2.櫻宮京子(さくらみや きょうこ)の証言
先生。
先生は
ええ、私もあの話を聞いてびっくりしました。
まさか、
城ヶ崎さんの純粋な気持ちを利用して、あんなことをさせるだなんて。
私、わかっているつもりでした。
思春期の男子が、女子の身体に興味を持つのは当たり前のことだっていうのを理解しているつもりでした。
でも、私、許せなかったんです。
城ヶ崎さんの気持ちにつけこんだ、卑劣な行為が許せなかったんです。
だから
私、草壁健司を呼び出したんです。
放課後の美術室に呼び出して、二人で話をしたんです。
女の子にあんなことをさせるなんて、いけないことなんだと諭すために。
ええ、こんな話、他の誰にも聞かせるわけにいきません。
それは承知しています。
ですから、あの日部活が休みの日に二人だけで話をしたんです。
そして
そもそも、それが間違いだったことを知ったのは、取り返しがつかなくなってからでした。
私が草壁健司を呼び出したのは、城ヶ崎愛美とのことがあってからひと月が経ったあとでした。
あの日は、朝から雨が降っていました。
気圧のせいでしょうか。私は起きてからずっと、我慢できないほどではない頭痛がするのを感じていました。
いつもの、軽い頭痛です。
普段ならこれぐらいの痛みは薬で紛らわすことなどしないのですが、これからのことを考えると、痛みのせいで必要以上にヒステリックになるのを
ほどなくして薬が効き、麻痺した神経が痛みを感じなくはなりましたが、気持ちの方は一向に収まることはなく、城ヶ崎さんの話を
それでも、教師としての面目を保つことは忘れてはいけない、己が怒りに任せて一方的に草壁君を責めるようなことをしてはいけないと考えるだけの分別は、私の中に残っていると思っていました。
誰もいない美術室で、気持ちを落ち着けるために描きかけのカンバスに向かって、私は草壁君のことを待っていました。
私以外、誰もいない放課後の美術室で。
美術部の生徒には、前の日に今日の部活動は休みであることを伝えてありました。
コンクールに出すための作品が遅れているから、遅れを取り戻すために一日だけ私ひとりで美術室を使いたいからと理由を説明すると、生徒たちは素直に私の言うことを聞いてくれました。
いい子たちです。
純粋で、素直で、従順で、羊飼いの指示ひとつで右に左に移動する憐れな子羊の群れのように。
生徒たちには、作品に集中したいから美術室に顔を出すのも遠慮するように言ってありました。ですから、従順な美術部の生徒がここを訪れる心配はありません。
部員以外の生徒に至っては、用もないのに特別棟の三階の一番奥にある美術室へわざわざ寄り道するなど、尚更あり得ないことでした。
たったひとり、私が子羊の群れから呼び出した草壁健司以外は、訪れるはずがありません。
草壁君が美術室に現れたのは、放課後になってから十分ほど経ったころでした。
「遅かったわね、草壁君」
入口の扉が開いた音に振り向きもせず、私は開口一番こう言いました。
本当は遅くなどないことは、ちょっと考えればわかることでした。
先生もご存知のように、帰りのHR(ホームルーム)が長引いて時間通りに終わらないことはよくあることでしたし、そうでなくても、教室棟から特別棟まではかなり距離があります。ましてや美術室は三階の一番奥にあるわけですから、帰り支度をして急いで向かったとしても十分ぐらいは普通にかかるはずです。
ああ、先生はそんなことご存知でしたね。この学校の卒業生で、在学中は美術部に所属していたんですものね。
だのに、私はそのときの心持から、こんな
「いえ、あの……すみません、
可哀想に、草壁君はすっかり萎縮してしまい、自分に非がないというのに私に謝りました。
そう言って謝った草壁君の息が絶え絶えだったことに気づいて、私はようやく自分が理不尽な態度を取ってしまったことに思い至りました。
恐らく、草壁君は教室から急いでここまで来たのでしょう。
校則違反になるのも承知で、廊下を走って来たのかも知れません。
草壁君は私を待たせまいと思って急いで来たというのに、私の態度は教師として、いえ、分別あるひとりの大人として褒められたものではありませんでした。
生徒を相手にして、教師が感情に流されてはいけません。
私は、気を落ち着かせるために、ひとつ深呼吸をしました。
ひょっとしたら、それが草壁君にはため息をついたように聞こえたかも知れません。
「草壁君」
カンバスから草壁君が入って来た入口の方に向き直って、努めて優しく声を掛けます。
