赤いスケッチブック

へろりん

1.城ヶ崎愛美(じょうがさき まなみ)の証言

 こんな話、本当は先生には恥ずかしいからしたくはなかったんだけど、思い切って話します。

 はい、櫻宮さくらみや先生には話しました。

 あんなこと

 私の胸の中だけにしまっておくには、大き過ぎたから。

 ひとりで抱えるには、重過ぎたから。




 あの日、放課後の美術室は、私と草壁くさかべ君の二人だけしかいませんでした。

 三年生は月曜日から修学旅行に行ってましたし、一年生の三人はそれぞれに体調が悪いとか、家の用事があるとか、担任の先生に呼ばれているから部活には出れそうにないだとか、てんで勝手に嘘だか本当だかわからない理由をつけて、欠席すると連絡を受けていました。

 実のところ、あの日、顧問の櫻宮先生が用事があって部活に顔を出せないからというのが、欠席する本当の理由かも知れません。

 部活に先生が来れない日は、皆で石膏デッサンをやるように言われていたので。

 今年の一年生は、デッサンとかの基礎的な練習をしたがらない子ばかりそろっていましたから。

 元より、美術部の二年生は二人しかいないので、美術室に私と草壁君の二人きりだったのは、当然の成り行きでした。

 そして、それは私にとって、チャンスでした。


 私と草壁君の他、誰もいない美術室。

 放課後の美術室に用事のある人なんて、美術部員か顧問の櫻宮先生しかいません。

 ましてや、特別棟の三階の一番奥にある美術室まで用もないのに来る人なんて、いるわけがありません。

 二人っきりで、しかも誰の邪魔も入らないなんて、『告白』するには絶好のチャンスです。

 大好きで、大好きで、大、大、大好きな草壁君に想いを打ち明ける大チャンスです。


 初めて草壁君に出会ったのは、入学式のときでした。

 緊張でトイレに行って教室に戻ったら、みんな体育館まで行っちゃって誰もいなくて、慌てて廊下に飛び出したら、隣のクラスの教室からも同じように出て来た男子がいて、二人して廊下を走って体育館に駆け込んで、はあはあ息しながら「間に合ってよかったね」ってその男子が言って。

 ちょっと釣り気味の目が笑うと糸目になって、その笑顔がなんかいいなって思って、男子のことそんなふうに思ったの初めてだったから、自分でびっくりしました。

 後から、同じクラスで別の小学校から来た女の子に、あのとき一緒に体育館まで走った男子の名前が草壁健司くさかべけんじだって聞いて、その名前があの笑顔と一緒に忘れられなくなったんです。


 それから、草壁君が美術部に入ったって聞いて、私、それまで絵を描くのは嫌いじゃなかったけど、そんなに好きって程でもなかったのに、美術部に入ろうかななんてうっかり友達の前で言っちゃったら、それいいよなんて言われて調子に乗って勢いで入部しちゃって。でも、あのとき入部してよかった。


 毎日、放課後は草壁君と一緒でした。

 そりゃあ、先輩たちもいたけど、新入生は私たち二人だけだったし、入部した頃は丁度市長杯コンクールの前で先輩たちは自分たちの作品を描くのに精いっぱいで、新入生はデッサンでもやっとけって言われて、しばらくは二人して来る日も来る日もデッサンばっかりやってて。


 私はへたっぴーだったけど、草壁君は小学校のときにコンクールで賞をとったこともあって、それまではちゃんと習ったことなくて、中学に入ったら本格的に絵の勉強をするために美術部に入ったんだなんて言ってたけど、流石にコンクールで賞をとったことがあるだけあって、私なんかより全然うまくて、先輩たちが相手にしてくれないもんだから、代わりに、ここはこうした方がいいよとか、もうちょっと描き込んでみてとか、へたっぴな私にアドバイスくれて。

