第三章後編

・第五十六話「エノニール・マイエ・ビーボモイータは高笑わない」

・第五十六話「エノニール・マイエ・ビー彼女は悪役令嬢ではない。ボモイータは高笑わない悪役令嬢は存在しない。



「くぁああああああああああっ!!!!」


 嗚咽とも怒号ともとれる、否、両方なのだろう、血を吐く様な叫び声と共に黒い砂嵐が吹き荒れ、リアラを吹き飛ばした。


 復讐者に対する復讐者となった『旗操オシリス』の猛襲だ。その様はこれまでの人間的な臆病さのあるそれではなく、最早狂犬のそれだ。


「はっはははははは! 貴方も逃げられはしませんよ、っ!?」「【GEOAAAAAAAFAAAAAAANNN!!】」「最終戦争ラグナロクのっ! 始まりです!」


 『旗操ロキ』の哄笑が、激怒に轟く竜の叫びが轟いた。風が、熱が、周囲の空気を揺るがした。直後、飛行魔法の発動音が、放電のバチバチとした音が、幾色かの叫び声が連続し、そして消えた。



 動かない視界でそんな映像の断片を見て、耳で一部の音だけを聞きながら、そんな中、『悪嬢アボミネーション欲能チート』エノニール・マイエ・ビーボモイータは、要らなくなって放り捨てられた人形のように、否、正にそれそのものとして、天井も壁も失せた帝宮最上階の床に転がっていた。襤褸布と化した絨毯と装飾品の残骸が散りばめられた床に、血潮を撒き散らかしながら。


「あぁ……」


 エノニールは呻いた。呻く事しか出来なかった。呼吸は止まっていない。けどそれだけだ。背中一面が削がれた様に呼吸するだけで痛い。いや、正確に言えば上半身の背中だけが痛い。下半身の感覚が全く無い。翼が存在する感覚も無くなっている、つまり取神行ヘーロースへの変身も解けている。なのに、どう考えても自分の血が、びたびたと床と床に接した己の服を濡らしていく感覚だけははっきりと分かる。


(死ぬんだ。私、死ぬんだ。また、いいえ、今度こそ死ぬんだ。一度転生した転生者が再度生まれ変わる事は無い。死ぬんだ)



 エノニールは思い知らされた。前世の記憶がフラッシュバックする。日の当たる事の無い、妬みと嫉みと引きずり落としあいと貶しあいと貶めあいと陰口の叩き合いだけの。何かを好む事すら、上下と憎悪と蔑視と思想的否定に支配された人生。



 そんな事、どうでもいい。怖い。死の恐怖だけがあった。


 二度の転生等無いのだという玩想郷で得た知識が凄まじい恐怖を掻き立てる。自己の絶対的焼失、継続した自我も記憶も何もかも消え果てる、自分の全てを失い二度と目覚めず考える事も願う事も出来ない完全な消滅、想像も出来ない程の恐怖。



「嫌……嫌ぁ。死にたくない、助けて、死にたくないっ……っ……」


 多くの人間を殺しておいてこんな事を言うなんて資格が無いのは分かっている。だけどもう、唯只管その言葉しか出てこなかった。『情報ロキ』が、最早盾としても役に立たぬとして放り捨てていった結果、最後の瞬間、自分の思考が戻った事すら、拷問でしかないと思った。


 ここでこんなで死ぬのは嫌だ。上り詰めたのに何も無い。唯空虚な歓声しかなかった。友情も愛情も無く、まして感動も尊さも無かった。空しく集めた取り巻きの数しか無かった。何も。何も。死にたくない。死にたくない。



