・第六十三話「闇の中の真竜(後編)」

・第六十三話「闇の中の真竜シュムシュ(後編)」



「僕の攻撃で死んでしまった、人。『旗操フラグ欲能チート』……ゼレイル・ファーコーンの、仲間の人。あの人はきっと、ゼレイルにとって、家族の様に大事な、僕にとってのソティアさんやハウラさんと同じような人だったんでしょう」


 悩みを吐露するよう促され、はい、と、蚊の鳴くような声で呟くと、リアラはとつとつと語り始めた。


「……今更敵を倒す事が人を殺す事だと思い知った訳ではないです。そんな事とっくに知ってる。どころか、いつも殺したい程憎んで、殺す為に戦ってきた」


 柔らかで柔和な物腰、善良たらんとする精神性の持ち主だが、リアラもまた復讐者だ。それとは別に、復讐心、怒り、殺意といった感情と無縁ではない。常にそれらを内心に抱えながら、他者を案じたり悪に憤ったりしてきた。それが復讐者の旅路というものだ。


玩想郷チートピアの内部文書を何度か入手して調べた範囲じゃ妙な程に情報が断片的だった部分だな。冒険者をしてる〈処刑官〉がいる、『旗操フラグ欲能チート』の配下だ、十弄卿テンアドミニスターの配下だ、くらいで。組織内では他の欲能チートを打ち消せるタイプの奴等でもまずそれが不自然だと認識して調べ始めなきゃ分かんねえレベルで隠蔽が行われていた」


 ルルヤは沈黙し話を聞く事に専念し、名無ナナシは相槌を打つ。客観的な情報を整理する事で、少しでも場を落ち着けようとする。


「多分中途から『旗操フラグ』がパワーアップしたってのは怒りの力もあるだろうが、普段から相当の規模の欲能チートを自分の身内が狙われないよう認識やら運命やらを歪めるのに使ってやがったんだ。その分の力を戦いに割り振り直せばそれだけでパワーアップする程にな」


 その推測は、『情報ネット/マスコミ欲能チート』が『交雑クロスオーバー欲能チート』に語ったパワーアップの真相を言い当てていた。だが、無論『情報ネット/マスコミ』が『旗操フラグ』に本気を出させる為にわざとああいう状況に追い込んだ、という事を、三人は知る由もない。


「……僕は。僕の仇と同じ事をしてしまった……」

「リアラ……」


 リアラは絞り出す様な呻く様な声で吐き出した。それに対してルルヤは、手をさしのべかけ……差し伸べた手を伸ばしきる事が出来なかった。


(私は、どうすれば……)


 ルルヤはこれまで強くリアラを導いてきた。武とは可能性であり正義とは考え続けることであると語り。リアラもまた、敵と対話し、敵の理と戦い、己の潔癖すぎる面の映し鏡とでも言うべき『神仰クルセイド欲能チート』とを通して己とも戦ってきた。


 だが、ルルヤの教えも、死にも世界にも負けずに意地を通し尚自省するリアラの克己も、未だ今新たに直面するこの罪への答えを出せずにいた。


 それを象徴するように、ルルヤが手を伸ばしきる事が出来ずにいる間に、リアラは己は手を伸ばされるに値しないと頭を降り、それにルルヤの手は阻まれた。


「同じ事か?」「えっ」


 故に。直後、名無ナナシはあえて鋭い眼光と口調で切り込んだ。


「『旗操フラグ欲能チート』は栄達の為とかで山程人を殺してる。〈処刑官〉も玩想郷チートピアから敵だ裏切者だって言われた奴等を、つまり玩想郷チートピアの侵略の方針に抵抗した罪もない善性転生者を含む奴等をやっぱりそれなりの数殺してる。……詳しく知らされてなかったかもしれないが、調べて知る事もせず、だ。……欲能チートを使われて、かもしれないが」


 名無ナナシはリアラのうつむいた顔を覗き込むように近づくと、日常時の少年としての彼の顔ではなく戦場で敵を掃討する時の軍勢の指揮者としての刃金めいた決断的な表情で、強い語調で問うた。……それでも、同情の余地のある可能性についてあえて言わない事が出来ずにたどたどしく言及せずにいられなかったあたり、少年もまた、深く悩んでいた事が滲んでいたが。


「リアラの感性を俺は信じてる。普通の冒険者に見えたってんなら実際そうだったんだろう。真実を知らせずに仕事をさせているとか、操って玩想郷チートピアについて考えないようにさせてるとかで。けど、玩想郷チートピアの一員だ。敵みたいな、残酷至極な事を今からあえて言うが。一緒に人助けをしてたリアラちゃんの仲間達と、人間を食い散らかして幸せに暮らしてただろう『旗操フラグ』のパーティ。同じ値打ちの命か?」


