第三章 黒の山(2)

    *酔っぱらいがふざけています。ご容赦下さい。



              2


 巡礼の道はさらに山を登り、やがて、日の当たらない岩陰や、道標の石の小山の陰に、凍った雪がみられるようになった。

 陽が西へ傾き、村とは言えない数件の家が岩壁にしがみつくように建つ場所に着くと、カールヴァーン(隊商)は足を止めた。住人に、ここから先は聖地まで人の住んでいるところはないと聞くと、エツイン=ゴルは鷲を呼びにやって来た。


「おい、《鷲》」

「鷲、起きろ」


 エツイン=ゴルが荷台の下から声をかけ、隼が、眠っている鷲を揺さぶった。酔って寝ついたせいか、なかなか起きない。


「いいよ、《隼》」


 エツインは同情してくれた。


「鷲には、トグリーニの件で迷惑をかけた。ろくに眠っていなかったろう。寝かせておいてやってくれ」

「用があるんじゃないのか?」

「大したことではない」


 雉と鳩、オダもやって来た。エツインは、口髭の下の唇を舐め、肩をすくめた。


「この先の儂らの道筋について、確認したいだけだ」

「あたしが行くよ」


 隼は、左腕を動かさないようにしながら、荷台から跳び降りた。鷹が手をかす必要はなかった。彼女は鷹を顧みて、鷲を指差した。


「鷹。悪いけど、こいつが目を覚ましたら、あたし達はエツインの所に居ると伝えて欲しい」

「はい」

「大丈夫なのか? 隼」


 エツインは心配したが、彼女の動きはかろやかだった。細い弓のようにすらりと立つと、手を伸ばし、荷台から自分の剣を取った。少し考えて、腰帯ベルトに差す。


「無理するなよ、隼」

「平気だ。鷹、鷲をよろしくな」


 気遣う雉に右手をひらめかせ、隼は、エツインと並んで隊列の前方へ歩いて行った。雉と鳩、オダが、後に続く。

 驢馬に曳かせた荷車と、駱駝の背から荷を下ろす人々のざわめきが、山に木霊した。


 鷹は溜め息をつくと、眠っている鷲を見遣った。隼はまた気を遣ってくれたのだろうか、と考える。

 荷に寄りかかっていた鷲は、移動の間にずり落ちて、身体を投げ出していた。足が荷台からはみ出している。大柄な体躯には、寝返りを打つ余裕はない。頭巾からこぼれた長い髪がほつれ、死んだように眠る顔にかかっていた。

 鷹は、こんなに無防備な様子の彼を、初めて観たと思った。

 そうっと手を伸ばし、頬にかかる髪をどかしてみる。普段はころころ変わる表情によって伺うことの出来ない素顔が、そこにあった。


 鼻の下から顎全体をおおっていた無精髭は、今はない。よく通った鼻筋と涼しげな目元は、少年のようにすら見える。薄めの唇は固く結ばれ、顎の輪郭は、耳の下まで辿ることが出来た。髪は手入れを全くしない為にボサボサで、かなり傷んでいたが、肌は肌理きめがこまかく、なめらかだ。

 改めて、彼の肩から腕、胸にかけての筋肉が、見事なものだと判る。そこへかかるもつれた髪の一房をどけようと、鷹が手を差し伸べた時、何の前触れもなく、鷲は眼を開けた。


 ドキリとして手をひく鷹の顔を、寝呆ける気色など微塵もない、怜悧な瞳が見上げた。二重瞼と銀の睫に縁取られた若葉色の瞳が、まっすぐ彼女を映し、二・三度まばたきをした。

