第一章 旅立ち(2)


              2


「え?」


 オダは、伯母をふりむいた。デルタも、咄嗟に意味が分からない様子だ。

 タパティは、すばやく瞬きをくりかえしながら、神官の顔を見詰めている。


「〈黒の山〉って……どういうことだい?」


 ラーダは、エツイン=ゴルに椅子を勧め、自身も腰をおろすと告げた。タパティとデルタが、奥の部屋から出てくる。


「シェル城が陥ちた」

「…………」

「〈草原の民〉――今回は、トグリーニ族というらしい。――に、襲われた。男はことごとく殺され、女子どもは攫われた。畑は焼かれ、家畜と財物が奪われた。連中は南下している。もう二十日もすれば、エルゾ山脈を越え、シニュー(ニーナイ国のオアシス都市)へ来るだろう。この村も、襲われるかもしれない」

「だったら、逃げないと」


 義弟と商人に香草茶をだし、デルタは眉を曇らせる。エツイン=ゴルは、機嫌よく一礼して茶を口へ運んだ。

 ラーダは、首を横に振った。息子によく似た緋色の髪が揺れる。口髭の下の唇は、にがにがしげに歪んでいた。


「我々に、タール沙漠をこえて逃げるところなどない。リタ(ニーナイ国の首都)もデラ(南東にある町)も、あまりに遠い。国境を越え、ミナスティア王国やナカツイ王国へ救けを求めるには、時間がない」

「…………」

「頼れるとすれば、キイ帝国だ。かの国との国境は、〈黒の山〉の巫女が守護している。それと、スー砦のリー・ディア将軍が……。巫女さまに、キイ国のリー将軍へ取り次いでもらえれば、」

「だからって、」


 オダは思わず声をあげた。エツイン=ゴルがうす青色の目をみひらき、伯母に身ぶりで窘められたので、声をおとす。


「タパティに、〈黒の山〉へなんて……。あんな遠くへ。凄く険しい山なんでしょう?」

「そうだ。だから、お前も一緒に行くのだ、オダ」

「……え?」


 オダは、今度こそ眼を瞠って絶句した。

 エツイン=ゴルは、面白がっているような表情で彼らの会話を聴いている。ラーダは、商人に身体を向けた。


「カールヴァーン(隊商)の力をお借りしたい。御覧のとおり、この娘は、いっけん〈草原の民〉に似ている。しかし実のところ連中とは関係がなく、むしろ酷い目に遭って逃げて来たのではないかと思うのです」

「……そうかもしれませんな」

「トグリーニ族がここへ来れば、大混乱になるでしょう。それ以前に、北から難を逃れた人々が到着すれば、タパティは居場所をうしなう……。私は、私たちが彼女にとって脅威となるのを危惧しているのです」

「…………」


 エツイン=ゴルは、片手で口髭をこすって鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。

 迂遠な表現ではあったが、ラーダの言葉を聞くと、デルタは軽く身をふるわせ、タパティの肩を抱きよせた。記憶のない娘は、大きく眼をみひらいて神官を凝視している。

 ラーダは、息子へ語りかけた。


「タパティは病気だ、オダ。守らなければならない。病を癒すちからをもつという、《星の子》という巫女様なら、彼女を救って下さるかもしれない。お前、連れて行ってあげなさい」

「え。でも、アーマ父さん……」

「まあ、待たれよ」


 話が一足飛びに進んでいるのを察したエツイン=ゴルが、曖昧に微笑んで片手をあげた。


「儂らも、迷っているのです。当初の予定では、リブ=リサ河沿いに南下してリタ(ニーナイ国の首都)を目指すつもりだったのが、このようなことになり……。デラ(ニーナイ国の都市)へ引き返し、トール(ナカツイ王国の首都)を目指すか。クド山脈沿いに北上してキイ帝国に入り、セナ河沿いにレダ(キイ国の都市)を巡るべきか。仲間の意見が分かれておる状況でしてな」