 それは彼自身の言う通り、すれすれに際どい程に身も蓋もない発言だった。彼らが抗う敵のそれに近い発想。


(……別に俺が悪役になってもいい。騙してもいい。今この場で話を向けた心配の通りだった、リアラちゃんとルルヤの姐さんは似てる。強く美しい所も、潔癖な所も。だから復讐者なのに人の為になろうとして、人を助けて正義という希望になろうとして来たんだ。罪悪感にゃ脆い。二人っきりにさせちゃ、この問題は解決出来ねえ)


 だが名無はあえてした。この場で自分にしか言えない言葉で、かつ、必要な言葉だと思ったからだ。その為に、傭兵殺しの傭兵として闇と戦争の中で生きた己の人生を逆手に取らんとする。己の人生への逆襲として。


「大体、俺だってな。姫さんやリアラちゃん達とつるむようになる前から、傭兵って仕事自体を仇にして、殺してきた。勿論略奪とそれに伴う殺しを平気の平左でやってるような奴等相手にだ。だがな、そんな奴等にもだ、食わして貰ってる情婦だの、こさえたガキだのが居る奴ぁ居たよ。そいつらの中に、傭兵相手にそいつがやってる事の是非は置いといて友情だの愛情だのを感じてて、その感情が強くてかつ依頼する金とか戦う手だてだのを持ってる奴の中で復讐しようって考える奴が一人もいなかったと思うか?」

名無ナナシ……」


 衝撃に驚き、はっとした表情なリアラに対し、名無ナナシは自分の闇を思い知り噛み締める表情で目を瞑り、顔を上げ、俯いて、息をついた。


 己の後ろ暗い半生をすら説得の手段と使う事を運命への逆襲として肯定しても、その過程が後ろ暗い行為である事に変わりはない。そういう事を躊躇無く行ってきた自己嫌悪と、リアラに嫌われるかもしれないという恐怖、そして、己自身是認できているかどうか微妙なところの過激な対抗策を提示する事でリアラの心を切り替えようとする試み、それら自体も完全に肯定できないまま、それでもそれが最低でも何らかのきっかけになればと。


「姫さんたちの居ないタイミングだからこそ話せる事もあるってのは、俺も同じか。……仇討に来た奴等も殺したよ。仇討の仇討が来ないように、他の身内がビビって来れなくなるくらい、割りと惨たらしく、誇示し、示威するようにな」


 多少露悪的に誇張したが、何れにせよ復讐の連鎖に対する限りなく暴力的な解決。それを暴力で横道を為す憎む敵と何が違うのかと問われれば、どう答えていいのか分からない。


「それでいいだろう、リアラちゃん。全員、全員倒して、殺って、勝って、憎しみの連鎖も断って、そこで終わらせる。それ以外にどうしろって言うんだ。負ける訳にはいかないし、負けた後の事なんて考える余裕は無えンだ」


 だけどそんな手をとってでいいだろうと、愛しい輝きを堕落させかねない、愛しい輝きに悪と思われかねない誘惑を名無は叫んだ。その手を選んででも生き延びてほしいと。


「……ごめん、名無ナナシ、ありがとう。名無ナナシのその心はとても嬉しいし、名無ナナシは戦士として間違った事をしたり言ったりしていないと思う……だけど……」


 だが、リアラはその言を、その救いを、その誘惑を受ける事を躊躇った。その心を全部察した上で。名無ナナシは届かなかった複雑な無力感と、それでこそリアラという複雑な嬉しさと、そして苦しむリアラへの強い悲しみを噛み締めた。


「ああ、だけど。こんな事を言う事自体、情けの無い事、浅ましい事かもしれないんだ。……こんな穢れた手で混珠こんじゅを救ったら、混珠こんじゅを穢してしまうんじゃないか。戦ってる最中にこんな事を言うのは取らぬ狸の皮算用だけど。混珠こんじゅに悪い影響を残して、混珠こんじゅを地球みたいな浅ましい世界にしてしまうかもしれない。僕なんかがこの場に居たら。罪を犯してしまった僕が、ルルヤさんの側になんていていいのかって……」