「エノニール」


 名前が、呼ばれた。エノニールは涙に濡れた視界をさ迷わせた。血塗れの男の、自分の豪奢な衣装を台無しにして血を拭いた指が、涙を拭ってくれた。


「済まねえ。でかい口、叩いておいて。あの一太刀、間に合ってれば、もしかしたら……もしかしたら」

「……貴方……」


 ギデドスが。回復法術を込めた掌でエノニールの手をとってくれた。人間に戻った手を。そこにはまだ感覚がある事を思い出させてくれた。


 言葉を、かけてくれた。だがそれは。


 もしかしたら、という、その言葉は。それは、『恋僕ファンメル』を解除したように、お前を救えたかもしれないという意味の言葉か。


「何、で」

「もう言ったろ、馬鹿め」

「あれ、本気だったの? 本気で……馬鹿よ、それは……」


 自分を助けられたかもというその言葉に、助けようというその意図に、あっけにとられてエノニールは問うた。


 私を誰だと思っているの、異世界人の侵略者で、何人も殺しているのよ、と。


「唯、生き延びて上に行く為に殺してただけだろーが。悪王の軍勢に強制徴募食らった雑兵と何が違うんでぇ。自発的にやってた悪王だってんなら兎も角。力は凄えが指揮はお粗末動きは臆病、他愛も無けりゃ罪も無え、唯の雑兵だ」

「何て事、言うの。私は……」


 それは無茶な言葉、通らない理屈だった。そんな理屈で片付けられたら被害者は堪らない。彼自身それは分かっていた。唯、今死にゆくエノニールの為の言葉だった。彼女の心の傷に手を当てる為の言葉だった。そして、それは届いた。


 エノニールは、ずっと何者にもなれない自分が嫌で。何者にもなれない人間に意味はないと言い切る世界が大嫌いで。だから、そんな世界を殺してやろうと、世界の誰だって殺してやろうと思っていたのに。


 雑兵だなんて、一番大嫌いな言葉なのに。なのにどうして。今彼が自分に向けるその言葉が嫌いじゃないんだろう。嫌じゃないどころじゃなく、嬉しいのだろう。


「雑兵だろうが何だろうが、どうなろうがお前はお前だ。俺もついさっき気づいたんだがな。帝龍ロガーナンだろうがそうじゃなかろうが、真竜シュムシュの勇者と比べて強かろうが弱かろうが、傭兵のガキナナシと比べて辛酸舐めてようが無かろうが。俺は俺だ。俺の人生を生きる俺の物語の主人公である俺だ。お前が俺のヒロインで、お前はお前の主人公ヒロインだ。……下らない競争や張り合いなんざ、もうしなくていいんだ」


 女を抱いて、男は言った。



「だっ、たら」


 わななくエノニールの腕が、ギデドスの手に爪を立てた。唯の女の爪が示す悲憤の抵抗。癒される事を否定する恐怖、救われる事を否定する感情が溢れ出た。


 そんな言葉で救われてしまったら、一体、私の人生は何だったの。


「助け、てよ」


 そんな言葉で救われてしまったら、一体、私が殺した人達は何の為に死んだの。


「死にたく、ないのよ」


 自己嫌悪と罪悪感と死への恐怖と死から逃れさせてはくれない事への八つ当たりとこんな女を好きになるくらいならどうしようもない屑女だったと幻滅した方がまだましなのではないだろうかというギデドスに出来る唯一の事と。


 ごちゃごちゃに入り交じった全てが、エノニールの表情から零れ落ちていく。



 ……死は強く強く悪と生者を峻別する。死んだ悪人は二度と害を為す事は無い。


 しかしだからこそ、差し迫った死は、時に余りにも時間を足りなくさせる。


 死はこの世で最も取り返しがつかないものだ。だが。およそこの世の中において、無実の罪で収監された時間を賠償金で買い戻せないように、そもそも取り返しがつくことなど本質的には無いのだ。


 それでも人は復讐をする。何故ならば、因果は応報しない。少なくとも自然科学的な作用反作用や環境汚染とその結果と言った規模ではなく、人の織り成す関係の中では、因果が応報するのではない。糺さねば悪は栄え続ける。応報を為すからこそ因果が保たれるのだ。故に、正義を捨てて命を助けても正義の不在を知れば悪が蔓延り結局より多くの命が失われる。故に、人は復讐をする。


