第6話

 私たち兄妹は、とっても歪。これまで見てきた他の兄妹達の関係とはおそらく違うよね。私たちのような関係は世間一般において少数派、マイノリティってやつだね。


 お互いがお互いに気を使いあう。以上に強く。血は繋がっているはずなのに、透明な分厚い壁を挟んでいるように、離れているところがある。


 自分たちが思う『素敵な兄と妹』を演じ続けて、傷つけまいと、嘘を付きあう。

兄が私の嘘に気付いているかは分からないけれど、でも、私は気付いている。兄の虚勢と、私が兄の重荷になっていること。

皮肉にも、兄の優しさは、私に食い込んでくる。兄のことは嫌いではないはずなのに、どうしようもなく、離れてしまいたいと思うこともある。


 でも、もう無理なんじゃないかな。


 私の嘘も、兄の嘘も、透明な壁を通過してお互いをきつく絡めとり、ぎゅっと、苦しいほどに壁に押し付けてくる。

 それは多分、絆とも依存とも違う、呪いのようなもの。ねえ、その呪いを解くには、どうしたらいいのかな。


 いつもの喫茶店。いつものBGM。


 幸子は利美が来るのを待っていた。いつもの本を読みながら、いつもの声を聴きながら。

 乱暴にドアが開けられる音がして、ヒールの音が近づいきた。


「ちょっと、これ見てよ幸子!」


 息を切らせての向かいに座った、利美は、雑誌を開いて見出しに指を立てた。


「ほら、ここ! この特集! 『新進気鋭映画評論家、名田八重特集。その盲た目に映る映画業界の未来!』だって! これって、あの八重だよね!」


 特集ページに乗せられていた写真はまさしく八重だった。サングラスはかけておらず、目を閉じて微笑を湛えるその横顔はとても大人びて見える。


 特集は2万字にも及んでおり、大々的な扱いだった。その扱いがどこまでの価値が持つのかわからなかったが、幸子の口からは「八重ちゃん、すごい」と言葉が出た。


「ね、凄いでしょ! あの子、ただの映画好きだと思ってたのに。こんな特集を組まれるほど有名だったとは! なんで教えてくれないのよ、まったく」


 幸子達が八重と会って一か月程経った。その間、週に2、3度会ってはいたが、自身が記事になるようなことを八重は一度も口にしなかった。でも、八重は自分の功績を誇示するようなタイプではない気がしていたから、黙っていたことに対して幸子はなんとなく納得していた。