 しかしその名無ナナシの言葉に対する心の反応は呼び水となり、リアラは我慢しきれず決壊するように己の内心を吐露し始めた。


 それは名無ナナシの言葉に頼る事が出来なかった理由であり、今リアラが許せた筈の己を再び許せなくなっている自己嫌悪の複雑な混合した根源であった。


 誰より地球が嫌いな一人ぼっちの地球人だからこその、地球的な悪性を自分も宿している事への自己嫌悪。元々抱えていた『神仰クルセイド欲能チート』との戦いで辛うじて克服したそれに、言わば天秤に新たな分銅が足されるように加わった罪悪感が均衡を崩していた。克己成長の契機となった『神仰クルセイド』に対しても罪悪感を抱き、リアラは嘆いた。


「嗚呼! 僕はルルヤさんや混珠こんじゅの心配をしているのか!? それと一緒にいられないような罪を犯した僕について哀れんでほしがって打算で嘆いているのか!? 大義ある殺しならしていいと思っているのか!? 違う! そんな自分は絶対嫌だ、そう思うものか! 僕はルルヤさんを助けたいんであって……ルルヤさんに縋って抱き締めて貰って許して貰う、そんな事をされたいんじゃない……違うんだ、誰かを助けて自分はそれが出来る人間なんだと優越感に浸りたい訳でもない……僕はそんなみっともない姿を好きな人に見せたくなんてない……でもそれは卑しい自分を見せたくないという虚飾じゃなのか……大体僕はそれよりもっと酷い事を……自分が酷い事を気にしてる場合かよ、殺してしまったのに! 殺して、しまったのに!」


 リアラは叫び、呻き、喘ぎ、そしてまた叫んだ。だが実際歯を食いしばり涙をこぼさず、そして何より抱きしめられることを恐れ拒絶するかのように俯かず立ち続け、その言葉が同情を誘う為ではない事をその体で証明した。


(嗚呼。残酷だ。残酷だろう、これは)


 名無ナナシは嘆いた。自分は悪に堕してでもリアラを救いたがったが、リアラは己の追い求める正義に己が追い付けない罪悪感から逃れる事は出来なかった。


 名無ナナシは思う。良きもの、清きもの、優しきものに憧れる事が出来るというのは、欲望、保身、侵害、我執、虚偽、虚栄、邪見、邪知等悪しき点の多すぎる人間という存在の数少ない美質だと。征服し、服従させ、踏み潰し、傅かせ、侍らせようとする事は、畢竟見下す行為であり、良きものへの憧れの正反対、その放棄だと。その両者の間に境目はないと賢しら顔の冒涜で愉悦する者はそう言うだろうが、その境目を求め続ける事こそが善美を追う事だろうと。


 だが善や美や理想や正義を追い求めるもの程、突き詰めんとすれば果て無きそれに届かず苦しむ。


(彼女の敵に彼女程悩み苦しみ罪悪感に戦いた奴がいたか。『旗操フラグ』、〈処刑官〉、あいつらはどうなんだ。より良くあろうとした者がより苦しまねばならないのであれば、良いという事は何なんだ)


「私は」


 悩む名無に代わり、ルルヤが嘆くリアラに語りかけた。


「私は……私が許されるとは思っていない。故郷を失ったあの日、故郷を守れなかった私は許されざる者になったと思っている」


 暫しの沈黙、暫しの名目から、しかし励ますとも慰めるとも諭すとも、あまりに遠い決然とした表情で。


「私たちは最初から敗北者で、許されざる罪を背負っている。私達は人に希望を与えるために正義の味方として振る舞ったが、正義そのものではない。私達は正義ではない。正義に断罪される存在かもしれない。それでも正義に少しでも近づこうとし、その傍らで戦う。戦う以外出来る事が無いからだ」


 それは抱きしめられ許されることすら望めないリアラに対するルルヤなりの接し方であり、同時にルルヤの正義のあり方であり、ルルヤの罪悪感でもあり苦しみでもあった。


「それでは駄目なのか、リアラ」


 許されなくても戦う、それでいいではないかという言葉。苦しげで、悲しげで、けれど慈しみの籠った、必死な表情と瞳で、ルルヤはリアラに告げた。


「……いいえ、いいえ」


 胸を押さえ、俯いて、涙を堪え。辛そうに、痛みに耐えながらも、リアラはルルヤにそう答えた。


「駄目じゃ、無いです」


 そして、己に喝を入れるような、強いるような、誓うような声で、そう呟いた。そして、それで立ち上がり、終えて、次の戦いに向かおうとした。


「……待てよ、リアラ、ルルヤ」


 だが。


「お前は自分が救われるとでも思っているのか、か。成る程、面と向かってそう言われりゃ、少しばかり恥知らずな事を思ってる気分にならぁな」


 その言葉にリアラより先に反応したのは名無ナナシだった。リアラがそう答えたにも関わらず、彼自身驚きながらも気づいた時にはそう割って入ってしまっていた。


(何言ってるんだろな、俺は)


