第三章 黒の山

第三章 黒の山(1)


             1


 チャガン・ウス村では道の確認のみを行い、カールヴァーン(隊商)は泊まらなかった。そのまま、巡礼道を登っていった。

 森林はなく、どこまでも見渡す限り、乾燥した山肌が続いている。気温は低いが日差しは強く、帽子や外套の頭巾をかぶらない者はいなかった。はるか遠く、純白の雪をかぶった峰々が、空を縁どるように並んでいる。〈黒の山カーラ〉はひときわ高くそびえ、群青の山肌を風に晒していた。


「ルドガー(雷神)は、人間の世界に嫌気がさして、山に籠ったんじゃなかったかな」


 トグリーニ族の長の妹(タオ)がくれた馬車の荷台に、《隼》は、《鳩》と《鷹》と一緒に坐っていた。ルドガー神はどうして〈黒の山〉に棲んでいるのかと少女が訊ねたので、隼はけだるく答えた。


「もともと、修行者サドゥーとして、山で力を発揮する神だ。それが、人間の娘に恋をして下界に降りた。ところが、妻のスウェリの父親の部族が、ルドガーの守護する部族と対立してしまった……ん、だっけ?」


 確認を求めると、荷車の傍らを歩いていた《雉》が、あわく微笑んで応じた。


「父と夫のいさかいに心をいためたスウェリは、父の行う犠牲祭の火の中に身を投げて死んでしまった。ルドガーは嘆き悲しみ、危うく世界を破壊してしまいそうになったので、ウィシュヌ神がスウェリを弔い、ルドガーは〈黒の山〉に籠った、という話だよ」

「ふうん」


 鳩は首をめぐらせ、あらためて〈黒の山〉の頂を見上げた。山体があまりに巨きく、距離感がつかめない。しかし、日に日に近づいているとは感じられた。


「そんなことがあっても、会いに行けば願いを叶えてくれるんだ」

「会いに行くのが、大変だけどね」


 雉は、くすりと笑った。


「何日もかけて、山を登らないといけない。今はいいけれど、冬は大変だよ。途中で命を落とす人もいるんだ」


 二人の会話を聴きながら、鷹(タパティ)は、この神話を知っていると思った。灰色のもやにおおわれた記憶のところどころに、知識が顔をのぞかせている。

 大神ルドガー。白い肌と銀の長髪をもち、毛皮をまとった修行者サドゥーのすがたをした神。雷を司り、嵐を呼び、沙漠に恵みをもたらす豊穣の神。慈悲ぶかい医療の神でありながら、死の審判をくだす戦争の神でもある。――〈双面の神〉との呼び名を教えてくれたのは、誰だったろう?

 大神ウィシュヌは、黄金の髪と碧の瞳をもつ。水に浮かぶ蓮の花に象徴される、平和の神だ。ルドガーとは親友だが、荒ぶるルドガーに対して、世界を護り維持する役目を負う。

 二柱の男神は、他の多くの神々とともに、大陸南部のナカツイ、ミナスティア、ニーナイの三国で信仰されている。東方ヒルディア出身の鷲と隼が詳しくないところをみると、彼らの神ではないのだろう。

 では。自分は、この三国の出身なのだろうか。

 

 ひとり思索に耽っていた鷹は、こちらを観ている隼に気づき、首を傾げた。


「何?」

「いや……。何か思い出せたのかな、と思って」


 鷹は、苦笑してかぶりを振った。我がことながら、奇妙だと思う。どうして、自分の記憶は斑状まだらなのだろう? すべてを失ってしまったら、きっと言葉も分からないだろうに。


「よ」


 荷台の手すりの間から、《鷲》が顔をのぞかせた。車輪が軋みながら止まる。彼は、隼と鳩を見て、片方の眉を跳ねあげた。


「楽しそうだな。何の話をしていたんだ?」

「何でもない。休憩か?」

「ああ」


 鷹は、見蕩れている自覚をもって鷲を眺めた。茫々だった無精髭を剃りおとすと、彼は数歳 若返って見える。彫りの深い横顔には髭も似合うが、やはり剃った方が格好いいな、などと思う。豊かな銀髪は首の後ろで束ねられ、陽光を浴びて輝いていた。

