第三章 黒の山(3)


              3


 翌朝。鷹は、夜が明けきらぬうちに、頭痛で目覚めた。眠っている隼と鳩を起こしてしまわぬよう、そっと天幕を出る。頭の芯がずきずきして、軽い眩暈がする。顔を洗える場所を探し、付近を歩きまわった。


 荷車を停めた大岩の下に、水を入れた桶が五・六個ならんでいる。その左の端で、二頭の馬が水を飲んでいた。一頭が鷹に気づいて頭を上げ、うるんだ瞳で彼女を見た。

 鷹は微笑み、彼等から一つ間を置いた桶の水で顔を洗った。

 冷水のお陰で目は醒めたが、頭痛は治らなかった。鷹は、水面に映る己の顔にげんなりした。瞼が腫れ、頬も紅くなっている。まだ酒気が残っているのだろうか。

 胸元へかかる髪の一房に、鷲のつけた紐が結ばれたままになっていた。紺と紅と黄色の紐に金環を編みこんだ飾り紐は、ナカツイ王国の女性が身につけるものだ。幸運を招き願いを叶えてくれるというそれを、鷹は、ぼんやり眺めた。


 昨夜、勢いに任せて想いを告げてしまったことを、今更のように悔いる。いくら鷲に近づきたかったとはいえ、あれではやぶ蛇もいいところだ。余計、話しにくくなってしまった。一体どんな顔をして、彼に会えばいいのだろう……。

 頭痛が酷くなり、鷹は溜め息をついた。


 背後に人の気配を感じて振り向いた鷹は、それが鷲本人だったので、息を呑んだ。

 鷲も、気まずそうに彼女を見下ろしていた。胸の前で組んでいた腕を解き、かるく顎を動かした。


「そこ、いいか?」


 鷹が脇へどけるのを横目で見ながら、彼は桶に近づいた。腰を屈めて顔を洗い、腰帯ベルトに挟んでいた手拭で荒っぽく顔を拭くと、彼女に布をさしだした。


「拭けよ。ぐしょ濡れだぜ」

「あ、ありがとう」


 鷹は、ひそかに鼓動を早めつつ、手拭いを受け取った。鷲は彼女を、複雑な表情で眺めていた。照れているような、困っているような。

 顔を拭いた鷹は布を返そうとしたが、鷲は、いらないと首を振った。

 鷹は、上目遣いに彼を見た。


「あの、鷲さん。わたし、昨夜――」

「覚えているのか?」


 途端に、鷲の眼が細くなり、眉間に皺が寄った。低く、怒っているような声音を聴き、鷹の胸の奥がズキリと痛んだ。

 鷲は彼女に横顔を向け、軽く舌打ちした。独り言のように続ける。


「酒の上の冗談にしては、笑えない台詞だった。覚えているということは、本気なんだな?」


 鷹がびくびくして頷くと、彼は溜息をついた。苦虫を噛みつぶし、足元の小石を見る。

 鷹は、おそろしくなった。


「あの……迷惑?」

「そうじゃない」


 鷲は顔を上げ、はっきり否定した。鷹と目が会った時、彼の瞳には戸惑いがあった。視線を逸らし、ぼそぼそと繰り返した。


「そうじゃない……嬉しい、と思う。けど……そう言うべきか」


 とても嬉しがっているとは思えない雰囲気だ。

 鷲は再び腕を組み、左脚に重心をかけた。苦い表情でしばらく考えたのち、改めて訊ねた。


「どうして、そんなことを言うんだ?」

「え?」


 鷹は、まばたきをした。問いの意味が通じなかったので、彼は言い換えた。


「何故、俺に? もっといい男が、いくらでも居るだろう。俺を、からかっているんじゃないよな?」

「本気です」


 鷹は、彼を見続けられなくなり、項垂れた。


「本当に……わたし、鷲さんが、好きです……。どうして、そんな風に言うの? 迷惑なら、そう言って下さい」

「ああ、悪かった。そういうつもりじゃないんだ。何て言えばいいのか――」


 ぼりぼりぼり。鷲は、しきりに頭を掻いた。その仕草を見て、鷹は少しほっとした。

 彼女がぎこちなく微笑んだので、鷲もやや表情を緩めた。しかし、目は全く笑っていない。


「そんなこと、今まで言われたことがないから、どうしたらいいか判らないんだ」

「嘘、でしょう?」


 鷹の言わんとすることを察して、鷲の声に皮肉が混じった。


の女の子に言われたのは、初めてだ。いつも、そうなる前に逃げているからな。――それで、迷ってる」


 話の方向が予想と違うことに、鷹は気づいた。

 鷲は、ゆらりと重心を右脚に移し、考えた。そして、彼女に横顔を向けたまま、慎重に話し始めた。


「最初は、逃げ出したい気分だった。悪いが、断ろうかと考えた。早いうちにすっぱり諦める方が、お互い、傷が浅くて済む」


 聴いている鷹をちらりと見て、すぐまた視線を逸らした。


「けど、本気なら嬉しい。君は、好かれて嫌な女の子じゃあない。俺には勿体ないくらいだ。……ただ、こいつを正直に言った方がいいのか、先刻まで、ずうっと迷っていた」

「どうして?」

「君には、すっぱり断られるよりも酷じゃないかと思うからさ。俺が、君をどう思ってるのか、俺自身、よく判らないなんてのは」

「…………」


 予期していた言葉だったが、さすがに、鷹は何も言えなくなった。心臓が、一瞬、きゅうっと締めつけられる。

 鷲は、弱々しく苦笑した。


「ほら、そういう顔になっちまう。だから、冗談にしたかった。……ところが、君は俺をまっすぐに見て、好きだという。そんな風に言われたら、俺も正直に言うしかないだろう。――嬉しいけど、君を好きなのかどうか、俺には判らない。これから好きになるかどうかも、分からないって」