「…………」

「お嬢さんを預かっても、儂が〈黒の山〉へ連れて行ってあげると、約束できない。だから、最初から〈黒の山〉へ行くことを目的としている連中に、声をかけた」

「それでは」


 ラーダの顔には、落胆と期待が交互に現れては消えた。真摯なその面に、エツイン=ゴルは肯いた。


「先ほど、呼んでくるよう言いつけた。そろそろ、来るはずだ」


 彼の言葉が終わるのとほぼ同時に、入り口を覆う布が、無造作にめくられた。


「ごめんよ。神官ラーダの家はここかい?」



 振りかえる一同の視線の先に、頭から外套をかぶった旅装束の人物が現れた。西日をななめに浴び、顔は陰になっている。

 かすれた響きを含む声が、けだるく問うた。


「エツイン=ゴルが来ているかい? ここだと聞いたんだけど」


 商人は、陽気に手招きした。


「おう、《はやぶさ》、こっちだ」

『はやぶさ?』 オダは、一瞬、耳を疑った。


 旅人は、外套の頭巾を脱ぎながら部屋に入って来た。まとめていない長髪が肩を流れ、エツイン=ゴル以外の全員が、目を瞠った。


「《わし》は来ないのか? お前だけか、隼」

「あいつがいきなり現れたら、怯えさせちまうだろうが。《はと》や《きじ》じゃあ、話がまとまらないし……。若い娘だって聞いたから、あたしが来たんだ」


 沙漠の民の好奇の視線を気にとめる風もなく、隼は、タパティを無遠慮に眺めすかした。そうしながら、頬にかかった髪を肩へかきあげたので、オダはごくりと唾を飲んだ。


「銀だ……すごい」

『いや、そうでなく――。この人たちは、さっきから何を言っているんだろう?』


 少年の呟きを聞きとがめ、隼は、切れ長の眼をほそめた。瞳も、およそ見たことがない紺碧だ。タパティよりさらにしろい顔は彫りがふかく、氷の彫刻を思わせた。頬をふちどる髪は白銀……眉も、長い睫毛も。

 彼女は、精巧なつくりものめいた顔を右へ傾け、うす桃色の唇に苦笑をうかべた。


「……ここはいい国だね、ラーダ。あたしらみたいな者を見かけても、石をぶつけてくる奴はいないよ」

「石をぶつけられたのですか? 大丈夫ですか?」


 うわずった声をあげる父の上着の裾を、オダはひっぱった。


「いないって言ったんだよ、アーマ父さん……大丈夫?」

「え? ああ、そうか。失礼……」


 ラーダは咳払いをして、座りなおした。改めて、香草茶に口をひたす。

 隼は立ったまま、若い神官の動揺を、涼しい顔で観ていた。その目が動き、再びタパティを観る。半ば呆然としている娘を、値踏みするように眺めた。

 デルタが、隼のお茶を用意する。椅子を勧めたが、彼女は知らぬふりを決めこんだ。

 オダは、砂の味のする唇を舐めた。


「どうして、鳥の名前を――」


 問いかけると、隼にじろりと睨まれたので、ぎょっとした。しかし、彼女は関心がないらしく、タパティに視線を戻している。代わりに、エツイン=ゴルが言った。


「東方の風習だ。真の名前は人にあかさず、通り名をつかうんだ。鳥は、鷲の趣味だったか、隼?」

「どーでもいいだろ、そんなことは」


 繊細で美しい外見に似合わず、隼は、徹底してぶっきらぼうだった。改めてみれば身なりも、男ものの麻の貫頭衣トゥニカ脚衣ズボンを穿き、革帯には長剣をさげている。手は節がめだって大きく、剣胼胝たこができていた。布で押さえているのか、胸は平らだ……。痩身は無駄なくひきしまり、とかしたっきりの髪も、化粧っけのない肌も、およそ女性らしさとは無縁だった。


「東方とは、ヒルディア王国ですか? あちらには、貴女のような方が多いのですか?」


 怯まずにオダが訊ねると、隼は、やや毒気を抜かれて彼を見た。奥に藍色の陰をやどした鮮やかな緑の瞳に、少年はどぎまぎした。

 女声にしては低い声が、囁くように応えた。


「違う……珍しいんだ、あたし達は。この娘は〈草原の民〉か? 護衛すればいいのか?」

「〈草原の民〉ではないと思っています」


 ラーダが、気をとりなおして答えた。隼の眼が細くなる。


「むしろ、逆――と、考えています」

「逆。……思っている、とは?」


 デルタが、そっと説明した。両手は、いたわるようにタパティの肩に置かれている。


「記憶がないんだよ。自分の名さえ、思い出せない」

「…………」


 隼は、いぶかしげに眉をひそめた。瞳から険しさが消え、戸惑いをふくむ同情が表れる。タパティは何も言わなかったが、隼は事情を察したのか、彼女から視線をそらした。

 エツイン=ゴルが説明をくわえた。


「〈黒の山〉へ連れて行って欲しいのだと。お前たちの目的地であろ?」

「あたしは構わないよ」


 隼は、ひょいと肩をすくめた。


「あたし達は……。でも、この娘はどうかな? あたしらみたいなのを、信用できるかい? 自分で言うのもなんだが、かなりアヤシイと思うぜ。恐くはないのかよ」


 この言葉に、オダたちは、一斉にタパティを観た。

 ここで自分の意志を確認されるとは、想定していなかったらしい。太陽の精霊の名をつけられた娘は、瞬きをくりかえした。


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