 絵を描くときの草壁君は、真剣で、繊細で、のめり込んでるときなんかゾッとするぐらい鋭くて、でも、糸目で笑ったときはほっとして、心がじんわりして。

 私の絵がちょっとづつうまくなっていくのより早く、私、草壁君のことが好きになってたんです。


 その想いは、二年生になって同じクラスになってからますます大きくなって、だから、私、どうしてもこの想いを伝えなきゃって、草壁君に告白しなきゃって思ってて。

 だから。

 こんなチャンスはめったにありませんでした。

 あとは、勇気を振り絞るだけです。


 その日、私たちは、ミロのビーナスの石膏像をデッサンしていました。

 石膏像は他にいくつかあるけれど、ここのところ草壁君はビーナス像ばかり描いていました。

 草壁君の最近のお気に入りみたい。

 ビーナス像を挟んで丁度向かい合う位置に、私と草壁君は座っていました。

 こっそり窺うと、草壁君は無心でスケッチブックに鉛筆を走らせています。

 草壁君がいつも持ち歩いている赤い表紙のスケッチブックです。


「草壁君」


 私は、ミロのビーナス越しに草壁君を呼びました。


「なに?」


 スケッチする手を止めて、草壁君が私の方へ顔を上げます。

 丁度、今、集中してたとこらしく、私を見る目がちょっと怖いです。


「えっと……」

「なんなの?」


 薄く苛立ち色を帯びた草壁君の声に、心がすくみます。

 でも、怖気づいてないんていられません。

 この機会を逃したら、また、いつ二人っきりになれるかなんてわからないのですから。

 私は、ひとつ大きく息を吸って、それを吐き出して無理やり心を落ち着けてから、もう一度息を吸って今まで秘めていた想いを吐き出しました。


「好きです」

「え?」

「ずっと前から、草壁君のことが好きです!」


 言っちゃった。

 言っちゃいました。

 心臓がばくばくします。

 きっと私、今、耳まで真っ赤に違いないです。

 私は恥ずかしくて、俯いてしまいました。


「そっか」


 そう答えた草壁君のそっけない返事が、頭の中をぐるぐると駆け回ります。

 それってどういうどういうことなんだろ? どういう意味なんだろ?

 草壁君は私のことどう思ってるんだろ?

 聞きたくて、知りたくて、怖いけど、私、顔を上げて草壁君のことを見ました。

 そしたら

 草壁君は笑顔でした。

 ビーナス像越しに見た草壁君は、ちょっと釣り気味の糸目で笑っていました。


「僕も、城ヶ崎さんのこと好きだよ」


 今までばくばく言っていた心臓が止まります。

 多分三秒ぐらい。

 こういうの『天にも昇る気持ち』って言うんでしたっけ?

 そのときの私は、まさにそんな気持ちでした。


「ねえ、城ヶ崎さん」


 ふわふわと天に昇った私には、草壁君が私の名前を呼ぶのが嬉しくて


「お願いがあるんだけど」


 だから、何でもいうことを聞いてあげたくて


「絵のモデルになってくれないかな?」

「私が?」

「うん」


 草壁君が糸目の笑顔で頷きます。


「僕、女の人が描きたいんだ。石膏像じゃなくて本物が。だから、城ヶ崎さんのこと、描きたい」

「草壁君……」

「ありのままの城ヶ崎さんが描きたいんだ」


 告白した途端、私をモデルにして絵が描きたいだなんて、草壁君らしくて、それが愛おしくて


「いいわ、モデルになったげる」

「ホントに?」

「うん」

「約束してくれる?」

「うん、約束する」

「ありがとう」


 私はモデルになることを約束しました。


「その代わり、綺麗に描いてね」

「うん」

「絶対だよ」

「わかったよ」


 ちょっぴりわがままな私の念押しにそう言って返すと、草壁君はそそくさとビーナス像を片付けにかかりました。


「ビーナスは僕が片付けるから、城ヶ崎さんはその間に机並べといて。そうだな、六つもあれば足りるかな」


 机なんか並べてどうするんだろ? とは思ったけれど、私は言われた通りに机を六つ並べました。

 その間に、カチッて音がして、見るとビーナス像を片付け終わった草壁君が入口の鍵を閉めてて、部活のときに鍵なんて閉めたことなかったのに変だなとは思ったけど、そのときはあんまり気にしてなくて。

 そしたら、草壁君は並べた机の上に椅子をひとつ乗っけて


「こんなもんかな」


 なんて、ひとりで納得して


「草壁君、この上に座るの?」

「うん。この構図で全身を描きたいんだ」


 机の上の椅子に座るだなんて、高くてちょっと怖かったけど、大好きな草壁君のお願いなんだから、がまんです。

 でも


「じゃあ、脱いで」

「え?」


 思いもよらなかった草壁君の言葉に聞き返します。


「あの……脱ぐって?」

「服だよ、服」


 聞き間違いだと思いたかった言葉は、そうじゃなくって


「着ている物を全部脱がなきゃ、ありのままの君が描けないじゃないか」


 そうなんです。草壁君は私をヌードモデルにしたかったんです。

 でも、私、そんなの聞いてなくて


「草壁君、それはちょっと……」

「約束したよね? モデルになるって」

「それは、約束したけど……」

「じゃあやってよ。僕の絵のモデルになってよ」


 そう言った草壁君の目が、絵に集中しているときのちょっと怖い目になっています。


「僕は、ありのままの城ヶ崎さんが描きたいんだ」

「ありのままって……」

「綺麗に描くから、絶対」

「でも……」

「好きなんでしょ?」


 その台詞は、私にとって殺し文句で


「僕のこと、好きなんでしょ?」


 草壁君が「好き」と口にする度に身体の芯が熱くなって

 気がつくと、私は頷いていました。


「じゃあ、脱いで」


 草壁君が促します。

 それでも、私が躊躇していると


「大丈夫だよ。鍵がかかってるから誰も入って来れない」


 その言葉でようやく私は納得しました。

 先ほど鍵をかけたのは、このためだったのです。


「城ヶ崎さんのことを、いやらしい目なんかに晒させやしない」


 私のことを安心させるために言ったのでしょう。でも、その言葉は安心させるにはほど遠くて、これは草壁君のためだから、大好きな草壁君と約束したことだからと自分に言い聞かせて――


