第3話

 小さく、ゆったりとした三拍子の音楽と、まばらな客の静かな話声が、心地よい空間を作り出している。ここの喫茶店は面した道路より少し底上げされており、汚れ一つないガラス窓からは、道行く人や車が顎を引いた目線の位置を通り過ぎていくのが見える。


 幸子は本を読んでいた。何度も読み返したその本は、角に少しひびが入り、元々灰色だった表紙は所々白みを帯びている。


 カランカランと入口のベルの音が鳴る。続いて、コツコツと速足で歩くヒールの音が私の方へ近づいてきた。


「ごめん幸子! 待った?」


 本をパタンと閉じて幸子は正面に座った利美を見た。厚化粧の額に、うっすらと汗がにじんでいる。


「ううん。電車がちょっと遅れちゃって、さっき来たとこ」


 幸子はサラリと嘘を付いた。実際は40分程待ったのだが、本に集中できていたからか、体感的にはそんなに待った気はしない。ほとんど空になったオレンジジュースを最後まで飲み干し、氷をバリバリと咀嚼する。


「そかそか。いやぁ、丁度親から郵便来て家出るのが遅れちゃってさ」


 利美はポーチから化粧セットを取り出し、崩れた顔を整え始めた。


「それで、話って?」

「そうそう、聞いてよ幸子! まあ、そんなに大した話じゃなしんだけどさ、ヤバいのよー。私の彼氏がさ、あ、幸子に言ってなかったけど先週新しく彼氏ができたのよ。ジンって言うんだけどさ、超優男でさー。私あれじゃん、優しくされるとすぐ落ちちゃうじゃん、堕天使なみに……って、堕天使って表現めっちゃ面白くない?」


 利美は一人で笑い出した。幸子はニッコリと笑顔を作った。


「あ、ごめんね。それでね、その彼氏が海行こーって言ったから、バイト休んで二人で行ったのね。私はあんまり水着着たくなかったんだけど―」


 ここで幸子は意識から利美を放り出した。今日の晩御飯は回鍋肉にしようかな、それとも、などと考えつつ、淀みなく動き続ける利美の口を眺めていた。


 断片的に入ってくる情報を整理すると、どうやら海でジンという男がクラゲに刺されて大騒ぎになった、という話だった。


「救急者呼ぶかもってなるくらいになってさー。ねぇ、ヤバくない?」


 急に利美の世界がこちらに伸びた。幸子は慌てて意識に利美を取り入れ、口角を上げた。


「うん、それはヤバいよね」

「でしょー! マジでジンが死ぬかと思ってさー」


 と、この店には似合わない、けたたましい音楽が店内に鳴り響いた。利美の携帯から流れるその音楽は、韓国のアイドルユニットのもので、利美はそのグループの追っかけをしているという。幸子は全員が同じ顔に見えていたが、利美のおかげで。メンバーそれぞれの誕生日まで言えるようになった。


「あ、噂をすればジンからよ! ほら、イケメンでしょ!」


 携帯の着信画面にはプリクラで撮ったツーショットが写っている。大幅に加工されてはいるが、女の方が利美で男の方がジンなのだろう。


「ごめん、ちょっと電話出てくるね」


 利美はそう言って立ち上がり、席を離れた。店内は利美の大きなしゃべり声と、ヒールの音と、小さく聞こえる店内音楽と、他の客のひそやかな話声が入り混じる。妙な空間になっていたが、利美が化粧室に入るとすぐに、元の心地よい喫茶店に戻ってくれた。


 ふうっと、息を吐く。見計らったように店員が持ってきたコーラフロートを、幸子は笑顔で受け取った。


 こうして、私の日々は過ぎてゆくのね。


 いつの間にか、幸子の隣には『私』が座っていた。


 いつものように利美に呼び出され、行きつけの喫茶店に足を運んで、到底価値があるとは思えない利美の話を聞いて、気付かれることのない嘘をつく。ほかの人がどうなのかはわからないけれど、これが私のいつもなのよね。


