第4話

 雲一つない澄み渡った空に、太陽が柔らかな光を拡散させている。その牧歌的な空間へ無理やり押し込めたように、目的の施設が深い影をこちらへ被せてきていた。その墨で塗りつぶしたような黒さは、ただ太陽を背にして建っているという以外にも、人工的な要因があるように感じられた。それは例えるなら、ここへ住まう者たちの醸し出す雰囲気、過去、そして未来といったようなものなのだろうか。


 堤は正門の隣にある警備員室のベルを鳴らし、「飯田さん、こんにちは」と中で作業をしていた初老の警備員に声をかけた。


「はいはい。……おや、また来たのか」

「ええ、残念ながら」

「諦めが悪いのか、何かネタが見つかりそうなのか。それとも、金かね」


 飯田は、無精ひげを撫でながらニヤリと笑った。あまり訪問者が来ない場所であるから、日々の業務的には暇なのだろう。飯田は入館の手続き時、時折堤にしゃべりかけてきた。しかし時折無意味な話が長くなるので、堤はあまり得意に思っていなかった。


「ま、記者は粘りが命ですので」

「こんな辛気臭いところ、よく何度も来れるな。俺なら気が変になっちまうよ」

 飯田は書類手続きを終え、堤に入館証を渡した。

「でも、仕事ですから」

「そうだわな、仕事だもんな。前も言ったけどさ、俺だってできれば、別の所で働きたいよ、警備するにしてもさ。もっと若い姉ちゃんがいるような所とかね。でも、この年になったら転職先なんてそうそうないし、俺もまだ家族を養わなくちゃならんし……」


 飯田は白髪頭を撫でながら、どこか遠い目をし始めた。これは彼の話が長くなる前兆だ。堤は「すいませんが、時間が」と

おざなりな会釈をして正門へ体を向けた。


「あ、ちなみに、まだ奴の取材してんの? えっと、名前なんだっけ」


 飯田は懲りずに堤の背中へ言葉を掛ける。

「……宮藤圭吾です」

「そうそう、宮藤圭吾! 事件当時はずいぶん騒がれたもんな。でも今じゃマスコミの類は来なくなったけどねえ。それこそあんたくらいだよ。なんでもまともに会話できないんだろ? 俺なんて今嫁さんとすらまともな会話できないのによ。それにネタとしても旬が過ぎてるんじゃねえの。まあ、俺と嫁も旬が過ぎてるけどな!」


 ガハハと自己中心的な笑い声をあげる飯田を背に、堤は正門へと歩き始めた。



 まとも。世間一般的に、正しいとされる基準、または枠組み。それは非常に曖昧なもので、一人ひとりが持つ「まとも」の形は異なるが、大枠として「法」を破らない程度のものが正しいとされている。


 しかし世の中には、「法」の外に「まとも」を持つ人間もいる。これまでそういった者と対話してきた堤は、宮藤圭吾もその類の人間だろうと感じていた。


 面会室は一面真っ白で、座った椅子は立て付けが悪く、少し動くとギシリと鳴る。部屋の中央には真っ二つに割るように透明なアクリル板が張られ、それに沿って木製の机が両側に伸びている。アクリルの下部には声通しの無数の小さな穴と、書類を通すためのかまぼこ型の穴が開けられていた。


 座ってほどなく、向こう側の扉がノックされた。「入れ」という声と共に扉が開き、宮藤が姿を現した。前回堤と会った時と変わらず、荒れた髪に上目使い、そして歪んだ笑みを浮かべている。


「よくさ、人を救うために罪を犯すみたいな話があるじゃない」


 席に着くなり宮藤は一方的に話し始めた。


「それって結局自分を救うためなんじゃないかと思うんだよ。例えば、娘の命を救うために銀行強盗をするとする。高い手術費を提示する病院か、それを払えない親が悪いのかはわからないが、娘を救うという大義名分を元に拳銃を握る訳だ。でもそれは娘に罪を擦り付けると同意でさ、正当化しようとしてるんだな、自分を。救いたいのは娘になにもできない自分なんだよ。だからこれが娘の為だと自分に言い聞かせて、騙して、信じ込んで行動するんだ。馬鹿とは言わないけど、愚かだよねえ。愛とか恋とか、よくわかんないけどさ。もしこれを娘への愛だというなら、自己愛も甚だしいよ。これを美しいとするなら、この世はナルシストの巣窟になっちゃうよね。極端なことを言えば、自分が嫌いだという奴は、自分を嫌う自分が好きなんだよね。だから―」

「ちょっと待った」


 気持ちよさそうに話続ける宮藤へ、堤は右の手のひらを見せた。


「なんだい、堤記者」

「もういいよ、ナルシストは俺も嫌いだ」


 堤は肘をついて手を組み、眉をひそめた。


「へえ、飽きちゃった?僕の話を聞きに来たんじゃないの?」

「俺は質問に来たんだ」

「まあ、怒らないで聞いてくれよ。僕が言いたいのは、『怒らなくなる秘訣』さ」


 宮藤は大袈裟に両手を広げた。


「是非教えてほしいね。手短に」

「簡単に言えば、お化けを信じろ」


 方眉を上げた宮藤に堤は内心で悪態をつく。銀行強盗の話とお化けに、何の関係があるというのだろう。


「怒らず、嫌わずとするためには、自分の中にある許容範囲を広げればいい。お化けって怖いと思う人が多いよね。それは、存在を認められないからなんだよ。自分の中で当たり前にすれば、怖く思うことなどない。色んなものを当たり前だとしていく。今の時代、この力を伸ばそうとするやつは少ないんだがね」