 口にしてから、余計な口出しかもしれないとは思っていた。だが、言わずにはおれなかった。理屈ではない何かが名無ナナシを突き動かしていた。


「だがよ、ルルヤの姐さん。事は二人だけの話じゃねえし、俺等だけの話でもねぇんだ。砂海で、恭順した兵を許しただろう。あいつらの中にゃ従わざるを得なかった奴等も居た様に。ギデドスの坊ちゃんが、『悪嬢アボミネーション』の奴を許したように。誰でも、不本意でも、殺っちまったんじゃ前科一犯は絶対外れやしない、人殺しじゃない人間として人を殺せるのは一度だけだなんってぇ捻くった理屈はだ、この世のありとあらゆる殺し合いしたい訳じゃねえのにせざるを得なかった兵隊の為に、仕方なく戦わざるを得なかった人間達の為に、つまりはリアラ! ルルヤ! 二人の為にもだ! 俺ぁ認めたくねえ!」


 名無ナナシは続けた。リアラの心はよく分かる。女に抱かれて泣いて慰められてすっきりしなきゃどうしようもない、そんなちゃちな奴でありたくないしそんなちゃちな問題でもない、それ程誇り高いしそれ程抱え込んでる。元男の子だからなと、男だからその気持ちはよく分かる。ルルヤの気持ちも分かる。傷ついても苦しさに耐える力を持った立派で強い女達を山程知って敬意を抱いているからだ。だが。


 それはリアラとルルヤへの、自分達を含むこの世界への、深く強い思いだった。それまではらはらしていた名無ナナシの仲間の児童傭兵達も、今や固唾を飲んでこのやりとりを見守っていた。


「……私達は時に逃がして別の場所で悪事をさせる訳にはいかないからと対敵を必殺してきた……何よりそれは、そもそも復讐者というあり方に逆行する言葉だ」

「でも、状況判断じゃねえか、それは」


 だがだからこそ名無ナナシは、ルルヤがそう答えてもそれでも言い募った。


「状況次第で騎士団に捕縛させたり投降させたり、殺さずに許してきた事もあっただろうよ! 『悪嬢アボミネーション』の事だって〈処刑官〉の事だって、相手の力が手加減できる程弱くなかったって事が原因で、アンタ等の性根が原因じゃねえだろう!」


 救われる余地は自分達には無いと諦める覚悟を固める二人を見たくないと。二人には救われてほしいんだと叫ぶ。


「大体大局的に言やアンタら大体山程罪も無い人を救ってるだろ! 差し引きすりゃ、悩むまでも無いくらい、誰に恥じる事も無いくらい善い事沢山してるだろう! それなのにアンタらが許されない救われない罪人だってンなら、この世に罪人でない奴なんざ居るもんか! いいや、オレは罪人でもいい、今更罪も罰も恐れやしねえよ、だけど、アンタ達が救われないなんざ承服出来るかよ!」


 そんな名無ナナシに、リアラは、儚くも嬉しげな微苦笑を一瞬浮かべ、しかし、心苦しげな表情にやはりそれでもなって。


「そういう単純な計算で、納得するのなら。それは多数の為の少数の切り捨てを容認する事と同じだと思う……それに、許されているから、救われて良い筈だなんて、言っちゃっていいのかな……」


 そしてルルヤもまた、そのリアラの言葉に呼応して、説得を返す様に応じた。


「……他人を許す事はできても、復讐者である私達は、その理屈で私達自身を許す訳には行かないだろう」


 よりによってこんな時に、そんな自虐的な方向で息ぴったりに。それに対し……


「あぁもう心配した通り二人揃って面倒臭い奴だなーもー! この石頭共!」


 遂に名無ナナシはキレた!


