第8話

 しゃこしゃこ、と規則的な音が聞こえてくる。オフィスの窓から差し込む朝日を浴びながら、吉松が歯磨きをしていた。


「本日も皆さん、ご苦労なこって」


 眼下に行きかう人々の群れを観ながら、吉松はひとりごちた。七階にあるオフィスから、下を見下ろすのが好きだった。その理由は、ほんのちょっと偉くなった気がするからである。

 朝日と景色を十分堪能し、口に溜まった泡を吐き出しに行こうと吉松は振り向いた。


「わあ!」


と、目の前にいたYの字の人影が叫んだ。


「うおっ」


 驚いて尻餅をつきせき込む。歯磨き粉の泡が喉に入りえずく。


「ごめんごめん、驚いた? 今日は早いのね吉松ちゃん」


 手を上に掲げ、威嚇するような格好で立っていたのは狭間だった。


「お前かい! 死ぬかと思ったわ!」

「死因が歯磨き粉って悲しいわね」

「じゃかあしいわ!」


 そこらに白い泡をまき散らしながら吉松は立ち上がり、洗面所に向かった。少し悪いと感じた狭間は、ティッシュで床にばらまかれた白い泡をふき取とる。


「もしかして、泊まりだったの?」


 ムスッとした表情で洗面所から帰ってきた吉松に、狭間は取り繕うように言った。


「ああ、記事の追い込みでな。『締め切り』なんてもんを生み出した奴をどつきたいわ」

「なに無茶苦茶いってんのよ」


 吉松は自分の席に座り、一つあくびをした。狭間も席に着き、カバンを下ろす。


「てか、狭間も随分早いやん」

「ちょっとね。最近は早く来て、色々と考え事してるっていうか……」


 歯切れの悪い狭間の言い方に、吉松はピンと来たように目をしばたたせた。


「ああ、お熱だったお兄ちゃんに振られたんか。切り替えろ、男は山ほどいるぞ」

「違うわよ! 勝手に振られたことにしないでよ!」


 狭間は机に置いてあった消しゴムを吉松に投げつけた。


「じゃあなんやねん。この吉松お兄さんが悩み聞いたんでぇ」


 消しゴムを柔らかい腹で受け止めた吉松は首をかしげる。


「……仕事、向いてないのかなって」

「ほう、なんでそう思うんや?」

「いやさ、記者の罪悪感とでもいうのかしらね」

「座薬感?」


 今度はティッシュボックスが全力で投げつけられる。角が頭に当たり、「おおう……」と吉松は悶絶した。


「もう! 真面目に聞く気あるの!」

「すまんすまん。で、罪悪感がどうしたん」


 吉松は頭を摩りながら姿勢を正した。


「……私たち記者って、人の情報でご飯食べてるじゃない? 私はよく芸能版担当になるから、女優の不倫記事とか、アイドルのお泊りデートすっぱ抜きだとか、そんなんで一面を作るじゃない? でもそれって、結局人の粗探しでしかないなあって、最近思い始めて」


 狭間は自分のノートパソコンに目を落とした。今は折りたたまれたこの機械の中に、様々な芸能人の赤裸々な情報が入っている。


「なにを今さらごちゃごちゃ言っとるんや。それを承知でこの仕事選んだんやろ?」


 吉松は腕を組み、いつもと違う狭間の様子に少し戸惑いながら、諭すように言う。


「始めは私も気にしなかったわよ。でも、入社から三年経って、なんていうか、想像力が付いちゃったのかもしれない。『人の情報』ってとても恐ろしいものなんだって」


 狭間は今朝のニュース番組を思い出していた。オシドリ夫婦として知られていた芸能人カップルの妻の方が、若手アイドルと不倫していたのを芸能週刊誌にすっぱ抜かれたという報道がされていた。昔の狭間なら、別の雑誌にネタを取られたことに歯ぎしりをしていたかもしれないが、今は違う。当事者になってしまった夫婦とアイドルがこれからどうなっていくのか無償に気になった。その芸能人夫婦はもう『オシドリ』というキャッチコピーは使えなくなるし、しばらく仕事が減ってしまうのは目に見えている。若手アイドルの方は熱狂的なファンから、SNS上で殺害予告まで受けている始末だ。記者を初めてから三年経ち、まともに記事を書かせてもらえるようになった今、狭間は初めて自分の仕事の重さに気付き始めていた。


