳩が行く。鷹と隼は、列の最後尾を、肩をならべて歩いた。

 武装した鷲と隼がみなを護衛するため、この順番は変わらなかった。(そう言えば、雉が剣を帯びた姿を見たことはない。何故だろう? と、鷹は考えた。)

 鳩は、楽しげに、列の中を前へ行ったり後ろへ下がったりした。


「僕ら、砂漠を通って来たから気付かなかったけれど、ずいぶん高い所に来ていたんですね。空気がうすいや」


 オダが隼に話しかける。隼は、あわく微笑んだ。


「気をつけて。大きく息をしろよ、オダ。登るにつれて、もっと薄くなるはずだ」

「はい。こう、ですか?」


 オダは、深呼吸してみせた。冷気と乾燥で、空気は肌を切りそうに澄んでいる。

 鳩は軽い足取りで、鼻歌を唄いながら歩いている。鷹は、少女に声をかけた。


「愉しそうね、鳩ちゃん」

「うん。嬉しいんだもん」


 鳩は鷹を振りかえり、そのまま、後ろ向きに歩いた。きらきら光る黒い瞳に、鷹を映す。


「お姉ちゃんが、ずうっと来たがっていた所だもん。お兄ちゃんも」

「お姉ちゃん……隼?」

お姉ちゃん。がちっちゃな頃から、聞いていたの。この山には、《星の子》が住んでいるって。その人に訊けば、たちが、どこから来たのか判るって。だよね、お姉ちゃん」

「……鳩。危ないぞ。ちゃんと前を向いて歩け」

「はあい」


 鳩は、元気よく身をひるがえし、跳ねるように駆けて行った。

 隼の歩調が遅くなったので、鷹は彼女を気遣った。


「隼。苦しいの?」

「え? いや、大丈夫だ。……ごめん、鷹」

「謝ることないわよ」

「そうじゃないんだ、鷹。あんたに話しておかなきゃならないことがあるんだよ」


 隼が声をひそめて立ち止まったので、鷹も足を止めた。


 隼は、オダや鳩がこちらに気付いていないことを確かめると、彼等から少し距離をとって歩き出した。


「まず、礼を言わせてくれ。雉から聴いた。鷲、逃げなかったそうだな……。ありがとう、あいつを好きになってくれて」

「お礼を言われるようなことじゃないけど……」

「言いたいんだよ」


 隼は、フッと哂った。鷹は訝しんだ。


「もっと早く、言うべきだった。ごめん、鷹。こわかったんだ。あいつがどう応えるか、判らなくて……。あんたは知っておくべきだと思うから、言うけど。鷲には、以前、大事にしていた女がいたんだ」

「《鳶》、さん?」


 鷹が囁くと、隼は、弱々しく微笑んだ。


「聞いたのか……。あいつ、話したんだな」


 鷹は、こくりと頷いた。あまりのことに気持ちの整理がつかず、あれから、彼とろくに話が出来ていないのだが。

 隼は、彼女の内心には構わずつづけた。


「鳶が死んで、鷲は人が変わった。あんたは想像出来ないかもしれないけど、あいつは、昔はかなり傲慢な奴だったんだ。それが、腑抜けたように温和になった。どこか空虚なんだ。何より――」


 紺碧色の瞳は、哀しげだった。


「――誰とも、本気で付き合うことをやめちまった。だから、あんたがあいつに惚れてくれて、あたしは凄く嬉しかった」

「待って、隼。わたし――」


 混乱する鷹の台詞を、隼は、かぶりを振って止めた。凛とした美しい顔に苦痛がにじむ。


「……あんたに、鷲を救って欲しいんだ。あいつは、自分のせいで鳶が死んだと思っている」


 鷹は、彼女の、ふかい森の奥の湖のような瞳を見詰めた。

 隼は、小さく頷いた。


「鳶と《もず》姉――あたしの姉が死んだのは、賊に襲われたからだ。鳶を守れなかったのは、あたしにも責任がある……。だけど、あいつは、自分が鳶を傷つけたからだと思っている……はらの子が、流れたのも。ずっと、それを背負っているんだ」