「入ってそこを閉めなさい」
「はい」
私が命じると、草壁君は言った通り従順に扉を閉めました。
「座って」
それから、あらかじめセッティングしておいた椅子に座らせます。
草壁君はカバンを椅子の横に置き、命じられるままに座ると、スケッチブックを膝の上に乗せました。
普段から後生大事に持ち歩いている、赤い表紙のスケッチブックです。
あの赤い表紙をめくれば、城ヶ崎さんをモデルにした裸体画があるに違いありません。
それは、草壁健司という男子生徒が、己が欲望を満たすために自分に想いを寄せる女生徒を辱めた動かぬ証拠となるのです。
私は込み上がる憤りをなんとか押し
「草壁君、今日呼び出したのには理由があるの」
「……はい」
「先生、草壁君に聞きたいことがあるの」
釣り気味の目で私を見つめ、草壁健司はか細く返事をします。
緊張しているのか、幾分頬が赤らんでいました。
私は、早速本題を切り出しました。
「ひと月ほど前、放課後この美術室であったことについて、と言えばわかるかしら」
「いえ、僕にはなんのことか――」
「草壁君と城ヶ崎さんは、ひと月ほど前の放課後二人きりでこの美術室にいた。違う?」
そのとき、細くなった目がピクリと動いたのを、私は見逃しませんでした。
「何があったのか、正直に話してちょうだい。悪いようにはしないから」
悪いようにはしない――
自分で言ったその言葉は、きっと嘘になるだろう。私には、その予感がありました。
我ながら卑怯とは思いつつも、しかし、私は自分の卑劣さを責めるよりも草壁健司を断罪するために真実を知る方を優先したのです。
「話して、草壁君」
「いや、でも、城ヶ崎さんとのことは、ごく
「話しなさい!」
言い逃れしようとする草壁健司の態度に、私は思わず声を荒らげてしまいました。
あまりにも短慮ではありましたが、それが功を奏し、草壁健司は渋々の
「あの日、三年生は修学旅行でいなくて、一年も全員休みで、部活に出て来たのは僕と城ヶ崎さんの二人だけでした」
「そう、それで?」
今更な感はありましたが、努めて優しい声で先を促します。
「先生も部活には来られないとのことでしたので、いつものように二人で石膏像のデッサンをしていたんです。そのとき……」
「そのとき?」
言い淀む草壁健司から、なんとか先を聞き出そうと私は必死でした。
「そのとき、どうしたの?」
「そのとき……、僕……告白されたんです。城ヶ崎さんに」
「そう」
いよいよ話が核心に迫ってきました。
「それで、どうしたの?」
「それでって……」
細い目が、挙動不審に泳いでいるのが見て取れます。
「それで、草壁君はどうしたの?」
「そういうの、僕、初めてだったから、びっくりして……その……僕……」
ようやく観念したのか。泳いでいた目をつむり
そして――
「僕、城ヶ崎さんのこと、振ったんです」
え?
「城ヶ崎さんは友達で、同じ美術部員として仲良くしていただけで、付き合うとかそういう気持ちはないって」
そんな
「それに、僕には、他に好きな人がいるからって」
そんなはずは
「だから、気持ちは嬉しいけど、城ヶ崎さんとは付き合えないって断って――」
「嘘おっしゃいッ!」
気がつくと、私は叫んでいました。
「本当のことを言いなさい!」
「いや、でも、僕は本当に――」
この期に及んで
「草壁君! あなたは城ヶ崎さんが自分に好意を寄せているのを知って、彼女にヌードモデルになるよう強要したのよ!」
「ヌードだなんて、そんな――」
「自分を好きなら出来るはずだって。自分の
「僕は、そんなことして――」
「嘘おっしゃいッ!」
私は、我を忘れていました。
そして
「スケッチブックを見せなさい!」
草壁健司に、スケッチブックを見せるよう命じました。
「いやです! これだけは、絶対にいやです!」
「見せなさい!」
スケッチブックにあるはずの城ヶ崎愛美を描いた裸体画。
それが、動かぬ証拠となるはずでした。
「いやです! 先生にだけは絶対に――」
「いいから、見せなさい!」
スケッチブックを見せまいと必死で抵抗する草壁健司から強引に奪い取ると、私は急いで赤い表紙をめくりました。
「見ないで!」
一枚目は、ミロのビーナスでした。
ビーナスの彫像をモチーフにした、ち密で写実的なデッサン画です。
「お願いです、先生!」
懇願する草壁健司の声を無視し、スケッチブックの頁をめくります。
しかし、二枚目も三枚目もビーナス像のデッサン画で、目的の裸体画ではありませんでした。
「櫻宮先生――お願い――」