 それから、反動をつけることもなく、ひょいと起き上がった。


「着いたのか」


 表情を変えず、周囲をざっと見渡すと、鷲は呟いた。前髪を掻きあげ、鷹が答えるより先に、次の質問をする。


「隼は?」

「エツインさんの所に行っているわ。みんな」

「エツインが来たのか?」


 白目勝ちの細い眼が、やや大きく見開かれた。鷹が頷くのと、鷲の舌打ちは同時だった。


「やばい。寝過ごした」


 膝を曲げ、靴紐を結び直す。腰の剣を確かめて、荷台から跳び降りる。彼の後を、長い銀髪が追いかけた。

 呆然としている鷹をふり返り、鷲は苦笑した。


「エツインを呼んだのは俺だ。その俺が寝ていたんじゃ、話にならん。……降りるか? 鷹。独りでここに居たって、仕様がないだろう」

「う、うん」


 鷲は片手を伸ばし、鷹に掴まらせた。大きな掌が、彼女の手をすっぽり包んで引く。それにあわせて、鷹は荷台から跳び降りた。

 鷲の左の眉が持ちあがり、優しい笑みを含んだ眼差しが彼女を見下ろした。思わず、鷹も微笑みかえす。

 しかし、彼はすぐに踵を返した。苦笑が頬を過ぎる。


「悪いけど、急ぐぜ。あいつら俺に遠慮して、話が進まないだろう」

「あ。はい」


 手と手はもう、離れている。彼は大股に歩き、鷹は慌ててついて行った。


 いつもの上体をゆらす動きとちがい、重心を前へと滑るように移動させる歩き方に、鷹は気付いた。――鷲は、普段、周囲に気を遣い、わざとゆっくり歩いていたのだと。

 宿泊の準備を始める人々の間を縫って、彼は歩いた。立ち止まったり、迷ったりすることはない。


「来たぜ、エツイン」


 隊列の中程。大きな岩陰で車座になっていた隼たちが、二人をみつけた。雉が、片手を挙げる。小走りになる鷲を、鳩が急かした。


「お兄ちゃん、早く、早く」

「お前、もしかして、すごく人遣いが荒くないか? 鳩……」


 冗談めかして鷲は言い、エツインとオダ、雉も苦笑した。鳩は意味が判らず、首を傾げた。

 オダが身体をずらして、鷲の坐る場所を空ける。鷲は、軽く手を挙げて謝意を示すと、エツイン=ゴルとイエ=オリと、ナカツイ国の商人二人に会釈をしながら、胡座を組んだ。

 隼が鷹を手招いて、自分の隣に坐らせる。鷲の斜め向かいだ。

 一同が落ち着くのを待って、エツイン=ゴルは話し始めた。


「鷲。ここまでご苦労だった。明日の夕刻には、〈黒の山カーラ〉の登山口に着けそうだ。礼を言わせてくれ。無事に来られたのは、お前達のお陰だ」

「いや。俺達は、何もしちゃいない」


 鷲は首を横に振った。


「逆にトグリーニを挑発するようなことをしちまって、悪かった」

「気にするな」


 項垂れるオダに、エツイン=ゴルは、穏やかに微笑んだ。


「儂がオダであっても、同じことをしただろう。いや、あの場を収めてくれたのは、隼と鷲だ。いくら話の判る女族長とは言え、儂では、ああはいかなかった」

「そのくらいにしてくれ、エツイン」


 鷲は、照れて片手を振った。エツインは言いかけた台詞を止め、哂い返す。

 鷲は、頬をひきしめた。


「話があると言ったのは。予定通り、俺達と別れてラオス(ナカツイ国との国境にあるキイ帝国の街)へ向かうのか、《星の子》に会いに行くのか。訊いておこうと思ったんだ」

「うむ」

「前置きが長くてな、鷲」


 岩壁によりかかり、片膝を立てた隼が、気だるく言った。


「お前が来るまでに、ここまで話が進んでいたんだ」

「左様。儂らは予定通り、別行動をとらせてもらおうと思っている」

「そうか」


 鷲は、やや寂しげに頷いた。エツイン=ゴルは哂った。


「だが、ここまで無事に来られたのも、《星の子》の加護あってのこと。知らぬふりをしては、礼を欠くだろう。聞けば、ここから巫女の神殿まで、片道で三日、往復十日あれば充分という。山道は狭く、駱駝らくだと荷車を曳いて登るには不向きだ。隊商には待機させ、儂らが代表で参拝しようと思う。……連れて行ってくれるか? 鷲」