 鷹が項垂れたので、隼は、申し訳なさそうに眉を曇らせた。


「ごめんな。もっと気楽な相手なら良かったんだろうが……。あたし達は、こんな連中なんだよ」


 鷹は、無言でかぶりを振った。

 キイ帝国に滅ぼされたヒルディア王国で生を享け、一目で判る異相と能力をもち、〈黒の山〉の巫女に会うために長い旅をしてきた――彼らがただびとと違うことは、承知しているつもりだった。

 しかし、救う、とは……。

 途方に暮れた気持ちで、鷹は歩き続けた。


                *


 太陽が西の尾根に隠れると、気温がぐんと下がった。山陰やまかげを冷たい風が吹き抜け、彼らは外套の襟を合わせた。紫色の宵闇にしずむ谷間に、狼の遠吠えが木霊して、馬を怯えさせた。


「そろそろ、休んだ方が良さそうだな」


 巡礼者のために設けられている、ややひろい岩棚に辿り着くと、エツイン=ゴルが言った。彼らは、崖の斜面に寄り添うように天幕を張った。焚き火をかこみ、簡単な食事を摂る。

 鷲とエツイン=ゴルは、噛み煙草を交換して談笑した。隼も、鷹に話をして気が楽になったのか、朝に比べると、くつろいだ表情をしていた。

 沈みがちになっていた鷹は、当の鷲に心配されてしまった。


「どうした? 鷹。疲れたんなら、先に寝ろよ」


 仕方がない。鷹は外套に身を包み、天幕にもぐりこんだ。


 オダと鳩は、頭から毛布をかぶり、早々に寝ついた。鳩は、はしゃぎすぎてしまったようだ。雉は馬に餌を与え(荷物の大部分は、馬の飼料が占めていた)、焚き火の世話を鷲に頼むと、先に寝んだ。

 隼も、鷲と交代で見張りをするため、天幕に入った。

 エツイン=ゴルは、商人たちの中では最も遅くまで起きていて、鷲と話をしていた。下弦の月が南東の尾根にかかったのを確かめ、眠りに就く。鷹は眠れず、天幕の布の隙間から、彼らの様子を眺めていた。


 耳が痛いほどの静けさが夜を浸している。じんとくる冷気が、地の底から湧いていた。

 鷲は、火を絶やさないよう薪を確かめると、そのうち一本を松明の代わりに持ち、立ち上がった。炎をかざし、岩壁に彫られた文字と絵をあらためる。ルドガー(雷神)や川の女神など、聖山で信仰されている神々のすがたと祈りのことばを、興味深げに眺めた。

 鷹は、自分の毛布と外套を持って、そっと立ち上がった。

 彼は、その気配に振り向いた。驚いている風はない。鷹が傍へ来るのを、落ち着いた表情で見守った。


「やっぱり起きていたな、鷹」


 喋っても他に聞こえない距離まで彼女が近づくのを待って、囁いた。


「気づいていたの? 鷲さん」

「分からいでか。夜這いの常習犯だったんだぜ、俺は」


 冗談めかして言い、くつくつと低い声を転がして笑うと、鷲は薪を火に戻した。土瓶を手にとり、煮だしたお茶に毛長牛ヤク牛酪バターを入れたものを、鷹の椀に注ぐ。

 彼女が熱いお茶をそろそろと飲み、ほっと息をつくのを待って、話しかけた。


「少しは気分、良くなったか?」

「うん」

「なら、いいんだ。……あんまり、思いつめるなよ。せっかくの美人が、だいなしだ」


 鷹が見上げると、鷲は壁画を眺めながら煙草を噛んでいた。精悍な横顔は穏やかだが、笑みはない。鷹は、また胸が締めつけられた。――駄目だ。とうてい、諦められない……。

 そんな彼女の気持ちを知らず、鷲は、独りごとのように言った。


「俺は、絵師フワジャだったんだ」


 岩を削って描いた文字に顔料が塗り込んであるのを触れ、確かめる。


「絵師の村で、こういうのを、養父おやじと一緒に描いていた。似ているが、違うな。文字も違うから、読めないのが残念だ」


 肩をすくめ、また鷹の隣に腰を下ろした。煙草を捨て、自分の分のお茶を器に注ぐ。


「俺にジオウ(鷲)なんて綽名をつけたのは、養父おやじだ。ユアン(鳶)とグーズ(鳩)も。やはり、冗談だったんだろうなあ……」

「ヒルディアの言葉?」

「いや」


 鷹が興味を示したので、鷲は、ぎこちなく微笑んだ。


「北の言葉だ。養父おやじはキイ帝国出身だった。ヒルディア語は、隼と同じだ。ワシにトビにハト……養父は、デファという。俺がいたのは、本当に国境でね。たぶん、〈黒の山〉みたいな聖地だったんだろう。いろんな国の奴がいた」

