第9話
大きなスクリーンの中ではナビゲーターの女優が最新映画の見どころを紹介している。人気のない上映なのか、客席は多いのに人はまばらであった。
幸子は八重に連れられ、映画館に来ていた。本当は利美も含めて三人で来る予定だったが、彼氏と前日に温泉デートが決まったとかでドタキャンされ、二人で映画を観ることになった。
ふかふかと座り心地のよい椅子に腰かける。一番後ろの席で人の少なさも相まって見晴らしがよい。しかし幸子は落ち着かなかった。手元のポップコーンはひとかけらも口に含む気は起きなかった。
隣に座った八重はいつもと同じ表情で、口元に微笑みを湛えながらスピーカーから流れる音に耳を傾けている。
「ねえ、八重ちゃん」
「なんですか」
もう十分ほどで本編前の予告編が始まるというのに、席は半分も埋まっていなかった。少し前に座って何事か囁きあっているカップルを見ながら、幸子は小さな声で続けた。
「あの小切手のことなんだけど……」
「気に入りませんか?」
八重に微笑みのまま返され、幸子は口ごもった。
確かに気に入らない。しかし幸子の中では様々な感情が渦巻いていて、八重にどう言えばいいのかわからなくなっていた。いきなり小切手を渡されて、戸惑い、憤り、悩み、そして少し救われた気がしていた。
何か、変われそうな気がしたんでしょ。運まかせで、他力本願ね。
後ろの席から「私」が囁くように耳打ちをしてくる。幸子は前を見つめたまま、「気に入らないよ」と低く返した。
「あの時手を掴んでくれたこと、本当にうれしかったんです。……偶然掴んだ手の中にお金が入っていた。そういうことじゃ駄目ですか?」
それではあまりにも軽すぎる。
幸子はそう思ったが、口には出さず、小さくかぶりを振った。口にしてしまうと、おこがましい気がした。
しかし、八重は幸子の心を見透かしたようにこちらを向いて、目を閉じたままで小さく笑った。本当は目が見えているんじゃないかと、幸子は何度目かの疑念にかられる。
「あなたは、何者なの?」
幸子は、そう言ってから少し後悔した。失礼だと思ったし、言葉の中に八重に対する恐怖が入り混じってしまった。耳の良い八重なら、明確に感じ取ってしまうかもしれない。
「……何者、なんでしょうね」
八重は息を吐きながら天井を見上げ、ぽつりと言った。規則正しく並んだ照明が、優しく客席を照らしている。
「私は目が見えないというだけで、様々なレッテルを張られてきました。頑張っている人だと、人に勇気を与えられる人だと。……可哀想な人だとも」
八重はうっすらと瞼を開けた。長いまつ毛に、色彩のない瞳。
きれい。
幸子と「私」は同時にほおっと息を吐いた。
「私が映画の評論を書き始めると、沢山の人が集まってきました。私は、その人たちに流されていった。しばらくすると、どんどんお金が増えていった。そしてどんどん、私の思う自分の価値はなくなっていきました」
「自分の、価値」
幸子は反芻して、自分の中で何匹ものヘビが丸く絡みあっているような感じがした。
「そう、自分の価値。人はなぜ自慢するか、それは得られたモノではなく、自分の価値を認めてほしいんです よ、他人にね。…私は、生まれてこの方、自分に価値を見いだせなかった。気付いた時には、周りの人が私に価値を付けていたのです、勝手に。…人は自ら価値をつけていかなければ、生きてはいけないのに…」
透き通るような八重の諦観の顔。幸子は八重のその顔に見覚えがあった。幼い頃から、すぐ近くにあった顔。
[じゃあ、なんで生きてるの?]
いつのまにか「私」が隣に座っていて、楽しそうに幸子と八重の顔を見比べている。
八重はゆっくりと天井に手を伸ばして何かを掴む仕草をした。
「…どこかで諦められなかったのでしょうね。私も、人並みに幸せが得られるんじゃないかと。でも現実は、目が見えないはずなのに、見えてはいけない所が見えてしまった」
開演を知らせるブザーが鳴った。照明が暗くなっていき、映画の予告編がスクリーンに流れ始める。
「もう、後戻りはできません」
八重は目を閉じてそれきり言わなかった。
旬の俳優や女優たちが笑い、泣き、驚き、戸惑い、走り、スクリーンに映り流れていく。
彼らは自分の価値を見出せているのだろうか。それとも、他人の価値の中で生かされているのだろうか。
あなたはどうなの。
「私」がそうつぶやいて客席の暗闇に消えていった。
幸子は八重の真似をして天井に手を伸ばしてみた。
手の甲はスクリーンの光に照らされて明るくなり、手のひらは真っ黒のままだった。
そして、客席がまばらのまま、映画の本編は静かに始まった。
映画の途中、幸子は八重の顔をちらりと見た。笑い所はくっくと笑い、悲しい所は少し沈痛な面持ちになる。本当に映画を聞いて観ているのだなと幸子は感じた。目を閉じながら音だけを聞いていても、情景はまざまざと瞼の裏に浮かんでいるのだろう。
そしてそれは、八重だけの世界。
誰にも浸食されない孤高の風景。
私の持ちえない、素敵な箱庭。
幸子は羨望と寂しさが入り混じった目をスクリーンに戻した。
映画館の帰り道も二人に会話はなかった。幸子の左腕に手を回して歩く八重は、さっき見た映画のエンディングテーマを鼻歌で歌っている。
傍から見ると、私たちはどう見えているのだろうと幸子は思った。
友達、姉妹、それとも恋人同士?
