第2話 母上と僕

 食事の間は広く食卓は長大だが、その席につく人間は少ない。王族らしい王族が、国王フリードリヒとその妃アグネス、二人の長男ルートヴィヒ、計三人しかいないためだ。特に朝食となれば客が同席することはほぼない。


 アグネスがパンをちぎる。バターを塗って口元に運ぶ。フィンガーボウルで指先を洗う。傍に控えていた侍女が無言で手ぬぐいを差し出す。同じく無言でぬぐう。

 ルートヴィヒは、そんな母の顔を正面から見つめていた。

 母は日に日にやつれ、老いていっている気がする。かつては国で一番の美女とうたわれていた容貌が衰え始めた。髪はもともと白金プラチナなので白髪は分かりにくいが、目元に刻まれたしわはごまかしきれていない。本当はまだ三十代半ばなのにもう十歳は上のように見える。

 彼女は疲れている。

 日々、夫に代わって国庫を切り盛りし、次から次へと出てくる夫の庶子の世話をし、あちこちで噴き上がる王政への不平不満に対応する。そんな王妃アグネスは一見すると気丈な人だ。民の中には彼女を女王として仰ぐ者があるくらいの女傑に見られている。

 ルートヴィヒは本当は違うことを知っていた。彼女は必要に迫られてやっているだけだ。本音を言えばきっともっと穏やかな生活を送りたい。息子との平和な暮らしが守られればそれでいいはずなのだ。

 彼女の負担を少しでも減らしたくて、ルートヴィヒは従順な息子でいるよう努めている。彼女の不安がひとつでも減るように、彼女の苦労が少しでも軽くなるように――そう思いあえて彼女の傘の下から出ないようにしている。少し過保護だとは思いつつも反発することはなかった。


「ケーテから、母上が僕に特別なお話があると聞きましたが」


 母がなかなか話し出さないので、ルートヴィヒの方から切り出した。彼女はもう一口パンを口にしてから、「そうですね」と応じた。

 少しの間、間が開いた。

 言いにくいことだろうか。また新しい異母弟か異母妹が見つかったのだろうか。母はもともとおしゃべりなたちではない。けれどここまで沈黙が長いのは少し心配になる。しかし急かすこともできず、ルートヴィヒも黙って牛乳を飲んだ。


「お前に、お前の本意ではないかもしれないことをしてもらうよう頼まねばならなくなりそうです」


 意外な言葉だった。彼女は今まで息子に何らかの行動を取るよう強要したことはなかった。

 それほど事は切迫しているということではないのか。

 国政に関わることであろうか。それとも、家の内部のことであろうか。

 いずれにせよルートヴィヒに断るつもりはなかった。母のために働けるなら何かしたい。


「何なりとおっしゃってください。母上が僕にとって本当に無理なことを言いつけるとは思えません」

「そうでしょうか」


 どうも弱気だ。民衆が見たら驚くだろう。だが、息子のルートヴィヒは長らく向き合ってきた等身大のアグネスだった。


「おおやけにする前にお前の意思を確認せねばならぬと思い、今は非公式に話しています」

「ご心配が過ぎます」


 アグネスが、深い息を吐いた。

 一度、目を閉じた。手を止め、しばし逡巡してから、ゆっくり目を開けた。

 何を言われても大丈夫のはずだった。


「縁談です」


 ルートヴィヒは目を丸くした。


「お前に、辺境伯の末娘であるゲルトラウト姫を迎えてほしいのです」


 想像していなかった。一瞬頭が真っ白になった。

 結婚する。社交の場では母親の前に出たことのない自分が、異国の姫君を妻に迎える。

 硬直した。

 そんな息子を見て、アグネスはまた、重い息を吐いた。


「断るなら今のうちですよ」


 何とか頭を動かした。

 だが王族の婚姻というものはそういうものではないのか。アグネス自身ももとは隣国の王女で同盟のために嫁いできた。自分も政治的に役立つ娘と一緒になるべきだ。それに、母親の違う弟妹はたくさんいるが、正式な王妃の息子はルートヴィヒただ一人だけだ。相手からしても、この国の王族と縁組をするなら、対象者はルートヴィヒしかいない。

 どうもしっくりこない。


「母上は、どうして僕が断るかもしれないとお思いなのですか」


 あえて、肯定でも否定でもない言葉を投げかけた。考える時間を稼ぎたかっただけで深い意味はなかった。

 返答が突き刺さった。


「結婚を急かそうと思っていませんでした。特別な想いがあるのなら、それを整理する時間が必要です。わたくしの務めはお前がそうしておとなになるのを見守ることであり違う娘をあてがうことではないと考えていたのです」


 拳を握り締めた。

 彼女はきっと知っているのだ。ルートヴィヒがケーテへの初恋を引きずっていることを彼女は分かっていて、尊重してくれていたのだ。身分も違う、年の差もある、それでも頭ごなしに否定せず、ルートヴィヒが自然と諦めるのを待っていてくれたのだ。

 小さい頃――それこそケーテが城に勤め始めたばかりの頃、母に、大きくなったらケーテと結婚する、などと言った日のことを思い出した。ルートヴィヒにとっては恥ずかしいこどものたわごとだが、アグネスからしたらそれが息子の意志なのである。


「……少し、考えさせてください」


 答えは決まっていた。けれど彼女の言うとおり整理する時間は必要そうだった。それに即答しない方が彼女を安心させる気もしていた。一足飛びにおとなにならなくてもいい――だがそれは同時にルートヴィヒにこどもでいるよう求めているということでもある。もしかしたら、おとなになれと命令された方が楽かもしれなかった。

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