「そう」

「……大丈夫か?」


 鷲は、鷹の顔を覗き込んだ。長い銀髪が、頬にほつれかかる。濃い紫の夜の中で、碧の瞳は火明かりを反射し、優しい金色に煌めいた。

 鷹が頷くと、彼は力なく苦笑した。


「無理するなよ。俺が君の兄貴なら、やめておけと言う」


 鷹は、首を横に振った。鷲の眼が細くなった。


「約束、だからな。俺は、君を見ているよ。傷つけるだけかもしれないが」

「鷲さん」

「ごめん、鷹。ちゃんと考えたいんだ。……俺は、君が好きだから」

「え?」


 鷹から視線を逸らし、鷲は、掌中の椀を見下ろした。囁くように言う。


「俺は、君が好きだと言ったんだ。でもそれは、君の気持ちとは違う。――だから、考えたい。君のことも、鳶のことも」


 鷲は、溜め息をついた。髪をかき上げる仕草を額で止め、自嘲気味に唇を歪めた。


「俺はいい加減な男だから、この四年、鳶のことをろくに考えなかった。考えるのが怖かった。いつまでも、逃げるわけにはいかない。きっかけに過ぎないのかもしれないが、それだけで終わらせたくないんだよ、俺は」

「…………」

「本音を言えば、今もこわい。こんな面倒くさいことをごちゃごちゃ悩むより、さっさと抱いちまった方が、よっぽど気楽だと思っている」


 鷹の肩がびくっと揺れたので、鷲は、フッと嘲った。鷹は、半ば怯えた目で彼を見た。

 鷲の声に、からかうような調子が混ざった。


「大丈夫、何もしないよ。。俺が、君を抱きたいと思わなかったとでも? 今までの俺なら、そうしていただろうな。……けど、俺は、それをしたくないんだよ、君には」

「鷲さん」


 鷹は、少なからずほっとした。鷲は彼女から視線を逸らし、呟いた。


「初めて、俺を本気で好きになってくれただからな、鷹は。もう少し、時間をくれ」

「うん。判ったわ」


 頷いて、鷹は、しばらく黙っていた。温かな気持ちで。彼の答えがどちらに出ても、信じられる気がした。

 そっと訊ねる。


「鷲さん。鳶さんて、どんな人だった?」


 今度は、鷲が鷹を凝視みつめる番だった。明るい若葉色の瞳をかるく瞠り、やや茫然と言った。


「……また、ど真んなかにてるだなあ」

「ご、ごめんなさいっ」

「いいけど……。そういうの、嫌じゃないのか? 俺の方は、だんだん解ってきて、嬉しいが」

「え?」


 鷹が火照る頬を両手でおおいながら見ると、鷲は、苦笑して首を振っていた。


「やめておこうぜ、今は。まだ。俺も、上手く説明できる自信がない。鷹の方こそ、いいのか?」


 意味が分からずにいる彼女に、真摯な眼差しを向ける。


「本当は、こんな心配をせずにいられるくらい、惚れさせて欲しいんだがな……。鷹、君には、大事な人はいないのか? 想い出せないだけじゃないのか。この先、俺とそういう仲になって――困らないか?」

「…………」


 鷹は、息を止めて彼を観た。覚えている事柄は兎も角、失くした記憶の内容を意識することは、殆どない。そこに、そういう人物のいる可能性など、思いもよらなかったのだ。

 と、


「鷲さん?」


 彼が、ふいにぎりっと奥歯を噛み鳴らし、剣の柄に手をかけたので、鷹は驚いた。

 鷲は立ち上がると、彼女を庇って前へ出た。振り返らず、押し殺した声で囁いた。


「鷹。隼を、起こしてくれ。それと、火を大きくしろ。お客様の、お目見えだ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る