「救われてくれって声があんのに救われていいのかって悩むのはつまり、許すなって声が1個でもあれば救われないって事か!? それなら、悪党どころか僻み根性野郎だの訴訟好きだの面子馬鹿だのゴシップ好きだの誤解馬鹿だの粗探し好きだのがこの世に一人でも生き残ってる限り正義の味方はぜってーに救われねーよ! 仮にアンタらを断罪するクソ市民がいたら、俺がぶった斬ってやる! 撫で斬りにしてやんよ! ふざけんなって言ってやる! 守られる側にも守られる側なりの品格が、守るに値する値打ちとして要るだろうって言ってやるよ! それが選民主義だと言うなら言え! 元々こちとら傭兵階級復讐殲滅ジェノサイドホロコースト野郎だしそれを恥じも否定も撤回もしなけりゃ止めもしねーよ!」


 そして同時に自分が叫ばねばと思った理由も今こそしかと理解して叫んだ。その叫びは二人ならば絶対に言うまい、自分でも拙いし完全に普遍的な訳ではないと分かっている言葉だったが、それでも名無ナナシは叫んだ。


 この二人、直感と知恵のように正反対の所もあるが、同時にお似合い過ぎる程の似た者同士で。だから、二人揃って自縄自縛に嵌まり込んでしまう。


 それを教えてやらねばと思ったのだと。柄にもない、けれど本質的な、子供らしい純粋な必死さで。


「正義の味方は正義そのものじゃないんなら、ある程度正義なら多少正義でなくてもいいだろ。味方してやってんだろ、正義に! 勝手に味方した押し売りでも、正義の奴に味方した分の代金としての目溢しを請求してもいいじゃねえか!」


 名無ナナシのその言葉は、丁度リアラが己を断罪しルルヤがそれを救えぬ道理を逆手に取ったものだった。それは、二人の罪悪感の元となる理屈がシンプルに真っ直ぐな、さながら全体が均質な円柱状に削られた棒のようなものである為、逆手にとっても案外振れるがごとく、スパンと二人の困惑を打ち付ける事が出来た。


「!?」


 何たる無茶苦茶な発言か! と、ルルヤは戦に臨めば鋭利な刃の如く、静かにあれば美術品の如く、慈愛を滲ませれば聖母の如き顔を、一介の年頃の娘の表情で唖然とさせた。しかしショックが、ある意味ルルヤの思考を別の方向へと揺さぶった。


「んなっ…そんな、無茶苦茶な……」


 そして、リアラもだ。名無ナナシの珍しく年相応なあまりの逆上ぶりに哀以外の感情の呼び水にもなり、驚かされ心が揺れた。それでもまだそう言ったが。


「無茶苦茶で悪いかよ。無茶苦茶でもいいよ。無茶苦茶で当然だろうがよ」


 馬鹿が誉め言葉になる時あるいは人というものがある。それは知恵が逆に足を引っ張る固定観念になってしまっている時に、賢者が飛び込むを恐れる所に飛び込み、暴虎馮河と見える事を成し遂げてしまう者に対しての発言である。裏を返せば成し遂げられない力の無い馬鹿は評価に値せず、知恵が固定観念に堕していない状態での馬鹿は世間一般で言うところの馬鹿であるという事だがそれは兎も角。


 日頃聡い少年である名無ナナシであるが、今はいい意味での馬鹿になろうと思って叫んでいた。そして、まさにそうなっていた。


「元より俺たちゃ全知全能でも何でもねーんだ。完全に出来るとか、全員に好かれるとか、絶対無理だ。それでも、戦うって決めたんだろ。復讐でも少しでも正義に寄り添うって。そこが原点で、正義が舵ならそれが動力だろ」


 復讐を捨てない。復讐の道から歩み出す。それが自分達だし、それでいいだろう、と訴える。復讐という感情を捨てる事が出来る人間は、友情や愛情だって同じ感情だから捨てられるだろう。つまりそういう奴にとっては美徳や正義や美学や善悪への罰則への恐れや拘りもまた同じ。となれば残るのは唯欲望と保身即ち唯利益不利益の打算に川上から川下に唯流れるのに従って流される様に従うだけの存在だ、と。


 だがそんな世俗を廃しすぎれば狂信になる。それをリアラは『神仰クルセイド欲能チート』に教えられた。しかし同時にどのような聖性も認めず貶め、世に聖俗善悪の区別は無くあるのはただホモサピエンスという獣の群れの本能のみというのであれば……


 打算と損得だけで正義を構築すれば、人はそれを罪悪感も無く掻い潜るようになる。正義など抱かない事が正義だと。それに比べればこうして乗り越える事に悩み苦しみながら進む方が慎重さという点で遥かにましだろうと。そして何より……


「不完全でも、捨てられないだろ、二人とも」


 名無ナナシは、理解と呆れと励ましとふてくされと喝と挑発が混じったような口調で、リアラを見、ルルヤを見、そしてまたリアラを見た。それが、気づかせた。


 ルルヤは理解する。正義自体は手放さない。手放せない。


 何故ならば欲望に呑まれない為には正義が必要だ。だが名無ナナシが先に言った通り、前に進むには個人的な感情、エゴが必要だ。


 しかしそれだけではない。手放せないのは正義だけではない。


 名無ナナシの言葉だけではない。それは必要不可欠ではあったが、同時にルルヤは己の胸の中にある思いに漸く悟った。


(それは、嫌だ。それでも嫌だ。リアラが断罪される正義と、リアラが傍らにいる不完全な正義ならば、私は……)