「そうね」


 コーラの刺激を喉に感じながら、幸子は『私』へ返事を返す。


 利美以外に友達と言える人がいない私にとって、友達と遊ぶということは、利美の話を聞くことでしかない。


「そんなことないよ」


 そんなことあるよ。時々利美は本当に友達なのかと考えるけれど、おそらく、友達なんでしょうね。偶然大学が一緒で、偶然初めての授業で隣に座って、偶然教授が隣の人と自己紹介しあえと言い出して。そこから、一緒にご飯を食べたり、話をしたり、笑ったり、怒ったり。新しい出来事が『いつも』に織り込まれていくきっかけなんて、偶然が大半なんでしょうね。


「だから何よ、消えて」


 『私』を無理やり消した幸子は、頬杖を突いて窓の外を見た。休日の昼過ぎ、多くの人々が目的地を目指し、行きかっている。


 ふわふわと視線を漂わせていると、ふと、一人の女性に目を奪われた。

 その女性は、少し季節外れの大きな麦わら帽子にサングラス、白いワンピースという出で立ちで、喫茶店前の道路を歩いていた。


 なにより一番注目すべきだったのは、その女性が杖を突いていたことだった。その突き方は足の悪い年寄りがする様なそれではなく、綺麗で小刻みなリズムを作り、点字ブロックにコツコツと当てている。そのリズムが店内に流れる三拍子の音楽と一致していて、幸子は不意に彼女との一体感を覚えた。

 その女性は、喫茶店の入り口に繋がる階段前まで来ると立ち止まり、ふっと息を吐いた。そして自由の女神のように杖を高々と掲げた。じっと何かを待つように。


 道を行きかっている人々は皆、怪訝な顔で彼女を避けていく。一人も声をかける者はいない。まるで、障害物のように。

 幸子は思わず声が出そうになった。それを押し殺し、席を立つ。喫茶店から飛び出して、彼女の元へ向かった。


 外は店内より少し暑く、空には大きな雲が悠々と流れている。秋はまだ足踏みをしているようだった。


「あの、お困りですか?」

 幸子の問いに杖の女性は一瞬驚いたように体を震わせ、困ったような笑みを浮かべた。


「ええ、映画館に行こうとしていて。いつもの道を行こうと思ったんですけど、今日は点字ブロックに自転車がいっぱいかさばってて。それで、回り道をしようと思ったんですけど、知らない所に出ちゃうし、いつもと周りの音が違うし、少し疲れちゃって……」


 幸子は、彼女に今日起きた不幸に腹を立てた。誰もこの人に気を留めなかったのだろうか。誰も助けようと思わなかったのだろうか。幸子が彼女に話しかけたことによって、行きかう人々は少し安堵したように元の歩幅に戻っていった。