「あのな、悪いのは俺らやない、需要や」


 吉松はやれやれとため息を付いた。


「需要に応えて俺らは供給しとるだけや。どんだけマスゴミくそ記者って言われようがな、結局世間は『新しい情報』という刺激を欲してんねん。牛丼食いたいから牛殺すんと一緒や。人に情報を売ることは罪やない。一人の人間のネタで、世間に一週間でも話題を与えられたら、ええことやと思わへんか?」


 いつになく真剣な吉松の言葉に、狭間は気持ちが少し軽くなった。

吉松ちゃんの言う通りかもしれない。私は考えすぎかもしれない。いっときの感情で私の前向きさを無くしちゃ行けないわ。私の所為じゃない。私は悪くない! ファイト私!

狭間は思いっきり拳を突き上げた。


「そうね、私やっぱ悪くないわ!」

「切り替え早いな!」


 数十秒の沈黙の後、拳を突き上げた狭間の口から出てきた先ほどとは180度違う前向きな言葉に吉松はいつも通り突っ込んだ。


「お二人さん、早いねー」


 二人が入り口を見やると、後藤がニコニコしながら入ってくるところだった。


「おう、お前も早いやんけ、色ボケ野郎」

 

 吉松の嫌味一つ混ぜた挨拶に屈せず、後藤は「おはよう~」と朗らかに答え自分の席に座った。


「花びらまき散らしやがって」


 吉松には恍惚な表情で笑う後藤の周囲に鮮やかな花びらが舞っているように見え、舌打ちをする。


「まあまあ、やっかんでもしょうがないわよ。後藤ちゃん、最近いい感じなの?」


後藤をたしなめ、狭間はのびんびりとした動作でパソコンを立ち上げる後藤に問うた。


「ん~、まあまあ、かなー」

「なんやねん、まあまあって」


 いつも以上に緩慢なしゃべりをする後藤に吉松はもう一度舌打ちをする。


「ま、悪くないならいいじゃない」


 幸せそうにパソコンのパスワードを打ち間違える後藤をみて、狭間の顔も自然とほころぶ。


「あはは、悪くないねー」


 3回目でようやくログインできた後藤の頭の中は、昨日の出来事のことでいっぱいだった。4回目のデート、おいしい食事、進むお酒、足が震えた告白、そして「OK」と答えた彼女の唇……。ぐるぐると記憶を巡る後藤はずっと夢心地だった。


「それで後藤、なんで今日は早いねん」


 嫌味な口調を崩さない吉松の問いに、後藤は初めて少し意識を向けた。


「いやあ、僕も頑張らなくちゃいけないからねー。吉松くんみたいに締め切りギリギリにならないように、早めに準備しようと思ってさー。二週間前から準備する僕って偉いよねー」