「エツイン」


 他に匹敵するもののない強い意志を宿す鷲の眼を、エツインは、真っすぐ見返した。


「なに。トグリーニが商品をあがなってくれたので、急ぐ必要が無くなったのだ。食糧もある。十日ぐらい、儂が留守をしても平気だろう」

「分かった。オダ」

「はい?」

「アイラとサヤ、だっけ? あの親子はどうするんだ?」

「あの二人は無理だ」


 オダの代わりに、雉が答えた。柔らかな銀髪が、夕陽を浴びて赤銅色に輝いている。


「母親の足が、山登りが出来る程には回復していない。おれ達が降りて来る頃には、歩けるようになるだろう。カールヴァーン(隊商)と一緒に、ラオス経由でナカツイ国へ行きたいと言っている」


 この言葉に、鷲はエツインを見た。


「任せていいか?」

「お安い御用だ」


 ようやく鷲の顔に、安堵と不敵な笑みが浮かんだ。指を折って人数を数えながら、その笑みは、意味深なにやにや笑いへ変化した。

 隼が、横を向いて舌打ちする。


「食糧を用意してもらえるか、エツイン。それと、馬を二頭」

「無論だ。さて、そうと決まったら、前祝と送別を兼ねて宴会にしよう」


 鷲の笑いが、エツインに伝染した。



 決して広くはない道端に、篝火が焚かれた。駱駝と荷車の間に絨毯が敷かれ、女たちの心づくしの料理が並べられた。カールヴァーン(隊商)の男達は、酒を入れた器を手にその間を歩きまわり、思い思いに語り、或いは歌い、肩を抱いて笑った。

 みな、ここまで無事に来られた喜びに、気分が高揚していた。

 トグリーニの女族長――タオのくれたサクア(葡萄酒)は、全て封を開けられた。干した羊肉や、馬乳酒クミスもふるまわれた。ナカツイ国の男達は、シタール(弦楽器)やシャーナイ(笛)を取りだし、太鼓を叩いて歌った。女達も酒を飲み、陽気に踊っていた。

 その中には、オダと鳩と、鷲の姿もあった。女達に囲まれて跳ね踊る彼らを、隼と雉は、呆れて眺めた。

 雉が、しみじみと言う。


「ああいうことをしちまうのが、あいつの良さ……と思う。けど、なあ……」


 女たちは、鷲の珍しい銀髪を、女性のように結い上げた。自分達の身につけている色とりどりの飾り紐を、彼の腕や首に結び付けている。

 鷲は上機嫌で、上着を脱ぎ、女達の誰かに貰った長いサリエ(腰布、スカート)を腰に巻いて踊っている。鳩とオダは、楽し気にそんな鷲に纏わりついていたが、鷹は唖然とし、隼も、ひきつったわらいを浮かべていた。

 男達が大小の太鼓をかかえて踊りに加わると、次々にサクア(葡萄酒)が浴びせかけられた。エツイン=ゴルはたのしげに、手を叩いてはやした。

 雉は、半ば感心して言った。


「本当に元気だよなあ、おっさん」

「お前は踊らないのか? 雉」

「そんな元気ないですよ」


 雉は、一杯目のサクアで既に紅くなっていた。エツイン=ゴルは、声をあげて笑った。


「何だ、だらしがないな。お前の方が、鷲より年下だろうに。おっさんに負けてどうする」


 雉は黙って苦笑した。

 隼は、自由に使える右手に干肉を持ち、鷹の耳に口を寄せた。


「気をつけろよ、鷹。雉は、酔うとただの助平になるからな」


 鷹は、黒い目をまるく見開いた。


「そうなの?」

「誰が助平だ、誰が」

「お前」

「失礼な。鷲と一緒にするなよ」

「どっちもどっちだと思うけどな、あたしは」

「隼!」


 雉が掴みかかる仕草をすると、隼は、その腕をするりとくぐり抜け、よく通る声で笑った。鷹も、思わず微笑む。

 隼の後を追って立ちかけた雉の腕を、女達の一人が引っ張った。雉はうろたえ、頬に朱をそそぎながら、勧められるお酒を手に取った。

 隼は、踊りの輪を見遣った。エツイン=ゴルに挨拶する。


「悪いが、先に休ませてもらうよ。鳩を寝かしつけておきたい」

「そうだな。子どもは遅くならない方がいい」


 エツイン=ゴルは機嫌よく頷き、隼は、鳩を探しに行った。去り際、「鷹は、ゆっくりしていなよ」 と言われ、彼女は席を立つ機会を外してしまった。所在ない気持ちで坐っていると、ひとしきり踊った鷲が、女たちと別れて戻って来た。