 腰に長剣を提げた鷲は、荷台にもたれかかり、にやりと唇の端をもちあげた。


「オダとひとあばれしようと思ってる。お前達、降りるんなら、手を貸すぜ?」

「はと、降りるっ」


 鳩がすかさず手を挙げたので、鷲は、ひょいと彼女を抱き上げ、地上に降ろした。少女は、国境から合流したニーナイ国の母娘に会うために、隊列の後方へ駆けていった。娘の方と仲良くなったのだ。ひらひらと手を振って見送る隼が、本当にだるそうだったので、鷲は、何事かを言いかけた。


「鷲さん」


 オダが、二頭の馬を引いてきた。駱駝と交換して得た草原の馬だ。オダが馬を引いているというより、馬の方が少年を従えている風情だ。

 鷲はいったん口を閉じ、少年を振り向いた。


「おう、オダ。仕度が出来たのか」


 隼が、早速からかう。


「お前、馬になんて乗れるのか? 鷲」


 鷲は、不敵に嘲い返した。


「なあに、馬なんて、驢馬ろばのでっかくなったようなもんだろうが。すぐ乗りこなしてみせるぜ」

「驢馬のでっかく……」


 オダは俄に不安そうに眉を曇らせた。鷲は頓着せず、少年から一頭の手綱を受け取ると、ひらりと跨った。

 馬が足踏みをする。しかし鷲は、器用に上体をかたむけ、右に左に手綱を引いて、すぐに馬を落ち着けてしまった。得意げに笑う。


「な? 平気だろ?」


 呆気にとられているオダに、隼がぼそぼそ忠告する。


「……まあ、オダ、せいぜい気をつけて。頭だの腰だのを、打たないようにすることだな」

「はい」


 オダは、おっかなびっくり馬の背によじ登った。鷲は、少年が腰を落ち着けるまで、手綱を引いてやっていた。


「それじゃあ、ひとっ走りしてくる。見てろよ」


 鷲は親指を立て、片目を閉じてみせた。鷹は、胸の奥で鼓動がひびくのを感じた。

 馬首をめぐらせて駆け去る彼等を、鷹は、やや茫然と見送った。その様子を眺めていた隼が、ひそめた声で訊いた。


「鷹。あんた……あいつ(鷲)に惚れたのか?」

「……うん」


 頷いてしまってから、改めて恥ずかしさがこみ上げ、鷹は両手で頬を覆った。

 隼の方も、彼女があっさり認めたので拍子抜けして、ふだん細い眼をまるく開いた。それから、わずかに苦笑する。鷹はからかわれるかと思ったが、意外にその眼差しは優しかった。


「そうか。白状したな」

「隼も気づいていたの。わたし、自分では分からなかったわ」

「そんなもんだろ」


 左腕で頬杖をつきかけて傷が痛み、隼は顔をしかめた。心配する鷹に手を振り、代わりに右手で顎を支えた。そろそろと息を抜く。


「自分の気持ちを常に把握できている奴なんて、いるのかな。それで、どうする? あいつに言うのか?」

「そんな」


 鷹の頭に、かあっと血が昇った。いそいで首を振る。鼓動が速くなり、こめかみが痛くなる。紅に染まった頬をおおう指の隙間から、隼を見た。


「止めないの?」


『近づくなよ』 と言っていた彼女に問うたのは、同性の意見を知りたいという意図もあった。隼は、「あれは、冗談だ」 と肩をすくめると、生真面目な表情で視線を宙におよがせた。


「んー……。止める理由は、ない、けど、なあ……」


 奥歯にものが挟まった表現を詫びるかのごとく、眉を曇らせた。


「ああ見えて、情に厚い男だから。あんたが本気なら、遊ぶことはないだろう。困るのは、鷲の方じゃないかな」

「え?」


 荒々しい蹄の音がひびき、鷹は顔を上げた。鷲とオダが、馬首を並べて駆けている。鷲の陽気なときの声に、カールヴァーン(隊商)の人々の視線が集中する。

 隼は唇をゆがめ、草原の娘に言われた言葉をつぶやいた。


「ルドガー・マハ・バーイラヴァ、か」


 隼は鷹に、かすかに微笑みかけた。深い紺碧の瞳に、鷹は吸い込まれそうに感じた。


「あたしが言っても信じられないかもしれないが、いい奴だぜ、鷲は。それに、あたしはあんたも、結構気に入っている。その気があるなら、協力するよ。あんたから近づこうとしなければ、無理だろうからさ」