 私はセーラー服のリボンをほどきました。


 上着を脱ぎ、スカートを脱ぎ、靴下も下着も全部脱ぎ終わると、私は草壁君に手を貸してもらって、並べた机の上に乗りました。

 机の上に乗ると思ったより高くて、でも、足が震えるのはそのせいじゃなかったと思います。


「座って」


 私は、草壁君に言われるままに、並べた机の上に置いた椅子に座りました。

 見ると、草壁君は私の正面にいて、立ったり、座ったり、屈んだりしています。

 どうやら、具合のいい構図を探しているようです。

 それから机をひとつ持ってくると、その上に座りました。


「うん、こんなもんかな」


 ようやく草壁君が納得したその位置は、視線が丁度椅子に座った私の膝のところにありました。

 それから草壁君は赤い表紙のスケッチブックを開きました。


「城ヶ崎さん、もう少し椅子に浅く座って、脚を広げてくれないかな」

「え? でも、それじゃぁ」

「お願いだよ、城ヶ崎さん。君の全てが見たいんだ」

「でも、見えちゃ――」

「好きなんでしょ? 僕のこと」

「好き……だけど……」

「だったら、見せてよ。僕に描かせてよ」

「…………うん」


 私は大好きな草壁君のために、言う通りにしました。

 死ぬほど恥ずかしくて、目に涙が溜まります。

 草壁君が、あの真剣になったときのちょっと怖い目をして、私のことを見ています。

 私の顔を、胸を、脚を、そしてその奥を。


「顔を上げて」


 恥ずかしいのをこらえて、私は顔を上げました。

 その拍子に、目に溜まっていた涙がぽろりと零れました。

 草壁君は赤いスケッチブックに鉛筆を走らせます。

 またひと滴、涙が零れました。

 目は怖いのに、鉛筆を走らせる草壁君の口元が笑っているようでした。

 美術室に、草壁君が鉛筆を走らせる音だけが響きます。

 誰も来ない美術室で

 私と草壁君二人だけの秘密の時間が過ぎて行きました。


 そうやって、しばらく経ったときでした。

 私は、お手洗いに行きたくなりました。

 入学式のときもそうでした。

 私は緊張すると、お手洗いが近くなるのです。

 でも、それを言うのが恥ずかしかったので、我慢しました。

 草壁君の絵が描き終わるまで我慢しようと思って、我慢して、我慢して、我慢しました。

 しかし、それも限界でした。


「ねえ、草壁君」


 草壁君は、まだ、怖い目で鉛筆を走らせています。

 それで私は恐る恐る言いました。


「お手洗いに行かせて」

「今、大事なところだから、動かないで」

「でも、私、がまん出来ない」

「だめ! 動かないで!」


 怖い目をして、草壁君が言います。

 でも、私は切羽詰まっていました。

 もう限界を超えようとしています。


「もうダメ、出ちゃう。お願いだから、お手洗いに行かせて」

「じゃぁ、そこですればいい」

「そんな――」

「するとこ見せてよ。僕が描いてあげるから」


 絶望的な草壁君の返答に、目の前が真っ暗になります。


「お願い、お願い、お願い! お手洗いに行かせて!」

「だめだ!」

「草壁君、お願い! 私、もう」

「だめ!」

「おねが――」


 そのとき、私は、とうとう限界を超えてしまいました。

 我慢していたものが、少し溢れて、椅子に零れます。

 それが最初でした。

 今まで、我慢して、我慢して、我慢していたものが、せきを切ったようにように一気に溢れ出ます。

 それが恥ずかしくて、反射的に隠そうとすると


「だめ! 動かないで!」


 怖い目で草壁君が言うので、私は動けませんでした。

 一度緊張の糸が切れると、もう修復は出来ませんでした。

 我慢していたものが勢いよく飛び出し、ぴちゃぴちゃと音を立てて飛び散ります。

 椅子の周りはもうびしょびしょでした。

 大好きな男子の前で粗相そそうをして、それを見られていることが、情けなくて、恥ずかしくて、ぽろぽろと涙が出ました。


「脚を開いたまま、動かないで」


 そんな私を、草壁君は食い入るように見つめました。

 赤いスケッチブックに鉛筆を走らせる、草壁君の口元が笑っていました。


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