 エゴ無くして進めず。正義無くして道は無く。さりとて、それに加えて愛無くしては、己を保ったまま進みえぬ。


 恋愛の愛である必要は無い。少しでもいい、必要とされる事。存在証明となる存在肯定。それは人の手による神の愛アガペ―に等しき程、人の心の力となる。数多あればいいという訳ではない。あると信じる事さえ出来れば一つでも構わない程だが。


「リアラ。『神仰クルセイド欲能チート』との戦いの時に加え、私は今一度言う。いいや、あの時よりもさらに、もっと強く思い、強く告げるぞ」


 何れにせよルルヤは目覚めた。そして悩みに目を閉ざされたリアラに告げる。


「私、ルルヤ・マーナ・シュム・アマトは、お前、リアラ・ソアフ・シュム・パロンを、その全てを必要としている。お前の力や知恵だけじゃない、お前の清らかな面だけでもない、お前の前世、お前の魂、お前の苦しみも悩みも全て。何故ならばお前の善は、お前の悪、お前の悩み、お前の苦しみから生まれるものだからだ。お前は克己し、苦しみのなかで理想を求めるものだからだ。私と同じように。私もまた、血塗れの中で正義を探す人生という物語を生きるものだからだ」


 そう語るルルヤの表情は、夜闇に迷う者を照らし真なる月光の様に輝いていた。殆ど、霊的覚醒を果たしたと言ってよい程。いや正に、ルルヤはこの瞬間、真竜の二つの側面、生贄を求める傲慢な世界を殴る鉄拳の側面だけではない、世界に統合と調和をもたらす愛の側面をまた一つ成長させたのだ。


「お前だけではなく、名無ナナシ、お前にも。そして、ここに集う傭兵達にも。共に戦う全ての者にも。そして、混珠こんじゅ全ての者に言おう。己の欲望の充足以外なにものをも必要ともせぬ者以外の全てに」


 三人のやり取りに固唾を飲み、時に共感し、時に不安げに、時に涙を浮かべ、時にどきどきしながら見守ってきた名無ナナシの仲間達が、何時しか祈る様に、仰ぐ様に、ルルヤの回りを取り巻いていた。名無ナナシは、その表情で二人を静かに後押しした。


「正義とは正義について考え続ける事だ。つまり、悩みもがき苦しみ続ける事だ。それをもう一度掴み直そう。そこには誤りもあり、痛みもあり、そして不変は無いし普遍も無い。その場その場で、何とか少しでも良くあろうと不断に苦しみながら戦い続けるしかないのだ。そんな不完全な正義しか定義できない者として、私はそれでもお前に寄り添っていいか? 今一度、お前に問う、リアラ」


 優しく清く美しく、しかし同時にルルヤの光は、あくまで白い花弁の様に甘く薫るのでもなく、灯火の様に暖めるのとも少し違う。冴え冴えと闇を照らし、迷う旅人の足元を闇を歩む為に、迷う旅人の手元を己の松明を灯す為に照らす月光だ。


「血塗られし時も泥まみれの時も、謗られし時も断罪されし時も、お前は私に愛されている。いいや、私達に愛されている。私は一際強く愛している。共に血を流し、共に泥に塗れ、共に謗りを慰めあい、共に罪を償おう。例え罪が消える事が無くとも。それでも、それらの苦しみ以上の救いを、お前に、私に、皆に齎したいと私は戦う。許されざるという者が居ても、私に出来る救いが許しかどうかは分からなくても、救われてほしいという人、許されてほしいという人々の心に応えたい。その分の償いも込めて、不遜と言われても、許さざる者に敵として打たれても、それでもと、私は誰かを救う為戦う。私のエゴと私の正義と私の愛として、例え不完全でも……」


 そしてまた、花ではないルルヤの正義と愛は、血を流し戦う鋼鉄だ。名無ナナシの叫びにより足らざる所を補い、改めてルルヤはリアラにそう促した。


 癒すのではなく、促し、喚起し、励まし、力を注ぎ、立てるかと問うた。その心に愛で鋼の如き勇気と誇りの支えを、罪を背負った上でそれでも尚救われてほしいと願う人々の為、生きて戦う為の力を吹き込んだ。