「うん……ありがとう」


 鷹は、雉も似たようなことを言っていたと思いながら頷いた。『手伝う』 とは、どういう意味だろう? それに、困る、とは。

 また、馬たちが駆けてきた。隼は平然と眺めていたが、道の端に坐ってお茶を淹れていた雉が立ち、呼びかけた。


「おい、鷲! オダも。そのくらいにしておけよ。馬がつぶれちまう」


 「おう」 という返事が聞こえたが、馬蹄の音や人々の話し声にまぎれて消えた。彼らは手綱をひき、馬の向きをかえている。まだ走るつもりらしい。

 雉は仕様のない、という風に首を振り、炊事に戻った。


「はい、お姉ちゃん」


 鷹の目前に、お茶をいれた器とチャパティ(薄焼きパン)の欠片が差し出された。鳩が戻って来たのだ。


「元気だよなあ、おっさん」


 滑らかな雉の声に、苦笑が含まれる。鳩もあきれ顔で息をつくと、荷車の柱に寄りかかり、唇を尖らせた。


 突然、


「きゃああっ!」


 鳩が悲鳴をあげたので、隼は、面倒そうにそちらを見た。

 オダの馬が、後ろ足で立ち上がったのだ。

 放り出される少年に、鷲は馬上から跳びつこうとしたが叶わず、地面に落ちた。その上にオダが落ちてくる。

 鷲の呻き声が聞こえた。


「ぐえっ!」

「オダ! お兄ちゃんっ!」


 鳩が、急いで駆けて行く。雉は肩をすくめると、潰された蛙のようになっている鷲のところへ、歩いて行った。

 鷹は迷ったが、隼が、大丈夫というように顎を持ち上げた。


「大丈夫ですか? 鷲さん!」

「いいから、どいてくれ、オダ。いててて……」


 オダは慌てて鷲から降りた。鷲は、地面に伸びてしまう。駆けつけた鳩は、容赦がなかった。


「ひどいわっ、お兄ちゃん。オダが怪我したら、どうするのよっ」

「……阿呆。怪我してんのは、俺だ、俺」

「済みません、鷲さん。大丈夫ですか?」


 隼に続いて鷲にまで傷を負わせては大変だと、オダは蒼ざめていた。鷲は、のろのろと胡座をかいて腰を押さえた。痛みに耐えて眼を閉じ、顔をしかめている。

 雉が、苦笑まじりに声をかけた。


「いい歳して、はりきるからだよ、鷲」

「うるせ」


 少年は、おろおろしていた。


「鷲さん。済みません、本当に」

「大丈夫だ。気にするな。……雉、交代」

「えっ、おれっ?」


 無造作に手綱をわたされて、雉はうろたえた。鷲は構わず、片手で腰をさすりながらその場を離れた。


「よお、鷲。ぎっくり腰にはならなかったか?」


 隼が、荷車の上から声をかける。鷲は、額から流れる汗を拭い、皓い歯を見せた。


「ああ、隼。順番を間違えたぜ」

「そのようだな。上がってこないか? 涼しいぜ」


 お茶の入った椀を掲げる隼に応えて、鷲は荷台に登ってきた。隼が、鷹に目くばせをする。

 鷲を間近に見て、鷹は驚いた。


「凄い、汗……」

「え? ああ」


 顎から滴り落ちるほどに汗をかき、鷲は照れくさそうに笑った。明るい若葉色の瞳が、綺麗に澄んでいた。


「悪いね、むさ苦しくて」

「ううん、そんなこと」

「本当だ、涼しい。こりゃいいや」


 片膝を立てて坐り、鷲は、荷台の上をわたる風に気持ちよさそうに眼を細めた。額にはりつく髪を掻き上げ、袖でぬぐう。

 彼の、白いが日焼けした横顔を、鷹はぼんやり眺めた。


 長身のせいで痩せぎすに見える身体は、無駄なく引き締まっている。袖を捲り上げた二の腕には、彫像さながら筋肉の形が現れていた。毛深くはない――産毛も銀色なせいで、目立たないだけかもしれない。長い手脚をもてあますように扱い、大きな手で、ぼりぼりと頭を掻く。仕草は総じて大雑把で、行儀も決して良くはない。