 こんな所に、彼女を居させてはいけない。勝手な感情だなと自覚しながら、幸子は彼女の手を取った。


「とりあえず、中に入りましょう」

「え、中って?」


 戸惑う彼女の手を引っ張って、幸子は階段を上り始めた。



 元々座っていた席に彼女を座らせ、幸子は向かいに腰を下ろした。


「何か、飲みますか?」


 彼女はここが喫茶店だと察したようで、「では、お水を」と小声で言った。

店員に注文を告げて、改めて彼女を見る。透き通るような白い肌に、真っ黒なサングラスが案外似合っている。利美の時と違って、今回はすぐに水が来た。


「すいません、いきなり喫茶店なんか連れてきちゃって。あ、映画の時間も大丈夫ですか」


 幸子は急に戸惑いを感じた。見知らぬ人が向かいに座っている。自分で作り出したこの状況にぎこちない笑みを浮かべる。


「いえ、だいぶ早めに出てきたので、上映時間にはまだ余裕がありますし、それにちょうど少し休みたいなと思っていたので……、声をかけてくださって有難うございました」


 杖の女性は麦わら帽子を取り、深々と頭を下げた。綺麗なロングストレートの黒髪。幸子は思わず自分のショートヘアの毛先をいじった。


「私、偶然知ってたんです。杖を上げるのは『助けて』のサインだって」


 幸子がそう言うと、彼女は杖を愛おしそうに撫でた。


「結構知らない人多いんですよ、このサイン。あなたは博識な方なのですね」

「いえ、そんな。あの、失礼ですが、あなたは目が……」

「はい、全盲です」 


 さらりと、何の詰まりもなく彼女はそう答えた。盲目という経験しえない世界にいる彼女に、幸子はさらに引き込まれた感じがした。


「失礼かも知れませんが、それなのに映画館に行きたいというのは……」

「それは―」


 そこで、聞き覚えのあるヒールの音が聞こえてきた。


「幸子ごめんねー。ちょっと彼氏と長話になっちゃって。今度は山に行こうとか言い出してさー」


 携帯を弄りながら利美は幸子の隣に座った。


「あれ、なんでこっち座ってんの。え、てか誰?」


 携帯の画面から顔を上げて、利美は初めて目の前の見知らぬ女性を認識した。


「利美、ごめん。私が連れてきたの、彼女困ってるみたいだったから」

「へえ、なんで困ってたの?」

「あの、映画館に行きたくて……」


 いきなり出てきた利美という存在に、彼女は少し戸惑っている様だった。


「映画館? 駅前の? そんな迷うようなところにあったっけ」

「利美、この人は……全盲なの」

「へえ! 全盲なのに映画館に行くの?なんで? 見えないじゃん!」


 人見知りはしないのは良いことなのだが、度々失礼な物言いをする利美に幸子はヒヤヒヤした。しかし彼女は意に介さずといった感じで、口元に笑を湛えた。


「私は映画を聞くんです」

「聞く?」


 利美は心底驚いたように身を乗り出した。


「例え見えなくても、映画は聞くだけで楽しめるんです」

「へえ!それってどんな感じなの?」

「音を聞いて、思い描くんです。役者の顔や立ち位置、情景を。例え無音の場面でも、周りのお客さんの雰囲気、息をのむ音やすすり泣く声、そんな音たちを聞いてどんな場面か想像するのです。そうやって私は映画を楽しみます」

「すげえじゃん! 幸子、こいつすごい人じゃん!」

「利美、初対面なのにこいつは――」

「なあ、あんた名前は?」


 利美がそう言って、幸子は彼女と名乗りあってないことを思い出した。


「私は、名田八重と申します」

「そっかそっか! 八重ちゃんね! 私とこいつは――」

「利美さんと、幸子さんですね」

「あれ、名乗ったっけ?」

「いえ、さっき呼び合われていたので。私、聞き覚えは良い方なんです」

「流石だね! 益々気に入った! 年はいくつ?」

「今年で22になります」

「なんだ、私たちとタメじゃん! もっと年上かと思った」

「よく言われます」

「で、映画館に行きたいんだっけ」

「ええ、そうですけれど」


 利美の矢継ぎ早の質問に、さっき会ったばかりの八重はしっかり付いていっている。幸子より対応能力が高いのだろう。


「じゃあ、私らが連れてってやるよ! ほら幸子、支度しな。勘定は私が払うから」


 幸子が「それは悪いよ」と言うより早く、利美は席を立ち、レジへ向かっていた。


「あの、道さえ教えて頂ければ自力で行きますので、お二人の手を煩わせる訳には……」


 席を立った幸子は、遠慮がちに言う八重の手を取った。


「あの子は言い出したら聞かないんです。私たちも暇だったし、今日は人通りが多くて危ないし。遠慮なさらず、これも何かの縁でしょうし」

「……そうですね。ではお言葉に甘えて」

「おーい、早く行こうよ!」


 利美が待つ喫茶店の出入り口へ二人で足早に向かう。


 よかったね、新しい『いつも』ができそうで。


 座っていた席で『私』が笑っている。

 幸子は『私』を睨め付け、喫茶店を後にした。

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