ルートヴィヒ少年の決断

日崎アユム/丹羽夏子

第1話 ケーテと僕

 白く滑らかな手が自らの髪紐をほどいた。長い亜麻色の髪がはらりとこぼれ落ちた。

 はらり、はらりと、女の髪が降ってくる。ルートヴィヒの胸の上に女の長い髪の毛先がはらりと降り注いでくる。


 ――殿下。


 甘い女の声がルートヴィヒの耳をくすぐる。


 彼女の豊満で柔らかな肢体は羽根のようにふわりと軽くて体重を感じさせなかった。腹の上に腹這いになられてもルートヴィヒは何とも思わない。

 まろい乳房が、まだ成長途中の少年であるルートヴィヒの薄い胸に触れる。


 ――わたしの可愛い殿下――

 ――いけない、ケーテ、こんなことをしては――お前はもうマティアスのもので――

 ――いいのです、そのようなことはおおせにならないで。今はここで二人きりなのですから――

 ――ケーテ、だめだ、ケーテ――


 白い手が自らの服のリボンを解く。すべすべとした胸元が覗く。

 いけない、だめだ、こんなことをしては――そう思っているのに体は動かない。

 熱い。

 ケーテが――あのケーテが、自分の上にのしかかって――服を――


 亜麻色の瞳は、ルートヴィヒだけを見つめている。

 今はここに二人きりなのだ。

 たとえこのままあやまちを犯してしまったとしても、きっと、誰も見ていない。


 そう思ったのに――ルートヴィヒは、途中で気がついてしまった。

 ケーテの胸はもっと大きいはずだ。あと、彼女の手は今水仕事で荒れているはずだ、いつからこんなに白く滑らかなのだろう。だいたいこんな態勢でまったく重みを感じないのはおかしい。


 ここはどこだ。何もない真っ白な部屋だ。壁の質感もぼやけている。こんな部屋は城にはない。


 そうか。夢か。


 一度まばたきをした。

 目を開くと、そこは先ほどまでいた謎の白い部屋ではなかった。木製の天蓋の枠組みが見えた。自分の部屋のベッドの上だ。

 大きな窓には分厚いカーテンがかかっていて、隙間から明るい朝の日の光と小鳥の鳴き声が入ってきている。

 朝だ。

 やはり夢であった。


 上半身を起こした。

 大きく息を吐いた。両手で自らの顔、特に目元を隠すように押さえた。


 恥ずかしい。

 ケーテはそんなふしだらな女ではない。服を脱ぐのはもちろん、外では髪を下ろすこともない。まして彼女は夫のマティアスと相思相愛だ。ひと回り年下の少年に迫るのなどまったくもってありえない。

 本物のケーテの眼中にルートヴィヒはいない。

 それでも、無意識のところで、自分はケーテとそのような関係をもつのを望んでいるのだろうか。みだらに迫ってくるケーテを夢想してしまうほど焦がれているのだろうか。

 ルートヴィヒは悲しかった。自分自身のことも、そんなあさましくて不道徳な男であるとは思いたくなかった。ケーテはもうすでにひとのもの、ケーテはもうすでにひとのもの――何度も何度も自分に言い聞かせた。

 どうしても、ケーテの大きな胸について考えてしまう。

 ルートヴィヒは分別のある男であると自負している。女性との交際経験はなくても、女性に胸が大きいと言うのは紳士らしからぬ振る舞いであることを理解している。

 このまま封印した方がいい。

 マティアスはケーテの本物の乳房を見ているに違いない。

 うらやましい。

 違う、そうではない。

 忘れろ、忘れろ――念じながら掛け布団を持ち上げた。

 下着に違和感を覚えた。

 最悪だ。

 いくら強がって自己を律し紳士的に振る舞おうとも体の方は正直だ。ルートヴィヒは健康な十七歳の少年なのだった。

 さて、いかにして侍女たちに知られぬよう下着を処理しよう。


 溜息をついた、その時だ。

 扉を叩く音がした。


「殿下、おはようございます」


 まろやかな、甘くて優しい声がした。

 ケーテだ。

 ルートヴィヒは慌てて掛け布団をかぶり直した。


「起きておいでですか」

「今起きたところだ」

「開けてもよろしいでしょうか」


 拒むのは不自然な気がして、震える喉を抑えて「構わないが」と答えた。

 扉が開き、亜麻色の髪と瞳の女性が顔を見せた。

 長い髪は後頭部でひとつの団子にまとめられている。首も半分覆い隠すほど襟の高い服を着ている。全体的に禁欲的な印象だ。だが、少し垂れ目ぎみの目元とふっくらした頬は甘く穏やかだ。


「アグネスさまがお呼びですよ。今日は殿下とアグネスさまのお二人だけで朝食を召し上がりたいとおっしゃっています。いかがなさいますか」


 平静を取り繕い、澄ました顔で「分かった」と答えた。


「すぐに行くと母上に伝えてくれ」


 ケーテは目を細めて「承知いたしました」と言った。


「お支度を手伝いましょう」


 思わず掛け布団の下で自分の股間を押さえた。ケーテには一刻も早く出ていってもらわなければならない。


「大丈夫だ、僕ももうこどもではないのだから。ケーテは母上のところに行け」


 ケーテが笑う。


「そうですね、殿下ももう大きくなられましたものね」


 とにかく構われたくないルートヴィヒは、そっぽを向いて「そういう言い方こそこども扱いだと思う」と言い放った。少し冷たい物言いではないだろうか。拗ねた態度だと思われないだろうか、それこそこどもっぽくはないだろうか。

 ケーテはそれ以上何も言わなかった。明るい声で「失礼いたしました」とだけ告げ、すぐに部屋を出ていってくれた。

 扉が閉まってから、ルートヴィヒは大きく息を吐いた。

 ケーテにはおとなの男性として見てもらいたいのにどうもうまくいかない。どうしたらそれらしく振る舞えるのだろう。

 考えるだけ無駄だ。自分がケーテより十歳年下であることは一生変えられないことだし、仮におとなの男性として意識してもらえたところで相手はすでに人妻だ。


 ひとり寂しく寝間着を脱ぎ始めた。

 下半身が気持ち悪い。

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