「なんだか、身近な人が雑誌に乗ったりするのってなんだかむず痒いなぁ。……そういや、当の本人は?」


 利美が心配そうに窓の外を見渡す。八重は携帯電話を持っていなかったため、幸子たちはこの喫茶店に集まるたびに次の集合日時を決めるようにしていた。

 八重が遅刻をしたのは今回が初めてであり、現状連絡手段もなく、確かに心配ではあった。


「でも、もう少しで来るんじゃないのかな。八重ちゃん、しっかりしてるし。電車が遅れたとかだよ」


 道行く人たちの中に八重の顔をせわしなく探す利美をなだめる様に幸子は笑みを作る。


「いいや、心配。私、駅の方に探しに言ってくるわ。幸子は待ってて!」


 そう言うと利美は、幸子の「え、待って」という声を振り切り店から出て行ってしまった。


 心配性だから、と言えば聞こえはいいが、おそらく彼女の行動理由には『待ちたくない』という心理も働いているのだろう。幸子は冷えたコーラに手を伸ばした。

自分は平気で待たすくせに。

 『私』の声を無視して、幸子は雑誌をパラパラと捲った。他に気の引く記事はなく、表紙をふと見た。


 『月刊真実』。


 幸子の兄が関わっている雑誌。雑誌自体には罪はないのに、幸子はポンと、利美が座っていた席の奥に雑誌を投げた。自分の目の届くところに置いておきたくないと思った。


 カバンから仕舞っていた本をもう一度取り出し開く。ここで幸子は自分の矛盾に笑いそうになった。


 この傷んだ本は、兄に買ってもらったものじゃないか。


 でも、この本は無下に扱う気は起きないのよね。何が違うのだろうね。昔と今では、私たちの関係性が変わってきているから、だからかな。


 『私』に言い返そうとした瞬間、カランカランと爽やかに店のベルが鳴った。

 幸子が振り向くと、いつものサングラスに、淡い青色のワンピース、肩から可愛らしいポーチを掛けた八重が入り口に立っていた。


「八重ちゃん!」


 幸子はニコりと安心したように笑った八重の手を引いて向かいに座らせた。


「お待たせしてすいませんでした。電車が遅延していまして」

「ううん、大丈夫。それより、利美と会わなかった?」

「いえ、会いませんでしたが……」


 利美は注意力が散漫だから、何かに気を取られている間に八重を見逃したんじゃないの。

 幸子は声を振り払うように八重に笑いかけた。でも、その笑顔は八重には見えていない。


「もしかして、私を探しに?」


 八重は申し訳なさそうに首を傾げる。


「そうなんだけど、気にしないで。八重ちゃんが来たことはメールしとくから」

「申し訳ありません。あとで利美さんに謝らないと」


 そう言って八重は俯いた。幸子は利美にメールをしながら、


「もう少し待てばよかったのに、勝手に探しに言ったのは利美だから。自業自得だよ」


 と、少し毒づいた。隣の『私』が満足そうにニヤつく。

 八重は少し笑って、


「でも、あの行動力が彼女の素敵なところですよ」


 と利美を褒めた。


「そうかなあ。私はいつも振り回されてばっかり」

「でも、友達なのでしょう?」


 八重は今度は微笑んだまま首を傾げた。


「うーん、多分」

「なら友達ですよ。多分と言えるなら」


 確かに、そういうものかもね。この年になっても、友達という定義について悩んでるのは可笑しいわ。もっと、曖昧に考えるべきよ。


「うるさいな」

「え?」 

「いや。あ、そういえば、雑誌見たよ。すごいね」


 幸子は咄嗟に話題を切り替えた。


「ああ、見られちゃいましたか。有難うございます」


 八重は鼻にかける訳でもなく、恥ずかしがることもなく、いつもの微笑を浮かべた。


「利美がすごく驚いてた」

「それは光栄です」

「いいなあ、私も人に胸が張れるものがあればよかったのだけれど」


 一つでもそういうものがあれば、もしかしたら少しは違った人生だったかもしれないわね

 幸子はコーラを飲み干した。


「幸子さんには何か自慢できることはないのですか?」


 嫌味一つない、優しい口調で八重は言う。


「うーん、無い、かな。そもそも、自慢できるものの定義がわからない」

「簡単ですよ、強く望んで得たものです」

「……強く望んで、得たもの」


 八重の言葉を反芻する。幸子の脳内検索では、該当するものはなかった。


「過程が簡単であれ、困難であれ、強く欲して、自らの手に収めたものを人は自慢するんです。たとえ、それが他人にとって無意味であっても」

「なるほど」


 幸子は利美に自慢してくるものを思い出してみた。バック、マニキュア、ライブチケット、彼氏。毎回「前から欲しかったのよ!」とか「ようやく手に入れたの」という言葉から始まる商品紹介は、幸子にほとんど無価値に思えるものばかりだった。


「なにか、欲しいものはあるでしょう?」


 注文を店員に告げた八重は、質問を続けた。


「……お金と、自由かな」


 幸子は秒針が十五度回るくらい経ってひねり出した。

なんとも貧相ね。


「良いと思います。とても人間らしくて」

「いや、でも、なんだか自分が卑しいような」

 

 せっかくフォローしてくれたのにあんまり無下にするような返ししたら駄目だよ。

 幸子は自分の膝を少しつねった。


「卑しくはありませんよ。お金も自由も、人間が勝手に作って、勝手に規制するものです。神と呼ばれるような、上の存在が決めたものじゃない。人間が自らの為に作ったものを欲しがるのは至極真っ当なことです」


 なるほど、そんな解釈もあるのね。でも腑に落ちそうで、落ちないね。お金と自由に対して私は『卑しい』と思うのだし。


「……ごめん、やっぱ私にはよくわかんないや」


 『私』を黙殺して、幸子は曖昧な笑顔を浮かべた。


「じゃあ、簡単に考えてみましょう」


 と、八重はポーチから茶封筒を取り出した。


「これ、幸子さんに上げます」

「中身は何?」

「開けてみてください」


 宝くじかなにかかな。確かにお金と自由を得るには運が必要かもしれないし。あんまり封筒には膨らみがないから、そんなに枚数はないのかな。でもタダで貰うのは悪いな。

 

 しかし、『私』の予想は外れた。封筒の中身は、もっと現実的なものだった。


「これって」

「三百万円の小切手です」

「三百万!」


 確かに、その長方形で材質が硬い紙の表には¥マークに続いて3という数字と0が6桁書かれている。幸子にはこれが大金と取り換えられることをにわかには信じられなかった。


「あの、なんで、くれるの?」


 幸子の声は動揺を含み、少し震えていた。


「だって、欲しいのでしょう?」

「欲しいとは言ったけど……」

「それがあれば、幸子さんの望む自由も得られるかもしれませんよ」


 これは、本物なのかな。本物だとしたら、八重は何を考えているんだろう。


「いや、そうかも知れないけど……。でも、こんな大金どうやって?」


 一瞬、八重の微笑みが消えた。しかし、すぐに元に戻って言葉を続ける。


「お金ってね。信用なんです。みんな形あるものだと勘違いしていますけれど。そうやって勘違いして振り回される人を、うまく振り回す側になれば、すぐに手に入るんですよ、お金なんてね」


 よくわからないね。


「私、わかんないよ。これは貰えない……」

「そのお金は私から幸子さんへの信用の証です。受け取ってもらえませんか。もちろん後から返せなんて言いません。あなたが自分のの為に、有効に使ってほしいのです」


 八重は何を言っているのだろう。なんで私たちはこんな話をしてるんだろう。これまでの私たちは、三人で取り留めのない話をするだけだったはずなのに。


 幸子は初めて八重のことを怖いと思った。

 会って一か月。こんな話をする関係を、少なくとも幸子は八重に対して、築きあげられてはいない。

 幸子が次の言葉を生み出せずにいると、八重はさらに追い打ちをかけるように、口を動かした。


「じゃあ、こうしましょう。そのお金を受け取っていただけなければ、私は死にます」


 幸子の思考は一瞬停止した。

 小学生が言うような軽口ではない、本当の重みが、その台詞にはあった。

 利美の目は見えていないはずなのに、お互いの視線がぴたりとくっついている感覚に襲われる。

 八重のサングラスを見つめて、無言のまま時計の針が回っていく。


「もう、八重、探したよ!」


 はっと幸子が顔を上げると、利美が横に座って来た。咄嗟に小切手をカバンの中に隠す。


「すいません、電車が遅れてしまいまして」

「まあ、しょうがないけどさ。これぞ、ミイラ取りがミイラになるよね。てか、雑誌! 凄いじゃん八重!」

「有難うございます」


 幸子を奥に追いやって隣に座った利美は、いつも通りに会話を始めた。八重も、いつも通りに微笑みながら返す。


 そのまま、いつも通りの時間が過ぎていく。『私』の八重への感情だけを除いて。


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