 鷲は上半身裸のまま、鷹の隣に腰を下ろした。汗とお酒が間近に匂い、鷹は思わず身を竦めさせた。


「あれ? 隼は?」


 鷲が息を弾ませながら顔を覗き込んできたので、鷹は視線を彷徨わせた。


「今、鳩ちゃんを迎えに……」

「そお? なんだ、全然飲んでないじゃない。駄目だよ」

「え、え……」


 鷹の手にした器の中身がお茶だと気づくと、鷲は軽く顔をしかめ、木の椀とサクア(葡萄酒)を持って来た。鷹に椀を持たせ、酒を注ぐ。

 鷹が葡萄酒をどうしようかと思って眺めていると、雉が酔った声をかけた。


「鷲ぃ。何だよ、その格好。調子に乗りすぎだぞ」


 鷲は、余裕のある苦笑で応じた。


「仕方がないだろう。脚衣ズボン、盗られちまったんだから」

「え? すると何か? この下は――」

「いやん! 雉ったら、やめて。脱がさないで」


 間に鷹が坐っているにも関わらず、雉が鷲のサリエ(腰布)を引っ張ったので、鷲は、慌てて裾を押さえた。


「どれ、苦しうない。見せてみい」

「やんやん……じゃない。おい、雉、いい加減にしろよ。鷹が困っているだろうが」


 鷲は、明るい若葉色の瞳で哂いながら、雉をなだめた。


「ああ。ごめんね、鷹ちゃん。おれ、莫迦だから」

「そーそー。お前は、底抜けの莫迦だ」

「莫迦に莫迦とは言われたくないぞ、莫迦」

「勝手に言ってろ」


 鷲は、遂に吹き出した。鷹がおそるおそるサクア(葡萄酒)に口をつけているのを見ると、上着の片袖に腕を通しながら、髪を結っていた紐を解いた。黄と紅と紺の色鮮やかな組み紐だ。


「ほら。鷹はいい娘だから、これをあげよう」

「え?」

「この紐は、旅立ちの時に、親しい人に贈るんだ。幸運を呼ぶ。願いを叶えてくれるんだと」


 片方の腕をはだけたまま、鷲は、両手の塞がっている鷹の髪を一房とり、耳の高さに結びつけた。首をかしげて眺めると、蝶結びに変え、満足げに微笑んだ。


「出来た。可愛い、可愛い」


 ぱちぱち手を叩かれて、鷹は、頭にかあっと血が上るのを感じた。思わず、一息にサクアを飲み干してしまう。途端に胸が熱くなり、頬に火が点いた。視界が揺れ始める。

 目をこする鷹を、鷲は気遣った。


「おい。なにも、一気に飲まなくても……。大丈夫か?」

「大丈夫です。ね、鷲さん。好きな人、居ます?」

「え?」


 鷹は、空になった椀の底を見詰め、酔ったふりをして訊ねた。鷲は、一瞬、返事に詰まった。


「……いないけど」

「良かったあ」


 鷹は、彼をろくに見られなかった。照れ隠しに、精一杯明るくふるまおうとしていた。


「居たら、どうしようと思っていたの。わたし、失恋だもの。恋する前に、諦めなくちゃいけないところだった」

「…………」


 鷲の動きが、止まった。

 鷹は機嫌よく食事を再開したが、すぐ傍らにいる彼からは顔を背けていた。嬉しくも恐ろしく、振り返ることが出来ない。鷲は、言葉をうしない、文字通り固まっていた。


「た、鷹ちゃん」


 鷲の異変に気づいた雉は、酔いが醒める心地がした。


「なあに? 雉さん」

「いや、その……。隼が呼んでいるよ、ほら」

「本当。ちょっと行って来るわ」


 渡りに船とばかり、鷹は立ち上がると、空の椀を置いて去って行った。

 雉は彼女の背を見送ってから、鷲を顧みた。ふだん憎らしいほど飄々としている相棒は、片手で半面をおおい、蒼ざめていた。


「鷲。大丈夫か?」



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