第6話 マティアスが知っている僕

 マティアスが目を覚ましたのは、ちょうどケーテが席を外した時だった。

 ルートヴィヒはベッドの脇に置いた椅子に座りリンゴを食べていた。マティアスの同僚である騎士のひとりが持ってきたリンゴだ。マティアスのために持ってこられた見舞いの品だったが、まず最初にルートヴィヒが手に取ってかじった。何となく手持ち無沙汰で口寂しかっただけだ。マティアスにとっても彼の同僚にとってもルートヴィヒは主君にあたる存在だ、きっとリンゴのひとつで怒りはしないだろう。


「殿下?」


 二口目をかじろうとしたところで、声を掛けられた。

 見ると、マティアスがゆっくり上半身を起こしているところだった。


「おいしそうですね」


 あまりにも、いつもどおりだった。まるで昼寝から覚めたかのような塩梅あんばいだ。


「ああ、とてもおいしい。食べるか?」

「いただけるんですか? いただけるならひとつ。なんだかとても喉が渇いていて、あと腹も減っていて」


 ルートヴィヒは笑ってリンゴをひとつ放り投げた。

 マティアスの左手は、それを確かに受け止め、握り締めた。

 左手は、ちゃんと動いている。

 マティアスの手が動いて、物を握っている。

 それがこんなにも尊いことだとは思っていなかった。


「もともとはお前のために持ってこられたものだ。僕が勝手に食べていた。すまない」

「ああ、そうだったんですか。いえ、まったく構いませんが。殿下はもっと召し上がられた方がいいですよ、そういう年頃なんだし」


 マティアスがリンゴをかじる。

 どこかぼんやりしているようだがとりあえず会話は成立する。

 危機は脱したのだ。


「なぜ殿下がここに? ここ、俺の家の寝室ですよね」

「今気づいたのか? 遅い」

「なんだか記憶が飛んでいて……、意識がなかったんですかね。俺はどれくらい眠っていました?」

「今日で三日目だった」

「そんなに? よっぽど大変だったんだなあ」


 他人事のように言うので、ルートヴィヒは笑ってしまった。

 やっと、心から笑えた気がする。


「村はどうなりました?」


 問われた時は一瞬悩んだ。けれど遅かれ早かれ知ることだろう。だいたい直接手にかけたのは彼だ。


「村の男が半分いなくなってしまった。もう成り立たない。女たちはちりぢりになった」


 マティアスは黙った。


「できるかぎり町で雇用されるように取り計らったが、まあ、面白くないだろうな」


 父親が、夫が、息子が、近衛騎士団に殺されたのである。その恨みは深く残るだろう。そしていつかまたどこかで爆発する。

 それに――ルートヴィヒは気がついてしまった。

 きっとあの村だけではない。林業で生計を立てる者の多い村々では同じような不満を溜め込んでいる可能性が高い。

 もしかしたら村々だけではないかもしれない。町でも、この都でも、同じことを考えている人間がいるかもしれない。

 城の外には王族を憎悪している人間がたくさんいるかもしれない。

 思い知らされた。

 自分は、本当に、守られてきたのだ。


「――俺のせいですかね」


 マティアスが、静かな声音で言った。


「殿下に手を出されると思ったら自分を抑えられなかった。殿下をお守りするためには斬らないといけないと思いました」

「そのおかげで僕は今五体満足でここにいる」

「でも殿下のご将来に障るかもしれないんですね」


 ルートヴィヒには何も言えなかった。


「後悔はしません」


 マティアスが真剣な声と目で言う。


「殿下の命と引き換えにできるものなんてこの世には存在しません。これから先も俺は同じように斬り続けますよ。殿下の命をお守りするためなら何でも犠牲にします」

「何でも、か」

「どんな汚れ仕事であっても。たとえ、死ぬことになっても。命も騎士の誇りも、何だって差し出します。殿下がお元気でいてくださるならね」


 ルートヴィヒはリンゴを握り締めた。


「お前に何かあったらケーテが悲しむ。今は僕が体を休めるように命令したからこの部屋を出ていったところだが、本当に、ずっと、ずっとここにいたのだ。とても疲れている様子だった」

「でも笑っていたでしょう」


 マティアスの言うとおりだった。


「彼女には申し訳ない。俺の勝手を押し付けて、強い女であることを要求してる。俺の甘えかもしれない。だけど――それでも応えてくれる。感謝しています」


 リンゴの表面に指が沈んだ。


「――本当に、何でもしてくれるのか」

「ええ、何でも。どんなことでも、殿下に必要なことなら」

「たとえば――ケーテを召し上げると言ったら?」


 言いながら怖くなってうつむいた。リンゴを握り締めている自分の手を見た。力が入りすぎている。リンゴを潰してしまいそうだ。


「ケーテを城で囲って僕のめかけにしたいと言っても、お前は本当に僕に何でも差し出すのか?」


 即答だった。


「はい」


 驚いて顔を上げ、マティアスの顔を見た。

 彼は、穏やかに微笑んでいた。


「差し出します」

「なぜ。あんなに大切にしているのに」

「殿下だからですよ」


 ルートヴィヒは、視界がぼやけるのを感じた。


「きっと、ものすごく悩んで、たくさんたくさん苦しんで、それでも他にどうしようもなくて、自分を押し殺してお命じになるのでしょう。俺に申し訳ないと、ケーテを悲しませてしまうと、そういうところまでちゃんと気を使って、葛藤しながらおおせになるのでしょう」


 リンゴに涙がしたたった。


「殿下はそんなことおたわむれではおおせになりませんよ。もう本当に、この国がほろぶかもしれないというくらい追い詰められているんですよ。そうなった時、犠牲になるのは、ケーテでも俺でもなく、殿下なんですよ」


 「分かっています」と彼は言う。


「殿下はそういうお方です。だから、俺もケーテも、殿下についていこうと思っているのであって。殿下が考えてご決断されたことに、俺とケーテは口を挟みません」


 手の甲で涙を拭った。


「何とかする」


 この国の未来のために――マティアスとケーテとその子供のために、


「僕が何とかする。見ていてくれ」

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