 しかし、人は不完全な正義しか実行できない。救われない人を作りながらしか救える人を救えない。だが、不完全でも実行し続けなければ人を救えない。それを覚悟して進む者がいるし、要る。その覚悟はそれでも大切なものだ。だが。



 ギデドスは無力だった。だが、それでも、だが、しかし。何度でも「だが」と言おうと決めた。


「あいつ、リアラ。お前をあの一撃に巻き込めると考えて無かった。俺に、蜂獅子の化け物にされた奴等を出来れば助けろと俺に願っていた。あいつも、少なくともあの段階ではお前を殺す心算は無かったんじゃないかと思う。確認した訳じゃないが、お前が盾にされた事に気づいた一瞬、あいつはそんな顔をしていた」


 それでもギデドスはそうエノニールに告げた。リアラの完全な真意を知った訳ではないが、それでも。


 あいつリアラも今この段階で殺す心算は無かったかもしれない。あるいは限り無く難しくても和解の可能性もあったかもしれない。お前エノニールだって戦い殺しあいどちらかが死んで終わる以外の道があったかもしれないと、唯正義に断罪される悪以外の運命があったかもしれないと、正義や悪や復讐以外の感情があの一瞬にはあったと。


 例え復讐も正義も不完全な代物でしかないと知り、割りきった上でも尚号と罪悪感から逃れられずに戦い続けるしかなく。聖者が踏みにじられる世界を殴る為血に濡れるリアラとルルヤのその覚悟を、それでも尊ぶべきなのだとしても。


 そんな中で悶えるように最善を祈り、それすら成功するとも限らず……そしてまた、本当にそうなのか、他者からは推し量る事しか出来ずとも。


「俺も死なせたくはなかった。お前があくであっても、正義やその後がどうであったとしても。お前はそう思える、そう思われる奴だった。俺に執着していたように何か別の在り方を求めていた。過去の罪は消えなくても、お前はきっと可能性があった。変われる可能性が、救われてたかもしれない可能性が。お前がもう一度生まれた意味はきっとあった、絶望じゃなかった。少し可能性が掛け違っただけだ。生き始めた最初の居場所が、運が悪かっただけだ、お前が救いようもない悪だった訳じゃない」


 それとは別に。不完全な覚悟しきれない甘さや感傷も、それが覚悟と対極だからとはいえ否定するものではない、その逆もしかりだが、あえてギデドスはそう言った。


 エノニールの己が悪行を無視した生存欲求も、リアラの殺めるという形での復讐と正義の一側面とそれに対する葛藤も、ギデドスの無力な優しさに向けたエノニールの様々な感情も、己の内に屑巻く様々な感情全ても。


 全てギデドスは受け止めた。受け止める事しか出来なかったが、受け止める器を示した。涙を拭うハンカチの様に。エノニールの涙を受け止め叫びに答えを与えた。


 全ては偶然の因果と意思の応報の間の混沌だ。『情報ロキ』とつるんでいなければ盾にされる事は無かったかもしれない。『旗操オシリス』が復讐に狂いリアラを追い立てなければ、あるいはギデドスの説得にリアラが答えたかもしれない。無論、リアラを仕留めていてもこうはならなかったかもしれない。


 嗚呼、と。だがその場合、もしもリアラを殺して生き延びていたら、きっと今胸に湧くこの想いを知ることは無かったのだと、エノニールは理解した。


「あぁ。あああああああ。ぁああああああぁ……」


 その手がギデドスに縋り付き、エノニールはギデドスを抱きしめ。皮肉にも、生誕を祝福し愛し生まれさせてくれた親への愛に応える赤子の産声のような泣き声が、エノニ=ルの唇から溢れ出て。……そして暫くの後、抱擁は終わった。

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