「私はお前を愛している、リアラ。だからそれらの償いと不完全を放り捨てずに背負う事が出来る。不完全でいいと言える。不完全でもやらないよりましたと胸を張って言って、不完全なりに知恵を絞り戦い続けられる。お前が罪を犯していると苦しむなら、その糾弾に対峙し問い返す。だから生きてくれリアラ。私の様に、皆の様に、自分の人生の物語が誰かに影響を与えたと、誰かに私の人生の物語が愛読され必要とされたと信じる事で救われ生きる者達の為に。苦しくても辛くても、貴方の物語を語ってくれないか」

「っ……、はいっっ!!」


 リアラは即答した。真っ直ぐに胸を張ってルルヤを見据えた。その頬に涙を残しながら、その胸に痛みを残しながらも、どんな痛みも、例えば鞭打ちであろうとも茨もであろうとも釘であろうとも槍であろうとも、銃弾も偏見も罵倒も、全て受けると、血に塗れ取り零す至らぬ己の手を握りしめた。その声は、先程よりも強く力を増していた。


「僕はルルヤを愛してる。ただ生きているだけで人を傷つける地球の命である僕が、それでも、ただ生きているだけで人を救ってもいるのだと言える貴方のその言葉を。その優しさも、その苛烈さも、その強さも、その猛々しさも、その清らかさも潔癖さも、愛も願いの激しさも全て」


 それは思い上がりかもしれない。歴史は人を殺してもいいと思い上がった人間が人の血で描いた物語かもしれない。だが、それでも。だがそれでも、戦わなければならない状況というものは確実に存在する。それは現実の非情さが逆説的に証明している。そして戦うという事は。


 煎じ詰めれば、自分の主張は人を殺してでも通すに値すると信じていると宣言する事、自分は対峙する敵を殺してでも生きるに値すると主張する事、戦い妥当する相手を生きるに値しないと断定する事、相手の主張は殺してでも抹消しなければならない害悪であると決心する事に他ならない。


 たとえそれが命を奪わぬ形の戦いや競い合いであっても、己の勝利の為に他者に敗北という屈辱を強いる、戦いとは己の人生の方を優先させる行為という本質は変わらない。それは更に言ってしまえば、生きるという事それ自体にすら言える事かもしれない。


 生きて戦うという事は、とてもとても、一方的で、傲慢な事だ。だが、それでも。争う事が遍く罪だというならば、正義というものは常に罪と共に抱かねばならぬのだという事になる。その矛盾に負けてはならないのだと。


「それでも僕は生きると言いたい。貴方を愛して生きると言いたい。愛している貴方に生きていてほしいと言いたい、生きている貴方に寄り添う為に、罪あるこの身で戦いたい。この手で救った命が、この手で奪った命を甦らせる事が無くとも。それでも生きるに値するんだと言ってくれた人の為ならば、その為ならば戦える」


 欲能チートと科学という混珠こんじゅそのものに対する理不尽と、組織と地位というそれに属さないものに対しての理不尽を振るう玩想郷チートピア。それに対抗する真竜シュムシュの武器である神秘もまた、それを信じないものからすれば理不尽だ。理不尽で敵を蹂躙し排除する事において両者に相違は本質的には存在しないのかもしれない。だが、それでも。


「それでも正義という物に生かされた身として。罪があってもそれが美しいと思うから。その美しさに救われた僕と同じ人が沢山いて、僕を否定する事がその人達も否定し、僕の想いを否定する事が僕の想いを魂の糧とした人を否定する事なら。僕は生きる。その僅かかもしれない絆の為に。その僅かな絆で、不完全な善で、微かな癒しで、それを与えあった事を礎に生きていいんだと、そう示す為に。それで誰かを救えると信じて生きる。ルルヤと同じ誓いを胸に、ルルヤを愛して僕は生きる」


 二人が生きるに値すると考えその為に戦っているのは、その中で世界を覆う戦乱に巻き込んでしまう事に恐怖しながらも、自分ではない。互いと、嘗て自分達を優しく育んでくれた人達と同じく善き社会の人々だ。それを支える正義という美だ。


 それは善か? それはそういう人を見たいと願う欲望と何が違うのか?