「ん? どうした鷹。ぼーっとして」


 鷲が、怪訝そうに首を傾げた。襟をあおいで風を入れる仕草は止めていない。間近で彼と目が会い、鷹の頬に火が点いた。


「……鷹。鷲に、飲みものをあげてくれ」


 隼が助け舟を出し、鷹は視線を逸らした。


「あ、俺、サクア(葡萄酒)がいいな」


 鷲は、嬉しげに脚を投げだし、息をいた。隼の口元に、苦笑が浮かぶ。


「昼間から、もう飲む気かよ」

「ここんとこ、気楽に飲めなかったからなァ」


 鷹から、トグリーニ族にもらったサクアの椀を受け取り、口へ運ぶ。隼は、わざとらしく片方の眉をもちあげた。


「お前でも、緊張することがあるんだな。初めて知ったぜ」

「よく言う。こんな可愛いが、ずっと一緒にいたんだぜ。俺だって、あがりもすれば緊張もするさ。なあ?」

「え……えっ?」


 冗談だと承知していても、鷹の胸は早鐘を打った。鷲は、彼女の反応に気づく風もなく無邪気に笑うと、サクアを一息に飲み干した。空になった椀を渡された鷹は、ぎくしゃくと二杯目を注いだ。

 隼は、鷹の緊張を察していたが、鷲が飄々としているので、どうしたものかと迷っていた。


「それに、タオ。あいつの相手をするのがなあ」

「あたしは、ちょっと気に入ってるよ……。お前だって、まんざらでもなかったんじゃないか?」


 二杯目に口をつける鷲に、隼は、唇をうすく歪めて言った。

 鷲は、葡萄酒の水面から彼女へと視線を移した。


「確かに、いい女だったな。美人だし、胸も大っきかったし」

「そこかよ……。お前、ああいうのが好みだっけ?」

「いや」


 隼が目配せをしたので、鷹はドキリとした。鷲は、サクアの水面を揺らし、少し沈んだ口調で言った。


「別に、情さえ深ければいいんだ。お前や、あいつみたいに気を張っている奴は、見ていると気の毒になるんだよ。好き嫌いは別として。俺と一緒に居るときくらい、休んでいろと言いたくなる」


 隼は、かるく動揺した。憮然と言う。


「……なにも、あたしを引き合いに出すことはないだろう?」

「ああ。悪かった」


 鷲は眼を伏せ、さらりと受け流した。隼は、呆れ声になった。


「お前、そういう気の遣い方をしてたのか?」

「いいや。余計なお世話だろ」


 鷲は、二人から視線を外すと、乗馬の練習をしている雉とオダ、鳩を眺めた。軽く、溜め息をつく。眉間には、いつしか憂鬱な皺が刻まれていた。

 隼は訝しんだ。


「どうした?」


 鷲は、苦々しげに首を振った。


「隼。俺達じゃ、トグリーニに歯が立たないぞ」

「そうなのか?」


 鷲は頷き、椀を鷹に返すと、もういらないと身振りで示した。


「連中は、手綱や鞍がなくとも、馬を乗りこなすことが出来る。走らせながら弓を引くことも、立ち上がって両手を使うことも可能だ。そんな連中に、俺達が、騎馬で敵いやしねえよ」


 真顔になる隼を、鷲は、疲れた顔で見返した。


「俺は、先刻やってみたんだ」


 また、自嘲気味に唇を歪めた。


「それで、あのザマだ。オダのせいじゃない。ガキの頃から馬に乗っていなけりゃ、出来ないだろう。下手をするとあの通り、馬が暴れだしちまう」

「…………」

「つくづく、敵にまわしたくなかったと思っている。今さら言っても仕方がないが……。俺は寝るぜ、酒がまわった。夕飯の時に起こしてくれ」


 鷲は荷物に寄りかかり、外套の頭巾をかぶると、腕組みをして眼を閉じた。みる間に、寝息をたて始める。

 鷹は隼の横顔を見遣ったが、彼女は口を噤んでいた。言葉がみつからないのだ。子供のように脚を投げだして眠る鷲の傍らで、二人はしばらく黙然と坐していた。




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