「はあ、なんでもええけど、お前の締め切り来週やろ」


 吉松の言葉に後藤が一瞬固まった。スケジュールファイルを何度も連打してメモを見る。


「……間違えてた。来週だった!」


 後藤は頭を抱えて震えだす。ほころび顔だった狭間もため息を付いた。


「結構ページ数、任されていたわよね」

「そうだよぅ。企画書通りにやったら間に合わない……。どうしよう……。」


 泣きださんばかりのかぼそい声を出し、後藤は何も書いてないテキストファイルを呆然と眺めた。


「ほら言わんこっちゃない。慣れてへん色ボケに興じてるからこんなことなるんや」

「うっさい! 風俗嬢に騙されたくせに!」

「今それ関係ないやろ!」

「まあまあ、二人とも落ち着きなさいよ」


 狭間は二人をなだめながら、自分のパソコン画面を見つめた。


「うーん、私もネタのストックがないのよねえ」

「俺もないで! 堤さんにバレたら大目玉食らうなあ!」


 吉松のにやついた脅し文句に、後藤は小さな体をさらに縮こませた。


「吉松ちゃん、そんなに脅さないの! とりあえず、なんとかページ分確保しなきゃね。企画書と多少違っても、堤さん納得させたらいいじゃないの」


 狭間が優しく肩を叩くと、後藤は幾分勇気づけられた顔になった。

「……そうだよね、いざとなったら堤さんにーー」

「呼んだか?」


 一瞬凍り付いた三人は、さび付いた蛇口を捻るように声の出所へ首を捻った。


「お前ら、今日も揃いも揃って仲良しだな」


 オフィスに入って来た堤は、固まっている三人の横を通り、自分の机に腰を下ろした。


「つ、堤さん。今日は帰ったんじゃ……?」

「一旦帰り時に付いた。が、今日中に終わらせたい仕事があって戻って来た。それだけだが?」


 吉松の手をもみながらの質問に、堤は低い声で返す。


「そーでしたか。お疲れ様です! では俺らはこの辺で……」


 吉松の号令で、三人はそそくさと帰り支度を始めた。


「おい、後藤」


 後藤は持っていたカバンを落とし、泣きそうな顔になった。

「はいっ! なんでしょう」

「来週締切りの案件、順調か」


 後藤は助けを求めるように吉松と狭間を見た。「なんとか誤魔化せ」と口パクで言う吉松の横で狭間はカクカクと頷いている。


「ええ、まあ、すこぶる順調です! ばっちりですよ」


 後藤の答えに堤は「そうか」とパソコンを見ながら答え、吉松は「なに言ってんねん」と静かに頭を抱え、狭間は両手で口元を抑えた。


「じゃ、期待しているぞ。ページ数も多いし。支度が済んだら早く帰れ。残業代泥棒にならんうちにな」

「ええ、任せて――」

「はいはいただいまー」


 吉松は後藤の言葉を遮り、首根っこを掴んで出口まで引っ張っていった。三人分のタイムカードを切った狭間がその後に続く。


 一人残された堤は、しばらく文章を書き続けた。ひと段落して軽くため息を付く。閑散としたオフィスを見渡す。部下三人が居なくなった後の空間は、静けさの中に侘しさを含んでいる。


「……寂しいな」


 堤は思わず自分の口から出た言葉について、少し考えた。そして首を振り、また作業を再開させた。



「痛い!」


 オフィスビルの外に出るや否や、吉松は後藤の頭を思い切り叩いた。周りには人通りが全くなく、肌寒い風が吹く道を三人は歩きだした。


「お前何調子いいこと言うとんねん! すこぶるて! こういう時はなんかうまく誤魔化しとけや! 余計いい記事書かなアカン感じになったやんけ!」

「い、いやあさ、つい」

「ボケ、カス、アホンダラ!」


 吉松の飛ばした唾が目に入り後藤は「汚い!」と目をこする。


「まあまあ、元々期待されてた仕事なんでしょ? 間に合わせだとしても、それなりのものにはしないとね」


 狭間はため息交じりに伸びをした。


「せやで、下手にハードル上げられたら、手伝うこっちの負担も増えるやんけ」


 後藤は渋い顔で顎髭をさする。


「え、もしかして、手伝ってくれるの?」


 吉松は後藤の唾を拭ったばかりの目を輝やかせた。


「その代わり、貸し一個」


 吉松と後藤は同時にそう言って、右の人差し指をピンと立てる。


「うわあい、やった! 二人とも最高、大好き! 愛してる!」

「あら、彼女より?」

「それはないかな」

「なんやねん」


 寒空の下、三人は楽しそうに笑った。


「ま、一番は読者様のためや。下手な記事書いて俺らまで評価下げられても叶わんしな」

「そうね、連帯責任みたいなところあるし。じゃ、いつもの居酒屋でちょっと打ち合わせでもしましょうか」

「後藤、わかっとるな?」

「わかっております! 奢らせていただきます!」


 ああ、持つべきものは友達だなぁと、後藤は心底前向きな気持ちになった。吉松と狭間と、そして僕の記事を待ってくれている人のためにも、何とか遅れを取り戻さねば。


 ちょっぴり友情を深めた三人は、行きつけの居酒屋へ楽し気に足を運んで行った。

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