第三章 黒の山
第三章 黒の山(1)
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チャガン・ウス村では道の確認のみを行い、カールヴァーン(隊商)は泊まらなかった。そのまま、巡礼道を登っていった。
森林はなく、どこまでも見渡す限り、乾燥した山肌が続いている。気温は低いが日差しは強く、帽子や外套の頭巾をかぶらない者はいなかった。はるか遠く、純白の雪をかぶった峰々が、空を縁どるように並んでいる。〈
「ルドガー(雷神)は、人間の世界に嫌気がさして、山に籠ったんじゃなかったかな」
トグリーニ族の長の妹(タオ)がくれた馬車の荷台に、《隼》は、《鳩》と《鷹》と一緒に坐っていた。ルドガー神はどうして〈黒の山〉に棲んでいるのかと少女が訊ねたので、隼はけだるく答えた。
「もともと、
確認を求めると、荷車の傍らを歩いていた《雉》が、あわく微笑んで応じた。
「父と夫の
「ふうん」
鳩は首をめぐらせ、あらためて〈黒の山〉の頂を見上げた。山体があまりに巨きく、距離感がつかめない。しかし、日に日に近づいているとは感じられた。
「そんなことがあっても、会いに行けば願いを叶えてくれるんだ」
「会いに行くのが、大変だけどね」
雉は、くすりと笑った。
「何日もかけて、山を登らないといけない。今はいいけれど、冬は大変だよ。途中で命を落とす人もいるんだ」
二人の会話を聴きながら、鷹(タパティ)は、この神話を知っていると思った。灰色の
大神ルドガー。白い肌と銀の長髪をもち、毛皮をまとった
大神ウィシュヌは、黄金の髪と碧の瞳をもつ。水に浮かぶ蓮の花に象徴される、平和の神だ。ルドガーとは親友だが、荒ぶるルドガーに対して、世界を護り維持する役目を負う。
二柱の男神は、他の多くの神々とともに、大陸南部のナカツイ、ミナスティア、ニーナイの三国で信仰されている。東方ヒルディア出身の鷲と隼が詳しくないところをみると、彼らの神ではないのだろう。
では。自分は、この三国の出身なのだろうか。
ひとり思索に耽っていた鷹は、こちらを観ている隼に気づき、首を傾げた。
「何?」
「いや……。何か思い出せたのかな、と思って」
鷹は、苦笑して
「よ」
荷台の手すりの間から、《鷲》が顔をのぞかせた。車輪が軋みながら止まる。彼は、隼と鳩を見て、片方の眉を跳ねあげた。
「楽しそうだな。何の話をしていたんだ?」
「何でもない。休憩か?」
「ああ」
鷹は、見蕩れている自覚をもって鷲を眺めた。茫々だった無精髭を剃りおとすと、彼は数歳 若返って見える。彫りの深い横顔には髭も似合うが、やはり剃った方が格好いいな、などと思う。豊かな銀髪は首の後ろで束ねられ、陽光を浴びて輝いていた。
腰に長剣を提げた鷲は、荷台にもたれかかり、にやりと唇の端をもちあげた。
「オダとひとあばれしようと思ってる。お前達、降りるんなら、手を貸すぜ?」
「はと、降りるっ」
鳩がすかさず手を挙げたので、鷲は、ひょいと彼女を抱き上げ、地上に降ろした。少女は、国境から合流したニーナイ国の母娘に会うために、隊列の後方へ駆けていった。娘の方と仲良くなったのだ。ひらひらと手を振って見送る隼が、本当にだるそうだったので、鷲は、何事かを言いかけた。
「鷲さん」
オダが、二頭の馬を引いてきた。駱駝と交換して得た草原の馬だ。オダが馬を引いているというより、馬の方が少年を従えている風情だ。
鷲はいったん口を閉じ、少年を振り向いた。
「おう、オダ。仕度が出来たのか」
隼が、早速からかう。
「お前、馬になんて乗れるのか? 鷲」
鷲は、不敵に嘲い返した。
「なあに、馬なんて、
「驢馬のでっかく……」
オダは俄に不安そうに眉を曇らせた。鷲は頓着せず、少年から一頭の手綱を受け取ると、ひらりと跨った。
馬が足踏みをする。しかし鷲は、器用に上体をかたむけ、右に左に手綱を引いて、すぐに馬を落ち着けてしまった。得意げに笑う。
「な? 平気だろ?」
呆気にとられているオダに、隼がぼそぼそ忠告する。
「……まあ、オダ、せいぜい気をつけて。頭だの腰だのを、打たないようにすることだな」
「はい」
オダは、おっかなびっくり馬の背によじ登った。鷲は、少年が腰を落ち着けるまで、手綱を引いてやっていた。
「それじゃあ、ひとっ走りしてくる。見てろよ」
鷲は親指を立て、片目を閉じてみせた。鷹は、胸の奥で鼓動がひびくのを感じた。
馬首をめぐらせて駆け去る彼等を、鷹は、やや茫然と見送った。その様子を眺めていた隼が、ひそめた声で訊いた。
