飛鳥
石燈 梓
第一部 太陽の少女
第一章 旅立ち
第一章 旅立ち(1)
1
嵐が、来る。
もたらされた報せは、湖と川のほとりに点在する村々を、騒然とさせた。
北から、嵐がやって来る――。
広大な砂漠にかこまれたこの国では、あらしと言えば、砂嵐だ。突然、黒雲さながら湧きたって天を
だが、この嵐は、大いなる自然のもたらすものではなかった。人々は、水汲みや薪を運ぶ手をとめ、顔を見合わせて囁きあった。
「またか」
「今度は、どこがやられた? テサ(邑の名)か、シェル城か?」
「タサム山脈を越えては来ないだろう」
「分らんぞ。去年おそってきた連中は、ここよりずっと南、リタ(ニーナイ国の首都)近くまで迫っておったそうじゃないか」
「タァハル(草原の民の一部族)か? トグリーニ(同前)か?」
「知らん。奴らの区別なんかつくものか」
「装束が違うそうだぞ。
「どっちでも変わらんだろう。やることは一緒だ。蛮族めが」
「まいったな。こう毎年来られては、商売にならん。舟に替えるか」
「一番近いシニュー(街の名)の港まで、五日はかかるぞ。リタに着く大型船は、こんな上流までのぼって来ない」
「舟便も、止まるかもしれんな。」
「こうしてはおれん。荷造りをしないと」
「おい、待てよ!」
村の共同の水汲み場で、大人たちの会話を聴いていた少年は、桶を提げる手に力をこめた。
沙漠地方の民に典型的な、褐色の肌、明るい緋色の髪、あわい空色の瞳をした少年だ。飾り気のない質素な麻の衣をまとい、短く切った髪は剛毛で、あちらこちらへ跳ねている。刷毛で描いたようにくっきりとした眉と、眼尻のつりあがった大きな眼は、その髪同様に勝気な性格をうかがわせた。
少年は、大人たちの弱気に抗議するかのごとく眉根を寄せていたが、唇をひきむすぶと歩き出した。
水汲み場から村の中心へ向け、タマリスク(御柳・ギョリュウ)の並木と、石畳が続いている。村で唯一の舗装道路だ。彼は、そこを裸足で歩いて行った。
大陸に存在する他の国々とは違い、ここニーナイ国には、君主というものが存在しない。沙漠を流れるリブ=リサ河沿岸と、点在するオアシスの村々が、互いにゆるく結びついて成り立っている国だ。異民族の侵略に対抗できる軍などという組織はなく、村ごとに自衛するしかない。
交易のために訪れている船舶や隊商たちは、危険を避けることが出来るが、この国に住む民に、行き場はない。逃げても、
少年は悔しかった。商人たちが浮足立って騒ぐのを恨めしく思い、慌ててその気持ちを抑える。慈悲と平和の神ウィシュヌに仕える
「ほら、どうだい? タパティ」
「わあ、素敵。いい色ですね。いいんですか? 本当に」
「私が着ていたものなんだよ。あんたが気にしないなら、構わないよ」
「気にするなんて、そんな。ありがとうございます。あ、これ、どうしたら――」
ゴトリと、器が落ちる音がした。息を呑む気配も。
「……ああ、ごめんなさい。わたし――」
「いいから、離れておいで。私がやるよ。お嬢さまは、こんなことしなくていいんだよ」
「でも」
手を洗っていた少年は、はっとして、部屋を仕切る布をかきわけた。
「記憶がもどったの? タパティ」
二人の女性が、驚いて振り返る。年配の方が、腰に手をあてて立ち、笑って
「こら、オダ。挨拶もせずに、女の部屋を覗くんじゃない。はしたない」
オダは、わずかに頬を赤らめた。
「ごめんなさい、デルタ伯母さん。でも、さっき『お嬢さま』って」
「ああ」
デルタは肩をすくめ、若い娘に視線を戻した。困惑して眼を伏せている彼女をいたわり、優しく説明した。
「思い出せたわけじゃないんだよ。この
呼ばれて、オダは、おとなしく彼女に近づいた。
「傷が治ってみたら、綺麗な肌をしているよ。日に当たってこなかったんだろう、襟首なんて透けるみたいだ。……それに、この手、野良仕事なんてしたことなさそうだ。腕もほそいだろ」
「…………」
「言葉遣いは丁寧で、立ち居ふるまいもいい。たぶん、どこかの大金持ちの商人の娘さんで、家の中でたいせつに育てられてきたんだろう。可哀想に……」
タパティと呼ばれた娘は、褒められた己の手指を眺めたが、申し訳なさそうに面を伏せるばかりだった。オダの伯母は同情をこめて微笑むと、腰をかがめ、床に敷かれた絨毯のうえに転がっていた木製の器に、こぼれた麦粉を掬いはじめた。先ほど、彼女が落としてしまったのだ。
タパティが、いそいそと手伝う。白魚のごとき指はすんなりと細く、確かに、シミひとつない。
デルタは、彼女の長い黒髪を撫でて励ました。
「きっと、おおぜいの人が、あんたを探しているよ。親御さんが、早くみつけて下さるといい」
「はい。ありがとうございます……」
『ほんとうに』 オダは、思った。一日も早く、彼女の迎えが来て欲しい。
タパティは、ひと月前、川辺で倒れているところをオダが発見した。擦り傷だらけの身体に、ズタズタに裂けた絹の衣をまとっていた。乾いた肌は火傷のようになり、三日間、意識をとりもどさなかった。気づけば、記憶を失っていた。神官父子が保護しているのだが、女手がないために、伯母たちが世話してくれている。
彼女の記憶障害は
無理に思い出そうとすると、フッと表情が消え、視線が虚ろになってしまうのだ。心ここにあらず、という風に。そうして、しばらく元に戻れない。
よほど酷い目に遭い、心を守るために記憶を封じているのだろうと、ラーダたちは考えた。
――オダは、彼女をタパティと呼んだ。太陽神の娘、精霊の名だ。いつしか、それが彼女の呼び名となった。
タパティは、黄色い肌、腰にとどくまっすぐな黒髪、黒い瞳をしている。北方の異民族、〈草原の民〉と同じだ。
毎年のように国境を越え、略奪行為をくりかえす蛮族。奴らが来て国内が混乱に陥るまえに、彼女の身元が判ればいいと、オダは考えていた。
表から、聞きなれた声と複数の足音が近づいて来た。
「麦の刈り入れを急がせよう。葡萄もだ」
「まったく、次の新月までは、と思っていたのだがな」
「仕方がない。連中も、それを狙って来るのだ。いつでも運び出せるよう、備えておかなければ」
「そうだな。干し魚もあった方がいい」
「油と水と、豆と……とにかく、全部だ」
村人たちの緊張した声は、家の前で別れ、去って行った。うすい木の扉を開けて入って来た男たちを、オダと二人の女性は、立って迎えた。
「おかえりなさい、
「ああ、オダ。
「ラーダ、そのお人は?」
麦粉を入れた器を
みるからに上等な木綿をたっぷり使った白い衣をまとい、
「はじめまして。
「……その、隊長さんが、なんの御用で?」
怪訝な義姉と息子に、神官ラーダは、静かに言った。
「タパティを、〈
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