 それもまた欲望で、人間は根本的に悪性の存在ではないのか? 否とは言い切れない。だが正確に言えば、正義や善は自分達が産み出した基準であるにも関わらず、自分達が考え出した正義や善という概念に追い付く事が出来ないが故に自分達を本質的に悪聖の存在と定義せざるを得ない存在が人間だ、という方がより適切だろう。この世界は間違っている、そう想い続けたからこそより良い世界を作ろうと間違いながらも進歩し続けたのが、人間という生き物なのだから。


 ならばそれが人を苦しめるならば正義や善もまた滑稽と笑われ、旧弊と否定され、欲望と快楽の充足と反映の為の論理的な取捨選択が是とされるべきなのだろうか? 欲望と快楽も反映も本来的には少なくとも否とはしえない存在だ。ある程度のそれらが無ければ生きていけないのだから。


 だがそれが全てでは美しくないし、美しいものが無ければ生きられぬ人もいる、正に美しいものが無ければ自分達は生きていなかったとリアラもルルヤも思う。


 故にその美しいものに意味はあるとそう信じ、自分以外の美しい何かの為にリアラとルルヤは命を懸けた。その美しいものを自分が手にできなくても、自分がその美しいものになれなくても、その美しいものを見ることすら出来なくても構わないと。自分の命より欲望よりそれを優先した。対敵にその覚悟はあるか。


 それは美しいものを守って死ぬかもしれぬ自分に自己陶酔したいだけではないかと言う者もいるだろう。そんな者に美しいものの為に己の醜悪をも食い縛る二人の姿を見せつけても尚、それは醜悪をも感受する自分に自己陶酔しているだけではないかと言うだろう。それでも問わねばならぬ。罪を受ける為にも越える為にも。


 言葉というものはそういうものだ。だが、言葉とそれで論理を作り続ける事と、感じ想い考え続ける事は違って。想い考える事は、それでもと突き進む。美しいもののために。その、美という極薄い違いの壁を、それでも尊ぶべき煌めくものと信じ、尚、抗う。対峙する者の弾劾に問い、答えの断罪を受けても尚進む為に。


名無ナナシ。お前の言葉が無ければ、私には言えない言葉だった。礼を言う」

「うん……名無ナナシ、ありがとう……」

「どういたしまして。いや……いいものを見たよ、いい事を聞いたよ、こちらこそな。救われたよ、俺達も」


 そしてルルヤは名無ナナシに深々と頭を下げ、名無ナナシの思いをしるリアラは、複雑な気遣いの表情で礼を言い。それに名無ナナシは、あえて青空めいたからりとした笑顔で、そう答えて笑った。事実、周りの児童傭兵達も、ルルヤの言葉に、自分達も励まされたという思いの表情で周囲を取り巻き見つめていた。それは、名無ナナシも同じ思いだった……二人の絆の深さと濃さに、己のリアラへの恋の終わりを実感しながら。


(やれやれ。これで、改めて……この恋は決着しつれんか。けど、悪くない決着だった。俺は、美しい者を見た。拙い初恋にゃ、過ぎる程美しいものを。これでこれから最後まで生きていけるって言えるし……俺の憧れと初恋は、輝く天下の宝をいかし続けている、この愛が支えてる以上、俺の初恋は単に番いになれなかっただけで大いに報われているし成就している、誰に対しても胸を張れるものだと心の底から思えるな。なら、生きないとな。ここから先を)


 名無ナナシは青春の1ページを捲っていた。この物語とひととき一つとなりながらも同時に平行して歩く、彼の人生の物語の1ページを。物語は続く。


「さて。それで……どうするんだ」


 そして、改めて名無ナナシはリアラに問うた。これからどうするのか、玩想郷チートピアの一員としてこれまでの所業に増しての勢いで殺しに来る『旗操フラグ』とどう対峙するのかと。


「こうする」


 それに、ルルヤの傍らに立つリアラは、今や再び天を変わらず運行する陽の如く、輝きとガッチリ噛み合った時計の如き思考の歯車の回転を取り戻した表情で答えた。


 そして、翌朝。陽の【真竜シュムシュの息吹】によるホログラムで描かれた文章が、帝都の空に高々と掲げられた。


「リアラ・ソアフ・シュム・パロンよりゼレイル・ファーコーンへ。仇を討ちたい気持ちは分かる。衷心よりそれに応じる。だが僕にも戦いを続ける為に生きねばならぬ、生きるに足ると主張する理由がある。だから正々堂々、一騎討ちの決闘裁判で応じる。仇を取れるなら取り、自分の復讐は正当であったと叫んでいい。誰にもその件で君を憎ませないと約束している。エクタシフォンとアヴェンタバーナを結ぶ旧街道の中間地点において僕は本日これより待つ」


 決闘裁判。それは決闘の勝敗にて裁定を決める儀式。正しいと思えるかが大きく力として影響力する戦い。


 リアラは問い、立ち向かう。己の命、己の戦いに。己と対峙する者に問う為に。

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