「鷹。あんた……あいつ(鷲)に惚れたのか?」
「……うん」
頷いてしまってから、改めて恥ずかしさがこみ上げ、鷹は両手で頬を覆った。
隼の方も、彼女があっさり認めたので拍子抜けして、ふだん細い眼をまるく開いた。それから、わずかに苦笑する。鷹はからかわれるかと思ったが、意外にその眼差しは優しかった。
「そうか。白状したな」
「隼も気づいていたの。わたし、自分では分からなかったわ」
「そんなもんだろ」
左腕で頬杖をつきかけて傷が痛み、隼は顔をしかめた。心配する鷹に手を振り、代わりに右手で顎を支えた。そろそろと息を抜く。
「自分の気持ちを常に把握できている奴なんて、いるのかな。それで、どうする? あいつに言うのか?」
「そんな」
鷹の頭に、かあっと血が昇った。いそいで首を振る。鼓動が速くなり、こめかみが痛くなる。紅に染まった頬をおおう指の隙間から、隼を見た。
「止めないの?」
『近づくなよ』 と言っていた彼女に問うたのは、同性の意見を知りたいという意図もあった。隼は、「あれは、冗談だ」 と肩をすくめると、生真面目な表情で視線を宙におよがせた。
「んー……。止める理由は、ない、けど、なあ……」
奥歯にものが挟まった表現を詫びるかのごとく、眉を曇らせた。
「ああ見えて、情に厚い男だから。あんたが本気なら、遊ぶことはないだろう。困るのは、鷲の方じゃないかな」
「え?」
荒々しい蹄の音がひびき、鷹は顔を上げた。鷲とオダが、馬首を並べて駆けている。鷲の陽気な
隼は唇をゆがめ、草原の娘に言われた言葉をつぶやいた。
「ルドガー・マハ・バーイラヴァ、か」
隼は鷹に、かすかに微笑みかけた。深い紺碧の瞳に、鷹は吸い込まれそうに感じた。
「あたしが言っても信じられないかもしれないが、いい奴だぜ、鷲は。それに、あたしはあんたも、結構気に入っている。その気があるなら、協力するよ。あんたから近づこうとしなければ、無理だろうからさ」
「うん……ありがとう」
鷹は、雉も似たようなことを言っていたと思いながら頷いた。『手伝う』 とは、どういう意味だろう? それに、困る、とは。
また、馬たちが駆けてきた。隼は平然と眺めていたが、道の端に坐ってお茶を淹れていた雉が立ち、呼びかけた。
「おい、鷲! オダも。そのくらいにしておけよ。馬がつぶれちまう」
「おう」 という返事が聞こえたが、馬蹄の音や人々の話し声にまぎれて消えた。彼らは手綱をひき、馬の向きをかえている。まだ走るつもりらしい。
雉は仕様のない、という風に首を振り、炊事に戻った。
「はい、お姉ちゃん」
鷹の目前に、お茶をいれた器とチャパティ(薄焼きパン)の欠片が差し出された。鳩が戻って来たのだ。
「元気だよなあ、おっさん」
滑らかな雉の声に、苦笑が含まれる。鳩もあきれ顔で息をつくと、荷車の柱に寄りかかり、唇を尖らせた。
突然、
「きゃああっ!」
鳩が悲鳴をあげたので、隼は、面倒そうにそちらを見た。
オダの馬が、後ろ足で立ち上がったのだ。
放り出される少年に、鷲は馬上から跳びつこうとしたが叶わず、地面に落ちた。その上にオダが落ちてくる。
鷲の呻き声が聞こえた。
「ぐえっ!」
「オダ! お兄ちゃんっ!」
鳩が、急いで駆けて行く。雉は肩をすくめると、潰された蛙のようになっている鷲のところへ、歩いて行った。
鷹は迷ったが、隼が、大丈夫というように顎を持ち上げた。
「大丈夫ですか? 鷲さん!」
「いいから、どいてくれ、オダ。いててて……」
オダは慌てて鷲から降りた。鷲は、地面に伸びてしまう。駆けつけた鳩は、容赦がなかった。
「ひどいわっ、お兄ちゃん。オダが怪我したら、どうするのよっ」
「……阿呆。怪我してんのは、俺だ、俺」
「済みません、鷲さん。大丈夫ですか?」
隼に続いて鷲にまで傷を負わせては大変だと、オダは蒼ざめていた。鷲は、のろのろと胡座をかいて腰を押さえた。痛みに耐えて眼を閉じ、顔をしかめている。
雉が、苦笑まじりに声をかけた。
「いい歳して、はりきるからだよ、鷲」
「うるせ」
少年は、おろおろしていた。
「鷲さん。済みません、本当に」
「大丈夫だ。気にするな。……雉、交代」
「えっ、おれっ?」
無造作に手綱をわたされて、雉はうろたえた。鷲は構わず、片手で腰をさすりながらその場を離れた。
「よお、鷲。ぎっくり腰にはならなかったか?」
隼が、荷車の上から声をかける。鷲は、額から流れる汗を拭い、皓い歯を見せた。
「ああ、隼。順番を間違えたぜ」