時折、すれ違う男性がちらりと視線を向ける。興味の目、卑しい目、期待の目。それぞれの感じ方や性癖などは知る由もないが、私たちが価値を勝手につけられていくのがわかる。
くだらない。
幸子の右方に顎を乗せた「私」がそう言ってため息を付いた。
駅の改札口に着いた。幸子と八重は乗る線が違うのでここでお別れだった。
八重から腕を離し、「それじゃあ」と幸子が別れの言葉を言おうとしたとき、八重は鼻歌をやめて微笑んだ。
「…小切手のお金は、私の後援会の方や、支援してくださった方の個人情報を、企業に売って得たモノです。これが証拠です」
幸子がぽかんとしている間に、八重はポーチから小さなメモリースティックを取り出した。
「この中に、個人情報と企業とのやり取り、それから私への報酬記録が入っています。これも、幸子さんにあげます」
八重が何のためらいもなく差し出したメモリースティックを、幸子は思わず受け取った。
「え、ちょっと、これ」
慌てて返そうと八重の顔見て、幸子は口ごもる。
八重の微笑みは、とても寂しそうだった。
「法に背くことで、罪悪感を感じることで、私の価値を見出したかった。でも…なにも感じなかった。失う恐怖を、理解できなかった。だから、もう後戻りはできないんです」
幸子は何か言おうと口を開けたが、何も出てこない。
そりゃそうだよ。こんな時に何を言ったらいいかなんて習ってないもの。
幸子の隣で「私」がニヤつきながらメモリースティックをまじまじと眺める。幸子は首を振り、喉から何か言葉を出そうと唾をのんだ。
「…私にはよくわからないけれど…でもそれって、なんだか、とても……」
「悲しい、とあなたも思いますか」
幸子がやっと絞り出した言葉は、八重の返事にかき消された。幸子は、変わらず微笑んでいる八重の顔を直視できなかった。
「でもそういう人もいるんです。人は何者にもなれるんですから。…あなたもうすうす気付いているでしょう? あなたはどこか私と似ていますから」
幸子の心臓が高鳴った。周りの通行人は平然と日常を続け、歩いていく。幸子はそれが恨めしくなった。
「…私には、よくわからないよ」
幸子の消え入りそうな返答は、雑踏の中に飲まれていく。
「…あなたに、二つお願いがあります。一つ目はその小切手のお金を有効に使っていただくこと。二つ目は、私が企業に個人情報を売っていたという情報を、世間へ売ってください」
雑踏が遠のく。世界は幸子と八重だけのものになっていく。
「そんなことしてなんになるの?」
「私が救われるかもしれません」
八重は胸の前で手をゆっくりと組んだ。
「あなたにとって、私が価値のある人間だとしたら、私を売ってください。私の悪事が世間に公表されて、私を信じていた人がみんな騙されていたと知って怒る。そこで初めて私は自分に価値を感じるかもしれない。勝手に価値を付ける行為の愚かさを教える存在として、私は価値を持てるかもしれないんです」
雲が太陽をジワリと覆った。八重の顔に影が差す。
「じゃあ、自主すればいいじゃない!」
「駄目ですよ。自主は擁護者が出ますから。私は、徹底的に世間に叩かれなければいけません」
八重は本気だ。冗談なんて一度も聞いたことがなかったけれど、どこかで嘘ですよ、と八重が笑ってくれることを幸子は期待していた。なんとかはぐらかせると思っていた。
しかし、今日の八重から幸子は逃れられない。
「私を売って、そして得たお金で、あなたが幸せに暮らせるなら、もしかしたらさらに価値を感じることができるかもしれない。これは私の最初で最後のお願いです」
「……それは、自分勝手すぎるよ」
「…小さい頃から、私は映画の中に入りたかった。物語の主人公になりたかったんです。主人公とは、自分で道を切り引く者のこと。仲間や友人と助け合って、物語を終わりに導く者です。そして私は素晴らしい友人に出会えた」
なんて自分勝手なんだろうと、あなたは本気で怒れるのかしら。
「私」がクルクルと子供のように回転しながら笑う。
事実、幸子の心に浮かんだのは、怒りではなく、虚しさだった。
叫ぶ、檻 髙木ヒラク @tkghiraku
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