第5話 ケーテが知っている僕

 戸を叩いた。

 すぐに返事が来た。


「はい、どなた?」


 こんな時でもケーテの声はまろく柔らかで優しく穏やかだ。


「僕だ。ルートヴィヒだ」

「あら殿下」


 少し大袈裟なくらいの声を上げ、内側から戸を開ける。顔を見せる。

 ケーテの顔を見たとたん、ルートヴィヒは胸が痛むのを感じた。

 腫れぼったいまぶたに充血した目をしている。泣き腫らした目だった。

 顔色もあまりよくない気がする。いつもは丁寧にひとつの団子にまとめている髪も今は乱暴なひっつめだ。

 それでも彼女は微笑む。ルートヴィヒの顔をまっすぐ見つめて明るい声で「ようこそ」と言う。


「いつかはお出ましになるんではないかと思っておりましたの。まさかこんなにすぐ来てくださるとは思っておりませんでしたが」

「本当は昨日のうちに来たかった。だが、医者もいい顔をしないし、何より、母上が、少し、おかしくて。僕に目の届かないところへ行くなとおおせで……、どうしたらいいのか分からなくて、とりあえずひと晩じゅうお傍についていた」

「今は、アグネスさまは?」

「薬湯を飲んでお休みになっている。昨夜は一睡もされていないようだったし、しばらく起きられない――と、いいのだが」


 ケーテは頷いた。


「そりゃあ、アグネスさまからしたら、おつらいでしょう。たった一人のご子息が目の前で殺されそうになるだなんて。母親なら不安で気がふれてしまいますよ」


 ルートヴィヒは苦笑した。ケーテが母親を語るのかと思うと反応に困った。

 ケーテとマティアスの間には子供がいない。結婚して八年になるがただの一人もない。

 二人とも大のこども好きだ。結婚した当初は無邪気に男の子が何人で女の子が何人などと夢を語っていた。それが一年、二年と過ぎていくうちに話題にのぼらなくなり、休暇のたびに子宝祈願にいい聖人の墓所を巡っているという噂が流れ始めた。

 子供ができたらケーテは仕事を辞めるはずだった。ルートヴィヒはいつかケーテが母親になって自分のもとを去る日が来るのだと――いつしかその日が来てほしいとも思うようになっていた。

 五年目のある日、ケーテはいつもと変わらぬ笑顔で「ケーテはずっと殿下と一緒ですよ」と告げた。ルートヴィヒには何も言えなかった。


「ささ、どうぞ、お入りになって。何のお構いもできませんが」


 導かれるまま部屋の中に入る。

 中は雑然としていた。床に置かれた篭には白い布が無造作に詰め込まれている。机の上には水の張ったたらいとかじりかけのパンとリンゴが並んでいた。きれい好きで整理整頓が得意なケーテらしからぬ光景だ。

 棚の上には小さな飾り蝋燭が並んでいた。そこだけがふだんの二人のささやかな幸福の日々を表わしている気がした。


 ベッドの上に、マティアスが横たわっている。

 左頬には大きな木綿布があてられている。その布に赤い血が滲んでいた。顔の残りの部分は蒼白く、まぶたはかたく閉ざされている。

 掛け布団の外に出ている肩や腕にもすべて包帯が巻かれていた。

 それでもその胸がゆっくり上下しているのが分かった。

 生きている。


「お座りください」


 どこからともなく椅子が出てきた。ルートヴィヒは頷いて腰掛けた。ケーテもその隣の椅子に座った。

 二人並んでマティアスの顔を眺める。


「お医者さまがおっしゃるには、死ぬことはないそうですよ。頑丈なおひとですね」


 それは一応ルートヴィヒも知っていた。城からわざわざ侍医を遣わせて、診察をさせてから城に呼び戻して、怪我の状況を聞き出したのだ。

 だがとりあえず命は助かったというだけの話だ。もしかしたらこのまま目が覚めないかもしれないし、目が覚めても一生ひとの手を借りなければ生活できない体になっているかもしれない。その場合、ケーテはマティアスが死ぬまで介助を続けるのだろうか、と思うと、暗い気持ちになる。

 それでもよかったのだろうか。

 二人とも実家の家族との関係は良好らしいが、両方とも結婚して子供もいる兄がおり、気軽に実家へ戻れる状況ではない。二人はずっと二人で暮らしてきた。

 子供がいない二人にとっては、互いだけが家族なのだ。

 それでも、生きているだけ、よかったのだろうか。


「殿下」


 ケーテの手が、ルートヴィヒの腕を撫でた。


「あまりお気に病まないでくださいまし」


 ケーテの顔を見た。彼女はやはり、疲労の色の濃い顔で微笑んでいた。


「いいんですよ。このひとはね、殿下のために死ぬんだったらそれでいいんです」


 「常々言っておりました」と彼女は言う。


「いつか、ある日突然、帰れなくなる日が来るかもしれない、って。でもそれはきっと殿下のために本懐を遂げた時だから、笑って見送ってほしい、って」


 胸の奥が苦しい。


「わたしもです。剣や武術はからきしなので、殿下のために戦うということはございませんけど、殿下のためにお命を捧げられるんなら、いいんです。だからわたしたちは、これでちょうどいいんです」

「本当に?」


 声を出すだけで泣いてしまいそうだ。


「僕にそれほどまでの価値はある? 僕はそんなお前たちに報いられるような人間だろうか」


 するとケーテは珍しく少し厳しい声で「そんなことは言いなさんな」と言った。


「わたしたちはね、殿下の御世が来たら国の何もかもが良くなるって思ってますからね」


 「だってわたしたちがお育てした王子さまですもの」と言う声は、いつもの優しい声に戻っている。


「時々、ひどいと思うこともありますけどね。まだ御年十七の王子さまに、国の悪い部分を何もかもどうにかしてもらおうとしている。無責任なおとなですよ」


 ルートヴィヒははなをすすってから笑った。


「僕は頑張らねば、だな。お前たちの期待に応えなければ。二人の暮らしを守るために、何ができるか、もっとよく考えなければ」


 そこで、ケーテは小さく声を上げて笑った。突然だったのでどうかしたのかと思いルートヴィヒはまたたいた。


「それがね、三人なんですよ」

「え?」

「うまく育ってくれれば、今度こそ三人になれるかもしれないんです」


 ケーテの手が、彼女自身の腹を押さえた。

 ルートヴィヒは目を丸くした。


「まだ、もう少し大きくなるまでは、秘密にしておこうと話してたんですけど――」

「どうして」

「また死んでしまうかもしれないし、仕事を抜けたら殿下やアグネスさまにご迷惑がかかるかもしれないと思って……」

「とんでもない! 母上には僕からもお話しするから、」


 「だから」と言い掛けて、ルートヴィヒは、悟った。

 とうとう、ケーテへの気持ちと決別すべき時が来たのだ。

 思っていたほど悲しくなくて、むしろ喜ばしくて、そして、


「おめでとう」


 祝福できる自分を、おとなになったと感じることができた。

 ケーテが笑った。涙が一筋頬を伝ったが、とても美しい笑顔だった。

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