「そのようだな。上がってこないか? 涼しいぜ」
お茶の入った椀を掲げる隼に応えて、鷲は荷台に登ってきた。隼が、鷹に目くばせをする。
鷲を間近に見て、鷹は驚いた。
「凄い、汗……」
「え? ああ」
顎から滴り落ちるほどに汗をかき、鷲は照れくさそうに笑った。明るい若葉色の瞳が、綺麗に澄んでいた。
「悪いね、むさ苦しくて」
「ううん、そんなこと」
「本当だ、涼しい。こりゃいいや」
片膝を立てて坐り、鷲は、荷台の上をわたる風に気持ちよさそうに眼を細めた。額にはりつく髪を掻き上げ、袖でぬぐう。
彼の、白いが日焼けした横顔を、鷹はぼんやり眺めた。
長身のせいで痩せぎすに見える身体は、無駄なく引き締まっている。袖を捲り上げた二の腕には、彫像さながら筋肉の形が現れていた。毛深くはない――産毛も銀色なせいで、目立たないだけかもしれない。長い手脚をもてあますように扱い、大きな手で、ぼりぼりと頭を掻く。仕草は総じて大雑把で、行儀も決して良くはない。
「ん? どうした鷹。ぼーっとして」
鷲が、怪訝そうに首を傾げた。襟をあおいで風を入れる仕草は止めていない。間近で彼と目が会い、鷹の頬に火が点いた。
「……鷹。鷲に、飲みものをあげてくれ」
隼が助け舟を出し、鷹は視線を逸らした。
「あ、俺、サクア(葡萄酒)がいいな」
鷲は、嬉しげに脚を投げだし、息を
「昼間から、もう飲む気かよ」
「ここんとこ、気楽に飲めなかったからなァ」
鷹から、トグリーニ族にもらったサクアの椀を受け取り、口へ運ぶ。隼は、わざとらしく片方の眉をもちあげた。
「お前でも、緊張することがあるんだな。初めて知ったぜ」
「よく言う。こんな可愛い
「え……えっ?」
冗談だと承知していても、鷹の胸は早鐘を打った。鷲は、彼女の反応に気づく風もなく無邪気に笑うと、サクアを一息に飲み干した。空になった椀を渡された鷹は、ぎくしゃくと二杯目を注いだ。
隼は、鷹の緊張を察していたが、鷲が飄々としているので、どうしたものかと迷っていた。
「それに、タオ。あいつの相手をするのがなあ」
「あたしは、ちょっと気に入ってるよ……。お前だって、まんざらでもなかったんじゃないか?」
二杯目に口をつける鷲に、隼は、唇をうすく歪めて言った。
鷲は、葡萄酒の水面から彼女へと視線を移した。
「確かに、いい女だったな。美人だし、胸も大っきかったし」
「そこかよ……。お前、ああいうのが好みだっけ?」
「いや」
隼が目配せをしたので、鷹はドキリとした。鷲は、サクアの水面を揺らし、少し沈んだ口調で言った。
「別に、情さえ深ければいいんだ。お前や、あいつみたいに気を張っている奴は、見ていると気の毒になるんだよ。好き嫌いは別として。俺と一緒に居るときくらい、休んでいろと言いたくなる」
隼は、かるく動揺した。憮然と言う。
「……なにも、あたしを引き合いに出すことはないだろう?」
「ああ。悪かった」
鷲は眼を伏せ、さらりと受け流した。隼は、呆れ声になった。
「お前、そういう気の遣い方をしてたのか?」
「いいや。余計なお世話だろ」
鷲は、二人から視線を外すと、乗馬の練習をしている雉とオダ、鳩を眺めた。軽く、溜め息をつく。眉間には、いつしか憂鬱な皺が刻まれていた。
隼は訝しんだ。
「どうした?」
鷲は、苦々しげに首を振った。
「隼。俺達じゃ、トグリーニに歯が立たないぞ」
「そうなのか?」
鷲は頷き、椀を鷹に返すと、もういらないと身振りで示した。
「連中は、手綱や鞍がなくとも、馬を乗りこなすことが出来る。走らせながら弓を引くことも、立ち上がって両手を使うことも可能だ。そんな連中に、俺達が、騎馬で敵いやしねえよ」
真顔になる隼を、鷲は、疲れた顔で見返した。
「俺は、先刻やってみたんだ」
また、自嘲気味に唇を歪めた。
「それで、あのザマだ。オダのせいじゃない。ガキの頃から馬に乗っていなけりゃ、出来ないだろう。下手をするとあの通り、馬が暴れだしちまう」
「…………」
「つくづく、敵にまわしたくなかったと思っている。今さら言っても仕方がないが……。俺は寝るぜ、酒がまわった。夕飯の時に起こしてくれ」
鷲は荷物に寄りかかり、外套の頭巾をかぶると、腕組みをして眼を閉じた。みる間に、寝息をたて始める。
鷹は隼の横顔を見遣ったが、彼女は口を噤んでいた。言葉がみつからないのだ。子供のように脚を投げだして眠る鷲の傍らで、二人はしばらく黙然と坐していた。
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