 宮藤は悲しそうに首を振る。


「それで?」

「銀行強盗の話に戻るとさ、まず、娘は救えないもんだと認めることが大切なんだよ。つまり、諦めだな。人間が色んなことを諦めたら、怒りも、嫌うことも、戦争だってなくなるとは思わないかな、堤記者」

「そうかも知らんが、そう簡単にできないのが人間だろう」

「ほら、そこをなんとか。認めてみてよ。人間の限界を超えてみようよ」


 ニヤニヤとしながらこちらを見る宮藤に堤は「無理だね」と冷たく言い放つ。


「……まあ、初めは難しいよね。人って難儀だね」


 宮藤は真顔に戻って顎を引いた。

 少し宮藤が盛り下がった所で、堤は口調を和らげ切り出した。


「お前がこんなおしゃべりだとは思わなかったよ」

「そうだね。こんなに話したのは久しぶりかな」

「じゃ、話ついでに俺の質問にも答えてくれよ。前も同じこと聞いたけどさ」

「なんだい?」


 堤は組んだ手の上に顎を乗せた。

「……動機はなんだ?」


 宮藤は一瞬目をしばたたせ、また口元をニヤリと上げた。堤はそこからしばらく目を合わせ続けたが、宮藤から言葉が出てくる気配はなかった。


「……まただんまりか。もう事件から3年経つんだ。何回もこの質問をされて来ただろう」


「ああ、でもその質問は飽きないね」


 宮藤は、また真顔に戻る。

 堤は苦笑いで返した。


「だったら教えてくれよ。お前に刑が執行されるまで、俺は何度も来るぞ。もしかしたら他の記者や刑事もまたくるかもしれない。もう俺たちみたいな輩と顔を合わすのが嫌になってきただろう」


 宮藤の顔にはまた笑みが戻った。


「いいや、僕は君たちのこと好きだよ。今の僕にとって、この机の半分から向こう側しか、外の世界を垣間見ることはできない。アクリル越しだけど、僕にとっては常に新しい、素晴らしき世界さ。君も含めて、全て貴重なんだよ」


「そりゃどうも」


 その貴重さに免じて答えてくれよと堤は言いかけたが、無駄になりそうなので黙っておいた。


「そういや、前に一度だけ来た記者に聞いたけど、ネットで僕は『糊付け』って言われてるらしいね。確かにピッタリだよね、色んな意味で」


 クックと愉快そうに宮藤は声を上げた。堤もつられて笑う振りをした。


「まさか、動機を墓場まで持っていくつもりなのか」

「いやあ、裁判の時にも言ったけど、そろそろ話すよ。そろそろね」


 お前の「そろそろ」はどれだけ長いんだと堤はまたも内心毒づく。今日はここまでかと腕時計を見た。


「そろそろ、ね。……また来るよ」


 堤はため息をついて席を立ち、宮藤に背を向けた。長い闘いになりそうだと思いながら、出口のドアノブに手をかけた。


「……いもうと」


 一瞬、堤には誰の声なのかわからなくなった。初めて聞く、低くねばりのある声。しかし、この部屋には堤ともう一人しかいない。


「何だ?」


 振り向くといつのまにか宮藤も立ち上がり、アクリル板に顔を近づけている。


「妹だよ。君、妹いるでしょ」


 堤の鼓動が少し早くなった。冷静を装い、「いないよ」と言いながら再びドアノブに手を掛けた。


「図星だろう。もう遅いよ。また前回みたいに逃げるのかい」


 堤の中にほんの少しの恐怖と、怒りと、好奇心が湧きあがる。ゆっくりと、体ごと宮藤と向き合う。


「……なぜ、妹がいるとわかった」


 宮藤はアクリル板にペタリと額を付けた。


「ネクタイだよ。そのピンク色の。結構使い込んでそうだね。10年くらいか。就職祝いで貰ったってとこかな。随分と大切にしている。その理由とすれば、大事な人からの贈り物だ。そしてそのネクタイ自体はとても安っぽく、ピンク色。ここで、君より年下の女の子からのプレゼントという仮説が立つ。で、君は指輪を付けてないし、あんまり身だしなみに気を付けてないから彼女さんはいなさそうだし、物持ちが良さそうなタイプには見えないし。あと、僕への態度でさ、年下の扱いには慣れてる感じがしたんだ。まあ、半分カマかけてたんだけど、微妙に反応しちゃった君が悪いよねぇ」


 宮藤は左右にゆらゆらと頭を振りながら抑揚のない声で言葉を出している。


「俺に妹がいたとしてお前の何になる」


 宮藤の動きが止まった。そして、これまでに見たことのない爽やかな笑顔を見せた。

 ぞくり、とした。座っていた時より遠いはずなのに、堤には宮藤の顔が目の前にあるように感じられた。


「いやあ、何にもならないけど、ただ嬉しいねえ。君は僕のこと調べ尽くしているだろうが、僕は君のこと、あんまり知らないから。少しでもお近づきになれて大変喜ばしいよ」


 無垢な笑顔を見せる宮藤に、堤は笑顔を返せなかった。ちらりとカメラに目をやってから、下を向いて振り向き、ドアを開けた。


「…また、来るよ」


 そういって、乱暴にドアを閉めた。堤はそのまま施設の玄関に向かって足早に歩きだす。

 無意識にネクタイを握っていた。その握った右手は、うっすらと汗ばんでいた。

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