「嫌ってはいない?」


 鷹がおずおず見遣ると、鷲は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。濁った声が答えた。


「俺は、好き嫌いが言えるほど、君を良く知らない……。君も同じじゃないのか? いったい、俺のどこを好きだなんて言えるんだ」

「わたしも、鷲さんを知らないわ。それでも、好きだとは言えるわ」

「言えるって……」


 鷲は絶句した。

 鷹は、なんとか彼に微笑みかけた。まだ胸は痛み、息苦しい程のせつなさがこみ上げ、視線は定まらなかったが。


「わたしの方から近づかなければ、鷲さんを知ることは出来ないと思ったの。だから、気持ちを知ってもらった方がいいと思ったの」

「……俺と、知り合う為に?」

「驚かせてごめんなさい。でも、正直に話してくれて、ありがとう。わたし、鷲さんを好きでいても、いいよね?」

「いいも何も」


 鷲は、もはや呆然としていた。


「そんなのは君の勝手だから、俺がどうこう言えることじゃない……。いや、そういう問題じゃない。あのなあ、鷹――」

「わたしは、鷲さんを知らないから、」


 普段の彼女なら、彼の言葉を遮ることはなかった。考えもしなかったろう。しかし、このときの鷹は必死だった。必死さが、鷲にも伝わった。


「知りたいの……。鷲さんにも、わたしを知って欲しい。好きになってもらえるように、頑張るから」


 鷲は、呆れたと言うよりは、恐れるように鷹を見た。片手で眼と額をおおい、かぶりを振る。


「頑張るようなことじゃあないと思うんだが……」


 溜息まじりに呟くと、彼女から顔を背けた。普段の飄々とした態度からは想像もつかない、苦し気な横顔だった。


 東の空が明るくなってきた。水を飲み終えた馬たちが、優しく鼻を鳴らし、蹄で地を掻いて飼葉を催促する。カールヴァーン(隊商)の女たちが起きだして、昨夜の片づけを始める気配がした。


 やがて、


「俺は、君を傷つけたくないんだよ」


 鷲は沈んだ声で、ぼそりと呟いた。


「鷹。そう言ってくれるのは嬉しいよ。だけど、これは脅しでも何でもなく、君は、俺って人間を知らないんだ……。俺に、そんな風に関わるべきじゃない。絶対、君を傷つけちまう。君は、俺を憎むようになるかもしれない。……なあ、こんな面倒な男はやめて、もっと優しくて、いい男を捜せよ。俺は、君に相応しい男じゃないんだよ、全然」


 まるで、傷ついているのは彼自身で、その傷が痛んでいるような。傷口から流れる血のような言葉だと、鷹は思った。

 何故、彼はこう言うのだろう?

 鷹は首を傾げ、考えながら、ゆっくり応えた。

 

「鷲さん。どうしてそう言うのか、分からないけれど――わたしは鷲さんを、憎まないと思う。傷ついても、後悔しないと思うわ」


 鷹の声は、かすかに震えていた。胸は早鐘を打ち、身体は熱く、輪郭が曖昧になっている。それでも、気丈に微笑みかけた。

 鷲は、苦りきった表情で彼女を見た。髪を掻き上げ、首を振る……二度、三度。口を開け、まだ説得する言葉を探そうとし……結局、口を閉じた。

 溜息とともに、囁いた。


「……わかったよ。俺も、覚悟しよう。お手並み拝見だ」


 鷲は、真顔に戻って鷹を見た。鷹は思わず、息を呑んだ。明るい碧色の瞳が、ひどく悲しく、寂しげに見えたのだ。

 鷲は、胸の前で腕を組みなおし、ゆらりと重心を左脚に移した。長い銀髪が顔にほつれかかるのには構わず、彼女から目を逸らさなかった。


「俺を知っても、後悔しないつもりなら……最初に言っておこう。俺は、四年前まで、妻帯していた」

「……え?」


 思いがけない単語を耳にして、鷹は瞬きを繰り返した。

 鷲は表情を変えず、淡々と告げた。


「トゥワ・シン・ドルマ……俺たちは、《とび》と呼んでいた。鳩の姉だ。俺たちは、幼馴染だった。……四年前に、死んだんだ。はらの子と一緒に」


 恋人ではなく、妻、という語。それに続く言葉の意味を理解したとき、鷹の呼吸が止まった。まじまじと、彼を凝視みつめてしまう。

 鷲はひるむことなく、黙ってその視線を受け止めていた。


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