めくってもめくってもビーナス像ばかりで、城ヶ崎愛美を描いた裸体画は見つかりません。
そして
「先生――」
数枚めくったところで、私はその絵を見つけました。
「お願いです――」
それは、前の頁のビーナスと同じ構図で描かれ、しかし、モチーフであるはずの石膏像とは違って下半身を隠していた布がありませんでした。
「見ないで――」
逆に、石膏像にはない両手は描き足されていました。
右手は片方の乳房を持ち上げ、中指と人差し指が乳首を挟んでいます。
そして、左手は下半身へと伸び、人差し指と薬指で女性器を押し広げ、中指が第二関節まで入れられていました。
ち密に写実的に描かれたそれは、まるきり自慰行為にふける女の絵で、恍惚とした表情のその顔は
「櫻宮先生、僕――」
快楽に身を委ね、眉根を寄せる女の顔は、私でした。
私と同じ髪型で、私の顔をした女が自分を慰めているのです。
そのとき、私はぞわぞわと全身の肌が粟立つのを感じました。
「僕、櫻宮先生のことが好きで、それで――」
「いやらしい!」
私はおぞましさに叫んでいました。
想像の上とは言え、自分が性の対象として辱められていた気持ち悪さに、吐き気がしました。
「いやらしい、いやらしい、いやらしいッ!」
私はスケッチブックからその頁を破りました。
私の髪型で私の顔をした女が自慰行為にふける絵を、夢中で破りました。
元の形がわからなくなるまで、感情に任せて散り散りにしました。
「こんなもの、こんなもの!」
それだけでは飽き足らず、紙吹雪となって床に散らばった絵の欠片を私は踏みつけにしました。
「先生、僕――」
「出てって!」
感情のままに、私は草壁健司に言いました。
「ここから出てって!」
もう一度言うと、草壁健司はカバンと赤い表紙のスケッチブックとを持って出て行きました。
よく覚えていないのですが、出ていくとき、草壁健司は泣いていたと思います。
しばらくの間、その場で目を瞑ってうなだれていると、少しづつ気持ちが落ち着いてきました。
自分を取り戻した私は、我慢出来ないほどではない頭痛がするのを感じました。
薬が切れたのかも知れません。
私は頭痛薬を一錠、水なしで飲み込みました。
それから、ようやく私は考え始めました。
あの日、この美術室であったことを。
城ヶ崎愛美は、自分が好意を持っていることに付け込まれ、裸になることを強要されたと言っていました。そして、デッサンのモチーフにするとは名ばかりで、辱められたと涙ながらに訴えたのです。
そのことを問い詰めると、草壁健司は城ヶ崎愛美を振ったのだと嘘を吐いて誤魔化しました。
実際、動かぬ証拠となるはずの城ヶ崎愛美を描いた裸体画は、赤い表紙のスケッチブックには無く、代わりに私の顔をした女のいやらしい絵があっただけでした。
城ヶ崎愛美の絵は、別のスケッチブックに描いたのかも知れません。
いえ、きっとそうです。
狡猾にも草壁健司は、ダミーのスケッチブックを持ってきたに違いありません!
そう結論づけようとしたとき、ふとある疑問が頭をもたげました。
草壁健司は、城ヶ崎愛美のことを振っただなんて嘘をついたのでしょう。
どうしてすぐに露見するわかりやすい嘘を吐いたのでしょう。
その一方で、ダミーのスケッチブックを用意して証拠を隠すなんて手の込んだことをしているのに。
そのとき、私は別の可能性に思い至りました。
草壁健司が嘘を吐いていないとしたら?
あの日、城ヶ崎愛美の告白を自分には好きな人がいるからと言って、断っていたとしたら?
だとしたら、嘘を吐いているのは、城ヶ崎愛美の方だということになります。
では、なぜ彼女は嘘を吐いたのでしょう?
私はその答えに直ぐに辿り着きました。
辿り着いて、背中に冷たい汗が流れるのを感じました。
なぜ城ヶ崎愛美は、草壁健司に辱められたなどと嘘を吐いたのか?
それは、草壁健司に振られたから。
想いを寄せた男子に、好きな人がいるからと断られたから。
その腹いせに嘘を吐いていたとしたら、全てに辻褄が合います。
加えて、草壁健司の想い人が私であることを、城ヶ崎愛美は知っていたのかも知れません。
だから、嘘を吐く相手に私を選んだ。
私はまんまと城ヶ崎愛美に騙されて、そして――
さっき薬を飲んだばかりだというのに、ズキリと頭が痛みました。
思春期の子どもたちが不安定であることはわかっていたのに
私は取り返しのつかないことをしてしまいました。
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